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三内丸山遺跡が語る縄文時代
1.三内丸山-21P 99t
写真1
2.三内丸山-10P 99r
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3.三内丸山-12P 99t
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4.三内丸山-06P 99r
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5.三内丸山-04P 99t
写真5

平成の始めに青森市で発掘されて有名になった三内丸山遺跡は、その規模の大きさと出土品の多さで、国内最大の縄文集落と云われて話題を呼びました。しかし、その存在は江戸時代から知られていたとのことです。

三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期(5~6000年前)のものと云われますが、優れた出土品から見ると既に高度の農耕文化が栄えていたと推測され、弥生時代の開始時期を3000年弱前とする従来の学説に異論が出ています。

日本の縄文時代は一万年余りも続きますが、その長く続いた時代に狩猟と漁撈を営みながら、大陸の遊牧民族のように移動せず、縄文人は一ヶ所に定住していたと言われます。そのことが、農耕生活も同時に可能にし、土器の独創的な製造技術を生んだのです。

縄文中期の土器に見られる様式は「火焔様式」と言われるもので、土器の形態や土器の表面の模様は、単調でなく不規則で即興的な変化に富んでいて、極めて独創的なのです。

長い縄文時代に比べると短かい弥生時代は、日本社会の変動に与えた影響は大きかったと言われますが、にも拘わらず、縄文時代に培った古来の文化は、日本文化の基底を形成して、現在までも脈々と息づいていると言われます。

また、縄文時代は、その後に続く弥生時代に比べて、平和な社会だったとも云われますが、何故それ程長く平和だったかと言うと、それは日本全土が深い森林に覆われていたからで、豊富な木の実と小動物を食料として、縄文時代の日本人は満たされた生活をしていたのでしょう。

そして、何故日本全土が厚い森に覆われていたかと言うと、それは豊かな水のお陰でした。水は台風などで太平洋側からも来ますが、大半は冬に日本海を渡ってくる寒風がもたらす雪でした。日本海側に沢山の雪が降るようになるのは、ほぼ一万年以上も前からと云われます。当時、地球は氷河期が終わり、海面が上昇し、黒潮の一部は九州南方で分岐して対馬海峡を通り、日本海を北上し始めたのです。

温かい黒潮は、冬期にシベリアから吹いてくる乾いた寒風に曝されて水蒸気となり、その水蒸気は日本列島に押し寄せます。日本海側の山の斜面には大量の雪が積もります。その雪は夏にかけて徐々に溶けていく、水のダムの働きをしました。これは樹木の生育にとって最適な環境でした。いま東北の白神山地に僅かに残るブナ林は、縄文時代に日本全土を覆っていた証拠の印です。

紀元前4000年以前に栄えた世界の四大文明が、みな森林を利用し尽くして森林の消滅と共に衰退しました。幸いにも日本海側の降雪と台風の襲来が続く限り、日本の山々は緑を失うことはないでしょうが、それでも、縄文時代の日本人が抱いていた自然への愛と尊敬の念を失えば、保障の限りではありません。

写真の映像は、発掘現場の遺構や遺物から想像した、当時の三内丸山村落の姿を再現したものです。狩猟と農耕を併せ営み、縄文人は豊かな生活をしていたことが分かります。

個々人の住居は小さな竪穴式ですが、中には長屋のような集会所と見られる建物もありました。(写真1、2、3)

高床式の建物は食料の保存倉庫かと思われます。これは日本列島の北端でも当時は気温がかなり高かったことを示しています。(写真4)

巨大な木造の櫓は、外敵の襲来を早期に発見するためのものとも、沖に出た漁船に村落の位置を示す灯台の役目をしていたとも言われています。(写真5)
(以上)
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【2015/01/21 21:24】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
羽子板 遊具から工芸品に
             1.淺草羽子板市-03D 0612qt
             写真1 浅草寺境内の羽子板市
             2.淺草羽子板市-16D 0612q
             写真2 浅草寺境内の羽子板市
             3.淺草羽子板市-11D 0612q
             写真3 江戸押絵羽子板
                              4.羽子板資料館-02D 0908q
                              写真4 羽子板資料館「鴻月」
                              5.羽子板資料館-01D 0908qc
                              写真5 羽子板資料館「鴻月」
今ははやらない正月の遊びに羽根突きがありました。ムクロジの種子に羽を付けたものを羽子板で打ちあって、その羽を打ち損じて負けると顔に墨を塗られました。さすがに女性が勝負に負けても塗られませんでしたが、書き初めの筆で顔を汚され男たちが、なお羽根つきに興じていた路地裏の風景は戦前の昭和にはありました。

この羽根つき遊びは既に室町時代には存在していて、負けた方が酒を振舞ったそうですから、優雅な遊びとしての歴史が長いのですが、その後、羽子板は縁起物と見なされるようになり、江戸時代になると遊戯としての羽根突きよりも、道具の羽子板に人々の関心が移ります。

羽子板が縁起物になれば、重視されるのは羽子板の装飾であり、浮世絵の美人や人気のある歌舞伎役者を貼り付けた高級な羽子板が販売されるようになりました。いわゆる江戸押絵羽子板という羽子板で立体感があります。三次元の人形には及びませんがが、さしずめ膨らみのある二次元のレリーフと云ったところです。

遊戯としての羽根突きは廃れても、装飾品としての羽子板は、現在でも大いにもてはやされています。浅草寺の境内では、毎年12月中旬に羽子板市が開かれて大勢の愛好家が訪れます。(写真1、2、3)

この江戸の伝統工芸である江戸押絵羽子板を製作しているところが墨田区向島にあります。「鴻月」という羽子板資料館です。東京都文化功労賞受賞者である西山鴻月氏が今でも押絵羽子板を製作しているとのことです。
(写真4、5)

柳宗悦らと共に民藝運動を推進した陶芸家の河井寛次郎は、暮らしの中の「用」の美に魅せられたと云って、実用品の中に工芸美を見出した芸術家です。

日本の伝統工芸は、最初は実用品として製造され、やがて製品を美的に観賞する人々が多くなり、その要求に応えて美術品として制作されるようになったものが多くあります。その最たるものは日本刀ですが、遊具から工芸品に発展したこの江戸押絵羽子板もその一つです。
(以上)
【2015/01/01 16:19】 | 文化 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
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