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サツマイモと人口と焼き芋屋
                        1.焼き芋や-01D 0910qr

                      2.焼き芋や-03P 03t

芋(いも)と言えばサツマイモとジャガイモです。やせた土地でも生育して、大量生産が可能であり、栄養価も高いので古来、世界の国々で主食として栽培されてきました。

人口は幾何級数的に増加するのに対し、食糧は算術級数的にしか増加しないとの説を唱えたイギリスの経済学者マルサスは、食料の供給量で人口の増減が決まると主張しました。

南太平洋の人々はタロイモを主食とします。タロイモには毒があってそのまま食べられませんでしたが、ある時、イモを砕いて水にさらすと毒を抜けると分かりました。すると南太平洋の人口が増大したと言います。

イモではありませんが、バナナでも同じ現象が起きました。バナナを輪切りにすると果肉の断面に花びらのような斑紋が沢山見えます。この斑紋は昔々バナナに種(たね)があった印(しるし)なのです。

断面の模様から想像するに、種の容積は大きく、果肉は小さかったと思います。ある時、突然変異で種が消えてバナナは果肉だけとなったと言われます。その頃から熱帯地方の人口は急に増大し始めたと、ある研究論文は伝えています。

今ではマルサスの人口論をそのまま信じる人はいませんが、食料の存在が人口の数を規制するという考え方は否定できない原則です。

19世紀にアイルランドで病虫害のためジャガイモ栽培が壊滅的打撃を受け、主食の大半をジャガイモに依存していたアイルランドでは大きな飢饉が起こりました。そのとき、大勢のアイルランド人はアメリカに移民しました。

日本では、ジャガイモは明治以降に栽培を始めましたが、サツマイモ(甘藷)は江戸時代に主食の米の代用品として栽培が奨励され、広く全国に普及しました。

と言いますのは、江戸時代は寒冷な時代であった上に、異常気象や富士山の宝永噴火、浅間山噴火などで、数回の大きな飢饉に見舞われたので、18世紀の初め、幕府は飢饉に備える食料として、青木昆陽に命じて、薩摩藩で栽培されていたサツマイモの栽培を全国に奨励しました。その後、飢饉での餓死者は少なくなりました。

第二次大戦中、サツマイモは米に代わる大切な基礎食料でした。今の若い人達には想像出来ないでしょうが、戦後のある時期まで、ご飯代わりにサツマイモを主食として食べたのです。ということは、つい最近までサツマイモは饑餓を救う食料だったのです。

因みにサツマイモの国内生産は鹿児島県、茨城県、千葉県、宮崎県、徳島県で全国生産の80%を占めており、中でも鹿児島県は全国の40%を生産するダントツの第一位です。サツマイモは、今も薩摩国(さつまのくに)のお芋なのです。

今は、サツマイモの基礎食料としての役割はなくなりましたが、それでも人々はサツマイモを愛します。石焼芋は焼いた石でじっくりと芋の芯まで熱を浸透させるので、まろやかな甘みがあります。

冬の寒い夜、焼き芋屋の呼び声に戸外に出て買い求めたり、裏町を行く焼き芋屋からホカホカの焼き芋を買い求めるのは、今でも冬の風物詩です。
(以上)
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【2015/10/25 21:03】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸切子と薩摩切子
1.錦糸町:江戸切子館-05D 0902qr
写真1 錦糸町駅前の江戸切子館
2.錦糸町:江戸切子館-06D 1410qr
写真2 蔵前橋通りの江戸切子館
3.錦糸町:江戸切子館-02D 0902qr
写真3  錦糸町駅前の江戸切子館の展示場
4.錦糸町:江戸切子館-03D 0902qr
写真4  錦糸町駅前の江戸切子館の展示品
5.薩摩ガラス工芸-02D 150q8t
写真5  薩摩ガラスの製作所
6.薩摩ガラス工芸-07D 1508qt
写真6 薩摩ガラスの製作所の製造現場
7.磯工芸館(薩摩切り子)-02D 1508qt
写真7 磯工芸館 薩摩切子の展示販売場
8.磯工芸館(薩摩切り子)-13D 1508q
写真8 薩摩切子の創作製品

切子とはカットグラス工法によるガラス工芸のことであり、その製品であるガラス細工のことです。

江戸時代末期に江戸町民が製造を始めたガラス細工を江戸切子と言い、同じく江戸末期に薩摩藩が江戸のガラス職人を招いて製造したものを薩摩切子と言います。

江戸切子は天保年間(1830~1844)に日本橋でガラス業を営んでいた加賀屋が金剛砂でガラス面に切子細工をしたのが始まりとされています。明治時代になって政府によって創設された品川硝子でガラス製造が始まると、海外から吹き硝子技術、カット・摺り技術が導入され、ここで技術を習得した者たちがヨーロッパで行われていた本格的なグラヴィール技法(回転軸の先に円盤を取り付けて研磨剤でガラス面を彫刻する技法)を用いて工芸硝子の江戸切子を造るようになりました。

墨田区の錦糸町にある江戸切子館では江戸切子の展示販売を行っており、下町には江戸切子の工房が各所に散在しています。ガラスに色彩を着けて、多面的な切り口を施すと、その反射光が交錯して、ガラス器が輝きます。ダイヤモンドの輝きにも似て、ガラスを宝石に変える力があります。(写真1、2、3、4)

他方、薩摩切子は薩摩藩主の斉興が興したもので、その子の島津斉彬が集成館事業として薩摩切子の製造を振興しました。薩摩切子は素地のガラスの表面に着色ガラス層を貼り付ける、色被せという技法を用いた重厚な作品でした。江戸切子が江戸町民の手になるものでしたが、薩摩切子は技術を江戸から導入しながら、薩摩藩という財政的後ろ盾があったので、薩摩独自の優れた切子作品を生み出したのです。

明治に入り薩摩藩の事業は途絶えましたが、その後、古い薩摩切子の復元を目指した製造が始まり、薩摩切子の特色である、銅で発色させた赤硝子を復活させて、薩摩切子らしい特徴のある新しい製品を産み出しています。

鹿児島市郊外に薩摩切子工芸という製作所があり、その近くの磯工芸館では薩摩切子を展示販売しています。そこでは、江戸切子にない重厚な薩摩切子を見る事ができます。
(写真5、6、7、8)
(以上)
【2015/10/10 13:16】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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