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日本の家屋 襖と障子戸とガラス戸
                                 烏山寺町:妙寿寺-02D 0805q
                                 妙寿寺の庫裏 全景 
          烏山寺町:妙寿寺-06D 0805q
          妙寿寺の庫裏 
          一階の廊下外側にはガラス戸と障子戸が併せて設置されている。

障子(しょうじ)戸は字義通り遮る戸のことです。従って、昔は襖(ふすま)戸のことを障子戸と言いました。今の障子戸は平安時代に「明かり障子」として襖戸から分離したものです。

障子には、襖ほどの遮断性はありませんが、さりとて外を見通せる透明性もありません。しかし障子には、部屋の内側を外気と遮断しながら、明かるさだけを取り込む働きがあります。何故なら白い紙の障子には、光の拡散効果があるからです。

昔、部屋と部屋の間の仕切りや目隠しをする家具に御簾(みす)がありました。高貴な人を直接見ることは失礼ということで、御簾越しに面談することが天皇家や貴族の間では良く行われていたそうです。

障子は、御簾に似ていますが、目隠しをするよりも、明かりを採り入れることが目的でしたから、部屋と部屋の間ではなく、外界と部屋の間で使われました。しかし、障子戸は雨に弱いので、廊下の外側に雨戸を、廊下の内側に障子戸を設置しました。

明治時代にガラスが輸入されると、雨戸の代わりにガラス戸が使われるようになります。ガラス戸は音と熱を遮断しますが光は通します。それで障子戸は不要になったかと言うと、さにあらず、依然として廊下と部屋を仕切るのに障子戸は使われ続けました。

それは障子戸が通す光は、ガラス戸が通す光とは違って柔らかだからです。透明なガラスにキズを着けた曇ガラスは、障子戸の光の拡散と同じ効果を狙ったものですが、やはり障子戸には敵いません。

しかし障子戸では、戸を開けないと外界が見えません。そこで、ガラス戸と障子戸とを併せて取り付ける家屋も現れました。素通しで外を見たいときは障子戸を開け、柔らかな光を求めるときは障子戸を閉めるのです。

その家は世田谷烏山の妙寿寺の境内にありました。それは僧侶が居住する庫裏(くり)と言う建物です。この庫裏は明治時代の政府高官の屋敷であったものを移築したものだそうです。その一階の廊下の外側にはガラス戸と障子戸が併せて設置されています。(写真1、2)

日本列島は雨は多いですが寒冷地ではないので、家屋を建てるとき壁よりも屋根を重視します。従って、西洋建築では熱を遮断する壁は省略できませんが、日本建築では壁のある場所を色々な遮蔽物で仕切ることができます。

四季の変化に富んだ日本では、部屋の仕切りにも変化に応じた手段が用意されており、今なお日本建築には襖と障子戸とガラス戸が同時に使われているのです。
(以上)
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【2011/07/27 16:49】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
教会建築は進化する
                    東京カテドラル大聖堂-03D 1002q
                       東京カテドラル大聖堂-05D 1002qr
                    東京カテドラル大聖堂-09D 1002q

王宮や城塞は世俗の権力を誇示するために建設しますが、神社、寺院、教会、モスクなどの宗教建築は信仰の権威を示威するために建設されます。

宗教建築は、宗教権威を高めるためのものであると同時に、そこは信者たちの祈りの場所でもありましたから、その資金は熱烈な信者たちの寄付によって集められました。

宗教建築には、夫々の宗教の思想と共に夫々の民族の美意識が反映されています。そして夫々の宗教建築には固有の様式が受け継がれていおり、一旦生まれた様式は長い間維持されています。

しかし、キリスト教の教会建築だけは、他の宗教建築と違って新しい建築様式を柔軟に取り入れているようです。と言いますのは、これまでは教会建築の主流は中世に確立したゴシック様式でしたが、近世になってその伝統に囚われない斬新な様式の教会が、世界のあちこちで建設されているからです。

アール・ヌーヴォーの建築家、ガウディが設計したサグラダ・ファミリア聖堂(バルセロナで19世紀末に着工し、現在も建設中)は、規模の大きさと、構想の斬新さで世界中の人々の注目を浴びました。

モダニズムの建築家、ル・コルビュジエが設計したロンシャンの礼拝堂は、貝殻のようなうねりのある屋根が特徴的で、空に聳える従来のキリスト教的な建造物とは全く異なっています。

既成の教会建築の様式から大きく踏み出した、美意識溢れる教会建築は、日本でも近年見ることが出来ます。

大阪府茨木市の「光の教会」は安藤忠雄が設計したものですが、彼が得意とするコンクリート打放し方式が初めて採用されて、コンクリートの壁に空けられた十字架の割れ目から外光を取り入れる幾何学的なデザインがユニークです。

西洋の教会建築では、室内の照明は色彩豊かなステンドグラスで彩られますが、「光の教会」の照明が太陽の自然光というのも、日本的な簡素さでユニークです。

もう一つの斬新的な教会建築として、丹下健三が設計した東京カテドラル聖マリア大聖堂があります。建物全体をステンレス・スティールで覆った姿は、一見すると教会と言うよりもモダンアートの作品のようです。

建造物を真上から俯瞰すると十字架の形となっていますが、横から眺めるとゴティック建築風の直線美ではなく、湾曲した局面が構成する建物の稜線は、見る角度によりダイナミックに交差して、芸術作品を見るかのようです。

世界の宗教建築の中で、キリスト教の教会だけが伝統様式を大胆に変化させる理由は、エネルギッシュな宗教活動の外的表現なのかも知れませんが、信者でない人々にとっても、パブリックアートとして観賞できる教会建築の出現は有り難いことです。

上の三つの写真は、東京カテドラル聖マリア大聖堂を色々な角度から見たものです。下の写真は夕日を浴びて金色に輝くきらびやかな聖マリア大聖堂です。
(以上)
 

                    東京カテドラル大聖堂-01D 0710qt
【2011/07/21 21:41】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
田舎の小さな土蔵
                    土蔵-01P 98(地方圏:夏井川)

日本は森林に恵まれた木の国ですから、家は木造が一般的でしたが、外壁を泥土で塗り固める工法は、中世からあったと言われます。それは防寒、防暑のためと言われています。

江戸時代には密集した木造の街は火災に弱かったので、幕府は防火のための土蔵造りを奨励しました。しかし土蔵造りには費用が掛かりましたから、蔵造りの家は資産家や商家の家に限られました。

江戸時代からあった土蔵造りの建物は、東京市街地では近代化のため壊されていきましたが、地方都市では未だかなり残っています。

東京近郊では、川越の街にある蔵造りの商店街が有名です。これらは明治の大火で消失した後に建てられたもので、余り古いものではありませんが、明治に再建されたものでも江戸時代を想起させるからでしょう、今や観光地として多くの人々が訪れます。

蔵造りを観光の目玉とした街では倉敷が有名です。倉敷は江戸時代からその名前の通り蔵屋敷の街でした。街には水運のための水路が通っており、蔵はその水路沿いに連なって建っていました。掘割に並ぶ柳並木は、川越の商店街とはひと味違った風情です。

ラーメンで有名な福島県喜多方市にも蔵の街があります。ここの蔵の街は、内陸盆地の激しい気温の変化に備えて生まれたものなので、今でも実生活に使われています。蔵を改造したラーメン屋に入ると、蔵造の内部を見学出来ます。

市街地だけでなく農村地帯にも蔵はあります。煉瓦造りのように立派な蔵ではではありませんが、藁を混ぜた赤土で練り上げられた、正に土蔵というものを福島の田舎で発見しました。

今でも農作物を貯蔵する土蔵として使われているようでして、農家の庭先にポツンと立っている姿を見て、日本の蔵の原型を見る思いがしました。
(以上)
【2011/07/14 20:47】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人間はよく生きているか?
                     黴-01D 1104q
                  黴-10D 1106qt
                   
