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飛び石の魅力
1.とうふ屋うかい-07D 1204qt
写真1
        2.清澄庭園-08D 1012qt
        写真2
               3.旧安田庭園-04D 0801qt
               写真3
                          4.清澄庭園-06D 0907q
                          写真4
                                   5.江ノ島-03D 1207qt
                                   写真5

日本庭園では、散策する道の一部を屡々飛び石で造ります。飛び石とは、表面の平らな石を人の歩幅に合わせて少しずつ離して据えたものです。飛び石は、もともとは茶の湯で来客を玄関や茶室に誘導する通路として据えられたのが始まりと云われます。(写真1)

その後、飛び石は庭の観賞のための道として造られるようになります。これらの飛び石を伝い歩いて、色々な角度から庭を観賞するための誘導路になりました。同時に、飛び石は庭の芝や苔を踏まないためでもありますし、雨の日には散策者の足元を泥から守る役割も果たします。(写真2)

更には、飛び石は、その上を歩くだけでなく、庭の一部として眺める対象にもなります。造園家は、飛び石が庭の景観に溶け込むようにして、飛び石の配置によって庭が美し見えるよう工夫します。云うなれば飛び石は庭石の一部になったのです。その典型的なケースが池の端や中に置かれた飛び石です。
(写真3)

そのため、飛び石の配置には色々な並べ型が生まれます。直線的な一本の道では面白みがないので、湾曲させたり、屈曲させたり、石の組み合わせる数を変えたりします。それらの並べ型を大小の不定型な石を不規則に用いて、周囲の自然の風景に調和させるのです。更には、飛び石そのものを美しく見せるために、飛び石を小石で囲んで一本の道に繋げる手法もあります。(写真4)

最後に人工の庭園ではありませんが、大自然の海に造られた飛び石をご覧に入れます。それは江ノ島の周囲の海に広がる雄大な飛び石です。これを飛びあるければ夏でも涼しいですね。
(以上)
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【2012/07/30 13:36】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
花の道を往く
     1.花の道-02D 1206q
                 2.菜の花:お台場-07D 06
                             3.桜-13Pq

歌舞伎では、役者が舞台に登場したり退場したりするときに観客席の中を通る廊下を「花道」といいます。舞台の始まりと終わりを演出する大事な場面ですので、花道と名付けられたのでしょう。その転用ですが、大相撲でも土俵に上がるべく関取が出入りする道を花道と言います。

この花道という言葉を比喩的に用いて、社会的活動や政治的活動から引退することを「花道を飾る」と云います。「終わりよければ全てよし」という諺はシェイクスピアの演劇の題名ですが、要は物事は最後の仕上げが大事だという意味で、引退する人に花道をつくる習慣があります。

これらの舞台や社会の花道では華々しいのが好まれますが、「花道」ならぬ「花の道」は、観客や取巻きなどの人気のない、静けさが大事です。明るくても暗くても構いませんが、空気は麟として清々しく、道が曲がっていて行く先が見えないのが良いです。

そのような花の道に出会えば、行きつ戻りつを繰り返して、長い長い花の道を楽しみます。人影が見えなくなったところで、一枚また一枚と写真を撮るのです。曲がった道を歩いていると、夫々違った花の道の写真が撮れます。

ここは舞台の花道ではありません。況して引退の花道でもありません。従って、ここには来し方の過去はありません。行く末の未来は見えません。ただ、周囲から花々が見守ってくれる中で、今という時間が物音を立てずに流れているだけです。
(以上)
【2012/07/16 10:37】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真で心象風景を撮れるか
                    ガラスの汚れ-04D 1201q

カルティエ・ブレッソンは、絵画は瞑想であり、写真は射撃であると言いました。決定的瞬間を重要視した写真家、ブレッソンには、写真家の作業が被写体を射撃するようなのに、画家の作業は、対象物を熟視して想像力を働かせて感動をキャンバスに再構成すると見たのです。

画家は屡々心象風景を描きますが、心象風景は心の中に思い描いたり、浮かんだりする風景です。多くは現実の風景から触発された風景です。画家にとっては事実をありのまま描く写生よりも、心に浮かぶ映像を描く方が自然であり、更に自由があります。

一方、写真家の方は心のイメージを描写しようとしても、なかなかイメージ通りには写真は撮れません。写真は否応なく事実を写し取りますから、却って不自由なものです。写真家が画家のようにイメージ写真を撮ろうとすれば、画家とは逆に、心のイメージに限りなく近い対象物を発見することから仕事を始めなければなりません。

抽象画家のカンディンスキーやパウル・クレーなどは、具象物から触発された心象画ではなく、抽象物から触発された心象画、音楽的絵画を描いています。写真で音楽会を撮影する事は出来ても、音楽そのものを写すのは不可能です。

ここに掲げた写真は、強い潮風が船の窓に海水を吹き付けて描いた紋様です。背景は島影と空です。この単純化された背景に、塩水が粒となり線となって痕跡を残しています。単調な紋様が限りなく続く船の窓です。この船窓の水滴のリズムは音楽で言えばエリック・サティのそれに似ています。

悪天候の中を行く船の一室で、同一音形を繰り返すサティの「ジムノペディ」を聴いている気分になりました。
(以上)
【2012/07/09 21:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
正面から覗き込んだ花
        1.不知-13D 1205qtc
             あじさい-10D 1206q
                  テッセン-01D 1206q
                       ハマヒルガオ-03D 1205qtc
                            牡丹-07D 0801qt

生け花では、種類や姿形の違う花を選んで組み合わせ、全体としての美を楽しめるように生けます。生け花には一輪挿しというものもありますが、やはり生け花は組み合わされた集合の美を楽しむものです。そして、最も美しく見える視点が一点だけという生け方もありますし、視点を移動して美しさの変化を楽しむ生け花もあります。

他方、花一輪の中に潜む美しさを発見する楽しみ方もあります。

アメリカ近代写真の父と言われたスティーグリッツの妻、オキーフは画家でしたが、彼女が描いた花「二本のカラ・リリー」「紅いカンナ」「ピンク・チューリップ」は花びらの部分を画面いっぱいに描いています。

オキーフが発見した花の美は、複数の花を集団としてではなく、更には一輪としてでもなく、一輪の部分の中でした。そして言いました。「自分が(美しく)見たように、他人にも見て貰いたい」と。オキーフのこの手法は、これは私の推測ですが、夫スティーグリッツの写真から学んだと考えます。アップで写真を撮るときには、フレーミングに収まらない部分は切り捨てて、美の核心部分を切り取るからです。

生け花のように組み合わせて美を造形するのも良いですし、また画家オキーフのように花の部分の造形美を取り出すのも良いですが、一輪の花は、一つの美の宇宙を形成していますので、そののまま素直に眺めて楽しむのが最良だと思います。

一輪の花の造形美を発見するのは簡単です。正面から覗き込むことです。しかし、この場合、生け花を観賞するように、視点を移動しながら最も美しい一点を探すのです。最も美しい一点が花の正面です。上にその写真を掲げます。
(以上)
【2012/07/02 17:30】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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