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江戸の火消しの伝統
1.四谷消防博物館
写真1 四谷消防博物館

2.火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒
写真2 火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒

3.江戸の火消し纏
写真3 火消し纏の模型

地震、雷、火事、親父とは、この世の中で特に怖いとされているものを順に並べて語調よろしく述べた言葉ですが、地震も雷も火事を起こして全てのものを灰にしますから最も怖いのは火事と言うことになります。

日本の建物は木造が一般的でしたから、江戸時代には火災は街の最大の災難でした。季節風の強い時期に町の何処かで一旦火がでると、木と紙で出来た江戸の街は広い範囲が焼き尽くされました。

最大の火災は明暦の大火(明暦3年1657)で、江戸の街の60%が消失し、江戸城内にも延焼して天守閣も焼け落ちました。その時を機に幕府は火災に備えて江戸城内の武家屋敷の再配置と下町の防火対策を断行しました。

先ず外濠内の屋敷を外濠外へ移動し、その跡地に密集していた内濠内の屋敷を移転し、江戸開闢以来の城内の屋敷の再配置を行ったのです。城外の下町でも延焼を食止めるため、上野や両国には道路を広げた広小路を設けました。更に町々には「町火消し」の組を組織させて町民による消防活動を強化しました。

火事と喧嘩は江戸の華と言われたのは、火事が多い江戸では町火消しの働きぶりが華やかだったことと、短気な江戸っ子たちは派手に喧嘩をしたからですが、町火消しの「め組」と江戸相撲の力士たちとの乱闘事件を取扱った講談や歌舞伎「め組の喧嘩」が有名になったことに肖った言葉でもあります。

相撲取りと喧嘩する位威勢の良い町火消しの組の権限は、火災の時は強大でした。火災の通報を受けると、真っ先に駆けつけて高みに登り、その時の風の向きを読み、延焼防止のため除去する家並みを指示します。町火消しは鈎付きの長い棒では家々を壊します。土地の有力者も家の所有者もそれを止めることは出来ません。燃える家の除去は町火消し組の権限なのです。

消火活動は一刻を争いますから、真っ先に到着した町火消しの組に主導権が与えられます。火消組が現場に持込み高々と空に掲げる火消し纏いには、組名が明示してあり、この火事場での指導権を示すものでした。

江戸時代の消火活動は火を水で消すのではなくて燃える家を壊して延焼を防ぐことでしたが、昭和になってからもその手法は採用されました。東京の街がアメリカの焼夷弾攻撃を受け始めた頃、幅広い大きな道路の両側の家屋は、都内のあちこちで強制的に撤去させられました。

国道246号に面して商売をしていた我家も東京大空襲の前年に取壊されましたが、そのお陰で反対側の住宅街は戦災を免れました。江戸の智恵が昭和に生かされた事例です。

写真は、四谷三丁目交差点に建つ四谷消防博物館と、館内に展示されている江戸の町火消し組が着ていた半纏、用いた鈎付きの長い棒、纏いをデザインした木の模型です。
(以上)
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【2020/05/06 12:02】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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