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人々の色彩感覚は自然が創る
                    靖国通-04D 0611q

身に纏う衣裳は他人に見せるためのものですから、周辺の人々の趣向を反映するものです。周辺の人々とは、街の人々であり、更に国民や民族の趣向を反映するものです。

日本人は原色を好まず中間色を好むと言われます。また、多彩な色よりもモノトーンを好むと言われます。それでいて、単純さの中に複雑な色合いが含まれたものを好むと言われます。

欧州など緯度の高い国々では春と夏は短くて、一年は四季ではなく夏冬の二季と感じられます。南国では hot season と hotter season と hottest season の三季であると冗談を言います。しかし日本の四季は、程よい長さで一年が四等分されています。

日本は四方海に囲まれていますから海水温の影響で夏冬の寒暖の差が少なく、そのお陰で自然は四季を通じて穏やかに変わります。そのために、日本の国土には多種類の植物が多様に生育するので、植物が産み出す自然の色彩も多種多様になります。

日本列島では夏には台風が襲来し、冬には日本海地方に豪雪が降るなどの激しい時期もありますが、総体的に見て降雨、降雪の気象は穏やかです。そして日本は全国的に降雨量が多いので空気が湿潤です。そして時雨(しぐれ)、氷雨(ひさめ)、春雨(はるさめ)という言葉が示すように、気象の変化は緩やかです。

霧(きり)、靄(もや)、霞(かすみ)などの言葉は、雨になる前の水滴の変化が作り出す光景ですが、晴天と雨天との間に生じる微妙な気象の変化は、多種多様な自然の色彩に更に濃淡の変化を与えます。

このような自然環境に慣れ親しんできた日本人は、数百年、いや数千年に亘って自然の色彩感覚を刷り込まれて来たのでしょう。それが衣裳の色彩の好みに現れるのです。

ところが、街の景観となると、日本人の衣裳への趣向は生かされていないようです。江戸時代までは人の衣裳も街の衣裳も同じでした。しかし、明治の近代化が始まり、西洋文化が入ってくると、伝統的な街の建物の色彩は乱れ出し、戦後は益々その傾向が激しくなっています。

日本が手本とした欧米の都会では、街の建物の色は単調であり、けばけばしい広告なども少なく、街路は全体として地味な色彩で統一されています。その理由は、西欧では街の主役は道行く人々であり、街の建物は舞台装置であるとの考え方があるからだそうです。

確かに、衣裳は人に見せるものですから、屋内よりも屋外でその真価を発揮します。折角の衣裳の色彩も、街中の建物のけばけばしい色彩で打ち消されては、着飾る意味が無くなります。

写真は新宿の靖国通りの街路風景です。これを放置して苦情一つも出ない現状を考えると、日本人古来の色彩感覚は麻痺してしまったのかと嘆きたくなります。
(以上)
 
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【2011/08/31 12:09】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本刀は美術品
          上山城-06D 0811q 
          写真1 山形県上山城にて
                              刀剣博物館-07D 1101q
                              写真2 東京の刀剣博物館

東京は小田急の明治神宮参宮橋駅近くに刀剣博物館があります。閑静な住宅街の奥まったところにある博物館ですが、地図を片手に刀剣博物館を探す外国人たちを屡々見かけます。日本刀は今でも外国人に人気があるようで、来館者の半数近くが外国人だそうです。

日本刀が外国人に人気がある理由は、日本刀が良く切れる刀であったからだと聞いたのは意外でした。その理由は、蒙古襲来のとき、当時の鎌倉武士は勇敢にこれを迎え撃ち、日本刀で蒙古兵を鎧兜ごと切り捨てたとの記述が西洋の戦記にあるそうです。

蒙古の騎馬戦法にさんざん脅かされた歴史をもつ西洋人にしてみれば、強力な武器としての日本刀に興味があるのかも知れませんが、本当は日本刀は実戦的な刀ではありません。日本刀は優美ですが造りは華奢ですから大勢の敵兵を何人も続けて斬り倒すことは出来ないそうです。

実戦的と言えば、むしろ中国の青竜刀(せいりゅうとう)やトルコやアラビアの彎月刀(わんげつとう)です。青竜刀や彎月刀は刃が湾曲していますが、斬るにはこれが良いのです。日本刀は直線的で、刃に反りが少ない剣ですから、突くには良いですが斬るのには向いていないのです。

日本の戦いでは、戦国時代までは大軍が合戦をくり返すような集団戦ではなく、個人または少人数の斬り合い程度でした。即ち、日本刀は、一対一の戦い、一騎駆けの戦いに使われたのです。

