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写真を言葉で批評することの空しさ
身辺のスナップ写真は学生時代から撮っていましたが、50歳を過ぎて写真撮影の基礎を学び、本格的に写真撮影をしようと思っていた頃、偶々教育テレビで美術評論家の伊藤俊治氏の講座を拝聴しましたが、当時の私には難しくて理解できませんでした。

その後も色々な写真評論家の写真史や写真評論を読みましたが、知識としては役立ちますが、写真に楽しみを求めていた私には、隔靴掻痒の感があり、今一つ距離のあるものばかりでした。

ふとしたことで、最近、司馬遼太郎の随筆集を読んでいましたら、彼は新聞記者として駆け出しの頃、美術評論を担当していて、その時感じたことを「正直な話」という題の文章で次のように書いていました。

「絵を言葉になおさねばならぬ作業そのものに矛盾があった。絵は言葉に換算することはできないし、むりに換算した数字のうえに美術評がなりたっているとしたら、もともと虚偽の文章ではないか、とおもった。私はひそかに小説を書いていたから、文章というものに多少のきびしい気持をもっていた。私は、美術記者をやめさせてもらうことにした」

写真評論家の云うことが理解できないのは、私のレベルが低いからですが、それでも写真批評というものが、司馬遼太郎の云うように正鵠をえたものではないと思うと、少しは気が楽になります。

写真批評を読んでいると、作品そのものが喚起する感動をストレートに表現するよりも、過去の歴史とか過去の洋式から分析した評価に傾くことが間々あります。それだから写真評論は面白くないと思っていましたが、更に、「虚偽の文章」とまで云われると、写真評論を読む気が益々なくなります。

しかし、そんなに深く考えなくても、所詮、音楽や絵画が言葉では表現出来ない人間の感動を伝える手段として発展したことを考えると、写真も言葉で説明できるものではないのです。
(以上)
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【2009/06/18 13:18】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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