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老いて美しくなる
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人が老いて醜い姿になることを老醜をさらすと云いますが、逆に晩年になって渋い深みのある表情になる人もいます。心は自ずと表に現れると云いますから、生きてきた長年の心の働きが顔に凝縮して現れるのでしょう。

A beautifully aging society を運営している人から聞いたのですが、beautifully aging とは、今はやりの anti-aging とは違い、歳をとることに逆らうのではなく、順調に老いていくが美しく老いていくのだそうです。

そのことで思い出したのは、明治、大正、昭和、平成にかけて晩年まで文学活動を続けた作家の宇野千代女史です。有名な文士や画家との華麗な男性遍歴で知られていますが、恋愛だけでなく文筆活動も苦労ではなく楽しみとして没頭してきたと云います。

自らの美意識に忠実に、天真爛漫に98歳まで生き抜いた宇野千代女史は、写真で見ると年齢を全く感じさせない色気があふれていました。彼女こそ beautifully aging の見本でした。

老いて美しくなるのは人間だけではありません。少し注意深く身の回りを眺めると、自然界にも beautifully aging を実現している樹がありました。枝を切られ、皺深く、苔むしても、この古木は美しさを失っていません。
(以上)
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【2012/09/28 21:25】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
静止画と動画の違い
今までは動画(movie)は映画として専ら職業的専門家が取り扱うものでしたが、コンパクトカメラに動画機能が付くと、素人でも簡単に動画を撮ることが出来るようになりました。ネット上で動画サイトの YouTube の人気が高いのは、静止画(still)と較べて動画の方が説明能力に優れているからです。

しかし、宗教哲学者の中沢新一氏は、映画(movie)は遊牧民の精神であるが、写真(still)は狩猟民の精神であると言い、スチル写真の優れた点を指摘しました。この喩え話は動画と静止画の違いを巧みに捉えた表現です。

ここで重要な指摘は、静止画の撮影を狩人の射撃に喩えた点です。狩人は生きている動物の生命の流れをを止めるように、写真家は被写体に流れる時間を止めるのです。このことを評論家スーザン・ソンタク氏は次のような表現で述べています。

「写真を撮る行為には何か略奪的なものがある。・・・ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲し気でおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。」(「写真論」)

中沢新一氏は、動物写真家の岩合光昭氏との対談で次のように云い、静止画は動画よりも濃い内容を持つと考えています。
「狩猟民は、死を仲立ちにして生き物と渡り合って、ショットによって相手に自分を関係づける。・・・カメラマンは、動物を殺しましませんけど、動いていくものを瞬間的にカシャッととめていく。」

このことをソンタグに云わせれば、「写真は時間の明解な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。」となります。動画は撮影後もなお動き続けているイメージですが、静止画は撮影後は死の形見となります。それは狩人にとって、獲物が格闘の結果の形見であるのと同じです。

これが静止画と動画とを根本的に違いなのです。
(以上)
【2012/09/21 13:53】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
花の絨毯
                   1.絨毯-02D 1209q
                   写真1
       2.パンジー-05D 1204qt
       写真2
       3.パンジー-07D 1204qt
       写真3
                                 4.菊-04D 1011qt
                                 写真4
                                 5.菊-08D 1206qt
                                 写真5
                    6.ひなげし-13D 1205q
                    写真6
                    7.ひなげし-25D 1205q
                    写真7

絨毯(カーペット)は生活用品ですが、それを芸術品として扱われるまでにしたのはペルシャ(イラン)人の才覚でした。今では高級な絨毯といえばペルシャ絨毯です。素材に高価な絹を用いて、敷物ではなくて壁掛けとして売られているものもあります。

確かにペルシャ絨毯は織り方が緻密であり、絵柄は美しく、細密画を見るようです。その上に座って暮らす人々にとって、絨毯を敷くことは室内に花園を設える気分になったでしょう。ペルシャ絨毯は西欧人社会でも愛好され、その上を歩く人々にとっては花園を散策する気分になったでしょう。(写真1)

自然界の花園では、その上に座ったり歩いたりは出来ませんが、眺めて見飽きることはありません。

良く手入れされた花園は、花弁が整然と並んでいて、色と形に心地よいリズムがあります。次々と下から盛り上がるように咲く花弁の群れもあれば、適当な間隔に散らばってゆったり咲く花弁の群れもあります。(写真2、3、4、5)

他方、咲くに任せた花園では、種類の異なる花が入り乱れ、個々の花弁の姿は消え、面として美しさを現します。白い花が広がり、赤い花を引き立てます。白い花は、「地」となり、赤い花は「図」となり、見る人に強い印象を与えます。(写真6)

赤い花の群れと水色の花の群れが、緑の草原にばら撒かれたように広がる花園は、自然の点描画を見るようです。眼を細めて見ると複雑な色が徐々に変わるグラデーションを楽しむことが出来ます。(写真7)

優れたペルシャ絨毯の柄模様は、多分このような自然の花園からヒントを得て編み出されたのだと思いました。
(以上)
【2012/09/15 23:50】 | デザインする | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
日本人の死生観と美観
 「太陽と死はじっと見つめることができない」とはフランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーの言った言葉ですが、ノーベル文学賞作家川端康成は、友人や知人の葬儀に参列すると、死者の顔をじっと見つめ、暫くその場を立ち去らなかったと言われます。

それは他者の死であって自分の死ではないから当たり前と云ってしまえばそれまでで、川端の意図は分かりません。それでは親しかった人の死顔をじっと見つめる川端康成は何を見ていたのでしょうか。

その理由は、幼いときに両親を亡くし祖父母に育てられた孤独な生い立ちと、そしてノーベル賞受賞記念講演で語った「美しい日本の私」の中に、それを見出す鍵があるように思います。

川端康成の名作「雪国」は「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」で始まります。

長いトンネルはこの世とあの世の境界線であり、その後の物語はあの世のことを暗示しています。後に川端自身が「雪国」はあの世のことを書いたと言っています。

日本人の生活は常に自然に深く結びつき、その自然はあの世から続いていると川端は考えていたようです。川端が自然について語るとき、常に自然の向こうにある黄泉の国を見つめていたのではなでしょうか。

古来からの日本人の自然崇拝は、自然に対しての恐怖と言うよりも感謝の念であった思います。その感謝の念は、自然は美しいものと言う感覚を日本人に与えました。文学に現われ国民思想を研究した津田左右吉は、日本人は真・善・美の中で最高の価値を美に与えていたと云います。

川端が「美しい日本」というとき、それは日本の自然は美しいと云うことであり、自分はその美の中に居るとの意識です。

古来日本ではこの世の汚いものは穢らわしいものとして忌み嫌いました。西洋流では罪は懺悔で解消されますが、日本流では穢れは禊ぎで解消されます。不潔は悪であり、汚れていないことが美観の前提条件でした。その意味で美の対極は醜ではなくて悪でした。

一般には死は忌むべきものというのが社会の通念です。死は悪である筈です。しかし川端は、死は人間が自然に還る門出であると見ていたのでしょう。美しい日本は自然の中にあります。その美しい自然に還ることが悪である筈がありません。

川端は死者の顔をじっと見詰めて祝福していたのかも知れません。
(以上)
 
【2012/09/05 08:31】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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