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パブリック・アート化する都市ビル その一
De Beersビル-06D 0907q
銀座 De Beersビル
               MIKIMOTO Ginza2ビル-11D 0907q
               銀座 MIKIMOTO Ginza2ビル
                              表参道:TOD'Sビル-02D 0612q
                              表参道 TOD'Sビル


街路の歩道に彫刻などを並べたものにパブリック・アートと言うものがあります。パブリック・アートとは、道行く人に芸術を鑑賞して貰うというよりも、芸術作品で街の雰囲気を演出しようとするものと私は考えています。

この頃はパブリック・アートについて余り熱い議論を聞きませんが、初めの頃は賛否両論が起きて賑やかでした。今静かなのは、それを社会が受け入れたと言うことか、或いは議論を巻きおこす程の優れた作品がが展示されていないか、どちらかでしょう。

それ以外の理由としては、街路の両側に並ぶビルそのものがアート化したので、そのビルの前に殊更にアート作品を展示して雰囲気を醸成しなくても良くなったのかも知れません。下手に街路にアート作品を並べると、却ってアート化したビルの美が失われると言う意見です。

もともとパブリック・アートは街路の一定空間を装飾する物として展示されました。その場所は、ビルの出入口にある、ちょっとした空間とか、人々の歩く道端とか、人々が集う街角の空き地でした。

それらの空地は、よく言えば街のゆとりの空地であり、悪く言えば無駄な空地です。この頃建つ高層ビルや超高層ビルは、スペースを極力切りつめているので無駄がありません。と言うことは、パブリック・アートを展示するスペースを街中に残さなくなったと言うことでしょう。

本当はビルが高層化すれば反対に平地は広くする方が空間のバランスがとれて良いのですが、現代になるに従い、都市のスペースの効率化を求める要求が強すぎて、そうはなりません。

その代わりに、高層ビルそのものがパブリック・アート化しています。高層ビルの外観には、形や色に工夫をこらしたものが多く、街を歩くときは「上を向いて歩こう」と言う気持ちになります。

現今のパブリック・アートは、街の片隅を目線で見る彫刻ではなく、空を仰いで高いビルの美しさ眺めようということなのでしょう。
(以上)
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【2010/08/29 12:17】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
リアリズムの限界と言うこと

20世紀初め、物理学者のハイゼンベルクは不確定性の原理という理論を唱えました。この原理を分かりやすく説明しますとと、極端に微細なものを測定するとき、測定する行為が測定される対象物に影響を与えて、正確な測定が出来ない、従って物事を確定できないということです。

量子力学の世界で発見されたこの原理は、自然科学の世界全般に深刻な影響を与えました。科学技術の研究はリアリズムそのものですが、分析を続けていけば何処までも新しい事実が分かってきて、際限なく進歩すると思っていたら、そうはいかないという事が分かったのです。

リアリズムに限界のあることを告げたこの思想は、哲学の世界では不可知論として知られていたものと同じです。神の存在を立証できないと言う不可知論と同じく、自然科学でも物質の本質を解明できなくなると言う警告は、人間の営みのあらゆる分野に影響を与えます。

将来を予見することに最も敏感な芸術は、この自然科学の世界で起きたリアリズムの限界の思想に鋭く反応します。印象派の画家達の間で起きた、従来からの写実リアリズムへの批判がその一つでした。

写真のように機械的にあるがままに描写するリアリズムとは違って、印象派の画家たちは、彼らの目に映ったものを映ったままに描くリアリズムを主張し始めたのです。常識的には緑に見える草が、画家の目に青く見えたら、目に映ったままに青い草を描くべきだと言うのが、印象派のリアリズム批判の始まりでした。

それ以後、絵画は心理の描写から精神の描写へ、精神の描写から抽象の描写へと、恰も先祖帰りするかのような変遷を遂げています。
(以上)
【2010/08/18 15:20】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美を創る方法に限界がある
科学は真理を探究することが課題です。自然科学は論理と修辞と実験を用いて真理へ迫ります。実験することが難しい社会科学でも論理と修辞を用いて真理に迫ります。

芸術は感動を探求することが課題です。芸術においても、論理と修辞と実験を重ねて作品を創作していると人は言います。

西洋音楽では数学的な手法を用いますし、西洋絵画は遠近法や黄金分割など理論的な手法を用います。セザンヌに至っては絵画を幾何学的に分析し造形理論を編み出しました。西洋芸術は論理と修辞と実験を用いること、自然科学のようです。

嘗て、東洋史の泰斗、内藤湖南氏はエッセイ集「涙珠睡珠」の中で次のように述べていました。
「詩人は眞理を発明し、理學者は真理を論證す。想像の力は無限なり、推理の力は涯あり。」

詩人を芸術家に、理学者を科学者に置き換えてみると、芸術家の創造力は無限であり、科学者の分析・推理力には限界があると言うことです。

内藤湖南氏に言わせれば、西洋芸術が自然科学のような手法で進んでいくと、いずれ限界に突き当たると言うことです。

そう言えば、19世紀と20世紀の西洋芸術を比べると、音楽でも絵画でもわくわくさせる作品が次第に少なくなっていることに気付きます。
(以上)
【2010/08/08 09:19】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夏の木花 サルスベリとノウゼンカズラ
     北部タイ-078P 80t
     写真1 タイ チェンマイにて
                         のうぜん蔓-05Ptc
                         写真2 雨上がりの鎌倉にて

春秋に比べて夏は木々に咲く花が少なくなりますが、その中で、色彩の派手やかさで目立つのは、サルスベリとノウゼンカズラです。

この時期に咲く花には、木芙蓉(もくふよう)やブーゲンビリアがありますが、それらは優しいですが何処か頼りなく、やはり、夏の季節の木花としては、サルスベリとノウゼンカズラを筆頭に挙げたいと思います。

いずれも中国から日本に伝わってきた花木です。サルスベリは、背丈の高い木で、紅色の花を咲かせます。樹肌の皮が剥けて白くすべすべしているのが特徴です。

ノウゼンカズラは蔓性の木で、橙色の花を咲かせます。フジのように他の樹木に巻き付いて、太く高く伸びる木です。

サルスベリとノウゼンカズラは両方とも大きく育つ木なので、夫々紅色と橙色の花が木の全面に咲いたときには、見応えがあります。真夏の強い大陽から光エネルギーを吸収して、再び強烈な色彩として大気に放出しているかのような勢いがあります。

サルスベリは別名、百日紅と言われるように、紅色の花は長い間咲き続けます。日本のサルスベリは赤色がやや淡いピンク色のものが多いです、韓国やタイ国で見たサルスベリは見事な紅色で、空の青さに映えていました。(写真1)

ノウゼンカズラの花は、黄味がかった赤色であり、大柄な花弁をラッパ状に開いた様は何かを語りかけているようです。この花は色にも形にも表情のある花で、かっと照る大陽の下で見るよりも、雨上がりの木陰で見ると風情があります。(写真2)

大陽が真上にある真夏の昼最中、野や庭の木々が黒く見える中に、突然鮮やかなサルスベリやノウゼンカズラの花の赤色を見つけたとき、ああ、夏だなと思うのです。
(以上)
【2010/08/01 13:50】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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