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風景は変化するが風景観は変らない
風景を認識するということは二つの意味がありました。一つは自然を知的活動の対象として見る事が出来ると言うことであり、もう一つは美的観賞の対象として見ることが出来ると言うことです。

日本人も西洋人も、この二つの見方で風景を見ていますが、その風景そのものは自然だけで構成されているのではなく、人工物も含んでいます。従って、風景としての山野も農村も都市も、人間が働きかけて造られた、広い意味で加工された風景になります。

東京農業大学の学長で、造園学者でもある進士五十八教授から聞いたのですが、「景観十年、風景百年、風土千年」という言葉があるそうです。

その意味するところは、景観は十年で形成されるが、風景が出来上がるのは百年の歳月を必要とし、風土となるには千年もの蓄積が必要であると言うのです。ここで言う風景の変化は、客体としての風景でしょう。客体としての風景は成長し発展しているのです。

しかし、人間の主観としての風景観も年月とともに変るのでしょうか? 長い年月をかけて自然の影響の下に培われた人間の風景観は、客体としての風景が変っても、なかなか変らないように思うのですが、いかがでしょうか?

例えば、穏やかな四季の変化が造り出す日本の自然に長いこと慣れ親しんだ日本人の色彩感覚は、俗悪な近代建築が増えて都市景観が醜くなっても、壊れることはないでしょう。民族固有の美観は、容易には変らないと思います。

日本画家の東山魁夷は、「風景は人間の心の祈りであり、風景は心の鏡である」とどこかで言っていました。俳人の種田山頭火は、句集よりの随想の中で、「風景は風光とならねばならぬ。音が声となり、形が姿となり、匂いが香りとなり、色が光となるように。」と書いています。

風景が心の祈りになり、風景が風光となるのは、日本人の美観がそうさせるのです。
(以上)
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【2010/12/03 15:24】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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