FC2ブログ
自然と都会を変えるパブリックアート
                         カフタ-03Pc
                       写真1 ユーフラティス源流に架かるローマ時代の橋

セゴビア-02Ntc
写真2 スペインのセゴビアにあるローマ時代の水道橋

                                   ボスポラス-16Pt
                         写真3 トルコのボスポラス海峡に架かる道路橋

観光バスで山岳地帯を走っているとき、偶々渓谷に大きな鉄橋が架かっている光景を見ました。大自然の中で人工物の橋だけが際だった存在でした。しかし自然の風景と人工物の橋の関係に違和感はありませんでした。むしろ、自然風景のポイントとなっていました。このような橋はパブリックアートの一種と言って良いでしょう。

建築家はデザインに大きな価値を置きますが、土木家はコストと効用が優先しデザインを後回しにすると云われます。しかし、土木の分野でも西洋では景観、即ちデザインを重視する伝統があります。それは遠くローマ時代まで遡ります。
(写真1)

ローマ帝国の各地に建造された道路橋や水道橋のデザインは素晴らしいものが多く、自然や街の風景ともマッチしています。(写真2)

その伝統が生きているのでしょう、スイスのアルプス地方では、道路橋を架けるとき背景の山の稜線との関係を考慮して橋の形を決めると云います。これもパブリックアートの考え方でしょう。

こうしてパブリックアートは次第に巨大になります。2004年に南フランスのミヨーに完成した渓谷を跨ぐ世界一高い道路橋は雲の中を行くパブリクアートです。

それより前に建設されたトルコの第二ボスポラス橋もパブリクアートです。アジアとヨーロッパを結ぶこの橋は、日本の援助と技術で建設されました美しい吊り橋です。(写真3)

日本では瀬戸内海に架かる三本の巨大な本四架橋も見方によりパブリックアートです。実用面ではコスト・パーフォーマンスが悪いと云われても、パブリックアートとしては通用します。

しかし、これらの巨大な建造物は、自然の一部と云うよりも、自然の景観を変容させています。もはや自然のアクセントとしてのパブリックアートとは云えないとの批判もあります。

人間は地理景観を人工景観に変えてきました。最初は都市でした。次には鉄橋、ダムなどの巨大構築物でした。近年、この人工景観にアートを施した全景観がパブリックアートであるとの試みが行われています。

「梱包」のアーティストと云われるクリストとジャンヌ・クロードは、1985年にセーヌに架かる橋ポン・ヌフを薄黄色の布でを包み、セーヌ川を違った世界に見せるパブリックアートを制作しました。歴史的な構築物を布で隠して人々の想像力をかき立て、これを芸術にするのです。

「梱包」のアーティストは、2005年にニューヨークのセントラル・パークの遊歩道に、サフラン色の布を吊した無数の門を敷き詰め、その中を歩く「ザ・ゲーツ」と言うパブリック・アート展を開催しました。パブリック・アートは見るだけではなく、その中で行動して(歩いて)感ずることであり、五感を使って鑑賞するものであるとの主張です。

芸術は際限なく発展します。パブリックアートには「制約」はないようです。
(以上)
スポンサーサイト



【2008/09/27 14:18】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
モニュメントとしてのパブリックアート
パリ-63Ptc
パリの凱旋門

                  東京タワーの夜景-03D 04qt
                  東京タワー

                                   フィレンツェ:ドゥオモ-04D 0611qt
                                   フィレンツェの教会建築ドゥオーモ

街や自然を意図的に美しく飾るものはパブリックアートであると定義すれば、凱旋門も銅像もパブリックアートと云えます。戦勝や偉業や偉人を讃えるものでも、造形物の形態や設置場所によりパブリックアートとしても受け入れられます。

パリ万博のため建造されたエッフェル塔も立派なパブリックアートです。パリの古都の真ん中に無粋な鉄の塊を置くことに強い反対論があったことが、逆説的にパブリックアートであることの何よりの証拠です。何故なら塔の設置が美醜の観点から論議の対象になったからです。

パブリックアートとは、公共空間の魅力を高めることを期待して設置されるものですから、建設当時20年後には取壊す約束で建てたエッフェル塔が今に残されて、パリの名所の一つになっていることがそれを立証しています。ライトアップしたエッフェル塔はやはりアートです。

東京タワーはエッフェル塔に似た形です。芝増上寺の境内の一部を割譲してもらい敷地を確保しました。鉄材は朝鮮戦争で壊された廃棄戦車を溶かしたものと云われます。その正式名称が日本電波塔というように東京タワーは実用目的の塔です。建設時にエッフェル塔で起きたような美醜の論争は聞きませんでした。それだけ日本人のパブリックアート意識は低いのでしょう。

