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白木蓮は孤高の花
1.白木蓮-04Pt
写真1
          2.白木蓮-17P 94t
          写真2
               3.白木蓮-07Pt
               写真3
                         4.木蓮と菜の花-02Pqt
                         写真4
                                   5.白木蓮-01Pqt
                                   写真5

白木蓮(ハクモクレン)は、梅が終わり、桜が始まる前に咲く花です。大柄の真っ白な花びらは人目を惹きますが、何故か日本では梅や桜ほどの人気が湧きません。

原産国である中国では、白木蓮は品格のある高貴な花とされています。花言葉も崇敬とか高潔です。花言葉のように、どこか近寄りがたい風格があります。

梅や桜は、蕾は丸くで可愛らしさがありますが、白木蓮は蕾の頃からツンとしていて孤高の気位を感じます。
(写真1)

開花しても、分厚く幅広い花びらは、上を向いたまま半開きです。花びらは大陽が昇ると開き、沈むと閉じます。白木蓮は何処かおすまし顔の花です。(写真2)

白木蓮は大木に成長します。下から見上げるとパラパラ咲いた風情は、白鷺が枝に止まっているように見えて、華麗です。(写真3)

隣に紫木蓮を従えて、菜の花畑に立つ白木蓮は、女王の風格があります。白木蓮の白色は、紫や黄によって弱められるのではなく、却って際立って見えます。(写真4)

陽が沈み夕闇が迫るころ、野山にただ一本だけ咲き誇る白木蓮は、孤高の花の貫禄を示します。(写真5)
(以上)
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【2010/03/25 18:49】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
落書きとパブリックアートの境界
     1.壁の落書き-07D 06.05q
     写真1
     2.壁の落書き-03D 06.05q
     写真2
                  3.壁の落書き-16D 0812qt
                  写真3
                                   4.壁の落書き-21D 0904qc
                                   写真4
                                   5.壁の落書き-25D 1001qt
                                   写真5
パブリックアートについては、嘗てこのブログで三回に亘り論じたことがあります。何を以てパブリックアートと云うのか、公共の場にパブリックアートなるものを展示することの可否について論じました。

その趣旨は次のようなことでした(2008年9月15日)。
「日本の都市空間を眺めてみると、全体としてのバランス、色彩と形態の調和ということに関して、殆ど無頓着であり、夫々の地権者が経済性を優先した土地利用を主張し、周囲との調和に配慮せずに建築している。そのような街路に彫刻や芸術品を飾ってみても殆ど美的感動を呼ぶ余地はない」と。

今回のテーマは、公共の場に描かれた「落書き」がパブリックアートたり得るかです。ということはその「落書き」が先ずアートとして認められなければなりません。そして後でパブリックアートとして、その公共の場に相応しいか、と言うことになります。

街路を歩いていて偶々目についた、気になる落書きを5点掲げました。これらの落書きを見ると、ただ出鱈目に描いたのではなく、何らかの造形を試みていることは分かります。

絵画は理性にではなく、情感に訴えるものです。ですから通りすがりの人々が、これらの落書きを見て、最低でも何らかの感情を刺激されなければ、アートとは云えません。

最初の写真1は厚塗りの抽象画のようであり、次の写真2は細石と張紙のコラージュのようです。立派な絵画展に飾られていたら、鑑賞者は真面目な顔で暫く眺めていても可笑しくありません。

写真3は、ショーウインドウの窓に描かれたスプレーによるいたずら描きです。楕円形を重ね合わせた単純な図形で出来ていて、落書きとしては街でよく見かける平凡なものです。

写真では夕陽に反射したスプレー文字だけが、背後の薄暗い写り込みに浮いて見えて、非現実的な情景になりましたが、これは落書きの腕前というよりも写真の手柄です。

写真4は、ニューヨークの Street Graphics を真似たような、ビル壁面への落書きです。パイプ、窓などの構造物の凹凸と、同系統の色彩のグラデーションを用いて、抽象絵画もどき様相を呈しています。

