FC2ブログ
感動は省略と飛躍で掴もう
リアリズム文学のモウパッサンは、師フローベルから世の中には二つとして同じものはない、それを書き分けろと教えられて、見たままの情景を繰り返し文章で書きました。ある部屋の情景を数十ページに及ぶ文章で書きました。

写真は物事を記録することにかけては文字より優れています。ある部屋の情景を写真は一枚で描きます。それだけでありません。写真はモウパッサンが描けきれなかった家具などのディテールまで描写します。

しかし、写真は記録することだけが仕事ではありません。写真に対して感動を求める人は、事実を単に説明した写真は、どんなに良く撮れていても評価してくれません。また美しく写っている写真でも、既に何処かでよく見たような写真を見せると「これは観光写真だよ」と言って褒めてはくれません。

それは俳句で先人たちの作品と似た句は、類句と言って評価されないのと似ています。見慣れた風景の中に、今まで人が気付かなかった新しい発見があると、俳句も写真も人は評価してくれます。モウパッサンは全てを書き込むリアリズムで新しい発見をしたのでしょうか。

嘗てテレビで俳人の狩羽守行氏が句作に際して注意すべきこととして次のようなこと云っていました。
「俳句は詩だから、”省略”と”飛躍”が必要である。イメージで俳句を作ると、”省略”と”飛躍”が無くなるので良くない」

私は写真も俳句と同じく「詩」だと思います。森羅万象に対する感動を、五七五の十七文字で捉える代わりに、ワンショットで捉えるのが写真です。

写真では省略はよく行われます。全ての情景を説明的に取り込むことをせず、欠けた部分は写真を見る人の想像に任せる手法です。また時に飛躍も写真に見られます。一見関係のない二つの事象を一枚の写真に取り込んで、別次元の新事実を発見する手法です。

ここで注意すべきは、狩羽守行氏が言うイメージは写真でいうイメージとは違います。「イメージで俳句を作る」とは、「具象を見ることなしに観念で俳句を作る」という意味でしょう。ですから具象が前提であることでも写真と俳句は似ています。想像だけでは写真が撮れないように、俳句も作れないのです。

平凡な情景の中に新しい美を発見するには、省略と飛躍が必要とは名言です。この手法を巧みに使えば、美は至る所で発見できますし、人より多くの感動が得られるでしょう。
(以上)
スポンサーサイト



【2009/12/29 11:26】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
桜は人の見ないときに見てみよう
     樹木-25D 0912q

                     樹木-27D 0912q

                                     樹木-26D 0912q

人は春に花を見て、初夏に新緑を見て、秋に紅葉を見て、木々は美しいと思います。しかし、冬の木々は見向きもされません。常緑樹は渋い色彩で容姿を維持していますから未だ良いですが、落葉樹は枝と幹だけになります。

それでも樹肌が綺麗なら露わになった樹肌を愛でますが、樹肌も樹形も見るところがないソメイヨシノは花が綺麗なだけに哀れです。

でも、それは見方です。年末、市ヶ谷から飯田橋まで外濠堤の桜並木を眺めていたら、こんなに力強い桜を発見しました。

桜の花は風と雨に弱くて、四月にはハラハラさせられますが、冬のソメイヨシノは頑健であり、力の塊です。

一度、冬の桜見物を試してみませんか?
(以上)
【2009/12/23 17:52】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
決定的瞬間の意味 木村とブレッソンの違い
東京都写真美術館では「東洋と西洋のまなざし」という副題で、スナップの名手、木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソンの大規模な写真展が開かれています。(2009.11.28~2010.2.7)

今回は、同じく決定的瞬間を求めた二人の写真家の作品を鑑賞しながら、両者の違いを述べてみたいと思います。

写真家木村伊兵衛は初めて渡欧した時(1954)、カルティエ=ブレッソンに会い、大いに共鳴した云います。カルティエ=ブレッソンには「決定的瞬間」という著書がありますが、そこで述べている写真哲学は、撮影対象には最適な構図の決定的瞬間があり、その瞬間を逃さず撮影するのだというものです。

他方、木村伊兵衛も出会いの瞬間を大事にする写真家です。写真家協会会長の田沼武能氏は、ある雑誌で木村伊兵衛の写真哲学と撮影方法を次のように述べていました。

「向こうから”被写体としていいな”と思う人物がやってくる。すると木村は、その人物がどの地点まで来たときに背景がどうなっているか、構図や写角を瞬間的に計算する。そしてシャッターを切る。撮ってもせいぜい二、三枚。すれ違ったらもう終わり。撮り損なっても追いかけてまた撮るというような真似は、絶対にしなかった。まさに瞬間の勝負である。木村の撮影は、傑出した感性と経験に裏打ちされた”居合抜き”のようだった」と。

このように二人の写真家は、写真哲学でも撮影手法でも、大いに似ていますから、今回の写真展は両巨匠の作品を見比べられる貴重な機会です。そして展示作品は、木村伊兵衛91点、カルティエ=ブレッソン62点展示されていますから、数に不足はありません。

