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写真は内的風景である
評論家スーザン・ソンタグは「風景写真は写実か」と問うて、風景写真といえども本当は「内的風景である」と答えています。

即ち、写真を撮る行為は、撮影者の心が対象に働きかけ、そこから何物かを奪ってくる行為であり、従って撮られた写真は撮影者の「内的風景」になると言うのです。

俳句の世界では、目に見えるように詠うのを良しとします。いわゆる写生句を尊重します。正岡子規は「鶏頭の十四五本もありぬべし」という有名な写生句を残しています。子規が病床に臥して庭に咲いた鶏頭の花の数を述べただけの句であるとの解釈もありますが、結核で余命幾ばくもない心境を語った痛切な心境を述べた俳句だと解釈されています。

眼前の風景や事物に感情移入して、自分の気持ちを表現することは俳句や短歌ではよくなされています。その場合、詠み人の心境を知らない読み手には、単なる風景や事物を述べた詰まらない歌に読めます。

同じ事は写真の世界でも起きます。写真は事実をありのまま写すドキュメンタリー性が身上ですから、「内的風景」を描くのは俳句や短歌よりも遙かに難しいです。最近はパソコンを用いて写真の加工や修正は自由自在ですから内的風景は簡単に描けますが、そのような写真は、もはや写真ではなくて絵画と云うべきでしょう。

意図的に内的風景を描いた写真としては、昔から多重露光の写真がありました。多重露光とは、二つ以上の写真映像を重ね合わして一つの映像を産み出す作業です。写真のドキュメンタリー性を維持しながら、新しい別の映像世界を創り出す作業です。

多重露光という手法で心の内奥にある映像を写真に写した人々は、目前の風景よりも心の風景が現実的であるとする超現実主義者でした。彼らは非現実的な事象を描こうとしたのではなく、心に映る、更に云えば潜在意識に潜む、映像を描こうとしたのです。それはソンタグが云う「内的風景」よりも狭い意味であり、かつ、深い意味でもあります。

一枚の写真が内的風景を描いた深い意味を持った写真であるか、或いは独りよがりの思い入れだけの詰まらない写真か、その評価は多くの人の鑑賞を経て自ずと決まるのでしょう。

いずれにしても、ソンタグが云う「内的風景」を見いだすための手がかりが写真の中に埋め込まれていなければ話になりません。題名や説明で補う写真は、やはり力不足の作品です。
(以上)


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【2006/06/24 20:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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