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梅雨の花 紫陽花と花菖蒲
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瑞穂の国日本では、梅雨の長雨は稲作にとって有り難い自然の贈物です。この長雨のお陰なのですが、人々が気付かない更に二つの有り難い贈物が付いています。

一つは、昼間が一年で一番長くなる六月は本来気温が最も高くなる筈ですが、長雨が気温の上昇を抑えてくれていることです。梅雨時は蒸し暑いといって嘆く人は、蒸す代わりにからっと晴れたら、8月の暑さが6月から始まって三ヶ月も続くことになることを想像してみて下さい。日本はもう熱帯と同じ気候になります。

もう一つは、紫陽花と花菖蒲という二つの季節の花の贈物です。春の桜、秋のコスモスのような華やかさはありませんが、紫色を主体とした、抑えた色調のこれらの花は、梅雨の時期に咲く個性的な花なのです。

紫陽花と花菖蒲が個性的だというのは、桜やコスモスのように遠くから眺めるのではなく、近づいて覗き込むように見ると良くわかります。紫陽花と花菖蒲は一つ一つの花冠の造形が複雑で、一つとして同じものはありません。

それだけに、じっくり観賞するに相応しい花です。雨傘をさしながら、雨で洗われた紫陽花や花菖蒲の花冠を一つずつ観賞するのに相応しい花です。気温も余り上がらない梅雨の季節ならではの花々です。
(以上)
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【2009/06/25 11:40】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真を言葉で批評することの空しさ
身辺のスナップ写真は学生時代から撮っていましたが、50歳を過ぎて写真撮影の基礎を学び、本格的に写真撮影をしようと思っていた頃、偶々教育テレビで美術評論家の伊藤俊治氏の講座を拝聴しましたが、当時の私には難しくて理解できませんでした。

その後も色々な写真評論家の写真史や写真評論を読みましたが、知識としては役立ちますが、写真に楽しみを求めていた私には、隔靴掻痒の感があり、今一つ距離のあるものばかりでした。

ふとしたことで、最近、司馬遼太郎の随筆集を読んでいましたら、彼は新聞記者として駆け出しの頃、美術評論を担当していて、その時感じたことを「正直な話」という題の文章で次のように書いていました。

「絵を言葉になおさねばならぬ作業そのものに矛盾があった。絵は言葉に換算することはできないし、むりに換算した数字のうえに美術評がなりたっているとしたら、もともと虚偽の文章ではないか、とおもった。私はひそかに小説を書いていたから、文章というものに多少のきびしい気持をもっていた。私は、美術記者をやめさせてもらうことにした」

写真評論家の云うことが理解できないのは、私のレベルが低いからですが、それでも写真批評というものが、司馬遼太郎の云うように正鵠をえたものではないと思うと、少しは気が楽になります。

写真批評を読んでいると、作品そのものが喚起する感動をストレートに表現するよりも、過去の歴史とか過去の洋式から分析した評価に傾くことが間々あります。それだから写真評論は面白くないと思っていましたが、更に、「虚偽の文章」とまで云われると、写真評論を読む気が益々なくなります。

しかし、そんなに深く考えなくても、所詮、音楽や絵画が言葉では表現出来ない人間の感動を伝える手段として発展したことを考えると、写真も言葉で説明できるものではないのです。
(以上)
【2009/06/18 13:18】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本車のデザインは何故冴えないのか?
乗用車はアメリカで生まれ、ヨーロッパで洗練され、日本で効率化されました。遅れて参加した日本の自動車産業は、効率的な生産と経済的な製品でアメリカとヨーロパの市場に進出し、その地位を確立しました。

安くて丈夫でガソリンを食わない日本車は欧米で、それなりの評価を得ましたが、自動車のデザインに関してはヨーロッパに敵いません。日本のメーカーはヨーロッパ人のデザイナーを採用して乗用車を生産しますが、それでもデザインでヨーロッパを凌駕するのは依然として難しいようです。

舌が肥えた人々のいる国の料理は、一般的に美味しいと言います。料理の味の善し悪しは、料理人の腕よりは食べる人の舌で決まるからです。需要の質のレベルが高いと、供給はそれに合わせて高くしなければならないのです。

自動車のデザインについても同じことが云えるのでしょう。日本人が自動車に求めたのは、安くて丈夫でガソリンを食わない車でした。そして、供給者であるメーカーは見事にそれに応えました。

料理の例を自動車に当てはめるなら、日本の乗用車のデザインが冴えないのは、日本人がデザインの良い乗用車を求めないからです。そして、ヨーロッパの乗用車のデザインが洗練しているのは、彼らが車のデザインに対して高い要求を持っているからです。

イギリスの高級車ジャガーの創設者、ウイリアム・ライオンズは、大衆車のシャーシーに高級感のある車体を換装した「オースチン・セブン・スワロー」という乗用車を販売し、見事ヒット商品にしたと言う話は有名です。(末尾の写真)

彼は「美しい物は値段が高くても売れる」という哲学の持ち主でしたから、大衆車の車体にコストをふんだんに掛けて豪華に見える乗用車を造ったのです。走るだけの自動車でなく、着飾る自動車は高くても売れました。ヨーロッパ市場にはデザインで車を買う人々が大勢いるのです。

アメリカでは西部開拓のためには馬車が必需品でしたから、自動車は馬車の代用品として生まれました。西部開拓まで遡らなくても、アメリカのように広大な国土では交通の手段として自動車は必需品でした。

