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木の気持ちは樹幹に現れる
        1.樹の幹-08Pt
        写真1
                                  2.樹木-25Pq
                                   写真2
        3.樹の幹-13Pt
        写真3
                                         4.樹木-04Pqt
                                         写真4
               5.樹の幹-02Pt
               写真5

人は、樹木を一本の木の形態で観察したり、或いは森や林のように集団的な形態で観察しますが、木の一部である幹(みき)の形態に注目するのも面白いものです。

樹幹は人間で云えば背骨に当たります。人間の背骨は肉で被われていますが、樹幹は背骨そのものが露出していますから観察するのに便利です。意志の強い人を背骨がしゃんとしていると云いますが、樹幹も木の性格を表しています。

岩石にも意志(石ではありません)があると云う人がいますが、それなら樹木にも意志があり、感情があると云えます。樹木が気持ちを表す場所は樹幹です。私は、時々木を見ていて樹幹に木の気持ちを見る思いがします。どんな気持ちかは、写真で観察してみましょう。

最初の木は誠に力強い木です。太陽の恵みを受け、地中から栄養素を吸い上げ、風雨にさらされて生育した木の幹は逞しい力が漲っています。どんな重いものでも支えてみせる気概を感じさせる木です。この木はギリシャ神話に出てくる天を支える神、アトラスを連想させます。(写真1)

二番目の木の、樹幹の表面に浮きでた幾つもの瘤は、長寿の大木の経験豊富な知恵を表しているようです。木の瘤は木の内部に侵入した細菌と戦った跡だそうですが、この瘤は幾多の試練を乗り越えてきた木の知恵の塊です。植え込みのツツジの輪は、王者の貫禄を讃える王冠のようです。
(写真2)

三番目のプラタナス(スズカケ)は、大木になっても樹幹の表面は繊細な色と模様を持っています。周囲に張った根が少し地表から浮き上がって老木となったことを示していますが、年老いても化粧することを忘れない木です。この木陰のベンチに座って恋を語らうのに相応しい木です。(写真3)

四番目の木はケヤキの大木です。ケヤキは大枝を切られると、そこから次々と小枝を出して、切られた部分が大きな塊になり、力瘤のある腕のように逞しく見えます。成長を抑えられて内にエネルギーが溜まり樹幹を太らせています。逆境にめげない木の気持ちが表れています。(写真4)

五番目の木は灌木です。灌木は地面から直に枝が出てくるので幹と枝の区分がありません。束ねた枝を幹に見立てれば、これも見事な樹幹です。切られても切られても生えてくる植生からして、灌木は強靱な団結力があり、一本の大木より逞しく見えます。(写真5)

色々な木の樹幹を眺めて、木の気持ちを推しはかるのも楽しいものです。
(以上)
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【2009/05/25 10:30】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
屋根の色彩とリズム
1.ジャカルタ-09N 74tadbe
写真1 インドネシア ジャカルタの住宅地

2.城壁からのドブロブニク-03D 0610q
写真2 クロアチア ドブロクニクの旧市街

                 3.屋根-03P 92q
                 写真3 茨城県 利根川近くの街

                 4.大内の宿-14P 96t
                 写真4 福島県 大内の宿

                                   5.酒田-01P 99t
                                   写真5 山形県 酒田の街

                                   6.山寺-02P 98t
                                   写真6 山形県 山寺付近

昔、ジャカルタ市内でホテルの窓から外を見たとき、熱帯樹の合間に赤茶色い屋根が点在する光景を目にして、南の国の住宅街には自然と調和した巧まざる美しさがあると知りました。(写真1)

最近、アドリア海の真珠と言われるクロアチアのドブロクニク市を訪れました。そのとき、城壁から旧市街を見渡すと街全体が煉瓦色の屋根瓦で隙間なく被われていて、街の美しさは空から眺めるものと知りました。(写真2)

このように、街や村落を高いところから俯瞰して見て美しいと思うのは、家々の屋根の色彩が統一されていることと、その屋根の分布にある種のリズムがあることだと思いました。

ジャカルタもドブロクニクも屋根瓦はその土地の土で焼いたものです。同じ素材で焼かれた瓦は同じ色ですから、屋根の色彩は当然統一されます。ジャカルタの樹林に散在すると赤茶色の屋根、およびドブロクニクの大小の屋根を組合せた瓦屋根の面には、リズムがありました。

日本の村落でも伝統的な瓦屋根や藁葺屋根の景色には、同じく色彩の統一とリズムがあります。瓦屋根も藁葺屋根もほぼ同じ形と色をしています。古い街や村にはこのように統一された家並みがあり、落ち着いた佇まいが残っています。(写真3、4)

幕末、明治初期に撮られた、江戸、大坂、神戸などの町を鳥瞰する写真には、整然とした屋根が連なる光景が写っています。

愛宕山から見た江戸西南部の武家屋敷群の写真、大阪城から見た大阪のパノラマ写真、神戸の港町を俯瞰したパノラマ写真などを見ると、それが分かります。

神戸の写真は明治初期と中期に同じ場所から撮られた写真ですが、整然として拡大する町並を比較して見ることが出来ます。

しかし、戦後は新しい建築材料が出現したため、家々の屋根は青や赤が混在し、色とりどりになりました。カラフルになったと云えば聞こえはいいですが、街も村も鳥瞰する景色は雑然とした、という方が当たっているでしょう。(写真5、6)

