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しぼんだ花 紫陽花あわれ
                     あじさい-22D 1207q
                     
長い梅雨の間、私たちの目を楽しませてくれた紫陽花も7月には終わります。紫陽花の花弁は枯れても尚その形を保ちます。花は色あせて皺だらけになっても、見る人に姿勢を正してさようならと語りかけてきます。あわれです。

紫陽花は花の季節が終わると、直ぐに翌年の花芽が出てきます。そのため翌年も紫陽花を立派に咲かせたいならば、早めに枯れかかった花弁と枝葉の先端を刈り込まねばなりません。

しかし、紫陽花の最後の姿を見ていると、刈り込みの手を休めてしまいます。名残りの写真を撮り、さよならと云いながら刈り込んでいきます。あわれです。
(以上)
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【2012/08/30 09:33】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美は発見されて美と分かる
1.写真-01D 1208qr
写真1 自宅の居間に飾ってあるアンセル・アダムスのヨセミテの写真
2.美瑛-09P 99t
写真2 美瑛の農村風景 人工的ではあるが自然と調和している風景です。

身辺に美は沢山あるのですが、人が発見するまで隠れているのです。発見した人が此処が美しいですねと言うと、それまで気づかなかった人も初めて美の存在を知るのです。

ヨセミテ渓谷の美を世界に知らせたのは写真家アンセル・アダムスだと云われています。アンセル・アダムスは、滅多に人の立ち入らなかったヨセミテ渓谷の、奥深いところに潜む山容、湖沼、原生林、谷川、雲の流れを見事な構図で精緻に捉えた写真を数多く発表しています。(写真1)

北海道の富良野と美瑛の広大な田畑が美しいことを人々に知らせたのは写真家前田真三です。アンセル・アダムスは深い山岳の自然の風景でしたが、前田真三の写真は、誰もが見慣れた人々の住む農村風景でした。しかし前田真三は、その農村風景には、耕された農地と防雪林が織りなす曲線美があることを人々に悟らせました。
(写真2)

写真芸術にも詳しい宗教学者の中沢新一氏は、嘗てテレビで次のようなことを語っていました。
「西洋哲学では、隠されたものを露わに暴き出すことが真理探究であると考えている。だから、西洋絵画では女も裸、キリストも裸で描かれるが、それは真理を求める発想から出ている。であるから、絵画で裸を描くことが芸術となり、写真もヌードを撮ることが芸術となる。」

「しかし、日本の写真術には、隠れているものを露わに暴く(真理探究する)という発想はない。日本の写真家は、(絵画でも同じだが)自然の奥深く隠れているものを、技芸で外部の眼に見える世界に引き出したり引き上げたりすることが芸術のテーマである。即ち、魚を釣り上げるように、見えない獲物を職人技で巧みに引っかけるのが写真芸術である。」

アンセル・アダムスと前田真三の写真を見て、中沢新一氏の云う意味を理解した次第です。
(以上) 
 
【2012/08/23 10:33】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
葉っぱの群れに美を観る
                                   1.いろいろの葉-01D 1206q
                                   写真1
                             2.いろいろの葉-03D 1206q
                             写真2
                   3.ハゲイトウ-01D 1011q
                   写真3
         4.ハゲイトウ-02D 1011q
         写真4
5.ハラン-02D 1206qt
写真5

草花というと花が主役で葉っぱは脇役です。脇役は主役の陰で目立たないものです。ですから余り話題になりません。

しかし、花が咲いていない時期に葉っぱを眺めると、葉っぱは誠に味わいのある姿なのが分かります。一枚一枚の葉っぱの形も面白いですが、群れをなした葉っぱの塊の姿は、複雑にして巧みな造形の成果です。

その造形の美を鑑賞するには、斜めや横からではなく、正面から或いは真上から見ることです。隙間無く重なり合う葉の相互関係は太陽の光を求めて競った結果ですが、その至る所に人間業ではない見事な美を見出します。形だけでなく色のグラデーションの組み合わせも味わいがあります。(写真1、2)

鋭角な形状と鮮やかな色彩で迫ってくる葉っぱの群れからは、観る者にある種の律動が伝わって来ます。黒ずんだ赤色の群れから黄色い花と緑の葉が覗くと、その律動は乱れて変動が始まり、見事な動的造形美を創り出しています。
(写真3,4)

そうかと思うと、一枚一枚の葉っぱは色も形も同じであって変化に乏しい葉っぱの塊ですが、全ての葉っぱが四方に向かって走っています。その姿は中心から溢れ出るエネルギーの律動を現しているようです。(写真5)

ありふれた草花の葉っぱを観ていて美とは何かと考えてみました。

美を哲学的に定義したカントは、美しいとは快感の一種であると云い、その快感は実用性とか利益などの打算から導かれる快感ではなく、純粋な観照から得られる快感だと云います。また、実用の目的から解放された、目的なき快感を人間に与えるのは自然であるともカントは云います。

芸術品は人工的なものですが、自然は存在そのものが美術品なのです。逆説的に云えば、人間が創り出す芸術は、自然に近づき、自然の性質を持つと、益々美しく見えるのです。
(以上)
【2012/08/14 20:57】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
現代美術の工芸的展開
1.蜃気楼-02D 1207q
写真1
2.蜃気楼-04D 1207q
写真2
3.構造-04D 1207q
写真3
4.構造-02D 1207q
写真4
美術品と云えば絵画と彫刻ですが、柳宗悦に会って民芸運動に入った河井寛次郎は、暮らしの中の「用」の美に魅せられて、実用の工芸品をも芸術としました。そして、美術品は美を追いかける世界だが、工芸品は美に追いかけられる世界だと云いました。

確かに家具や装飾品はあくまでも実用が前提になっていて、出来上がった作品が鑑賞に値するから芸術品として扱われるのです。河井寛次郎はそのことを「美に追いかけられる」と云ったのです。

現代芸術でも工芸的手法を駆使する分野があります。と言うよりも従来の二次元の絵画や三次元の彫刻では表現できない世界を、工芸的手法を用いて追求する芸術があります。ここでは、美に追いかけられているのではなく、あくまで美を追いかけています。

このような回りくどいことを云いましたのは、最近、東京六本木にある小さなギャラリー MoMo で、早川克己氏という新進気鋭の芸術家による、日本では珍しい工芸的芸術作品展を観て思いついたことです。

ギャラリー MoMo での作品展「PHASE Ⅲ -構造と形態- 」(2012.7.5~8.4)は、紙という素材を用いて、近代都市の高層ビル群を連想させる構造物を中空に漂うように展示していました。構造物は糸で吊されて、絶えず僅かに揺れています。それは恰も、世界に建設される大都市がいかにも頼りないものであるかを暗示しています。
(写真1、2は「蜃気楼」と題した作品を正面と斜め上から撮影したものです。)

展示場にある作品は、すべてに僅かな印字がある白い紙だけで制作された作品です。部屋の壁から離さて宙づりになった作品二点は、一部に水色と黄色の色彩が施されています。それらは無数の微細な立方体が横に繋がる空間であり、空虚な繰り返しに過ぎず、中身のないまま図体だけは巨大化していく、現代社会を批判しているようです。(写真3、4)

早川克己氏は若くしてアメリカに渡り、既にニューヨークとヒューストンで個展を開催するなど、国際的な活動をしております。今年9月にはオランダ、ハーグで開催される「ペーパーワークスビエンナーレ2012」への参加が決まっています。

ギャラリー MoMo に展示されていた、これらの作品(写真)も、そこに出展されるとのことでした。
(以上)
【2012/08/07 16:04】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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