FC2ブログ
蓮の花なら不忍池へ
日本では夏は花の端境期です。しかし端境期でも花は咲きます。この時期に咲く花の中では蓮の花が最も見事です。東京では上野の不忍池が蓮の名所です。夏になると池の大半が蓮で覆われます。蓮の花の盛りは旧のお盆の頃です。

東京近郊で蓮の花を観賞できるところは、石神井公園(練馬区)、神代植物園(調布)、薬師公園(町田)、郷土の森公園(分梅河原)などがありますが、都心に近くて規模の大きい蓮池は上野の不忍の池です。猛暑日が続くある日、蓮の花を観賞しようと不忍池を巡りました。

池の端から見る不忍池は、大きな蓮の葉に覆われて、池の水面は殆ど見えません。真夏の太陽のエネルギーを吸収した蓮の葉から、蓮の精気が大気に放出されています。太陽光線の熱気は痛いよう皮膚に刺さりますが、蓮池の上空に満ちる精気で、大気はさわやかです。(写真1)
1.不忍池:蓮-30D 1408q
写真1

海原のように広がる蓮の葉の緑の波の間に、所々蓮の花が顔を出していました。蓮の花は、勢いよく伸びて広がる大きな蓮の葉の陰で、控えめに、しかし色鮮やかに咲いていました。
(写真2)
2.不忍池:蓮-38D 1408q
写真2

池の端の鰻屋、伊豆栄本店の向かい側の地点から、不忍通りに沿って右回りに池の縁を歩きました。途中から右に曲がって池の中央をゆく道に進み、不忍弁財天を右に見て通り過ぎると、上野動物園の池の端門に達します。その門から園内に入り、動物園内の不忍池の蓮の花を観賞しました。

動物園内の不忍池は、鶴、ペリカン、白鳥などの鳥類を飼育しているところですが、ここも蓮の繁茂する池です。池の中を通る長短二本の道が造られていて、より近く蓮の花を観賞することが出来ます。猛暑の昼下がりでしたから、さすがに蓮の花を見物する人は少なく、ゆっくりと時間をかけて観賞できました。(写真3、4)
3.不忍池-28D 1408qt
写真3
4.不忍池:蓮-19D 1407q
写真4

不忍池の蓮の花は、花弁が花芯を抱え込む形のものが多く、花びらを開いて派手やかに散る種類ではありません。しかし、丸くこんもりとした形をよく見ると、薔薇のように幾重にも花弁が重なる重厚な造りです。既に咲き終わって花弁を落とした蓮の先端には、めしべの花托が成長して種を宿していました。(写真5、6、7)
5.不忍池:蓮-14D 1407q
写真5
6.不忍池:蓮-58D 1408q
写真6
7.不忍池:蓮-51D 1408qt
写真7

花托に宿る蓮の実は、秋には不忍の池に沈みます。冬、種を放出して空っぽになった花托の残骸が池の隅に浮いています。その形は蜂の巣にそっくりです。ハス(蓮)のことをハチス(蜂巣)とも言うのはこのことかと納得しました。
(写真8)
8.不忍池-15D 1212q
写真8

池の底に沈んだ蓮の実は、来年の夏、小さな芽を水面に出すのでしょう。こうして蓮の葉の海原は年々広がっていきます。誠に蓮という植物は、高貴な花をつけながら、強い生命力の植物だと思いました。
(以上)
スポンサーサイト



【2014/08/27 16:47】 | 風景 | トラックバック(1) | コメント(1) | page top↑
子規が愛した根岸の里の今
正岡子規といえば知らぬ人のない明治の俳人ですが、短い生涯を終えた晩年、根岸の里に住み、そこで亡くなりました。

現代まで続く日本文学の一ジャンル、俳句を確立したのは江戸時代の芭蕉ですが、明治になって、革新を唱えて俳句に新風を吹き込んだのは正岡子規です。子規が俳句の世界を称揚して、短歌の世界を批判したため短歌の影が薄くなったと云われていますが、正岡子規が主張したのは、俳句の世界で流派をつくり自己満足していることを強烈に批判したのであって、短歌でも同じ現象が起きていていましたから、短歌にも同じ批判を浴びせただけです。

正岡子規のエッセーに次のような行がありました。
「土佐派、狩野派などいふ流派盛になりゆき古の画を学び師の筆を摸もするに至りて復画に新趣味といふ事なくなりたりと覚ゆ。こは画の上のみにはあらず歌も同じ」

俳号の子規という文字はホトトギスの別名ですが、ホトトギスは死ぬまで啼き続けると云われる鳥なので、肺結核で血を吐いた自分をその鳥になぞらえたのです。

それほど強烈な意志を持つ子規でしたが、晩年は東京の隠居場所、静かな根岸の里に居を構え、最後まで俳句を作り続けました。そこは、山手線鶯谷駅を東に出て少し歩いたところで、「根岸の里のわび住まい」という言葉があるように、如何にも俳人子規が住むのに相応しいところでした。

隠居場所と云いましたのは、江戸時代に輪王寺宮の別邸「御隠殿」があったところだからです。輪王寺宮の「御隠殿」が設けられた時代は、そこは老松の林に包まれ、入谷田圃の風景が臨まれる長閑で静寂な江戸の奥座敷でした。

時は下って明治になっても、上野台地の東北に位置する根岸は、音無川の流れに水鶏(クイナ)が囀り、ここから眺める月は美しく、根岸は観月の名所でした。子規の家の前の通りを昔は鶯横丁と云ったそうですから、梅が咲いて鶯が飛び交っていたのでしょう。