多くのものを運ぶこと、速く遠くまで走ること、アメリカ人が自動車に求めたものはそれでした。最初に大量生産されたT型フォードは運転席の前に長いエンジン部分があるのは、馬車のデザインを借りたのです。座席を圧縮して後方の荷台部分を大きくしたのも、馬車の発想です。

その後、流線型のデザインが取り入れられて進化はしますが、総じて車体が大きく、積荷スペースが大きいのも、自動車に実用機能を期待し続けたからでしょう。

自動車について実用機能を重視したアメリカに対して、初期のヨーロパでは自動車は貴族の趣味として愛用されたということです。「美しい物は値段が高くても売れる」というライオンズの哲学もそこから生まれたのでしょう。そう言えば、ロールスロイスやジャガーなどの高級車が、階級社会のイギリスで誕生したことも合点がいきます。

日本で良いデザインの自動車が生まれないのは、日本人の趣味がわるいからではなく、貴族社会がなかったからと思って自らを慰めることにします。
(以上)

                       イギリス:ジャガー(オースチン・セブン・スワロー・サルーン)
                    ジャガー:オースチン・セブン・スワロー・サルーン
【2009/06/13 11:21】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
朽ちるものと萌えるものと
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                              樹皮模様-39D 0905q


自然林の中では、大木が倒れて日光が地面に届き、倒木は朽ちて肥料となり、新しい苗木を育てると云います。深い山に入って、腐食した倒木の上から小さな苗木が生えているのを見ると、これが自然のサイクルなのだと納得します。

植物に限らず昆虫でも動物でも、死から生への循環は流れるように自然に運びます。一番ぎこちないのが人間です。生まれてから一人前になるのに一番時間がかかるのが人間ですが、死ぬのにも大変手間がかかります。

いま流行の環境論からみれば、地球上の生物で環境負荷が一番大きいのが人間であることは、その生死の過程を観察すれば良く分かります。

勿論、人間の生死は神秘に満ちています。ノーベル文学賞を受賞した川端康成は、弔問に訪れて死者との対面に長い時間をかけていたと云われます。誰が言ったか忘れましたが、生は幻影で死は現実である、人生のリアリティは死にあるとのことです。

作家である川端康成は、死者を凝視して人生のリアリティから何物かを学ぼうとしていたのかも知れません。写真を撮るとき新築の建造物よりも朽ち果てた廃屋に目が向くのも、存在のリアリティは死にあるからでしょうか。形態からしても生は単純ですが、死は複雑です。

朽ちるものと萌えるものが同居している光景は、対比することで更に強くそれを印象づけます。生命の誕生と比較された死は、益々神秘的に見えます。
(以上)
【2009/06/07 08:23】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
書道はコンセプチュアル・アートの先輩芸術
ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、近・現代美術の美術館です。収集し展示している美術品は、後期印象派の作品から始まって最新の現代作家の作品までです。

近・現代芸術の時代区分の始まりを、後期印象派の画家達としたことには重要な意味があります。それは彼らが伝統的な絵画から決別した初めて画家達だからです。ここで伝統的とは、遠近法による写実主義と言ってもよいです。

19世紀の写真機の出現は、それまでの伝統的な写実主義の画家達にとって脅威でした。画家達が写真機を廃絶せよとデモ行進したとの話があるくらいです。写真家は画家が苦労して習得する遠近法の技術を、いとも簡単に実現したからです。

後期印象派の巨匠と言われるセザンヌ、マチス、ピカソたちは、目で見た外観を描かず、心と頭で会得したものを描きました。ですから、彼らが描く絵画には、あるがままの形態や色彩はありません。そこでは遠近法という技法も不要でした。

それに続く抽象画家達やシュールレアリズムの画家達は、後期印象派が企てた絵画を更に徹底させます。アクション・ペインティングで有名なジャクソン・ポロックは、抽象表現主義を代表する画家ですが、物の形は全く消えてしまいました。

逆に、ポップアートで有名なウォーホルは、見慣れた缶詰や女優の写真を平面的に羅列して、人々の日常生活の風景を意識させる絵画を描きます。具象を用いながら写実を試みていないところが、伝統的絵画と根本的に違うのです。

更に絵画の抽象化は進み、言葉を重視するコンセプチュアル・アートなるものが現れます。絵画に於ける観念または概念を重視し、それらは言葉でしか暗示できないと主張するのです。そして、文字を描いた「絵」が生まれます。

文字には表音文字と表意文字がありますが、表意文字の漢字は物の形に似せて造られたものです。漢字は意思伝達の手段として中国で発明されましたが、その製造工程は森羅万象を抽象することでした。

アルファベトのような表音文字がコンセプチュアル・アートの素材になるなら、形態のあるものを抽象した漢字はコンセプチュアル・アートアートにぴったりの素材です。漢字をコンセプチュアル・アートの観点から見直してみたら面白いと思います。

しかし、日本では書道は近代芸術として既に認知されています。書道はコンセプチュアル・アートが生まれる前から芸術でした。漢字は中国から伝わったものですが、書道は日本で独自に発展を遂げました。

漢字は具象を抽象化したしっぽを残していますが、日本で生まれた仮名は具象の痕跡すら残しません。コンセプチュアル・アートは日本の書道から学ぶ所が多いでしょう。
(以上)
【2009/06/01 10:09】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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