ウイルス学者で、医の倫理についても造詣の深い、故川喜田愛郎千葉大学教授は、生物の生き方について、面白い分類をしておられます。

川喜田教授によれば、生物の「生きる」方法には異なる段階があると言います。それは「ひたすら生きる」「巧みに生きる」「弁(わきま)えて生きる」「良く生きる」と言う四段階があると言うのです。

ウイルスは生物と無生物の間の生きものですが、観察しているとウイルスはひたすら生きていると言うのです。それが動物になると巧みに生きるようになり、更に高等動物になると弁えて生きる術を憶えると言います。そして人類は、良く生きようとする動物だと言うのです。

これを私流に解釈すれば、弁えて生きる高等動物は身の程に合った生き方で留まるのですが、良く生きる人間は身の程を越えて理想を求めて生きる動物と言うことになります。近代科学の発達は、理想を求めて生きてきた人類の努力の賜でしょう。

他方、人は、理想を求めて躓き、悩み、悲しみ、怒りを経験します。しかし「良く生きる」とはこれらの全てを乗り越えた暁の心境でしょう。

孔子は論語で「われ、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳順い、七十にして心の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」と言いました。

そうすると、川喜田教授の言う「ひたすら生きる」「巧みに生きる」「弁えて生きる」「良く生きる」と言う四段階は、孔子の言う何歳の相当するのでしょうか?

十有五歳は「ひたすら生きる」であり、四十歳は「巧みに生きる」であり、五十歳は「弁えて生きる」であり、七十歳は「良く生きる」と言うことになります。

しかし、現実は高齢に達しても「良く生きる」ことは難しいもので、多くの高齢者は躓き、悩み、悲しみ、怒りを経験し続けています。

写真は、大きな岩に繁殖した黴(かび)の生態です。
彼らは「ひたすら生き」て来たのですが、岩石の表面を使って「巧みに生き」ており、岩石から飛び出すことなく「弁えて生き」ています。この状態では「良く生き」ているか否かはわかりませんが、少なくとも、その姿は芸術的ですらあります。
(以上)
【2011/07/09 21:11】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
恋は目より入る
                   千鳥が渕-04N 03c
                      恋人-01D 1104qt

アイルランドの詩人イェイツは「酒の歌」で詠みます。
  酒は口より入り、恋は目より入る
  われ杯を口にあげ、君を眺めて嘆息す

一目惚れという言葉がありますから、やはり恋は目から入るもののようです。

小説「若きウェルテルの悩み」は、ゲーテが少女ロッテに一目惚れし、彼女が親友の許嫁(いいなづけ)であることを知り、悩んだ体験をもとに書いた小説です。ゲーテは悩んだ末、少女のもとから去りますが、小説では一目惚れの激しさを主人公の自殺で締めくくりました。

画家シャガールは故郷ベラルーシのヴィテブスクで13才の少女ベラの瞳を一目見て、将来の伴侶と決めたと書いています。数年パリで絵の勉強をしたのち故郷に帰り、ベラと結婚します。二人が空中に浮いてキッスしている「誕生日」というシャガールの絵画は、一目惚れの心境を絵にしたものでしょう。

フランス語では一目惚れのことを「雷鳴の一撃」と言います。この言葉は、目と目が合い、火花が散り、一種の神憑り的な心境を表しています。

しかし、日本文学の古典、源氏物語では、確かに一目惚れが描かれていますが、光源氏の表情と行動は間接的であり慎重です。一目惚れの表現にも洋の東西で違いはあるようです。

文学作品の中や芸術家だけが一目惚れをするわけではありません。私達も若いときは一目惚れの経験はしています。恋は盲目と言いますが、人は分別がつくようになると一目惚れする機会は少なくなります。二人の生活環境を想像できる年頃になれば、高嶺の花だと諦めるからです。

でも、やはり分別のつかない頃の初恋はいいものです。鉄棒の留まって皇居のお濠を眺めている若い二人、神社にお参りしてお神籤を読んでいる若い二人は幸せです。目から入った恋を、相手の目の中に確認しなくても安心できる二人は幸せです。
(以上) 
【2011/07/01 12:40】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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