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写真の正体は何か?

西欧における絵画の歴史は長く、社会との関わりも時代と共に変化しています。その変化は西欧絵画の主題の変遷を見ると分かります。

西欧絵画として残っている古い絵画は、殆ど宗教を主題としています。宗教の教義を映像で説くための絵画、宗教を普及宣伝のための絵画など、現在では芸術的観点から評価される絵画でも、当時は宗教的意味が大きかったようです。

次に現れるのは歴史の史実を伝える絵画です。歴史絵画は、時代的には宗教絵画と並行していますが、やはりルネッサンス以降、宗教からの自由を得てから多くの作品が現れます。

第三番目に現れる主題は特定の人物です。王侯貴族や資産家が自分や家族を描かせた肖像画です。権威や権力を映像化して誇示する、或いは人物の名誉を後世に残すという目的で多くの肖像画が描かれました。画家の力量によってはヴィヴィッドに人物が表現され、文書よりも多くの事実を語る肖像画も生まれました。

第四番目は、印象派に代表される光を捉えた絵画で、写実主義の絵画です。ここでは色々な流派が生まれますが、人物に代わって風景が主題になります。更に、主題には静物も加わります。

やがて、絵画は主題からも開放され、何を主題にするかではなく、主題を通して何を描くかに重点が移っていきます。心情の器を描く、心そのものを描く、という風に変化します。抽象画の誕生はその帰結の一つでした。

他方、写真は19世紀に生まれた新しい映像芸術です。近世生まれの写真には絵画のような宗教に拘束された経験はありません。それだけでなく、絵画が果たしたような史実を伝えるという役目を意識したこともありません。(事実を将来に伝達しようと意識される写真が生まれるのは暫く後でした)

画家達は王侯貴族に抱えられて肖像画を描きましたが、肖像写真は彼らの独占物ではありませんでした。自由な市民社会に生まれた写真は、市民の誰にも肖像写真を提供しました。

遅く生まれた写真芸術は、誠に自由奔放で恵まれた映像芸術です。しかし、他方では写真が社会的しがらみと格闘したことのないのは欠点でもあります。絵画は己は何者かと問いながら発展してきましたが、写真はそのような悩みなしに成長してきました。

ですから、写真は、時々自分が何者なのか分からなくなるのです。何をしたいのか分からなくなるのです。そのような時、私は分からないまま、批評家ソンタグの次の断片的言葉を思い出します。(以下はソンタグの「写真論」より抜粋)

写真は絵画とは全く違った想像力を働かせる。
画家は構築し、写真家は暴露する。
写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分の所有物にすることだ。
写真を撮る行為には何か略奪的なものがある。
写真は撮影しても批評はしない。
写真は現実を誰がどう見たかの証拠であり、客観的な事実の記録ではなく一つの評価である。
(以上)
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【2007/09/01 19:01】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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