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東北の夏祭り 秋田の竿灯
1.秋田竿燈祭り:入場行進-01D 1508qt
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2.秋田竿燈祭り-03D 1508qt
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3.秋田竿燈祭り-13D 1508qt
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4.秋田竿燈祭り:高灯籠担ぎ-06D 1508qr
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5.秋田竿燈祭り:高灯籠担ぎ-10D 1508qr
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6.秋田竿燈祭り-29D 1508q
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7.秋田竿燈祭り-26D 1508qt
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夏の東北三大祭りと言いますと、仙台の七夕祭り、青森の佞武多(ねぶた)祭り、秋田の竿燈(かんとう)祭りです。この東北の三大祭りの源は、いずれも七夕祭りにあると云われますが、祭りの態様は大分違います。

仙台の七夕は目抜き通りに七夕を飾って、通行人がそれを鑑賞する形ですが、秋田の竿燈祭りは長い竹竿に沢山の提灯を提げた重たい「竿燈」を町中で担ぎ上げる姿を見せるもので、その力強さと豪華さを披露する祭りです。また青森の佞武多は巨大な張子の武者人形の山車を町中を引き回し、山車の周りに大勢の踊り手が跳ね回りながら練り歩く祭りです。

日本各地の祭りの特徴は、神輿担ぎのように、見るだけでなく参加できるところにあります。日本人は飾ったものを見るだけの祭りよりも、山車を繰り出す動きのある祭りが好きです。その動きでも、力強い動き、激しい動きがより好きです。更には、祭りの行事に自らも参加できる祭りが一番好きです。

その点から言うと、夏の東北三大祭りでは、仙台の七夕祭りよりは秋田の竿燈祭りが、秋田の竿燈祭りよりは青森の佞武多祭りが、喜ばれるでしょう。祭りに自ら参加するという意味では徳島の阿波踊りが全国的に有名ですが、その秘密は阿波踊りが誰にでも踊れる易しさにあります。その点で、青森の佞武多の踊りも易しさでは共通するものがあります。

今年の夏、秋田市の竿燈祭りと五所川原市の立佞武多(たちねぷた)祭りを楽しむことができましたので、東北の夏祭りについて感じたことを述べてみます。

秋田市の竿燈祭りでは、夕方になると秋田市の目抜き通りの山王大通りに、沢山の竿燈が行進してきて、長い道路を埋め尽くし、竿燈を担ぐ場所に停止します。(写真1)

竿燈とは、一本の主軸の竹に7~8本の横竹を取り付けて、その横竹にぎっしり提灯を並べて吊り下げた、巨大な団扇の形をしたものです。その形は丁度、稲穂が実ったようにも見えるので、豊作を祝う祭りでもあります。

山王大通りを埋め尽くした竿燈の列は、さしづめ田圃に稲穂が勢い良く屹立して並んでいる様を表しています。祭りの行事が始まり、提灯に蝋燭の火が灯され、横に寝ていた竿燈が一斉に起ち上がります。竿燈の提灯は明るく空に輝き、実った稲穂のように色づくのです。(写真2、3)

やがて竿燈を担ぎ挙げる若者達が、色々な演技を始めます。重い竿燈を片手で支えたり、肩や腰で支えたり、更には額や顎で支えたりして、傾きかけた竿燈のバランスを巧みにとるので、観客は手に汗を握ってみとれます。倒れそうになる竿燈にはどよめきが起きて、立ち直ると喜びの歓声があがります。(写真4、5)

祭りの第二ステージになると、竿燈の尖端が垂れ下がり、竿燈全体が反り返るように撓(しな)いました。ただ真っ直ぐ建てるだけでも難しいのに、深く撓い、大きく傾くので、あちこちで観衆の溜息と歓声が交互に上がります。中には遂に倒れて燃え出す竿燈もありました。そうして祭りの会場は最高潮に達します。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、稲の豊作を祝福するに相応しい終盤の光景でした。(写真6、7)
(以上)
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【2015/08/26 20:56】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本のファストフードは江戸時代に遡る
1.並木やぶそば-01D 1102qt
写真1 池波正太郎が通った並木やぶそば
2.浅草風景-20D 1103qr
写真2 伝法院通りにある大黒家天麩羅本店
3.前川うなぎ屋-01D 1103qt
写真3 駒形のうなぎ料理専門店「前川」
4.どぜう:駒形-01D 1102q
写真4 駒形どぜう屋

料理は値段が高ければ旨いのは当たり前で、安くて旨いのが自慢なのです。それに忙しい時代ですから注文していち早く提供される料理が喜ばれます。ファストフードとは本来そういうものなのです。

と言うことで、ファースト・フッド・サービス(fast food service)は今や大いに流行っています。店内ではセルフサービス化が進み、テイクアウトできるのが普通です。日本生まれでは丼物、うどん等、西洋ものではハンバーガー、ピッツア、フライドチキンなど、業態もフランチャイズやコンビニと多様です。

ファストフードというと西洋ものと思いがちですが、日本で即席の外食が盛んになったのは大変古く、江戸時代の下町でした。

関東に封ぜられた家康は、江戸城を築き、城下町を作りましたが、新しい城、新しい町をつくるには、飲み水の確保や、道や橋のインフラ整備が急務でした。そのために大勢の職人や仕事師などを江戸の町に集めました。

地方から出稼ぎ労働者が集まって出来たのが江戸の町ですから、女手の少ない男社会でした。当然、家庭料理とはいかず、外食が盛んになり、男達は旨いものを町に求め出歩きました。需要が多ければ供給が増え、舌が肥えた人が多ければ旨いものが生まれます。

江戸社会に詳しい食通の作家、池波正太郎氏によると、江戸の代表的な料理は、鮨、蕎麦、天ぷら、鰻、泥鰌だそうですが、これらの料理は現在でも旨いものの代表になっています。これらの料理は、江戸の町民が創り出したものだ自慢してよいのです。

なんだ、旨いかも知れないが値段は高くて江戸町民の手に届かなかったのではないかと思わないで下さい。当時の江戸では食材は豊富にあり安く手に入り、調理は屋台で手軽に提供されるものが多く、ファストフードとして町民に親しまれていたのです。

江戸前の海では美味の魚が豊富に獲れ、下町の湿地帯の堀では鰻と泥鰌は湧くように育ちました。池波正太郎氏によると、隅田川や多摩川が注ぎ込む江戸湾は、海水と淡水が適当に混ざり合っていて、同じ種類の魚でも太平洋で獲れたものより江戸前の海で獲れたものが味がよかったのだそうです。

江戸の本所で発明された握り鮨は握りたてを手早く食べるものだし、天ぷらも屋台で揚げて即座に食べるスタイルですから、正にファストフードです。蕎麦や鰻は丼(どんぶり)で安直に食べ、泥鰌は鍋をつついて皆で食べました。

江戸のファストフードが最初に生まれたのが下町の淺草であり、その伝統は今に引き継がれています。下町生まれの作家、池波正太郎や、淺草を愛した小説家、永井荷風が足繁く通った蕎麦屋やどぜう屋や鰻屋が淺草に残っています。その他にも江戸時代、明治時代の創業の老舗の店が沢山あります。(写真1、2、3、4)

江戸時代の職人や仕事師は、現代ではサラリーマンですが、彼等が昼どき牛丼屋、ラーメン屋に列を作って食べるもの、ハンバーガーや弁当屋で買うもの、これらは現代のファストフードです。江戸時代のファストフードとは種類は変わっても、安くて旨ければ、鮨、蕎麦、天ぷら、鰻のように今後も愛され続けるでしょう。
(以上)
【2015/08/14 11:30】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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