それ故、敏捷な太刀さばきが求められますから、軽量で操作性に優れているものが好まれました。力で斬るのではなく技で斬る日本刀は、その姿形まで優美に造れたのです。

しかし、一見華奢に見える日本刀は「折れず、曲がらず、良く切れる」刀だと云われます。その理由は、刀の素材である鋼の質を高めたことにあります。鋼を組み合わせ、焼きを入れて強靱にしました。刀工たちは、その製造工程の中で美を求めたのです。

最初は、武器としての興味で刀剣博物館を訪ねてきた外国人も、見ているうちに工芸品として観賞をして帰るのではないでしょうか。日本刀は武器でありながら工芸品としての美しさを持つものとして理解されれば幸いです。
(以上)
【2011/08/24 17:33】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本の建築家の挑戦 隈研吾
                 東京ミッドタウン-40D 0808qr

「負ける建築」で世界に勝つ!という見出しのテレビ番組に、いま国際的に注目されている日本の建築家、隈研吾が出演するというので視聴しました。そこで日本の建築家が何故世界から注目されるのかを考えて見ました。

20世紀初頭に誕生したモダニズム建築は、コンクリート、ガラス、鉄という新建設資材に支えられた建築を残しました。その後、ポストモダンとして伝統的な、或いは民族的な建築の試みが行われましたが、大きくは新建設資材への依存或いは制約から脱却出来ずに、モダニズムの潮流は依然として根強いものがあります。

その中で、日本の建築家、丹下健三、黒川紀章、磯崎新、安藤忠雄、伊東豊雄などは、西欧的モダニズムに日本的な要素を加えて、国際的な注目を浴びました。日本的要素とは何かと言うと、構造やデザインの単純化であり、巧みな自然光の活用であると思います。

西欧的モダニズムをベースにして、それに日本的単純化や自然光の活用を加えた点に関しては、上述の日本建築家たちは皆同じ範疇に入ると思います。しかし、隈研吾だけは違いました。逆に日本伝統の建築をベースにして、西欧的発想に通じる建築を目指したのです。

嘗て隈研吾は、次のような趣旨のことを語っています。
ヨーロッパの伝統的な都市が美しいのは、新しい建築技術や新しい建設資材が未だ存在しなかった時代の都市だからであり、そのお陰で調和した都市が生まれ、かつ長く維持されたのである。一旦新技術、新資材が利用出来るようになると、アメリカのマンハッタンのような都市が出来てしまうと。

隈研吾が次々提案する建築には、日本の伝統的な建築に普遍性を与えて、西欧社会にも通用する建築を造り出そうと言う意図があります。そして、具体的には日本の伝統的な神社建築や町屋造りの技法を取り入れながら、建築物を全体としては建設現場の自然環境と調和するよう工夫しています。

テレビに登場した隈研吾は語っています。
挫折を味わった後、友人に誘われて訪ねた高知県檮原町で棚田を見て、人工物と自然との調和を美しいと思ったと。建築も棚田のように自然の一部にならねばと。

その高知県檮原町での「雲の上のホテル」「木橋ミュージアム」は自然との調和を意図した建築です。その建設資材も地元の杉材であり、井桁に組んで重量を支える建築技法も伝統的工法です。そして下から見上げる美しさは日本建築の良さだと言います。

写真は、隈研吾が設計した東京ミッドタウン内のサントリー美術館の外観です。透けて見える経格子の壁にも単純さと自然光の手法が生きています。

現在改築中の歌舞伎座も隈研吾の設計によるものです。テレビで隈研吾は新しい歌舞伎座は瓦屋根の重厚感を残して都市と一体的なものにしたい、と語っていました。完成が楽しみです。
(以上)
【2011/08/18 08:29】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
西洋音楽の普遍性
          旧東京音楽学校奏楽堂-10D 0806qt
                              旧東京音楽学校奏楽堂-08D 05qr

今では、日本人はクラシック音楽の世界でも大いに活躍しています。世界的に有名になった小澤征爾のような音楽家から、日本では無名でも欧米のステージで高く評価されいる演奏家は沢山います。

明治維新を成し遂げた政府は、西欧列強に追いつくことを至上命題として軍事、経済の面で西欧の制度、技術などを熱心に導入しましたが、同時に文化面でも西洋の優れたところを吸収しようと努力しました。その一つとして明治20年(1887)に東京音楽学校(東京芸術大学の前身)が設立され、西洋音楽の教育はその時に始まったのです。

それから120年余りの歳月を経て、職業音楽家だけでなく西洋音楽を楽しむ一般の日本人の数も大いに増えました。今の日本では、西洋音楽の演奏会は頻繁に開かれています。人気のある楽団や演奏家のチケットは忽ち売り切れます。

このように、クラシック音楽は広く日本人に受け入れらましたが、日本以外の非西欧社会でも西欧のクラシック音楽は広く受け入れられています。西欧のクラシック音楽は、その他の民族音楽よりも、よりグローバルに受け入れられていると思います。

何故クラシック音楽はグローバルな音楽、即ち人類共通の普遍的な音楽になれたのでしょうか? 

