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神道はユニヴァーサル
鹿島神宮-07D 0805qr

多くの日本人は、新年には初詣と称して神社にお参りします。そのとき普通の人は氏神(うじがみ)様にお参りします。誕生したときも七五三のお祝いのときも、氏神様に感謝を捧げました。新しい年の門出に際しても、昨年の加護に感謝し、今年の幸せを祈るためです。

日本の神社には二つのタイプがあります。一つは産土(うぶすな)型神社であり、もともとは祖先神を祀った神社でして、普通は氏神様と云われます。その後、氏神様は村ごとに祀られ、鎮守の杜に鎮座し、五穀豊穣などを祈る地域共同体の祭神となりました。

もう一つは、勧請(かんじよう)型神社であり、総本社から分霊して創設した神社です。家内安全とか無病息災などの個人的な祈願をする崇敬型の神社です。このタイプには、神道だけでなく、仏教、儒教、道教などの祭神も加わり、所謂「神仏習合」が行われているものが多くあります。

キリスト教やイスラム教の一神教の人々からみると、このような神道(しんとう)の習合という活動は、理解しにくいもののようです。しかし、明快な論理で神を説く一神教の世界で、布教を巡り屡々激しい闘争がくり返されている歴史を見ると、神道が持つ他宗教への包容力は不思議な魅力があり、それが何処から生まれてくるのか知りたくなります。

神道の神社に参拝したとき本殿の内部に目をやると、そこには仏像やイエスの十字架のような具象物はありません。信仰の対象になる本尊を表現する具象物がないのです。神社にある具象物と言えば、三種の神器に相当する鏡であり、それらは信仰からみれば道具にすぎないもです。

言うなれば神社の中は空っぽなのです。神社が神社である所以は、そこに神道の神が降りてくると信じることだけなのです。古神道(こしんとう)では万物に神が宿るという八百万の神々を信じますが、それは既存宗教のいう人格神だけでなく、自然神をも含めたものです。

神道では神社を「やしろ(屋代)」と言います。「やしろ」とは仮小屋のことです。神が現れて神事を行う場所を指し示す仮小屋なのです。そのことを知るには数百年も前に建立した古い神社に参拝すると良く分かります。広大の境内の奥深くに飾り気のない質素な奥の宮がひっそりと建っています。
(写真は鹿島神宮の奥の宮)

哲学エッセイストの池田晶子氏は「人生は愉快だ」という著書の中で出雲大社へ参拝したときの感想を次のように述べています。

「神社という空間の清潔なこと、およそ人じみたところがなく、あるのはそれこそ「枠」だけ、つまり神々がそこにいるというそのことだけである。これに比べると、寺院、仏閣などが、いかに人の観念やら情念やら、教義やら権力やらによって構成されているものかということが、今さらながらよくわかる」と。

更に続けて云います、
「わが国の古神道が、きわめてユニバーサルであるということに私は気がついた。私はユニバーサルなものに、どうしても惹かれてしまうたちなので、日本の神道もローカルのひとつなのだろうくらいに思っていたのだけれど、違った。何もない空間を、あるいは己れの眼としての鏡の面を、なおよく見ようと眼を凝らせば、そこは万物照応するアニミズムの宇宙である。人じみた観念や教義は、何から何を救済するのか」と。

神道の空(くう)は、全てを呑み込む包摂力があるのです。
(以上)
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【2019/01/22 21:15】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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