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バウハウス・デッサウ展を見て
1.バウハウス・デッサウ展-01D 0806q


        2.バウハウス・デッサウ展-08D 0806q


                        3.バウハウス・デッサウ展-04D 0806q


                                   4.バウハウス・デッサウ展-05D 0806q


いま、東京藝術大学大学美術館でバウハウス・デッサウ展が開かれています。(2008.4.26~7.21)

これまで私は、バウハウスとはモダニズム建築に大きな影響を与えた芸術運動と理解していましたが、この展覧会を見て、これは新しい芸術を創造する芸術運動という言うよりも、時代の要請を受けて、新しい芸術・技術の人材を養成する画期的にして希なる運動であったと認識するようになりました。

最初の設立地ヴァイマールを追われてデッサウに移転した事実は、そのことを象徴しているように思えます。当時のデッサウには、航空機という世界でも最先端産業が成長していました。航空機は自然の論理に逆らって巨大な重い物体を空中に飛ばす産業です。優れた技術とともに芸術的センスのある技術者が求められる産業だからです。

19世紀に生まれたイギリスの「アーツ・アンド・クラフト運動」やドイツの「ドイツ工作連盟」について、人々は芸術面に着目して論じますが、産業革命が先ずイギリスで起こり、ドイツがその後を追った産業史の進展の観点から眺めると、モダニズム芸術の流れも違った角度から理解できます。

ですから、バウハウスの基本理念は芸術の為の芸術でなく、未来の人間社会の生活に相応しい造形を産み出すことである、とのグロビウスの主張は核心を得ていると思います。そして、造形の対象を、身の回りの家具調度品に始まって家屋、ビル、更には都市形態にまで広げたことは、その主張を余すところなく説明しています。

次に、バウハウスが技術と芸術の融合をはかる「教育活動」に力を入れた先見性には感嘆します。これから始まる産業発展と人間生活の将来を描くのは、一芸術家のよくする所ではありません。この困難で壮大な課題に挑むのに、多くの若い世代を育てて、その解決を彼らに託そうとしたのです。

不幸にして当時の政治的事情でバウハウスの活動は短期に終わりましたが、バウハウスの有力な指導者やそこで成長した人材が広く世界に分散して、バウハウスの哲学と実践を伝えました。考え方によれば、バウハウスの短命だったことは、逆に世界への普及拡散の促進に役立ったとも言えます。

ドイツの伝統的手工業の職人気質を大切にしながら、カンディンスキー、クレー、モホイ=ナジなど当時の新進気鋭の芸術家が指導する芸術・技術集団が生まれたことは、いま考えると夢のような出来事です。このように歴史は時々奇跡を起こし、次の道を示すのです。

蛇足になりますが、写真家でもあるモホイ=ナジが、このバウハウスの一員として輝かしい業績を残したことを知り、写真を趣味とする私にとっても嬉しい事でした。モホイ=ナジは造形の世界で人間を統一的に把握するのに光の効果を用いることの大切さにいち早く気付き、写真メディアを用いた人です。

写真が事実の記録、記憶の保存、美感の伝達などに果たしている役割は、人々が想像している以上に大きいものです。バウハウスの活動がもう少し長続きし、モホイ=ナジがその中で活躍できたら、彼はどんな作品を残したかと考えながら展覧会場を去りました。
(以上)
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【2008/06/26 22:18】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
広告は暗喩的に
1.キャットストリート-08D 0806qrc


2.表参道-54D 0806qrc


3.表参道:青山通り東側-18D 06qc


                                  4.キャットストリート-16D 0806qt


                                   5.看板-33D 0805q


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広告は本来、直接的であり、明確であり、簡潔なるを良しとします。また、広告は嘘をつきません。警世家の山本夏彦氏は何処かで書いていました。新聞やテレビは時々嘘を報じて訂正しないが、広告は正直であると。広告で嘘をつけばたちどころに売上げ激減となりしっぺ返しを受けるからです。

しかし、広告を映像で見ていると、簡潔ではありますが明確でないものを結構見かけます。訴えることを広告のなかで直接表現せず、間接法で語りかけるからです。一見して何を訴えているのか分からないことがあります。

人は見て直ちに分からないことに遭遇すると、何故か気にかかり何事かと暫く記憶に留めます。そこがこの種の広告手法の狙いなのでしょう。一瞬虚を突く手法ですが、考えて遂に分からなければ広告にはなりません。

広告を出す側は、それを受け取る側に広告内容への十分な予備知識があると想定しているのかも知れません。そうであれば、間接的な広告、更には暗喩的な広告でも十分目的を果たせます。街角に並ぶ広告媒体としてもスマートです。