先ず、木村伊兵衛の写真で気が付くのは、写す人物の目を強く意識していることです。即ち、主題の人物は木村のカメラを鋭い視線で凝視しているケースが多いことです。「那覇の市場」(作品1、2)「大曲、秋田」(38)、「人民公社、北京」(73)などです。

嘗て、宗教哲学者の中沢新一と動物写真家の岩合光昭が、写真と狩猟の類似点を論じていたことを思い出しました。
そこで中沢はスティル写真家を狩人に喩えて
「カメラマンは、動物を殺ましませんけど、動いていくものを瞬問的にカシャッと止めていく」と述べています。
これに対して、動物写真家の岩合光昭は
「ハンターと写真家の共通点は、どっちも嘘をつけないことですよ」と応えています。

狩人が獲物を射止めようと構えるとき動物の目を見るそうですが、写真家が被写体の人物と目線を合わせるのは、どこか狩人の精神に似ているのです。

田沼武能氏が木村伊兵衛の写真は「居合抜き」のようだったといい、撮り損なっても追いかけてまた撮るというような真似は絶対にしなかったと言うのも、狩人精神の現れでしょう。

しかし、構図の点では、木村はカルティエ=ブレッソンのような厳格さを求めていないようです。例えば「本郷森川町」(13)や浅草寺の仲見世にコウモリ傘を持って現れた永井荷風を撮った「浅草寺境内」(29)などは、構図的に余り整理されておらず、被写体との出会い、間合いを重視した作品です。

次にカルティエ=ブレッソンの写真ですが、流石に構図の取り方が決まっています。その構図は遠近法を駆使した画家の構図のように気持ちよい位に実にしっかりと決まっている写真が多いのです。例えば「マルヌ河畔で、フランス」(18)、「シエナ、イタリア」(5)、「ラクイラ・デーリ・アプルッツィ、イタリア」(40)などです。

しかしながら、これらの写真は特定の場所から俯瞰した写真です。この構図なら予め想定して決めることが出来たとも云えます。想定された構図の中に人物が入ってくるのを待って撮ることも出来ます。必ずしも不意に現れた場面を瞬時に構図を計算しなくても可能です。

しかし、カルティエ=ブレッソンはその構図を瞬時に計算して撮ると主張しているのですから、そう言う写真もあるのでしょう。例えば、大勢の子供達が群れて遊んでいる場面を撮った「マドリード、スペイン」(13)、「セビーリア、スペイン」(14)は、背景のビル壁面の小窓や、崩壊した瓦礫の情況からして、とっさの判断で構図が出来たと思います。

「決定的瞬間」という言葉を絵にしたような写真は「サン・ラザール駅裏、パリ」(8)です。一人の男が水溜まりを飛び越えようとジャンプしたが失敗して、靴先が水溜まりの水面にまさに着水しようとしている場面です。

時間的な決定的瞬間と共に、この写真には構図の面白さがあると云われています。それは三角形、円形、長方形の形が對(つい)となって一枚の写真内に取り込まれていると云うのです。

この全ての要素が、男のジャンプの瞬間に計算されたというなら、正に天才的な写真家のなせる業となります。しかし、或る研究者の話によりますと、カルティエ=ブレッソンは物陰に隠れて、この構図の中に人が飛び込んでくるのを待っていたと云います。

やはりそうでしたかと思ますが、それでも「サン・ラザール駅裏、パリ」の作品の魅力は少しも減じないことに変わりはありません。彼は獲物を狙う優れた狩人に違いはないのですから。
(以上)
【2009/12/16 21:28】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
天然と人工の混交の美
                    石垣-01P

                       石垣-59P 96

天然には天然の美があり、人工には人工の美があります。どちらがより美しいかを問うことは難しいことです。人好きずきというより仕方がありません。

それでも、天然と人工のどちらが美しいかと問う人がいたら、両者の美が混交したケースを示して、これは天然の美か人工の美か反問します。

天然はいくら加工されても天然の性質は残します。人工は全てを人工で押し通すことは出来ません。両者は混交し、融合し、調和します。

ここに示した石積みは、天然の石を巧みに選別し、程よく加工して造られた石積です。二つとも城塞の構築物の一部ですから、戦争のために建造したものです。

創り出そうと意図しない人々よっても美は生まれるし、意図して創り出された美も見出そうとしない人々には見えないのです。

それとも、昔の石工達は、堅牢な城塞を造れと命じられても、知らずに美を創造してしまったのでしょうか?
ドキュメンタリー写真家が知らぬ間に美を求めるようになるように。

私は、ここに美を発見して、嬉しくなり撮影しました。
(以上)
【2009/12/10 20:03】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
旅のコレクション展 第三部「異邦へ」
東京都写真美術館で旅のシリーズ展第三部「異邦へ」が開催されていました(2009.9.29~11.23)。 遅ればせながらその感想を述べてみます。

