FC2ブログ
菜の花の咲く風景
1.菜の花-06P 87qtc
写真1
          2.菜の花-14P 92qtc
          写真2
                    3.菜の花畑-02P 99qtc
                    写真3
                              4.菜の花-16Pqt
                              写真4

菜の花は春になると何処にでも咲く身近な花です。下萌えの草と若芽の木々が薄緑に変わる頃、黄色い菜の花の存在は、自然の中で一際目立ちます。荒涼たる河原に密かに咲く菜の花は、ここにも春が到来したことを告げています。(写真1)

菜の花は可憐な花です。小川の土手上に一列になって咲く菜の花は軽やかで、今にも風景の中に消え入りそうです。菜の花の列の下を、枯れた川辺の蘆が伴走してくれて、ようやく持ち堪えているかのような風情です。(写真2)

このように菜の花は優しい姿の植物ですが、その生命力は雑草のように強靱です。そしてその種(たね)には豊富な油を蓄えていて、昔から貴重な資源を産む植物として栽培されてきました。

司馬遼太郎の歴史小説「菜の花の沖」には、菜の花が咲く淡路島の沖合を、大阪に向けて小さな瓦運搬舟を漕いでいく若き頃の高田屋嘉兵衛が描かれています。北海道の鰊を商って大廻船商人となった嘉兵衛の将来を予感させるのに、司馬遼太郎は小説の題名に菜の花を使ったのです。当時はお米の次に大事な換金作物は菜種でした。

他方、与謝蕪村は「菜の花や 月は東に 日は西に」と詠んでいます。この句は蕪村が六甲山に広がる菜の花畑から得た感興を述べたものと言われますが、蕪村は菜の花を天体の広がりの中心に据えています。菜の花にはそれだけのエネルギーを秘めているのです。

菜の花のエネルギーは、その色彩から発します。黄色は太陽の明るさを表します。黄色は収穫の豊饒を表します。視界一杯に広がる菜の花畑は、大地に漲る菜の花のエネルギーを感じさせます。(写真3)

菜の花はその強い生命力で地面の何処にでも生えます。断崖であれ絶壁であれ場所を選びません。地面を裂き空を隔てる菜の花の行列もあります。黄と黒の縞模様は虎の絵柄ですが、写真のような黄と茶の組合わせも菜の花の力強さを表していませんか?(写真4)
(以上)
スポンサーサイト



【2008/04/26 10:49】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は真実を写さない
写真が真実を写さないことは、写真を撮ったことのある人は皆気付いています。そのことが一番良く分かるのは自分を写した写真です。自分を自分で見れるのは鏡ですけれど、鏡に映った自分と写真に撮られた自分が余りに違うのに驚かない人はいないでしょう。

カラーフィルムが世に出たとき、日本では天然色と言いましたが、外国ではテクニカラーと言いました。天然色という言葉には、カラーフィルムは自然の色を写しているとの驚きがあります。しかし、テクニカラーには人工色という意味があります。テクニカラーの方が正直な表現でした。

生まれたばかりのカラーフィルムの色は不自然でしたが、その後品質の改善が進み、天然色という言葉に恥じない素晴らしいカラー写真が撮れるようになりました。それでも、白黒だけのモノクロフィルムへの需要は根強いものがあるのは何故でしょうか?

その理由として、カラーでは表現出来ない深遠な映像がモノクロ写真で表現できるからだと言われています。その主張を否定するわけではありませんが、別の観点からカラー写真は、いくら品質改善が進んでも所詮人工的な色彩であり、自然の色彩には敵わない、それ故モノクロ写真を選ぶのだとも言えます。

写真が真実を写さないのは色だけではありません。同じ被写体がカメラアングルで千変万化することは写真を撮る人は誰でも知っています。カメラアングルの数だけ真実があると言うのでは、何が真実か分からないということです。カメラアングルで物体の真実を写すのだと主張も怪しいものです。

カメラアングルとは、撮影する人が被写体の何処を見たいかで決まります。それは撮影者の主観です。主観は避けられないし、また悪いものでもなく、却って積極的に評価するものだと主張する人もいます。しかし、そうであれば異なった真実が幾つも存在することを認めることになります。

シュールレアリズムの写真は、眼に見える被写体の存在を越えるところに真実を求めたのです。画面の白黒を反転させたり、多重露光で異質のものを対比させたり、心象を比喩で構成したりして、被写体の奥に潜む真実の存在を求めたのです。