西洋音楽の研究者によると、西洋社会に伝わっていた色々な音楽は18世紀の偉大な作曲家バッハの音楽に流れ込み、それ以後の西洋音楽はそのバッハの音楽から流れ出たと言います。

そのことから今日のクラシック音楽はバッハから始まると言われるのですが、そうだとすると、西欧のクラシック音楽の歴史は、世界の多く民族音楽の歴史に比べると、たった2百数十年余りと非常に短いことになります。

クラシック音楽が極めて短い期間に急速に発展し、世界の普遍的音楽としての地位を確立したのは如何なる事由によるのでしょうか?

その第一の事由は、クラシック音楽が楽譜という共通の記録手段を持ったことです。そして、第二に数学的緻密さを以て音楽発展の可能性を追求してきたことです。第三には、弦楽器、管楽器、打楽器などの多様な楽器の技術進歩に支えられてきたことです。

世界の民族音楽は、長い時間をかけてその国の人々に親しまれ育まれます。従って民族音楽の多くは個性的なものであり、クラシック音楽のような事由に恵まれなければ、他の国々へ急速に普及することはありません。

勿論、クラシック音楽でも作曲者が自国の民族音楽を取り入れて作曲することは屡々ありました。すると民族色豊かなクラシック音楽が誕生しますが、それでもその曲は間違いなく普遍性のあるクラシック音楽であり、伝統的な民族音楽とは違うものです。

文化は国や民族の中で育まれます。そして、その固有の文化が他の国や民族に受け入れられると、普遍性を獲得します。そしてグローバル化した文化は人類共有の文化になります。

こうして西欧で生まれたクラシック音楽は、今や人類の共有財産として世界の人々に喜びと楽しみを与えているのです。

写真は、旧東京音楽学校奏楽堂を正面から撮影したものと、内部の演奏会場の風景です。この奏楽堂は東京音楽学校の演奏会場として明治23年(1890)に建設され、昭和59年(1984)に上野公園内に移設されました。現在でも東京芸術大学の学生により演奏会場として使われています。
(以上)
 
【2011/08/12 21:38】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
折紙細工は日本の文化産業
        いせ辰江戸千代紙屋-01D 0803q

                            いせ辰江戸千代紙屋-09D 1108qr

折紙は日本伝統の手芸ですが、ヨーロッパにも独自に発達した折紙手芸があります。しかし、Origami という言葉が欧米でも通用するようですから、日本の折紙技術の水準は国際的にかなり高く評価されているのでしょう。

日本では古く室町時代に千羽鶴の折紙が作られたとのことですが、折紙は指先の器用な日本人が得意とするところでした。今では遊技のための折紙が殆どですが、昔は儀礼に使う熨斗(のし)も折紙の重要な産業分野でした。

私達がよく目にする折紙は、鶴などの動物、雛祭りの人形や五月の節句の兜、あるいは花などの植物ですが、その後、折紙のモデルは工業製品にも広がります。紙飛行機などは子供達に愛された折紙です。

折紙に使われる色紙は千代紙(ちよがみ)とも言いますが、これは「いせ辰」という幕府御用達の商店が、千代田城(江戸城の別名)に納入していたことから名付けられたとのことです。

「いせ辰」の千代紙は、柄と色が美しかったので、千代田城内の女性達に大変好まれたそうです。「いせ辰」は今でも東京は谷中で店を開いています。その伝統工芸品は西欧人の東洋趣味に訴えるところが大きいのでしょう。外国人の客も訪れています。

折しも、日本食、日本嗜好の小物、日本漫画など、私たち日本人が特に国際性を意識しない身の回りの日用品が、クールジャパンと言われて世界的にもて囃されている時代です。

折紙が Origami と呼ばれて既に久しいです。日本の折紙は、形態の繊細さと多様な絵柄と色彩で、クールジャパンと言われるのに相応しい文化産業です。Origami はこれからも日本の伝統的美を顕わすものとして 世界から愛されるでしょう。

写真は上野谷中にある「いせ辰」のお店です。
(以上) 
【2011/08/03 11:54】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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