近く、墨田区の隅田川近くに新東京タワーの建設が予定されています。現在の東京タワーでは電波放送に支障がでるので、より広範囲に遠く電波を送るためです。高さは現東京タワーの二倍近くなのに、敷地面積は東京タワーより狭いそうです。四本足は無理で三本足になると新聞は伝えていました。実利主義の日本では果たしてパブリックアートに相応しい容姿の塔が出来るかどうか疑問です。

アートと意識せずに建てられた偉人を偲ぶためのブロンズや石の銅像も、周囲の橋や建物と共に公共空間を構成していればパブリックアートになります。西洋の都市では堂々と広場に建てられた銅像をよく見かけますが、日本では何故か偉人達の銅像は恥ずかしそうに木陰に置かれています。木陰の銅像は、人々がパブリックアートと認めていないからでしょう。

宗教建築物は宗教活動の拠点ですからモニュメントとは云いませんが、精神的象徴性を示すものとして都市造形には欠かせない存在です。西洋の教会建築は都市の中にある高層建築でしたから、住人にも旅人にもランドマークとしての役目を果たしています。

教会がランドマークなら、その内部に描かれた壁画は立派なパブリックアートです。誰も壁画がアートであるのを疑わないので、敢えてパブリックアートと云わないだけです。信者でもない外国人が教会内の壁画を鑑賞するため多数入っていきますが、そうなれば教会はもう公開美術館とでも云うべきパブリックアート館です。

モニュメントとしてのパブリックアートを称賛してきましたが、他方では「彫刻公害」と云われる現象も起きています。モニュメントにも同じことが云えます。モニュメントでは道行く人が皆見ますから、楽しみながら美を味わえるモニュメントが欲しいものです。「彫刻公害」は設置者のセンスが問われる難しい問題です。
(以上)
【2008/09/21 22:07】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
街造りとしてのパブリックアート 
                      ベルゲン-02Pc
                   写真1 ノールウエー ベルゲンの港町
   新宿西口-07D 0809q
写真2 新宿西口 新宿アイランドタワー周辺
                                新宿西口-08D 0809q
                           写真3 新宿西口 新宿アイランドタワー周辺
                    新宿西口-16D 0809q
               写真4 新宿西口 新宿アイランドタワー周辺


私達はパブリックアートというと、街路にある彫刻を思い浮かべます。彫刻は美術館内ではなく屋外で見るものとの主張は、野外彫刻とか彫刻公園として実現しました。パブリックアートの名称は、恐らくそこから始まったのでしょう。

しかし、パブリックアートを彫刻に限るのは余りに視野が狭すぎます。街中でも自然の中でも、それを意図的に美しく飾るものや飾る行為であれば、すべてパブリックアートと云えます。人が造る街について言えば、街を構成する家やビル、道や橋、公園や広場は全てパブリックアートの一部と云えるでしょう。

ヨーロッパを旅していて、時々お伽の国のように美しい街並みに出会うことがあります。屋根や壁の色が調和し、家並みの大きさが揃えられ、家々の窓辺には花が飾られている光景は、明らかに作られた美しさです。(写真1)

街の広場に銅像や彫刻がなくても、そこでは街そのものがアート作品になっています。ここではアートと生活が一体となって存在しています。そのアート作品は、街の住人たち自身のためでもあり、また外部からの訪問者のためでもあります。

しかし、大都会では地方の小都市のように街全体をアートのように飾ることは難しいです。それでも目抜き通りや、ある街の一郭が統一したデザインでバランスを保った都市空間となっている所を見かけることがあります。この都市空間もパブリックアートの産物と云えるでしょう。

翻って日本の都市空間を眺めてみると、全体としてのバランス、色彩と形態の調和ということに関して、殆ど無頓着のようです。夫々の地権者が経済性を優先した土地利用を主張し、周囲との調和に配慮せずに建築します。

その街路に彫刻や芸術品を飾ってみても殆ど美的感動を呼ぶ余地はありません。掃き溜めに鶴とは申しませんが、違和感だけが残ります。街を飾りたければ、先ず街自身を美しくすることから始めなければなりません。そして街を美しくすることが既にパブリックアートを実現しているのです。

既存の街を美しく改修することは当然ですが、新しく造る街をパブリックアートの観点から設計することも大切です。車のための街造りと歩行者のための街造りだと対比されて、よく引き合いに出されるのが都庁を含む初期の超高層ビル群の街並みと、その近くの新宿アイランドタワー周辺の街並みです。(写真2、3)

新宿アイランドタワーの近くの交差点広場に置かれたパブリックアートの彫刻「LOVE」は治まりがよいとは思いませんか?