今、子規が住んでいた家が子規庵として保存されています。しもた屋風の質素な家で、中庭を覗いたら、よしずに囲まれて朝顔などの花壇がありました。(写真1、2)
1.根岸:子規庵-04D 1407q
写真1
2.根岸:子規庵-06D 1407q
写真2

嘗ての鶯横丁は、昔の位置のまま残っており、その横丁に面する家々の門扉には子規の俳句を書いた短冊が貼ってありました。鶯横丁の細い枝道には、子規が住んでいた頃のような草茂る路地もありました。時代を経ても根岸の里の風情は変わらないようです。
(写真3、4、5)
3.根岸:子規庵小路-01D 1407q
写真3
4.根岸:子規庵小路-02D 1407q
写真4
5.根岸:子規庵小路-08D 1407q
写真5

ところが、子規庵のある鶯横丁にも好ましくない変化が現れています。それは、戦後のある時期から鶯谷周辺に風俗ホテルが密集してピンクゾーンとなったことに始まります。そこから溢れれ出た風俗ホテルが鶯横丁にまで進出しているのです。(写真6、7)
6.根岸:子規庵小路-04D 1407q
写真6
7.根岸:子規庵小路-05D 1407q
写真7

子規を愛し、根岸の里を愛する地元人々の努力が、無為に終わらないよう願うばかりです。
(以上)
【2014/08/19 10:48】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
分からないことばかりの鰻事情
                  建物-03D 0608q

土用の丑(うし)の日にうなぎを食べると夏負けしないと言うのは、江戸時代から始まった習慣です。江戸時代に、ある鰻屋が丑の日に「う」の字が付く食べ物を食べると夏負けしないと平賀源内から教えられて、それを実行したら大繁盛したという話があって、それ以来、鰻屋の看板に「う」の一字を掲げたのは、その故事にあやかっているのです。(写真)

鰻の身に最も脂が乗るのは産卵前の秋で、土用の丑の日の頃は脂が落ちているそうです。ですから私達は比較的淡泊な鰻を食べていることになります。それでも鰻は高タンパクにして消化もよく、ビタミン類も多く含んでいます。鰻には夏の暑さに負けないための栄養は十分にあります。

この頃の夏は大変暑くなり、日本は亜熱帯化していると云われます。これからの土曜の丑の日(7月30日前後)ばかりでなく、暑い夏の間は、街の鰻屋は大いに繁盛するでしょう。

ところが、最近、国際自然保護連合(IUCN)が日本鰻を絶滅危惧種に分類したとの情報が入りました。既に2007年にヨーロパ鰻は商業目的の取引を規制されていますが、2年後のワシントン条約会議(2016)で日本鰻もヨーロパ鰻並に指定されると、輸出国の許可がなければ商業取引が出来なくなるかも知れません。

食生活で昔から馴染みの深い鰻ですが、その生態は依然として謎が多いようです。日本ウナギの産卵場所については、長らくフィリッピン海溝と言われていましたが、最近の研究ではグアム島付近だと分かったとのことです。

ウナギの稚魚は半透明のシラスウナギとなって黒潮に乗り日本列島の河口にたどり着きます。しかし、日本に到達する経路は未だに正確には分からないそうです。日本の河川や湖沼で数年棲息し、成長したウナギは再び河川をくだり産卵場所に向かいますが、その経路も又、分からないそうです。謎に包まれた魚です。

代表的な鰻の調理法は蒲焼きで、江戸で始まりましたが、地方により色々の調理法があります。蒲焼きの外に、ひつまぶし、せいろ蒸し、鰻巻き、白焼などが知られています。

人々は天然の鰻を好みますが、とても足らず稚魚養殖と成魚輸入に頼っています。養殖は最初は沿岸にたどり着いたシラスウナギを捕獲して露地堀やハウス堀の池で養殖する方法でした。しかし近年は大量の稚魚を輸入して養殖しています。

嘗て浜松地方が養殖鰻の一大生産地であった頃、東海道線の列車から、沢山の堀池に酸素供給のための水車が回っているのを見たことがありました。しかし、今は鹿児島県、宮崎県、愛知県で養鰻業が盛んです。

しかし、ヨーロッパが資源枯渇を恐れてシラスウナギの稚魚の輸出規制を打ち出したため、輸入稚魚は将来先細りになる恐れがあります。ヨーロッパにシラスウナギを依存していた中国産の養殖鰻も同じく減るでしょう。

鰻の稚魚が採れずに養殖鰻が減少するなら、鰻の卵を採取して人工孵化が出来れば良いのですが、そして日本では鰻の人工孵化に一応成功しているとのことですが、事業化には道遠しというところです。

鰻は、血液には毒がありますが、火を通せば無害になります。捕まえどころが無いけれどエネルギッシュであり、河川を遡上するとき障害物があれば川岸の陸地を這ってでも遡上するそうです。鰻登りという言葉があるように滝もよじ登るしぶとい魚です。

日本では、蕎麦屋があちこちにあるように、鰻専門の料理屋もあちこちにあります。蕎麦屋がそれぞれの味を競うように、鰻屋も自慢の味を誇示します。蕎麦と鰻は江戸時代からの庶民の楽しみの食べ物でした。鰻重が庶民の手の届く値段に止まることを切に願う者です。
(以上)
【2014/08/10 12:20】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |