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旅のコレクション展 第三部「異邦へ」
東京都写真美術館で旅のシリーズ展第三部「異邦へ」が開催されていました(2009.9.29~11.23)。 遅ればせながらその感想を述べてみます。

第一部「東方へ」、第二部「異郷へ」に続く最終編の第三部は「異邦へ」という題名です。「東方へ」「異郷へ」という前二部の題名が作品のくくり方として曖昧であったのに対して、今回の「異邦」は明快です。日本人の写真家が外国に出かけて撮った写真という意味で間違いはなく「異邦」だからです。しかし、それは「場所の異邦」に止まらず、「心の異邦」にまで及ぶのかどうかも興味あるところでした。

作家18人、作品165点という大規模な写真展であり、東京都写真美術館所蔵の作品から選んだと云います。作品の撮影年も1931年から1994年と60余年に亘るので、海外撮影を試みない写真家は少ないですから、戦前戦後の有名な写真家を殆ど網羅した作品展ということになります。

作家の展示数を平均すれば一人9点ですが、美術館の所蔵数などに多寡があるので、展示数は作家によりかなりばらつきがあります。しかし、これだけ多くの日本の一流作家の写真をいちどきに比較鑑賞出来るのは滅多にないことで大変有り難いことでした。

それにしても作家数が余りに多いので、ここでは私が展示場を一回りした後、もう一度戻って見直した作家の作品に限って感想を述べることにします。

先ず、木村伊兵衛が1954~55年にギリシャ、ドイツ、フランスで撮ったスナップ写真です。このとき木村伊兵衛はカルティエ・ブレッソンに会っていますからから、スナップ写真なら自分にもこのように撮れるぞ、という意気込みで撮ったのでしょう。

ロンドンの銀行街で撮った、こうもり傘を持った紳士が足早に駆け抜ける様の写真(展示番号19、以下同じ)などダイナミクで印象的です。その木村伊兵衛がパリのコンコルド広場の夕景を撮った写真(13)は、遠景のエッフェル塔と中景のビル群と近景の人物のシルエットがモンタージュされて、ムード写真も得意なところを見せます。

次に、渡辺義雄のヨーロパでの写真です。建築物の構成美を引き出すことにかけて第一人者の渡辺義雄は、人物まで構成美の中に取り込んでしまいます。数人の人が降り行く螺旋階段を俯瞰して撮ったヴァチカン市国(33)がそれです。また、フィレンツェの美術館で彫刻像を見上げる男女(28)を上方から撮影した写真は、建築物撮影のときのアングルを思わせます。

そうかと思うと街のスナップ写真までも構造的です。二本の街路に挟まれた街区を背景に老婆と走る自動車撮った写真(29)は、予め構図を想定してチャンスを待っていたのでしょう。とっさに撮れるものではありません。ミラノ(34)、サルディーニア(39)も画面構成が意識されたスナップ写真です。渡辺義雄は建築物の場合だけでなく、常に構成美を追究する写真家だと思います。

最後に、奈良原一高の「消滅した時間」ですが、今回の展示作品の中で他の作品にない異質なものを感じました。異邦という「場所」を表現するのに「時間」という次元で応えているところが異質なる所以です。

展示された「消滅した時間」の写真は、いずれも1970~71年にアメリカ大陸で撮られた写真です。確かに写っている風景はアメリカですが、これらの作品にとって場所はどこでもいいし、対象物は何でもいいのです。

全く関係のない二つのもの、即ち岩に刻まれた矢印とそらの積乱雲を組み合わせて運命を想像させる写真「刻まれた矢印」(71)、自動車の上の一片の雪で車の来し方を想像させる写真「ロッキー残雪」(73)などは、一部を示したり、又は隠したりして、その背後にある世界を描こうとしています。

人は奈良原一高の「消滅した時間」を超現実主義の作品だと云いますが、近代写真の始祖のマン・レイの作品「アングルのヴァイオリン」のシュルリアリズムとも違うように思います。

それは現実から時間を抜き去ったとき、そこに事実とは異次元の世界が暗示されると云う類のものです。暗示が成功するためには、被写体は何処でも、何でもよい訳ではありません。奈良原はアメリカという異邦でそれを発見したのでしょう。

最後に一点だけ「静止した時間」の「ヴェネツィア」が展示されていました。
「静止した時間」は「消滅した時間」より7年程前に撮影された写真集ですが、奈良原は写真における時間の要素が重要なことを既に意識していたことを示しています。

この「ヴェネツィア」(72)は、戸口に通じる狭い道路上に、空飛ぶ5羽の鳥の影が写っている写真です。鳥の影は一列になってこちらに向かって飛んできます。それは突き当たりの家の扉が開いたとき、そこから飛び出してきたようです。その扉の上には男の顔の像が載っています。男は鳥たちを見送っているかのようです。(下に掲げたパンフレットの写真)

スーザン・ソンタグはその著書「写真論」の中で「写真を撮ることは、存在の瞬間を薄切りにして凍らせることだ」と云っています。奈良原が薄切りにして凍らせたこの場面は、そのとき静止したのです。

同じ著書でソンタグは云います。「写真は絵画と同じく、世界についての一つの解釈である」と。それでは、この静止した時間が意味するものは何でしょう。拘束からの解放、解放の喜び、解放者の慈悲等々、それは鑑賞する人にお任せします。
(以上)


                       パンフレット:写真展旅異邦へ第三部-02D 0911qt
                       奈良原一高「ヴェネツィア」

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【2009/12/03 22:30】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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