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「ラテ・アート」は飲み物の盛りつけ
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カップに注いだコーヒーの表面にミルクで絵を描く「ラテ・アート」または「コーヒー・アート」と呼ばれる芸術の実演を、先日或るコーヒー店で見ました。

「ラテ・アート」の完成品は写真で見ていましたが、目の前で描かれるのを見たのは初めてでした。カフェラテを注文したら、店員がテーブルにコーヒーを満たしたコーヒーカップを持ってきて、ミルクを注ぎながら見事なチューリップの花を描いてくれたのです。(写真)

友人と二人でカフェラテを注文したので、もう一つのコーヒーカップにも、別の店員が「ラテ・アート」を描きました。あっという間の作業でした。全く予期しなかったサービスだったので、コーヒーの味は、また格別でした。

日本の懐石料理では盛りつで味を演出しますが、「ラテ・アート」は、さしあたり飲み物の盛りつけと言うところです。コーヒーの表面に絵を描いても味が変わるわけではありませんが、描かれた絵を崩さないように少しずつコーヒーを啜ると味わいも深まるというものです。

コーヒーの表面の絵を崩さずにコーヒーを飲むには、カップの飲み口を移動せずに一ヶ所に固定して飲むのが良いようです。同じ箇所に唇を付けて啜るように飲むと、美しい絵は最初の姿を変えません。

カフェ・オ・レはドリップ・コーヒーに牛乳を加えたものですが、カフェラテはエスプレッソに牛乳を加えたものです。しかし、アメリカ式のカフェラテは、牛乳を注ぐのではなく、シューッという蒸気音をたててスチームミルクを注ぎ込みます。この方式では「ラテ・アート」を描くことは無理です。

テレビで見たのですが、西欧のビヤホールで黒ビールのクリーミーな泡の上にハートを描いてサービスしている場面がありました。しかし、ビールの泡では「ラテ・アート」のような繊細な表現は、これまた無理です。

カフェラテによる「ラテ・アート」は国際的に普及しているようで、コーヒーの本場であるヨーロッパでは「ラテ・アート」の技術を競う国際コンテストが行われているそうです。その都度消え去る儚い「ラテ・アート」ですが、コーヒーを飲む人の心には何かが残るでしょう。
(以上)
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【2010/09/30 17:45】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
断面の映像が美しいわけ
          木目-01Pt
          写真1
                              鋼材-01D 0711qt
                              写真2

私は頭部を強打したとき、病院で脳の内部を CT スキャンして貰った事があります。

医者は脳の断層写真を見せながら私に色々説明をしてくれましたが、本当のところ患者の私にはよく分かりませんでした。しかし病気とは関係なく、何枚もの相似形の断層写真を見ていると不思議な形をした映像を美しいと思いました。

生命活動が作りあげる人体の構造には無駄がないのだそうです。それで美しく見えるのだと思いました。同じ理由で樹木の断層に見る年輪も美しいものです。普通、年輪と言うと樹木を横に輪切りにした断面ですが、縦に切断して板状にしても年輪は美しいものです。(写真1)

人体も樹木も、外部から多種多様な影響を受け、内部の複雑な相互作用を経て、自らの内部の組織を造り上げます。動物と植物の差はあっても、そこには無駄が無く、必然の秩序が造り出されているから美しいのでしょう。

ある時、切断した金属鋼材が積み重ねてある倉庫に入り、そこで金属鋼材の断面を見て、これらも美しいと思いました。それは人工物の断面であり、生命体が造り出した秩序ではありません。(写真2)

人工物でも一定の角度で統一して見ると、そこにリズムが生まれます。四角と丸のリズムが面白くもあり、そのリズムが視覚に訴えるから、おや!と思うのです。

そう言えば、動植物の断面の映像が表現する美しさはリズムにあったのです。樹木の年輪が年月のリズムを表現しているように、人体の断面もリズムを構造的に示したものなのでしょう。私達は毎日リズムの中で生きています。心臓も肺臓もリズムを刻んでいます。

断面の映像にはリズムが現れているから美しいと知りました。
(以上)
【2010/09/24 10:33】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
 「行動展」に招かれて
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写真1 柿色の季節(堀 研)
                              2.Cat's Eye(伊藤信義)qr
                              写真2 Cat's Eye(伊藤信義)
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写真3 幹(坂根 巧)
                              4.形状10-8(藤墳博一)qt
                              写真4 形状10-8(藤墳博一)
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写真5 おれは生きている(池田茂雄)
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                              写真6 国立新美術館

秋は芸術の季節です。毎年秋になると上野の美術館に絵画や陶芸や工芸を鑑賞しに行っていた時代がありましたが、最近は途絶えていました。しかし、中学時代の友人から出展したので観に来ないかと誘われて、第65回「行動展」の鑑賞に行きました。「行動展」も初めてですが、展示場の国立新美術館に入るのも初めてでした。

「行動展」は行動美術協会が主宰しています。行動美術協会は敗戦の年(昭和20年)に創設された歴史のある団体で、「二科展」を主宰している二科会と同じく、、在野の画家達が参加して誕生しました。従って、「行動展」も「二科展」も、政府が主導している日本美術展覧会(日展)とは別に開催されています。

先ず、建物の国立新美術館ですが、これは黒川紀章の設計になるもので、ガラス張りの曲線を多用した明るくモダンな美術館です。ただ、海外のナショナル・ギャラリーは、美術館自らが多数の美術品を所蔵していて、研究員などの多様な専門スタッフが働いているのですが、この国立新美術館はそれらがなく、展示場の場所貸しをする美術館です。(写真6)

「行動展」の第一印象は、見慣れた写真展に比べて全ての絵画作品が余りにも大きいことです。これは「行動展」に限らず、「日展」や「二科展」も同じです。数多い出展作品を狭い展示場に展示するので、鑑賞する人にとって大きすぎるのは却って不便です。

出展者が大画面の絵画を描くのは、誤魔化しのない描写力を示すためか、ヴォリュームで迫力を出すためか、門外漢の私には分かりませんが、壁画を描くわけではないので、また、作品の多くは本来は個人が室内で鑑賞するためですから、出展作品の大きさに制限を加えたらよいと思いました。

大きな絵画を間近で鑑賞すると、具象画の場合は近すぎて観にくく感じましたが、抽象画は余り気になりませんでした。抽象画の鑑賞は画面の大きさに余り左右されないためかも知れません。

そんな訳で、抽象的な絵画を中心に鑑賞し、中でも気に入った作品を発見しましたので掲示致します。

写真1 柿色の季節(堀 研)
写真2 Cat's Eye(伊藤信義)
写真3 幹(坂根 巧) 
写真4 形状10-8(藤墳博一)
写真5 おれは生きている(池田茂雄)

柿色の季節(写真1)とCat's Eye(写真2)は題名が内容と一致しているので、それに沿ったイメージを広げることが出来ます。

幹(写真3)と形状10-8(写真4)は、赤の色彩と繰返す形状で、溢れ出る生命力を表現したように感じました。それと対称的なのは、おれは生きている(写真5)でして、原色を複雑な形状で包み込んだところは、人間の呻吟と苦悩を表現しているようです。
(以上)
【2010/09/18 16:36】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
影から想像する楽しさ
                    夕方の湖-01PAtc
                       人影-36P 96tc


影絵芝居は多くの国々で愛好されています。ヨーロッパの国のように子供達の夢を育む演芸として奨励しているところもあれば、インドネシアのように宗教的な神事芸能として重視している国もあります。

ギリシャの哲人プラトンは、我々が日常見ている現実は、実は洞窟の中から影絵を見ているようなものだと言いました。人間は本当の真・善・美は眩しくて真正面から見ることが出来ないので、代わりに影絵で真・善・美の片鱗を見せられていると言うのです。

プラトンが洞窟の比喩で言うように、人間が五感で感知する物事は本物の影に過ぎないとしても、その影の中に本物の世界への手がかりがある筈です。影を見て、そこから本物を想像することは出来る筈です。

