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苔は空白を埋め、彩りを添える
樹の根-04D 0805q

                    樹皮模様-09D 0805qc

                                    樹皮模様-08D 0805qc

日本は湿気の多い国ですから、適当な湿り気があるところなら苔は自然に生えてきます。ですから私達は苔という植物を見慣れていて、当然あるものがあると思っています。

嘗て、観光旅行で韓国の幾つかの宮廷を見学していたとき、ふと、この庭園には何かが足りないなと思ったことがありました。それは苔の類が全くない庭園でした。日本の年間降水量は1,700ミリだそうですが、韓国はその半分くらいだと聞きます。苔がないのは雨が少ないからだと分かりました。

日本の社寺や庭園では、京都の苔寺ほどの立派な苔が生えていなくても、必ず苔を見ます。日本の庭園では土があれば苔があります。大地からいきなり樹木だけとい庭はありません。庭園の空間に隙間があれば、それを苔が埋めます。

苔の色は大抵モスグリーンと云われる緑色です。苔は渓流の縁や湿った岩場にも生えますが、森林の中ではよく生長します。苔は強い太陽光を嫌うからです。

ひやりとする森林の中では苔は生き生きとします。地上からばかりでなく空中からも水分を吸収するからです。霧がよくかかる森林では、樹木の幹に苔が張り付きます。

写真は大樹の足許に這い上がった苔です。樹はビロードの足袋を履いたようです。樹木の根幹の苔は樹皮の模様に合わせて衣裳のように生えます。

日本には1,800種位の苔が棲息しているそうですが、200種以上が絶滅の危機に瀕しているとのことです。降雨量の減少と気温の上昇が原因と云われています。自然に彩りを与え、自然の空白を埋める苔は大事にしたいものです。
(以上)
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【2008/12/27 11:35】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ランドスケープ 柴田敏雄展
東京都写真美術館で写真家柴田敏雄の最初の個展「ランドスケープ」が開催されています。(2008.12.13~2009.2.8)

柴田敏雄氏は色々な意味で異色の写真家です。
先ず、写真の被写体の多くがコンクリート製のダムや擁壁であることです。このような人工物は、それが社会経済的に何らかの意味を持つものとして被写体となることはあっても、それだけを写真の主題として登場させ、その存在を考えさせた写真家は今までありませんでした。

次に、展示される写真が全て大画面であることです。大自然や大都会を一望する写真を撮るなら大画面も必要ですが、コンクリート工作物の一部を切り取るのに大画面を用いる必要はないのに、敢えてそれに拘っています。

最近の写真展で内容よりも画面の大きさで写真を強調しようとして空騒ぎに終わっているケースをよく見かけますが、柴田氏の写真にはそのような空虚さはありません。それはディテールに拘る故の大画面だからです。

第三に、柴田氏は最近でこそカラーの作品を発表していますが、それ以前の写真は全てモノクロです。自然が対象のときはカラー表現が有効ですが、人工的工作物が被写体のときはモノクロ表現の方が雄弁です。

柴田氏は東京芸大で油絵を学び、海外留学で写真に転じ、現代美術の世界に入りました。その転進の理由を問われて「写真は手で描かずともイメージが創れるから」と答えています。近代写真の始祖マン・レイが写真機を絵筆にして「美」を求めたのと同じです。

以下に興味を持った作品について論評していきます。

何故コンクリートに注目したかと問われて、山肌のコンクリート・カバーが有機的に見えたからと答えました。最初の写真ではガードレールまでも造形化しています(作品1)。

コンクリートだけでなくブリキのガードレールまでも積極的に被写体の取り入れた写真は、この外にもあります(作品2、15)。自然の中に人工物が入ると自然が破壊されたと感じるのが普通ですが、柴田氏は自然の中の人工物でも有益、有用なものなら、そこに形の美を求めています。

今回の写真展には展示されていませんが、嘗て柴田氏は多摩ニュータウンの開発段階の光景を撮影していました。住宅団地として多摩丘陵が切り刻まれ、地形が変わり赤土の土壌が露わになった写真を見て、当時の写真評論家達は自然破壊を告発する写真だと論じていました。

しかし、有用な存在に価値を認める柴田氏は、逆に、この風景の変わりゆく大地に生命の息吹を感じて撮影したのだと思います。環境論者のような特定の価値観に煩わされることなく、自然の中に構築される人工物を美的観点から撮影する態度は全ての作品に共通しています。

自然論者や環境論者は観念でものを云いますが、柴田氏は美醜の感性で判断します。評論家は屡々観念が先行して、感性は観念に左右されて美醜の感性が働きません。柴田氏は廃墟より今生きているもの、古いものより出来たばかりのものに興味があると云います。

山の斜面に造られた土砂止めの擁壁には色々な形態があり、その表面には多様な紋様ができています。柴田氏は、巧まずして築かれた造形の美しさを発見し、切り取り、構成する作業を丹念に進めています(作品13、15、46)。ダム・シリーズでもダムの造形美を捉えています(作品47、48、49、50、51)。

柴田氏の造形美の追求は、やがて抽象画のような作品に至ります。ジグザクした水路(作品60)、ワシントン州のグランドクーリーダム(作品64、65、66)にその意図が強く表れます。ワシントン州クーリジダムの部分を撮影した写真は抽象画そのものです。

絵画の世界では具象を追求していくと抽象に至ると云われますが、写真でもそれが可能かと思いました。

最後に、柴田氏はモノクロの諧調では表現できない被写体には積極的にカラーで撮影していくとのことですが、やはり人工物の表現にはモノクロが魅力的です。但し、自然の色彩がコンクリートの白と響き合うときにはカラー写真も威力を発揮します。

その好例を青森県黒岩市のダム建設現場(作品2)に見ます。ねずみ色の砂礫と茶色の土と黒っぽい水面との中で、真っ白なコンクリート擁壁が映えています。

展示会に行かない人に長々と作品批評しても余り興味が湧かないです。さりとて許可無く作者の作品を掲載することも出来ません。展示会の作品に比すべくもない稚拙な写真ですが、偶々私が撮影したコンクリート擁護壁の写真をご参考までに掲げます。
(以上)

                         雪紋様:車窓-03P 99qt
【2008/12/22 11:17】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
永井荷風と木村伊兵衛
          2.アリゾナ-01D 0811qrc
          写真1 レストラン「アリゾナ」
                                   1.浄閑寺-08D 0811qr
                                   写真2 浄閑寺

                                   
木村伊兵衛は永井荷風の写真を何枚も撮っています。木村伊兵衛は、晩年の永井荷風と親しかったようで、よく連れだって歩いていたと云います。山高帽を被った荷風が、浅草仲見世通りにぬうっと姿を現したところを撮った木村伊兵衛の写真は荷風の風貌をよく捉えています。

永井荷風が好んで食事した「アリゾナ」という西洋レストランが今でも浅草仲見世の裏通りにあります。その「アリゾナ」の店内に永井荷風の大きな写真が飾ってあります。店主に聞きますと、これは木村伊兵衛が撮ったものだと云いました。
(写真1)

荷風の詩碑と筆塚を見るため浄閑寺を尋ねたとき、寺の住職から「浄閑寺と荷風先生」と題する小冊子を頂戴しました。その冒頭に永井荷風がこの寺を訪ねたときの写真が4枚載っていました。

浄閑寺で過去帳を読む荷風、墓地入口から出てくる荷風、浄閑寺の玄関で靴を履く荷風、浄閑寺の境内を歩く荷風です。どれも荷風先生の風貌を余すところなく捉えた素晴らしいスナップ写真なので、多分これらも木村伊兵衛の手になるものと推測しています。

永井荷風は若い頃、ニューヨークとパリで過ごしました。「あめりか物語」「ふらんす物語」はその時の経験をもとにして書いたものですが、西欧社会を観察しながら、早くも男女の関係の儚さを描いています。

向島の遊女との交渉を描いた小説「濹東綺譚」は本人の体験記と云われています。老いて浅草のストリップ劇場の楽屋に入り浸った姿は写真に残っています。死んだら三ノ輪の浄閑寺に葬ってくれと願い、遺族に拒まれた話も有名です。浄閑寺は吉原の遊女達の投げ込み寺でした。
(写真2)

荷風は男女間の機微を描いて官能的、耽美的な作家と云われていますが、同時に実生活では意外に自己規制的な性格を持っていました。

荷風は少年時代に自分の庭先で蛇が蛙を飲むのを見て神の摂理を疑ったと云います。一つの命が長らえるには、もう一つの命の犠牲が必要という現実に不条理を感じたのです。小説では自由奔放の生活を描いていますが、実生活では私小説作家のような破滅型ではなく、極めて用心深く、合理主義者でした。

永井荷風は、このように西欧的な批判精神の持ち主でありながら、他方では屈託に満ちた日常生活を送る陰翳のある人物でした。木村伊兵衛の写真は、このような荷風の陰翳に満ちた風貌、姿態を巧みに捉えています。
(以上)
【2008/12/16 14:46】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真展ヴィジョンズ・オブ・アメリカ第三部「アメリカン・メガミックス」を見て
東京都写真美術館が企画した大規模なアメリカ写真展も、今回の第三部「アメリカン・メガミックス」で終結します。

第一部「星条旗を見て」(08.08.12掲載)第二部「わが祖国」(08.10.02掲載)と比べて第三部は、その名のとおり「メガミックス」で纏まりの悪い展示会でした。悪く云えば、第一部と第二部から洩れた作品全部お目にかけようとするかのような写真展でした。

体系的に表示するために「路上」「砂漠」「戦場」「家」「メディア」の五部に分けていますが、手持ちの作品を並べるために五つの場所を設けた印象で、この五部の意義が分かりませんし、五部の相互関係もありません。場所で分けるよりも作家の個性で分類して展示すべきでした。

第二次大戦を終えてから今日までのアメリカ写真は、広範な分野で革新的な活動をしました。それを前回までの「星条旗を見て」「わが祖国」のように焦点合わせをすることは難しいです。そうであれば、アメリカ写真が提示した現代的課題を個別に展示した方が良かったと思います。

その意味で「路上」の部門にウィリアム・クラインとロバート・フランクの写真家を取り上げたことは成功しました。クラインの「ブルクリンのダンス」は荒れた街角で二人の子供が無邪気に踊っているものです。フランクの「トロリーバス、ニューオリンズ」はバスの窓から外を覗く白人と黒人と子供達を撮ったものです。

いずれも日常的で特に気に留めないアメリカ社会の断面を切り取ったものです。報道する情景ではないが、これがアメリカなのだと気付かせる写真です。アメリカ現代写真はこうして始まったのです。両者の違いは、クラインが感情移入しているのに対し、フランクはクールに突き放しています。

リー・フリードランダーの写真集「アメリカン・モニメント」の「ニューヨーク・シティ1974」は、銅像とコカコーラの広告板を一枚の写真に納めて、アメリカの街を突き放して撮影しています。同じ写真家は写真集「セルフ・ポートレイト」では自己の影を被写体に落として「ニューヨーク・シティ1966」、或いはバクミラーに写して「ルート9W、New York」、或いはシルエットにして「ニューオリンズ1968」と、強烈な感情移入を行っています。

距離を置きながら共感を表している写真は、ゲリー・ウィノグランドが広角レンズを用いて街行く人々を撮影した「ロスアンジェルス、カリフォルニア1969」、道路に伏せる傷痍軍人と無関心に空を見上げる人、通り過ぎる人を捉えた「退役軍人全国大会、ダラス、テキサス」にみることができます。

以上の写真を見てアメリカ現代写真を見終わった気持ちになりましたが、アメリカ現代写真には全く違った新しい分野が広がったと云われます。一つは大自然の中に心象的な風景を描く写真であり、もう一つは写真を材料とした美術を企てるものです。

今回の写真展では奈良原一高が西部で写した写真集「消滅した時間」は、ウィリアム・エグルストンのシュ-ル・レアリズムのイメ-ジを連想させるものです。

「砂漠を走る車の影」は幻想的であり、「インディアンの村の二つのゴミ缶」は空想的であり、「月夜のエアストリーム」は霊感的です。それでありながら、廃屋とそっぽを向く犬二匹を写した「ゴールドラッシュ時代の家」は現実感を備えています。

1960年代以降、写真で美術を企てる分野のコンセプチュアル・フォトグラフ、さらにコンストラクテッド・フォトグラフがアメリカで盛んになりました。これらの写真家達は従来の写真の世界と考えられていた境界線から一歩外に出た芸術を目指したものです。しかし、それらの作品は今回は展示されていませんでした。

最後に展示されていた森村泰昌の「なにものかへのレクエイム(VIETNAM WAR)」はベトナム戦争で捉えられた捕虜が公開処刑される悲惨なドキュメンタリー写真に作者が登場した戯画ですが、何を意味するものか理解に苦しみます。
(以上)
【2008/12/10 22:08】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
モダンな校舎は学生をモダンにした
          山形大学工学部-05D 0810q
                              山形大学工学部-03D 0810qc

地方都市を旅していると思わぬところで明治時代の建築物に出会います。写真は米沢にある山形大学工学部の校舎です。一見して往時のモダンさが伝わり、クラシックの良さが分かります。

明治政府は日本の近代化のため西洋文明の摂取に努力しましたが、そのためには学校教育が最も重要であると考えて、地方に多くの中学校、高等学校を設立しました。

中でも、実学を重視した明治政府は、工業高等学校、商業高等学校を主要な地方都市に設立しました。工業高等学校は東京、大阪、京都、名古屋、熊本、仙台に続いて七番目に山形の米沢高等工業学校を設立しました。

写真は、明治時代に建てられた米沢高等工業学校(後に米沢工業専門学校と改称)の建物です。この校舎の様式はネオバロックというのだそうですが、本体が左右対称の構成となっており、寄棟の屋根に出窓があり、玄関の両脇の塔には階段教室があり、その塔の上に三角形の二つのドームがあります。二階会議室にはシャンデリアまであるとのことです。

このようなネオバロック様式の校舎は、米沢だけでなく長野県の松本市、岡山県の津山市にもあります。探せばまだ外の地方にも明治時代の洋風建築の校舎は残っているでしょう。そして、みな国の重要文化財となっていて、学校として使用されているのは少ないですが、米沢では大学校舎として本来の目的で使われています。

学校の価値は校舎という外見でなく教育内容だと云う人もいますが、外見も大事です。現在の公立小中学校のような、無表情で画一的な校舎では学ぶ意欲も湧いてきません。

財政的に余裕のない明治政府がこのような立派な校舎を建てたのは、日本が先進国家の仲間入りするには君たちの努力が必要であると、学生達に伝えるためでした。そして学生達も、立派な校舎に激励されて緊張感を抱いて勉強することで応えました。

存在する物は全て形態を持ち、その形態は存在を表現すると、アリストテレスは「形相」と「質料」の関係で論じていますが、その論法に従えば、モダンな校舎で学んだ明治の学生達は西洋文明のモダンさを身を以て体現しました。日本の近代化は彼らの力で成し遂げられたからです。
(以上)
【2008/12/04 16:24】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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