好みの問題だと言われると答えようがありませんが、この「LOVE」が嘗て立川駅近くの「ファーレ立川」の一郭に置かれていたときの状況に比べれば遙かに良いと思います。(写真4)
(以上)
【2008/09/15 09:53】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
トイカメラの人気の秘密
Lomo shop-01D 0808qr

                  Lomo shop-02D 0808q

                                    Lomo shop-07D 0808qc


デジタルカメラの出現で高機能カメラはいよいよ普及していますが、最近トイカメラ(玩具カメラ)という低級カメラに人気が出ているとのニュースを聞きました。既に世界50ヶ国で200万人の愛好家がいるそうです。

トイカメラはボディはプラスティック製でフィルムを使う一万円くらいの安いカメラです。ですが、トイカメラは最小限の機能に特化して、一般の高級カメラでは撮れない写真が写せるので人気があるようです。

例えば、魚眼レンズ付きのトイカメラは、180度の視野を一度に写しますから極端な遠近感が生まれて被写体がデフォルメされます。見知らぬ世界を発見して面白いのです。

カラーフラッシュ付きトイカメラはフラッシュの光が届く物体だけを好みのカラーで染めます。普通はあり得ない風景が撮影できて遊び心を刺激します。

連射式装置を付けたトイカメラは被写体の動きを秒ごとに細分して写し留めます。人間の目では見落としている見慣れない姿と形を捉えることができます。

勿論、このような特殊機能のカメラは専門家が使う特殊カメラとして既にありますが、それはプロが仕事で使うカメラで、素人には値段が高くて簡単には買えません。トイカメラだからこそ安くて、気軽に専門家と同じ発見が出来るのです。

今のカメラは高級でなくても、誰にでも失敗なく上手に撮れます。見たままにシャープに撮れる写真を見飽きた人々は、見た目とは違う写真に興味を持ちます。意外性に惹かれるのです。トイカメラはそれに応えるものです。

そう言えば、むかしベス単レンズという暖かいボケ味が撮れるレンズがありました。ボケを嫌って写真機は進化しましたが、今でもそのボケ味を愛好する人達がいて超クラシックなベス単レンズを使っている人がいます。トイカメラにはその素朴さに通じるものがあります。

ピントが甘い写真、露出が適正でない写真、極端にデフォルメされた写真には、どこかアートの匂いがあります。ありのままを写すだけの「写真」は記録としては良いのですが、そこで行き止まりを感じるのでしょう。

最近、トイカメラを専門に取り扱うお店が南青山に出現しました。原宿から表参道を青山通に向けて歩き、更に青山通を突き抜けて「フロムファースト通」と言われる高級ファッション通も抜けた根津美術館の近くに、そのお店はあります。

店内はカメラ屋というよりも洒落た小物の展示場と言った感じです。トイカメラで撮った写真も展示されていて小ギャラリーでもあります。買わないで眺めていても楽しくなるお店です。
(以上)
【2008/09/06 09:03】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真に何を求めるか?
プラトンは、物質界の背後にある理想的な世界をイデアと称し、イデアこそが真の実在であり、そこに真善美があると言いました。ですから、人々が真善美を求めるのは、真の実在である理想を求める行為だと言うのです。

写真で真の実在を求めると言ったら大げさなと笑われますが、写真は真善美の中でどれを一番に求めているかと問われれば笑い飛ばしては済まされません。

写真は「真」を求めません。写真が真実を写さないことは写真を撮った経験のある人なら分かります。photograph を「写真」と訳したことが間違いでした。英語の元々の意味は、光(photo)で描く(graph)という意味です。昭和の初期に、「光画」という写真雑誌が出版されていますが、これは photograph の直訳であり、正しい理解です。

写真では真実を求めないで「善」を求めるでしょうか? 写真で「善」を奨めた実績は沢山あります。善は道徳観ですから人さまざまの善があります。アメリカ・ドキュメンタリー写真は、連邦政府が社会的正義を実現するための手段として写真を使った結果生まれたものです。

大恐慌(1929)後、アメリカ社会の矛盾は至る所に露呈し、貧困が多くの社会問題を発生させます。過酷な工場労働、荒廃した農村、移民達の貧民街、痛ましい児童労働などです。連邦政府は、社会政策立案のため敢えて社会的恥部を写真に撮らせて、それを議員たちに見せて理解を求めたのです。

連邦政府の要請を受けた社会派写真家たちは、写真で社会が変えられると信じて撮影に従事しました。しかし、やがて彼らは事実の報道写真の中に美を発見していきます。彼らは記録写真に留まることにあきたらず、それを芸術的表現に高めていきます。

近代写真の始祖マン・レイは、写真機を絵筆にして「美」を求めた芸術家です。写真に社会性、ドキュメンタリーなどに求めても、結局は「美」に至ります。アメリカ・ドキュメンタリー写真家たちも最後は美を求めました。

写真家は現実の中から美しい物を探し、美しい所を探し、美しく撮ろうとするのです。人々は写真に美を求めるのです。
(以上)
【2008/09/01 10:20】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |