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死生観 西洋人と日本人との違い
                     外人墓地-04P 99r

西洋人と日本人とは物事の考え方に違いがありますが、人生の最大事、死についての見方の違いも大きいものがあります。

それでは、死についての西洋人はどう見ているでしょうか?

フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコオは辛辣な人間観察者として有名ですが、彼はその箴言集で死を次のように言います。
「じっと見つめてはいられないものがある、太陽と死と。」

太陽は明るすぎるためですが、死は恐怖のためです。
ラ・ロシュフコオは言います。死を識る者は甚だ稀である。人は普通、覚悟して死ぬのではなくて、茫然として、しかも慣習によつて死ぬのである。そして、恐怖のため人間は死を直視することが出来ない、と言うのです。

自分自身の死でなくても、愛する人に死が訪れたとき、人は恐れ、悲しみ、死を呪います。このような死に対する否定的な態度は、感情的なものであり、論理的ではありません。

人が感情的に否定する死を、冷静に、論理的に観察した人が居ます。ガリヴァー旅行記で有名な風刺作家ジョナサン・スウィフトです。

彼は次のように言っています。
「死ほどに自然で、不可欠で、普遍なものが、神の摂理によって、人間への災いとして目論まれたなどということはあり得ないことである。」

ジョナサン・スウィフトの死への理知的な理解は、人々が抱いている神秘的な感情を解きほぐしてくれます。死の無い人生は耐えられないほど悲惨なものになり、死の無い社会は不健全になることは、少し冷静に考えれば分かることです。西洋人は死を現実として受け入れるのに、このような論理を用います。

それでは東洋人は死をどのように受け入れているでしょうか?

お釈迦様は、死もまた「苦」(思うに任せぬこと)であり、自分には自由にならないと語っています。人間は生まれるときが自分の意志でなかったように、死ぬときも自分の意志では決められないと言うのです。

また、仏僧でもあった兼好法師は、徒然草で「死期(しご)はついでを待たず」言って、死には順番など無いと言っています。人間にとっては「死に方」も「死ぬ時期」も、そのときの「巡り合わせ」によるのだと言うのです。

理知的に死を理解したジョナサン・スウィフトに対して、兼好法師は情感的に死を理解します。
「世は定めなきこそいみじけれ(世は無常だからこそ、すばらしいのだ)」と。

人間は他の動物に比べて寿命は長いけれども永遠に生き続けるわけにはいきません。もし終わりがなく生きながらえるとすれば、人間は「ものの哀れ」を解することも出来ない情けない存在になってしまう、と言うのです。

また、西行や芭蕉は、自然との結びつきの中に生きる意味を見出して詩歌を詠った放浪の詩人でした。彼らは、感情移入する自然に自らを没入して一体となります。その自然は、彼らにとって現世であると同時に、あの世でもありました。

西洋人は死を論理で受け入れるのに対して、日本人は死を自然なものとして情感のまま受け入れているようです。

人間が死に対して意識的に対峙するのに対して、動物の死は自然体です。巨体にも拘わらずその死体を人に見せない像、街中で無数に生息するのに滅多にその死体を人に見せない雀がいます。彼らどうして跡形もなく消え去るのでしょうか? 彼らは「死に方」と「死ぬ時期」を知っているのです。

写真は函館郊外の外人墓地です。そこでは西洋人も日本人も仲良く同居しています。
(以上)
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【2013/04/18 16:10】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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