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細江英公の世界

19世紀に写真が登場すると写実的な描写は写真の仕事となり、写実的な絵画は変化を遂げて抽象的あるいは心理的描写に専念することになりました。逆説的に言えば、写真は絵画を写実から開放したのです。

しかし、その後の写真の発展は、写真も絵画の後を追って、抽象的、心理的描写に進んでいます。日本の写真家の中で、この方面に最も積極的な写真家は細江英公ではないかと思います。

東京都写真美術館では写真家細江英公の写真展が年末から年初にかけて開かれていました。「球体写真二元論 細江英公の世界」と題して細江英公の写真を多面的に紹介していました。展示された写真を見て感じたことは、やはり細江英公は「写真の抽象化は何処まで可能か」を追求した写真家だと思います。

少し写真に興味のある人なら、小説家三島由紀夫を被写体として撮った細江英公の「薔薇刑」という写真集をご存じだと思います。この写真集で細江英公はエロスとタナトス(生と死)を表現したと言われます。荒い粒子のモンタージュ写真は、人間の心の奥底に潜む欲望を、暗喩と象徴で表現しています。

展示場に入ると、先ず、細江英公の最初の写真集「おとこと女」が展示されていました。すべて荒い粒子の象徴的な写真です。細江英公は、ここで性を生の原点と捉えていて、やがてその生と死を結びつけて「薔薇刑」が生まれたのだと理解しました。

同じ頃に発表された写真集「鎌鼬(かまいたち)」は、東北農村の土俗信仰に伝わる妖怪の伝説を映像化したものです。細江英公は、農村の色々な所で舞台俳優の土方巽を使って鎌鼬を演じさせて、人々の目に見えないものを見せるという写真を撮っています。それは空想の世界が現実の世界に現れる情景です。

更に、舞台俳優の土方巽と大野一雄と言う人物を撮った写真は、人物を撮ったのではなく、人物を手段として人間の心理の深層を描こうとしたものだと思います。特に、大野一雄の裸体に刺青したかのように動物や人影を多重露光した写真は、人間の霊魂を撮影しているようです。

絵画は見えるものを容易に超越して抽象の世界を描いて行きました。しかし写真が見えるものを超越して抽象の世界を描くことは絵画ほど容易ではありません。かつて、リアリズム写真は、時間的、場所的に特定の事実に拘泥して行き詰まりましたが、逆に抽象写真では、物質感を表現すると言う写真の固有の機能を軽視する危険があります。

絵画で描ける同じ抽象の世界を、写真機を使って描く必要はありません。細江英公が「たかちゃんとぼく」「おかあさんのばか」と言う写真絵本を作成しているのは、写真による抽象や象徴の表現に限界があることを感じているのでしょう。これらの写真集を見ていると、写真はあくまでも事実を直視し、その事実から人間の精神性を引き出すことが本道だと、細江英公は考えているのだと思います。
(以上)
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【2007/01/18 10:03】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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