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波の彫刻
1.海面-02P 96t
写真1
2.浜の模様-14D 1202qtc
写真2
3.浜の模様-01D 0909q
写真3
4.浜の模様-02D 0909q
写真4
5.浜の模様-23D 1205qtc
写真5
6.浜の模様-24D 1205q
写真6
7.浜の模様-19D 1205q
写真7
8.浜の模様-20D 1205q
写真8

水面に浮かぶ波紋は常に形を変えて同じ姿を続けません。投げ込まれた石で生まれる波紋は同心円を描いて広がり、風で生じた波紋は相似形で移動します。水面の波紋は、時に光を反射して美しく輝きます。(写真1)

その波紋は、絶え間なく変動し、やがて消えていきます。消える前に美しい瞬間を捉えて固定できるのは、優れた画家の目か写真機だけです。

しかし、優れた画家でなくても、また写真機を持っていなくても、水面に浮かぶ波紋を固定して見ることができる場所があります。それは、程よく泥土を含んだ静かな渚です。打ち寄せる波の動きが粘土質の砂浜に彫刻されるからです。

東京は葛西海浜公園の西なぎさ島の浜辺で、それを見つけました。同じ浜辺でも寄せては返す波の働きは日によって、季節によって、年によって違います。それは年月を変えて同じ場所を訪ねてみれば分かります。

海水が退き始める頃、海面に一部が浮かび上がる砂地の彫刻は、浮き彫り細工の波のレリーフのようです。(写真2)

窪みにまだ海水が残っている砂地の彫刻は、光を発してみずみずしく見えます。場所により波の動きが違うので、或る場所ではきめ細かい波跡が残り、或る場所では渦巻く波跡が残ります。(写真3、4)

やや遠くから渚の彫刻の全体を眺めていると、次から次への波が打ち寄せる広い海原をイメージすることが出来ます。(写真5)

それを拡大した部分で見ると、細長い波跡は不規則に揺れて、接触したり離れたりしています。動いている海の波を固定すると、このような複雑な運動を繰り返していることが分かります。
(写真6、7)

時には、波は高度の技法を駆使して、波頭を鋭く持ち上げた彫刻を残します。そう言えば葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の版画を見ると、波頭は鋭い牙を剥いていました。(写真8)
(以上)
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【2012/06/25 21:57】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
雨上がりの朝の散歩
1.落ち葉-14D 1206qt
            2.落花-01D 0805qt
                        3.落花-05D  1204qc
                                    4.落花-06D  1206qtc

梅雨の季節でも早起きして緑の多い歩道を散歩すると、しっとりとした空気にふれて、すがすがしい気持ちになります。足元を見ると、歩道には昨夜落ちた花びらや木の葉が散っていて、思わぬ地上絵を見つけます。

昨夜の雨は風を伴ったので、残っていた花びらは吹き落とされ、弱い葉は引きちぎられました。散らばった花びらと葉っぱは、青々と元気になった苔の上に、水を含んで黒ずんだ土の上に、洗い流されて綺麗になった岩の上に、明暗のある市松模様の敷石の上に、巧まずして撒かれていました。

朝日が昇って大気の湿気を追い払い、陽光が路上に降り注ぐまでの暫くの間、この地上絵は道行く人々を楽しませてくれます。早起きは三文以上の得でした。

(以上)
【2012/06/19 18:43】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
感動を与える被写体
19世紀に写真が世の中に現れた当時は、誰も写真を芸術とは考えませんでしたが、今では写真が芸術たり得ることを疑う人はいません。

芸術は感動を表現するものですから、芸術写真とは感動を捉えたものです。感動を捉えるには、感動は何処にあるか、感動は如何に生まれるかを知らねばなりません。

私たちは自らが生きるが故に、生きているものに同感し、共感し、それが高まれば感動します。J.デューイはその著書「経験としての芸術」の中で、最も強く生きている状態とは、混乱から調和へ移りゆく過程に見出されると言います。完成した世界では睡眠と覚醒のけじめもないと言い、逆に混乱した世界にあっては外界との葛藤さえもないと言います。

しかし、生命感覚が感動を呼ぶのは、生成発展のときだけではありません。志賀直哉の「城の崎にて」は、大怪我の後、城崎温泉で療養中に虫などが死ぬ有様を描いた一種の心境小説ですが、死にゆく過程、即ち調和から混乱に移りゆく過程にも感動があることを示しました。破滅型の私小説家の作品にも多くの人が感動するのもそのためです。

ですから生成発展するものと衰退死滅するもののどちらを被写体に選んでも感動する写真が撮れるのですが、私の経験では、自然界のものは前者に多く、人工物では後者に多いように思います。植物が発芽する姿に美があります。崩れかけた家屋にも美があります。

ところで、写真は真を写すと書きますから、感動を写した写真は真実を写し取ったものかと言うと、さにあらずです。司馬遼太郎は、芸術とは理想化された嘘の体系だと言います。写真も芸術になるためにフィクションであって構いません。感動を伝えられれば真実も虚構もないのです。
(以上)
【2012/06/10 08:23】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
豊かに表現する樹皮
          1.樹皮模様-70D 1202q
                                   2.樹皮模様-71D 1202qc
          3.樹皮模様-73D 1202q
                                   4.樹皮模様-72D 1202qc

人は樹木の花や実、枝振りや幹、更には林や森の姿を美しいと言って観賞しますが、樹幹の地肌については余り関心を持たないようです。

しかし樹種によっては誠に表情豊かな地肌を見せてくれる木があります。ここに掲げた4枚の写真は、一本のプラタナスの樹幹の紋様です。

地肌の紋様の中には人間や鳥獣が潜んでいます。彼らは互いに見つめ合ったり、追いかけっこをしたり、こちらを見たりしています。

アヒルや豚、会話する学生、鳥の親子、走ってくる犬が見えませんか?

そして,なお細かくみると、鳥獣の体の中にも鳥獣が住むと言う二重構造になっていますから、絵柄を追っていると目が回ります。

鳥獣が潜む白い紋様を見詰めるだけでなく、鼠色の紋様にも注目すると、そこにも鳥獣は潜んでいます。白い鳥獣と鼠色の鳥獣が組み合わされて、プラタナスの樹幹に描かれた絵は更に複雑になります。

ゲシュタルト心理学では、人間の知覚は、把握した部分の全てを集合しても全体を把握したことにならない、全体の把握は、部分を総合計するという手法ではなく、全体を一括して捉える別の視点が必要になると言います。

物を見るとき、人は必ず物と一緒に背景を見ています。この場合、物が「図」なら背景は「地」です。プラタナスの樹幹の絵では、白い部分が「図」であり、黒い部分が「地」ですが、図と地の関係を逆転させて見ると、全く違った世界が見えます。

「図」と「地」を逆転させるには、紋様の部分を見ていては不可能ですが、木の紋様を全体として眺めると、突然違った世界に変化するのです。これが別の視点という意味です。

樹皮が見せる複雑な表現は、柔軟にして闊達であり、人間が創造するデザインの及ぶところではありません。

その精妙さに見とれて、長い間プラタナスの樹幹にカメラを近づけていたら、通りがかりの人から珍しい虫でもいるのですか、と声を掛けられました。

「はい、この木には珍しい虫が沢山住んでいるのです」と答えました。
(以上)
【2012/06/01 09:07】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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