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腐食の美
1.紋様-04D 0908q
            2.壁のひび割れ-02D 1010qc
                      3.第五福竜丸船腹模様-02D 06
                                4.木戸-03D 06

魚は新鮮なものほど美味しいですが、肉は少し熟成した方が美味しいです。腐る寸前の肉はなお美味しいと言う人もいます。

新築の建物はピカピカで綺麗ですが、古い建物は古色蒼然として一種の風格があります。新築の建物は形態に工夫をこらしても何処か皆似たように見えますが、時代を経た建物は形態は似ていても夫々が個性的に見えます。

それは時代を経た建造物は、その表面の材質が変化して、いろいろな表情をしているからです。石でも鉄でも木でも、その表面は腐食という作用で複雑に変化して、同じものは一つとしてありません。

腐食は酸化や黴の働きで進行しますが、結果として表れる姿は千差万別です。規則的なリズムのある形もありますが、不規則な形が多いです。しかし、一見不規則に見えても、相似形や逆相関形というリズムを持っています。

幼い子供が音楽に合わせて無意識に踊ることがありますが、これはリズムが感動を呼ぶからです。音楽でも絵画でもその表現にリズムのない作品は感動を与えません。

芸術家は感動の表現者ですが、その表現者が存在しないのに、自然にリズムが造り出されるのは不思議なことです。腐食が作り出すリズムは、人工的なリズムよりも複雑であり、観察していると新たな発見があり、飽きることがありません。

ここに並べた腐食の写真は、おや!と思ってシャッターを切ったものです。どうと言うことはないさ、と言われるとそれまでですが、私には何故か引っかかるものがあって、保存して置いた写真です。

敢えて腐食の美と題して考えてみました。
(以上)
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【2010/12/24 22:38】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
初冬まで粘り抜く草木
     日比谷公園-40D 1012qtc
     写真1 日比谷公園の銀杏
                  代々木3丁目-02D 1012qtc
                  写真2 西参道通りの銀杏並木
                              日比谷公園-36D 1012qtc
                              写真3 日比谷公園の石蕗

今年は12月半ば過ぎても、銀杏は緑色から黄色の葉をいっぱいにつけています。ひょっとすると、新年を迎えても銀杏の黄落を目にするかも知れません。(写真1、2)

秋の花で遅くまで咲く石蕗(つわぶき)も、例年は11月に姿を消します。しかし、今年は12月半ばを過ぎても石蕗は黄色い花を盛んに咲かせています。(写真3)

銀杏や石蕗が遅くまで元気なのは、今年の夏の酷暑とそれに続く秋の残暑のお陰で、例年より多くの太陽エネルギーを受けたためでしょう。 

今夏の酷暑では果樹が大きな影響を受けたと聞きます。暑さで甘みが増すと思ったのですが、さにあらずで、収穫量が減り、粒も小さくなり、味も落ちたと言います。バラ園のバラも、香りが薄く姿形に精彩を欠いていたのも暑さ故と聞きました。

今年の暑さが野生の草花に影響を与えたとは聞きませんから、どうも人工的に改良されて栽培されている植物は気候の変化に弱いようです。

しかし、銀杏は、植物の進化の観点からは古い時代に属する植物だそうです。それだけ気候変動には強い植物なのでしょう。また、石蕗は日陰に生える多年草なので、暑さには特に強い植物なのでしょう。

年の瀬も迫った今になっても、公園や街路には銀杏が明るく輝き、群生する石蕗が公園の木陰を明るくしています。初冬まで粘り抜く草木が酷暑の贈り物であれば、酷暑も悪いことばかりではありませんでした。
(以上)
【2010/12/18 22:41】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
秋の太陽は銀杏に泊る
   1.上野公園-07D 1012q
             2.谷中墓地-18D 1012qt
                            3.銀杏並木-08D 05qtc

秋になると、太陽は光を和らげて街に明るさが失われていきますが、一つだけ逆に明るくなる場所があります。葉が緑色から黄色に変る銀杏の木が立ち並ぶ街路です。緑や青に比べて黄色は明るい色です。

黄色は太陽の色です。国旗の日の丸では太陽は赤色で描かれますが、普通の絵画では太陽を描く時は黄色です。

例えば、ゴッホの「種まく人」では、背景に大きな黄色い太陽が描かれています。ゴッホは、あの有名な「ひまわり」を描いて、「太陽、光、黄色、なんと美しいのだろう」と言いました。

木々に惜しみなくエネルギーを与えた夏の太陽は、秋にはその光を惜しみなく銀杏に降り注ぎます。恰も、秋になると太陽は銀杏の木に泊まって一休みしているかのようです。お陰で銀杏が黄葉すると、周辺は明るくなります。

秋深くなると銀杏の黄色い葉は地面に落ちます。銀杏落葉のことを黄落とも言いますが、黄落は、暗い地面を明るくします。太陽の光は黄色い落葉の上に直接注ぎます。

上田敏の名訳で知られるポ-ル・ヴェルレーヌの詩「落葉」では、秋の日はうらぶれた悲しみに満ちていると詠っていますが、銀杏落葉には、悲しみよりも輝くような喜びがあります。
(以上)
【2010/12/10 10:20】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
風景は変化するが風景観は変らない
風景を認識するということは二つの意味がありました。一つは自然を知的活動の対象として見る事が出来ると言うことであり、もう一つは美的観賞の対象として見ることが出来ると言うことです。

日本人も西洋人も、この二つの見方で風景を見ていますが、その風景そのものは自然だけで構成されているのではなく、人工物も含んでいます。従って、風景としての山野も農村も都市も、人間が働きかけて造られた、広い意味で加工された風景になります。

東京農業大学の学長で、造園学者でもある進士五十八教授から聞いたのですが、「景観十年、風景百年、風土千年」という言葉があるそうです。

その意味するところは、景観は十年で形成されるが、風景が出来上がるのは百年の歳月を必要とし、風土となるには千年もの蓄積が必要であると言うのです。ここで言う風景の変化は、客体としての風景でしょう。客体としての風景は成長し発展しているのです。

しかし、人間の主観としての風景観も年月とともに変るのでしょうか? 長い年月をかけて自然の影響の下に培われた人間の風景観は、客体としての風景が変っても、なかなか変らないように思うのですが、いかがでしょうか?

例えば、穏やかな四季の変化が造り出す日本の自然に長いこと慣れ親しんだ日本人の色彩感覚は、俗悪な近代建築が増えて都市景観が醜くなっても、壊れることはないでしょう。民族固有の美観は、容易には変らないと思います。

日本画家の東山魁夷は、「風景は人間の心の祈りであり、風景は心の鏡である」とどこかで言っていました。俳人の種田山頭火は、句集よりの随想の中で、「風景は風光とならねばならぬ。音が声となり、形が姿となり、匂いが香りとなり、色が光となるように。」と書いています。

風景が心の祈りになり、風景が風光となるのは、日本人の美観がそうさせるのです。
(以上)
【2010/12/03 15:24】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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