FC2ブログ
セトモノと陶芸の間
1.合羽橋道具街-02-1D 1805qr

名古屋市の近郊に窯業が盛んな瀬戸市があります。セトモノとは瀬戸地方で作られた焼き物という意味でしたが、今では焼き物の普通名詞になりました。瀬戸地方では古代から焼き物が盛んだったようですが、釉薬(うわぐすり)をかけた現在の陶磁器(瀬戸焼)は、鎌倉初期に宋で学んだ陶工によって瀬戸の地にもたらされたと言われています。

中国や朝鮮から日本に入ってきた焼物産業は、瀬戸以外でも日本各地で盛んになりましたが、実用品の焼き物が、見た目の美しさで珍重されるようになるのは茶の湯の世界でした。実用品であると同時に芸術品としての陶磁器は、茶の湯の世界で発達します。

茶器の世界では、初期の頃は中世支那から輸入した唐物(からもの)が珍重されましたが、その後日本で発達した独自の茶器が各地で作られます。茶器の世界では萩焼、信楽焼、唐津焼が珍重され、一萩、二楽、三唐津などといわれました。

こうして日本の焼物技術は独自の芸術世界を築きましたが、唐物を珍重していた戦国時代に大変面白いエピソードがあります。千利休が愛用した(現在国宝になっている)茶器の一つは、嘗て朝鮮の農家で使われていたご飯茶碗(高麗の井戸茶碗と云います)であったそうです。

その真偽の程は分かりませんが、たとえそうであってもその茶器の国宝としての価値は変わりません。焼き物を作る技術と、焼き物を鑑賞する能力とは別物だからです。芸術家だけが芸術品を作れるというわけでもなく、また豚に真珠という諺があるように、眼前の美術品の価値が分からない人も多いのです。

19世紀に「アーツ・アンド・クラフト」運動でデザインから生活様式を変えていこうとしたウイリアム・モリスは、工芸と芸術を区別することを嫌い、生活用品を作る実用技術にも美的な評価を与えたことで有名です。

日本でも20世紀早くに同じことを柳宗悦が民芸運動の中で行いました。美術史家が正当に評価してこなかった無名の職人達の工芸品に美を発見し、民衆芸術品(民芸品)として世間に紹介しました。

柳宗悦と会い民芸運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「暮らしの中から美を見つけ出す」「民芸品の有名は無名に勝てない」「暮らしの中の「用」の美に魅せられた」などの名言を吐いています。

セトモノの里、瀬戸市は、有田、備前、九谷のように藝術陶芸品を創り出しませんが、大衆食器の地味な瀬戸焼に特化して大衆の用に応えています。写真は、浅草合羽橋道具街の瀬戸物問屋でセトモノを物色しているお客さん達です。
(以上)
スポンサーサイト



【2020/04/24 16:31】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
<<郷愁を覚える商店の商品たち | ホーム | 桜の花道>>
コメント
コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する

トラックバック
トラックバックURL
→http://wakowphoto.blog61.fc2.com/tb.php/953-408921cf
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
| ホーム |