色彩の混乱は新建材の出現が大きく作用しています。古来、どこの国でも壁、塀、屋根の原材料は、その土地で産出するものが使われました。石材、土砂、草木の供給地は近隣に限られていました。その結果、自ずと街の色彩に統一感が生まれたのです。

ジャカルタやドブロクニクの屋根の色が統一されているのはその所為です(注)。しかし、日本の街の屋根の色は赤、青まちまちです。新建材が豊富に出回って、人々が好みの色を使うからです。豊になって却って街の景観が汚くなったと言えば皮肉でしょうか?

屋根の色は統一するより、まちまちの方が街は美しく見えると言う人もいるかも知れません。街路の輪郭線(ビルの面)が看板などで凸凹なアジアの街路には隠れた秩序があるいと言った建築評論家がいましたが、彼ならばカオスにも美があるというのでしょう。

果たしてそうでしょうか?
(以上)


注:ドブロクニクの旧市街は、先般の独立戦争で殆どが破壊されました。しかし市民達は旧市街を元の姿に戻すべく多額の経費をかけて昔の屋根に葺いたとのことです。
【2009/05/19 15:11】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
新緑の頃の野山
   丹那盆地-03D 0905qtc

                  丹那盆地-05D 0905qtc

                                 丹那盆地-07D 0905qtc

日本の自然の野山には沢山の異なった樹種が混生しています。常緑樹と落葉樹の混生もありますし、常緑樹、落葉樹の同類の中でも異なった樹種が混生しています。

人工植林の野山は平板な風景ですが、自然の野山は季節により色々な模様を造ります。混生林は、秋の落葉期には赤、黄、緑と錦色に派手な模様を造りますが、初夏にも心温まる模様を描きます。

初夏には野山は薄緑から黒っぽい緑までまだらの紋様で目を楽しませてくれます。秋が異色の組み合わせなら、初夏は同系統の緑色の組み合わせです。

着物や洋服では色のコンビネーションが大事ですが、異なった色の組み合わせより同系統の色を合わせる方がシックです。初夏の野山は秋よりシックな装いで現れるのです。

静岡県丹那盆地でみた初夏の新緑の野山をご覧下さい。
(以上)
【2009/05/14 10:12】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は未来を描く手段たり得るか
東京都写真美術館で写真家やなぎ・みわの写真展「マイ・グランドマザーズ」が開かれています。(2009.3.7~5.10)

若い女性(子供)たちにインタビューして、彼女らの50年後の姿を写真で表現するという、画期的な試みです。彼女は、その発想の斬新さで国際的に注目を浴びており、今年のヴェネツィア・ヴィエンナーレの日本館展示が決定しているそうです。

写真とは「現在」を「過去」にする作業だと云われます。写真は、撮った瞬間は現在を写していますが、時間の経過とともに写された現在は古くなり、益々現在から遠ざかり、過去の貯蔵所に収まります。

しかし、やなぎ・みわは、「過去」となる写真で「未来」を表現しようと云うのです。その未来とは、現在の子供や女性達が未来を想像して語り、それらの想像を写真家やなぎ・みわが感受して写真に撮ったものです。

語る者と聴く者の両者が「未来」を想像するのですが、想像の主導権は当然、写真家やなぎ・みわです。そして、それらを映像化するのも写真家やなぎ・みわです。

映像化の作業は、現実に形を以て存在しない想像(イメージ)を、現実に存在する人及びもので代替させます。それは現実ではなく、あくまで作り物(フィクション)です。そのフィクションがイメージを表現できているか否かが、作品の成否を決めます。

嘗て、科学技術庁(文部科学省)では10年後20年後の科学技術予測を行っていました。その場合、予測が当たれば予測者の発想は手柄になりますが、その予測内容を写真に撮って映像化してみても、写真家の手柄にはなりません。

それは科学技術は予測年次に至れば、当たるか当たらないが判明するからです。当たるか当たらないかは、写真ではなく発想(アイデア)だからです。

やなぎ・みわの写真は、50年後の彼女らの想像が当たるか当たらないかを問題にしていません。50年後という「未来」における彼女らの願望や恐怖や空想を描いて見せますが、それは「未来」を想像する「現在」の彼女らを描いているのです。描いているのは「未来」でなくて「現在」なのです。

ある批評家はやなぎ・みわの作品には「現在」が欠落していると論じていましたが、「現在」の不安や欲望や悲嘆を強く印象づける作品が多くありました。「現在」は欠落していません。

ですから、やはり写真は「未来」を写すものではなく、「現在」を写すものだと思います。「現在」は具象でも抽象でも写真で写せますが、「未来」はフィクションを用いても写真では写せません。
(以上)
【2009/05/07 21:10】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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