かくして、スマートな場所にはスマートな広告が並びます。掲げた写真はそのサンプルです。何を広告しているか、文字の広告は意味を読まずに、文字を映像として見た上で当てて下さい。
(以上)
【2008/06/20 12:40】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
文明論からみた写真機 ダゲールとグーテンベルグ
活版印刷機を発明した人としてグーテンベルグは有名ですが、写真機の発明者としてのダゲールはそれ程有名ではありません。

15世紀の印刷機の発明は、羅針盤、火薬とともにルネサンス期の三大発明と言われ、当時の情報伝達に革命を起こしたと高く評価されました。しかし、19世紀の写真機の発明は、物珍しさの対象として興味をもたれましたが、印刷機ほどの文明的意義を強調されませんでした。

人間が受ける刺激の80%は目からの情報ですが、文字が発明される前までは、その80%はすべて映像の刺激でした。文字が発明されて以降でも人々が得る外部情報は映像が圧倒的に多いと考えられます。特に、昨今のテレビの普及で映像情報の重要性は益々高まっています。

写真機は、映像情報を素早く作成し、広く伝達する有力な手段です。映像は文字よりも遙かに多くの情報を含んでいます。情報の伝達において、写真機は印刷機より優れており、その文明的役割は遙かに大きいものがあります。

写真機の文明的働きは、大きく分けて次の三点にあります。
第一は、事実の記録、即ち物事を正確に把握する働きです。これが威力を発揮しているのは自然科学の分野であり、産業技術の分野です。宇宙の観測も、ミクロの分析も写真技術無くしては達成できませんでした。

第二に、記録の保存です。幕末に来日した西洋人達は日本と日本人について撮った写真を沢山残しています。彼らが撮影した目的は、単なる文化的興味だけではなく、極東の小島の情報収集にあったと思いますが、日本人には先祖達が生きた時代の風景と風俗の記録として文字情報では到底伝えられない誠に興味深いものを残してくれました。消え去る過去を記録に留めるのに写真ほど威力を発揮するものはありません。

過去に撮られた写真が現在に伝える情報の貴重さを考えると、写真は現在を将来に伝える重要性な手段であることに気付きます。将来に伝えたい、或いは伝えるに値する映像は何か、現在の写真家はそこに注目しなければなりません。第一が自然科学的というならば第二は社会科学的とでも言えるでしょう。

第三に、感性の表現です。近代写真の始祖マン・レイは、写真機を絵筆にして「美」を求めた芸術家と言われています。写真表現を「美」にだけ絞る必要はありませんが、人間の感情や情感を表現したい動物です。音楽、絵画、彫刻、建築などいずれを見ても、人間は心の働きを形に表現したい動物です。写真も例外ではなく、芸術的分野で写真は大きな働きをしています。

このように考えてくると、写真機の発明は現代文明になくてはならない貢献をしたと言えます。
(以上)
【2008/06/14 23:17】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
落花の美
1.桜-13Pq
写真1

               2.ボートと桜-26P 86qt
               写真2

                         3.烏山寺町:宗福寺-09D 0805qtc
                         写真3

                                   4.落花-02D 0805qtc
                                   写真4

花は咲いている時が一番美しいです。散った花を惜しいとは云いますが、美しいと愛でる人は少ないでしょう。

桜の花は散り際が美しいですが、地面に散った花びらは無惨とは云いますが、美しいとは云いません。しかし、散った花びらで桜が更に美しくなる場合もあります。

散った花びらが花道を作ると、もう一度桜の中に入りたくなります。(写真1)
散った花びらが水面を覆うと、その中に分け入りたくなります。(写真2)

椿の花びらは根元から落ちるので、昔の武士社会では首が落ちると云って嫌いましたが、逆に形を崩しませんので観賞に堪えます。樹に咲いている時より、地面に落ちて樹の根本を囲っている落ち椿は見事です。

赤いつつじの花びらが緑のこけ庭に散った光景は、艶やかな着物の絵柄のようです。赤と緑は補色関係にあり、互いに相手の色を鮮やかに見せる効果があるので、一層引き立つのです。(写真3)

風嵐で葉とともに吹きちぎられた花びらは哀れです。まだまだ咲いていたかったのにと語っているようです。早過ぎた落花には、哀れの美しさがあります。(写真4)

花の季節の終わり頃には、樹の足許を見ると新しい美の発見があります。
(以上)
【2008/06/08 16:36】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
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