第一部「東方へ」、第二部「異郷へ」に続く最終編の第三部は「異邦へ」という題名です。「東方へ」「異郷へ」という前二部の題名が作品のくくり方として曖昧であったのに対して、今回の「異邦」は明快です。日本人の写真家が外国に出かけて撮った写真という意味で間違いはなく「異邦」だからです。しかし、それは「場所の異邦」に止まらず、「心の異邦」にまで及ぶのかどうかも興味あるところでした。

作家18人、作品165点という大規模な写真展であり、東京都写真美術館所蔵の作品から選んだと云います。作品の撮影年も1931年から1994年と60余年に亘るので、海外撮影を試みない写真家は少ないですから、戦前戦後の有名な写真家を殆ど網羅した作品展ということになります。

作家の展示数を平均すれば一人9点ですが、美術館の所蔵数などに多寡があるので、展示数は作家によりかなりばらつきがあります。しかし、これだけ多くの日本の一流作家の写真をいちどきに比較鑑賞出来るのは滅多にないことで大変有り難いことでした。

それにしても作家数が余りに多いので、ここでは私が展示場を一回りした後、もう一度戻って見直した作家の作品に限って感想を述べることにします。

先ず、木村伊兵衛が1954~55年にギリシャ、ドイツ、フランスで撮ったスナップ写真です。このとき木村伊兵衛はカルティエ・ブレッソンに会っていますからから、スナップ写真なら自分にもこのように撮れるぞ、という意気込みで撮ったのでしょう。

ロンドンの銀行街で撮った、こうもり傘を持った紳士が足早に駆け抜ける様の写真(展示番号19、以下同じ)などダイナミクで印象的です。その木村伊兵衛がパリのコンコルド広場の夕景を撮った写真(13)は、遠景のエッフェル塔と中景のビル群と近景の人物のシルエットがモンタージュされて、ムード写真も得意なところを見せます。

次に、渡辺義雄のヨーロパでの写真です。建築物の構成美を引き出すことにかけて第一人者の渡辺義雄は、人物まで構成美の中に取り込んでしまいます。数人の人が降り行く螺旋階段を俯瞰して撮ったヴァチカン市国(33)がそれです。また、フィレンツェの美術館で彫刻像を見上げる男女(28)を上方から撮影した写真は、建築物撮影のときのアングルを思わせます。

そうかと思うと街のスナップ写真までも構造的です。二本の街路に挟まれた街区を背景に老婆と走る自動車撮った写真(29)は、予め構図を想定してチャンスを待っていたのでしょう。とっさに撮れるものではありません。ミラノ(34)、サルディーニア(39)も画面構成が意識されたスナップ写真です。渡辺義雄は建築物の場合だけでなく、常に構成美を追究する写真家だと思います。

最後に、奈良原一高の「消滅した時間」ですが、今回の展示作品の中で他の作品にない異質なものを感じました。異邦という「場所」を表現するのに「時間」という次元で応えているところが異質なる所以です。

展示された「消滅した時間」の写真は、いずれも1970~71年にアメリカ大陸で撮られた写真です。確かに写っている風景はアメリカですが、これらの作品にとって場所はどこでもいいし、対象物は何でもいいのです。

全く関係のない二つのもの、即ち岩に刻まれた矢印とそらの積乱雲を組み合わせて運命を想像させる写真「刻まれた矢印」(71)、自動車の上の一片の雪で車の来し方を想像させる写真「ロッキー残雪」(73)などは、一部を示したり、又は隠したりして、その背後にある世界を描こうとしています。

人は奈良原一高の「消滅した時間」を超現実主義の作品だと云いますが、近代写真の始祖のマン・レイの作品「アングルのヴァイオリン」のシュルリアリズムとも違うように思います。

それは現実から時間を抜き去ったとき、そこに事実とは異次元の世界が暗示されると云う類のものです。暗示が成功するためには、被写体は何処でも、何でもよい訳ではありません。奈良原はアメリカという異邦でそれを発見したのでしょう。

最後に一点だけ「静止した時間」の「ヴェネツィア」が展示されていました。
「静止した時間」は「消滅した時間」より7年程前に撮影された写真集ですが、奈良原は写真における時間の要素が重要なことを既に意識していたことを示しています。

この「ヴェネツィア」(72)は、戸口に通じる狭い道路上に、空飛ぶ5羽の鳥の影が写っている写真です。鳥の影は一列になってこちらに向かって飛んできます。それは突き当たりの家の扉が開いたとき、そこから飛び出してきたようです。その扉の上には男の顔の像が載っています。男は鳥たちを見送っているかのようです。(下に掲げたパンフレットの写真)

スーザン・ソンタグはその著書「写真論」の中で「写真を撮ることは、存在の瞬間を薄切りにして凍らせることだ」と云っています。奈良原が薄切りにして凍らせたこの場面は、そのとき静止したのです。

同じ著書でソンタグは云います。「写真は絵画と同じく、世界についての一つの解釈である」と。それでは、この静止した時間が意味するものは何でしょう。拘束からの解放、解放の喜び、解放者の慈悲等々、それは鑑賞する人にお任せします。
(以上)


                       パンフレット:写真展旅異邦へ第三部-02D 0911qt
                       奈良原一高「ヴェネツィア」

【2009/12/03 22:30】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |