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歴史的建造物の保存 その考方
郵政民営化の政治論争のなかで東京駅丸の内にある東京中央郵便局の建物が俄に脚光を浴びていますが、東京中央郵便局の建物を歴史的建築物として保存すべきか否かの議論は実はとうの昔に終わっていました。

いま改めて東京中央郵便局の庁舎を重要視するなら、明治以降、東京に建てられた西欧的ビルで価値ある建物が、既に数々壊されて新しいビルに生まれ変わっていったとき、何故大きな声を上げなかったのでしょうか、理解に苦しみます。

古いビルが壊されるのは、一つには耐震力を増強するため、もう一つは都市空間の有効利用を図るためです。その過程で歴史的建造物を保存するには、現状の姿を残しながら耐震力をつけるべく再構築するか、それとも都市空間の活用には別に代替地を確保して既存の歴史的建造物はそのままとすることです。

歴史的建造物の外観を元の状態で再構築する努力はヨーロッパの大都市でよく見掛けます。第二次世界大戦で破壊されたヨーロパ都市の幾つかは、莫大な費用を掛けて元の姿に復元されています。それだけでなく、西欧ではIT化するため古いビルを改造するとき、外観は元の姿に戻すことを厭いません。

ヨーロパは石の文明と云われます。石の構築物は、ローマ時代の建造物が今も実用に供されているように、1000年単位で存続し得るものです。日本のように木の文明では建造物は100年単位で考えるの精一杯です。歴史的建造物の保存に関する感覚や意識については、西欧と日本との間にかなりの差があります。

その差を象徴的に示す例が、伊勢神宮の遷宮(せんぐう)儀式です。内宮、外宮の社殿を20年毎に建替えると言うのは世界でも珍しい建造物観です。

現存する世界最古の木造建築物、法隆寺は西暦607年に建立されたと言われます。伊勢神宮の第一回遷宮は690年だそうです。だとすると20年毎に建替える発想は、木造建築の持続性に問題があったからではないことが分かります。恐らく刷新による神聖の維持、建築技術の保存など別の理由によるものです。

数年前、鈴木博之教授の講演「失われた東京の建築」を聞いて、建築の生命は鉄筋40年、木造20年が平均だと知りました。先生は、日本で建築の生命が意外に短いのは、木造火災、地震対策、相続税などの制度上などの理由によると述べられた後、伊勢神宮の20年遷宮を例に上げて、お成り御殿のような新しいものに価値を置く日本人の気質もあると、付け加えました。

ところで同じ石の文明といいましても、昔からの石積建築と近代のコンクリート建築では、根本的に異なるところがあります。物理的に石積建築はコンクリート建築より堅牢です。何故なら鉄もセメントも老化するからです。鉄筋コンクリートの建造物は、やはり意外と寿命が短いのでしょう。

歴史的建造物の保存については、一つは歴史的背景から価値あるものか、もう一つには都市の美的観点から価値あるものか、で論ずべきです。只古いものを残そうと云う主張に耳を傾けてばかりいては、都市は建物の墓場になるだけです。
(以上)
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【2009/03/26 22:32】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
都市空間の鳥瞰論
   ニューヨーク-14Nht
   ハドソン川対岸よりニューヨークを見る
                                ニューヨーク-24Pht
                         エンパイアステートビルよりニューヨークを見る
   世界貿易センタービル眺望-08D 0802q
   世界貿易センタービルより東京都心部を見る
                                世界貿易センタービル眺望-27D 0802q
                                世界貿易センタービルの足許を見る

都市の美醜を論じる場合、街路の形状や街の建築物が主題になりますが、都市を上空から眺めた鳥瞰の景色についての議論は余り聞きません。街のスカイラインについては議論されますが、これは都市を鳥瞰した時の一部に過ぎません。

人間が都市を造るとき、既存の地形、地勢をもとにして土地利用を設計します。多くの都市は核になる建物(王宮、市庁、教会など)が先ず建ち、後は自然発生的に都市の外縁が広がっていきます。

更地に設計されたブラジルの人工都市、ブラジリアなどは例外ですが、既存都市を改造する場合も、改造計画はやはり地上での使い勝手で決まり、空中から見た姿を意識したものにはならないでしょう。

都市の住民は鳥のように飛んで上空から都市を眺めることはできませんから、それも当然でしたが、都心に超高層ビルが次々と建ち、飛行機が都市上空を低く飛ぶようになると、都市も上から眺めた景色を良くすることは大事になります。

東京の街の構造は、基本的には江戸の街を引継いで、大規模の街区整理をしていませんから、全体として平面的に縦横が整然とした造りではありません。そこへ高層ビルを無計画に建てるので立体的にも不規則な凹凸が生まれて、益々混沌としてきます。

原則的にはスペースの価値が高い所ほどビルの高層化が進む筈です。スペースの価値は当該地点の交通の便利さや都市便益の既存蓄積量などで決まります。従って、都市の超高層化は特定の場所に集中するのが当然ですが、そこに余地がなくなれば超高層ビルは次の候補地に飛びます。

土地(とその上空空間)は私的所有の対象となっていますが、所有者各自がベストの利用方法をとれば、都市全体のベストの土地利用になるという保証はありません。それにも拘わらず、日本は都市用地の利用に際して、公的利用優先が実行されることの少ない都市でした。

それに加えて、更に都市の鳥瞰景観を美しくするために超高層ビルを建てる人達の私権を制限すると云えば、激しい反対に合うでしょう。しかし、外国の都市を飛行機で上から眺めて美しいと感じたとき、外国ではそういう努力をしているのだと思います。

それに引き換え、東京の都市にはその努力の跡がありません。東京オリンピックに備えて急遽建設した首都高速道路は、お濠や街路の上を曲がりくねって走ります。これを機上でみた外国旅行者は東京の街はスパゲッティを撒き散らしたような街だと批評しました。

手許にあった東京とニューヨークの鳥瞰的写真を掲げます。
ニューヨークはヨーロパの都市のように古くありませんから歴史的な美しさはありませんが、近代的な整然さを持っています。
それに比べて東京は平面的にも立体的にも雑然としています。特に、ビルの高さの不揃いは醜いです。その様は雑居ビルが雑居しているとでも云えるものです。
(以上)
【2009/03/19 13:59】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
自叙伝と自画像と自写真
昔は思想家が自叙伝を書きました。現代では政治家がよく自叙伝を書きます。自叙伝のいいところは著者しか知らないことが書いてあることであり、悪いところは著者自身を飾って書くことです。

画家はよく自画像を描きます。画家にとっての自画像とは、自己の内面を把握して形に表す作業ですから自己確認です。しかし同時に願望も含まれることがあります。

写真家が自らを写す「自写真」という言葉はありません。私の造語です。写真家は鏡に映った自分しか写すことは出来ませんから、本当の写真は他人に撮影して貰う外に方法はないからです。

但し、セルフタイマーを用いてセルフ・ポートレイトを撮ることはできます。しかし、撮影者である自分はファインダーを覗いていないので撮影の瞬間を確認できない、それなのに、意識しまいと思っても自分を意識した表情と姿態しか撮れないという制約があります。

知らないときに他人に写された写真は、無意識の自分が写っているので、そのような自写真が一番よいようです。自分を客観的に見詰めることができるものとして末永く残ります。

自叙伝も自画像も自分を残す作業ですが、これらは自分で作成したものですから、後になって作り変えたくなれば、訂正も出来れば新たなものをつくることが出来ます。

しかし、他人によって写された写真は、動かし難いものとして残ります。それなのに芸術家や政治家を写したポートレートは沢山残っているのに、写真家自身ののポートレイトは意外に少ないのです。写真家は恥ずかしがり屋なのでしょうか?
(以上)
【2009/03/13 22:04】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
汽車のデザインの歩み
     1.鉄道博物館-07D 06
     写真1

                 2.鉄道博物館-06D 06
                 写真2

                                 3.新幹線車両-02D 0811qr
                                 写真3

デザインは使い勝手の良さ(性能)と見た目の良さ(装飾性)で変化していきます。先に家庭電気製品のデザインが余り変化していない話をしました(09.01.16 家庭電気製品のデザインは変わったか)。今回は汽車について変わったところ、変わらないところについて述べてみます。

「汽車」と書く位ですから、最初に誕生したのは蒸気で走る蒸気機関車でした。18世紀後半にイギリスで起きた産業革命を象徴するものは、動力としての蒸気機関です。蒸気機関は工場の動力として使われましたが、動く車の動力としても使われました。

ご存じのように汽車の先頭部の大部分は蒸気を起こす大きな釜です。そこは大量の水を石炭釜で沸騰させて、水蒸気を発生させるところです。大きな動力を得るために蒸気機関車は当然大きくなりました。また、沢山の貨物車や客車を引っ張るのに機関車の重量も必要でしたから尚更大きくなりました。

風景画家のウィリアム・ターナーは、当時の画家が誰も描かなかった蒸気機関車を描きました(1844年「雨、蒸気、スピード-グレート・ウェスタン鉄道」という題名の絵)。蒸気機関車が当時の人々に強烈な印象を与えたことを窺わせます。

当時(1900年頃)英国留学中だった夏目漱石は、蒸気機関車の走る様に強い印象を受けたのでしょう、日本の友人宛の手紙に屡々蒸気機関車のことを嫌悪感をもって書いています。

汽車が出現したとき、人々には異様な怪物に見えたのでしょう。その強いイメージが定着すると、その後作られる蒸気機関車の基本形は余り変わりません。運転手の前に視界を遮る大きな釜があっても、そして煙をあびながら石炭をくべると言う基本形は変わらなかったのです。(写真1)

その後ディーゼル車や電車が誕生して、大きな釜を必要としなくなったので、運転手が最前列に座って運転するようになりましたが、蒸気機関車でも最前列に運転手が居て釜は運転手の後ろに置く方が合理的だった思います。

デザインが機能や性能とは関係なく固定観念から決まる例として自動車もそうです。初めて大量生産に成功したフォード社のT型フォード車はエンジンを収納する長い部分を運転席の前に置いています。これは幌馬車では動力となる馬が馬車本体の前にあったイメージが働いたと云われています。

汽車の場合には、更に列車の高速化がデザインを変化させます。新幹線では高速化が進む程に流線型のデザインは洗練されています。今度は空気抵抗を軽減するために長い鼻が伸びて、運転席は後ろに退きます。運転者の利便性より列車の効率を優先したデザインです。(写真3)

このことについては既にブログでご紹介済みですが( 08.11.22「新幹線の流線型は手作り」)、もう一度、過去の汽車のデザインと比較しながら並べてみます。性能と装飾性を同時に満足させるデザインです。

機関車のデザインの変化にご興味のある方は、埼玉県大宮にある鉄道博物館を訪ねてみては如何ですか?
(以上)
【2009/03/07 13:05】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸切子の美
     墨田江戸切子館-04D 0902qr

                       墨田江戸切子館-02D 0902qr

                                   墨田江戸切子館-05D 0902qr

江戸時代、ガラス細工のことをビードロと云いました。ビードロはポルトガル語ですから、鉄砲と同じく、ガラス細工もポルトガル人が日本に伝えたのでしょう。

そのガラス細工は、江戸で江戸切子として、鹿児島で薩摩切子として日本に根付きました。切子とは鑢(やすり)でガラスに切り込みを入れて模様をつけたものですが、西洋では柔らかく融けた状態のガラスを成形する技法が盛んです。

薩摩切子は薩摩藩の事業として御上が推奨したものですが、江戸切子は江戸町民が町民の需要に応えて製作したものです。明治になり薩摩藩の支援がなくなると薩摩切子の生産は途絶えましたが、民需に依存していた江戸切子は明治以降も生産されました。

江戸の民需と云いましても、ガラス工芸品や浮世絵などの高級な商品を買う人達の多くは、参勤交代で江戸詰をしている地方の大名やその家来達であり、彼らは故郷への土産に買っていたと思います。

薩摩切子が厚い色ガラスを重ね(色被せ)たガラスを用いのに対して、江戸切子は薄い色ガラスを重ねたガラスを用いたとのことです。それだけ江戸切子は薩摩切子より透明感があり、カットの美しさを表現できたと思います。

江戸切子は成形された固形のガラスに深い溝を彫って作られます。深い溝は光を屈折させて、ガラス容器を透明感のある色彩の衣裳で飾ります。

江戸切子を回しながら眺めると、光の屈折の角度によって濃淡が異なるのが分かります。その異なる濃淡を組合わせが複雑な模様となって輝きます。色彩とその透明度の変化が江戸切子の美なのです。

細く浅く広くカットを積み重ねると、光は乱反射してカットされたガラスの面は白く曇ります。光の乱反射が光の透過を抑えるからです。深く切った部分が大胆で明確な模様になるのに対して、細く浅く積み重ねて切ったガラスの部分は柔和で曖昧な模様になります。

ガラスの成形技法には、大きく分けて冷えた固形状態で加工するのと、熱い溶融状態で加工するのとがあります。ヨーロッパでは、固形状態のガラス工芸は教会建築のステンドグラスで発展しました。溶融状態のガラス工芸は主に吹きガラス技法を用いて、ヨーロッパ各地の民芸品として発展しました。

19世紀にエミール・ガレが色合わせの技法でアール・ヌーボ様式のガラス工芸品を発表してその繊細さ、精妙さを世にアピールしたとき、ガラス工芸品はこんなにも美しいのかと世界は驚きました。

江戸切子は、加工の技法こそ違いますが、エミール・ガレに劣らぬ繊細さ、精妙さを江戸時代に実現していました。その伝統工芸の江戸切子が、現代でも洗練された技法で実用的装飾品として製造されています。

写真は東京の墨田区錦糸町の江戸切子館で撮影したものです。
(以上)
【2009/03/01 09:13】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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