そう考えると、影絵芝居と言うのは、プラトンの比喩を逆転させたような効果があります。芝居の舞台は、具象的事物を全て抽象化した黒い線で象った人間や動物だけです。彼らは、舞台での動作や仕草で、人間社会の本質を描いて見せるのです。単純化された影絵ゆえに分かりやすく表現出来ます。

山梨県の昇仙峡に行ったとき、影絵の森美術館を訪ね、藤城清治の素晴らしい作品を見ました。藤城清治は影絵と称していますが、これは影絵ではなく色彩を駆使した光の芸術だと思います。影絵の本質は具象を消すことにあります。そうすると、色彩は不要であり邪魔になります。

黒い線だけで描く具象の形は、見慣れた現実の形と同じでなくても良いのです。デフォルメされ単純化されて、なお現実の形を想像させるものが良いのです。

影から本物を想像するプロセスは、プラトンの言う洞窟に居て真実を探求するプロセスに似ています。影絵芝居を見た後に残るイメージが印象的なのは、想像力を働かせた効果なのでしょう。

これを写真の世界に当てはめますと、色彩豊かな写真よりも、シルエットの写真の方が印象的なことが屡々あります。見る人に想像力を働かせる余地が広がるからです。

また、写真撮影では全ての影像を取り込まずに、写された影像から外された影像を想像させる写真が深みがあると言います。フレームの中からフレームの外を想像させる写真です。

そうは言っても、影から想像させる写真は難しいです。フレームの外を想像させる写真は尚難しいです。拙いシルエット写真を二枚掲げます。
(以上)

【2010/09/11 20:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
パブリック・アート化する都市ビル その二
          1.日生劇場-01D 05q
          写真1 日生劇場ビル
                         2.中央郵便局01N 06r
                         写真2 東京中央郵便局ビル

前回の写真でご紹介したパブリック・アート化した三つのビルは、全て日本人建築家による設計です。三つのうち、De BeersビルとTOD'Sビルは施主は外国資本ですから、日本人建築家は国際的に高く評価されていると言うことです。

しかし、個々のビルが芸術的に優れていて、その周辺の街路の雰囲気を盛り上げる力があっても、その周囲の街の美的環境が劣悪では、掃き溜めに鶴ということにもなりかねません。優れた建築物は、隣接する建築物との相関関係で活きてくるのです。

例えば、日生劇場のビルは外観はかなり装飾的なビルです。建設当時は隣の帝国ホテルはフランク・ロイド・ライトの設計になる旧館だったそうで、日生劇場の設計者はその旧館を意識したと、ある建築家から聞きました。
(写真1)

また、東京駅前にある東京中央郵便局は、高層化するため解体しようとしたら、当時の鳩山邦夫総務大臣から重要文化財として保存せよとクレームをつけられました。確かにブルーノ・タウト設計になるモダニズム建築の傑作と言われた建築物ですが、この建物の丸みのある外観は、既に解体された二つの旧丸ビルの丸みのあった外観と対応していたのです。(写真2)

日生劇場ビルも東京中央郵便局ビルも単独で市街地空間を形成しているわけではなく、隣接ビルと相い呼応して市街地の美的空間を形づくっていたのです。都市ビルのパブリック・アート化を志向するなら、そこまで行かなければ本物とは云えないでしょう。

と言うのは、パブリック・アートは、個別のビルのデザインを問うのではなく、もともと街区の品格や風格を醸成するために工夫されて始まったものだからです。

しかし、これは本当に難しい問題です。そう言う目で改めてここ十数年間に急速に起ち上がっている東京の超高層ビル群を眺めると、失望することの方が多いのです。

東京駅周辺、品川駅東側、汐留操車場跡地に超高層ビル群が起ち上がるとき、本当は全体の都市空間の景観を予め検討する組織があったらよかったのです。或いは、地権者や開発当事者が、夫々に良識を以て総合的な景観をよくするため、相互に調整する自発的行動を取れば良かったのです。
(以上)
【2010/09/04 12:34】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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