写真5は、1950年代に米英で始まったポプアートとサブカルチュアー漫画が混ざったような落書きです。画面に隙間を作らず、無数の絵を無秩序に並べ、線描は明確だけれども画面全体は混沌としている、現代社会の絵画表現とでも云えます。

公共的空間での落書きとして話題になるものには、社会政治的落書き(ベルリンの壁)、歴史的建造物への落書き(古代遺跡)、街路装飾的落書き(商店街シャッター面)など、色々の分野がありますが、これらは社会的現象として取り上げられてもアートとは縁遠いものです。

アート的な上記の落書きが、公共の広場で果たしてパブリクアートとして受け入れられているか否か知りません。それは道行く人々によって決められることでしょう。パブリクアートであるか否かの境界は、人々の心の中にあります。
(以上)
【2010/03/19 11:45】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
廃屋の魅力
     廃屋-04P 98r

                              錆びたトタン-05P 98r

     廃屋-03P 00r

                              廃工場-01P 00r


廃墟の撮影で有名な写真家宮本隆司氏は、廃墟は死体であるが、そこには生と死の両方が現存している、立派な建物は所詮作り物であり、虚飾に満ちていると考えていたようです。

川端康成が死者と相まみえるとき、暫し凝視してその場をなかなか立ち去らなかったのは、死者の中に動かし難い実存を見出していたからだと聞いたことがありますが、宮本隆司の考え方には、この川端康成に通じるものがあります。

私はそんなに立派で深い考えはありませんが、街中で廃屋に出会うと写真を撮らずにはおれない気持ちになります。

廃屋は通常の意味で決して美しいものではありません。むしろ街の美観を損なうものです。しかし、傍を通って見過ごすことのできない何か魅力を感じる被写体です。

それは宮本隆司氏の言うように生と死の両方が存在するという堅苦しい感覚ではなく、朽ち果てていくものへの哀れさ、「可哀想」という感情です。

確か坪内逍遙はシェイクスピアのある戯曲の中で「可哀想とは可愛いってことよ」と翻訳したように、また夏目漱石はある小説の中で「可哀想とは惚れたってことよ」と語らせたように、「可哀想」とは情緒的愛着を示すものです。

しかし、私の可哀想という感情は「かわいい」と言うのとも違いますし、とても「ほれた」という程には参りません。「ごくろうさん」でしたという程度です。去りゆくものへの哀惜と感謝の気持ちです。

「ごくろうさん」と感じたショットを掲げました。
(以上)
【2010/03/13 09:51】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美が本当に分かると言う意味
孔子は「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言ったと論語に書かれています。この言葉は「道」の意味をどう理解するかによって、二通りの違う解釈があるそうです。

政治に「徳」が実現したら、即ち「道」が行われたら、自分は死んでもよいという意味だという説と、「真理の道」が何たるかを悟れば、自分は死んでもよいと言う意味だという説の二つです。

前者は「善」の問題であり、後者は「真」の問題です。春秋戦国時代の為政者に自説が受け入れられなかったことを嘆いた孔子ですから、「道」の解釈は当然前者だと思いますが、「真」でも「善」でも実現すれば死に価する程の価値がある言っていることには変わりありません。

西洋ではギリシャ以来、人間が求める価値は真善美の三つだといわれていますが、日本の伝統的文芸思想では、美は真や善を包含したものと考えていて、美の価値を真や善の価値より上位に置いています。正に美しいことは良いことでした。

それでは「美」を実現した者は、或いは「美」を堪能した者は、死んでもよいと思うでしょうか。19世紀、ヨーロッパでは美の創造に最高の価値を置く耽美主義が起こります。それより早く、ドイツの詩人、プラーテンは次のような詩で美は死に価すると詠っています。

眼もて美を観たる者は
既に死の手に落ちたるなれば、
もはやこの世のわざに適(かな)はざるべし

美を識って死んだと言う人の話は聞きません。美を本当に分かることは誠に難しいことなのでしょう。
(以上)
【2010/03/07 20:56】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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