かくして写真は真実を求めて、益々迷路に入り込んで行きます。写真は真実を写さないと開き直った方が気が休まりますし、楽しくなります。
(以上)
【2008/04/21 09:52】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
三春の桜 季節の姿態
三春の花-11P 00q
写真1

               三春の葉桜-02P 99q
               写真2

                              三春の枝-10P 98q
                              写真3


日本の三大巨桜と言うと、三春滝桜(福島県三春町)、淡墨桜(岐阜県本巣市)、神代桜(山梨県北杜市)が挙げられます。いずれも数百年から千年の樹齢を誇りますが、何本もの柱で支えられて立っている姿を見ると、巨木というより老木の観があります。

しかし、その中では三春の滝桜が一番元気のようです。満開の時期には、桜花が樹木の全面を隙間無く覆い、地面すれすれまで裾周りを整えて、こんもりとした山のような滝桜となります。この姿からは、未だ樹精の衰えは見えません。(写真1)

桜の花が散り若葉の季節になると、滝桜は分厚い葉で覆われます。一本の樹で森を作るかのような重厚な姿です。周辺の菜の花に囲まれた、初夏の滝桜には逞しさがあります。(写真2)

やがて秋が過ぎて冬になると、葉を落とした滝桜はその骨格を現します。太い樹幹を前後左右に伸ばして、滝桜は均整のとれた見事な姿態を見せます。無数に分かれる先端の小枝はしなやかです。冬の空気を抱えるようでもあり、周囲の木々をなでるようでもあります。
(写真3)

三春には、この天然記念物の滝桜の外にも、その子孫に当たる枝垂桜の巨木があちこちに生えています。彼らは、いずれ第二、第三の滝桜となるでしょう。更に、三春町は桜の植林に熱心です。竹下内閣のとき配布された「ふるさと創生基金」は全てを桜の植樹に使った程の熱の入れ方です。
(以上)
【2008/04/14 22:28】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
シュルレアリズムと写真
東京都写真美術館で「シュルレアリズムと写真」というテーマで写真展が開催されています(2008.3.16~5.6)。その副題は「痙攣する美」です。

美は感動するものであり、挙げ句の果てに耽溺するものと思っていたので、「痙攣する美」とはどんなものか興味を以て見に行きました。以下に写真展の配列順に感想を述べます。

写真界でシュルレアリズム作家と言えば先ずマン・レイですが、作品「醒めて見る夢の会」は女一人と数人の男が何か一点を見詰める写真です。ウジェーヌ・アジェの「日食の間」は、パリの街なかで大勢の人が曇りガラスで欠けていく太陽を見詰める写真です。

シュルレアリズム(超現実)とは現実を越えるのではなく、現実のなかに内包する本当の現実に迫る芸術手法ですから、シュルレアリズムとは現実の「凝視」から始まると言いたいのでしょう。

シュルレアリズムは「凝視」であるなどと難しいことを言わずに、それを実践した写真家はウジェーヌ・アジェでした。しかし、アジェは自分はシュルレアリストではないと言って、誘われてもその運動には加わりませんでした。

アジェはパリの街中、建物の内部や装飾品などを克明に撮影しています。それらの写真は過ぎ去る時間に濾過されて存在感を増していきます。それがアジェ流のシュルレアリズムでした。

ブラッサイは、「パリの夜景」では高い位置からパリの街を見下ろしています。夜の街の光に浮かぶシルエットとして建造物の輪郭線を捉えています。屋上に並ぶ煙突群や壁面の彫刻は、シルエットになって初めて昼間見えない姿を現します。ブラッサイは同じ手法で「グラフィティ・太陽王」「オー・ト・プロヴァンスの石切場」でも、暗さの中に昼間見えない映像を切り取って見せます。

ソラリゼーション作品は白黒を反転させて存在の本質を明らかにするものですが、マン・レイは、「眠るモデル」「長い髪の女」などで、肉体の線を浮かび上がらせて美しさを引出しています。現実の中に内包する本当の現実を映像化するには、ソラリゼーションの手法を使うことが効果的だと分かります。

マン・レイの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いのように美しい」は難解な作品です。写真は題名の通りの内容ですが、この比喩が何故美しいのか分かりません。しかし、同じ手法を用いたマン・レイの作品「アングルのヴァイオリン」なら分かります。裸婦の臀部の少し上にト音記号を二つ貼り付けて女体からヴァイオリンを連想させるからです。

関係のない二つの対象物を一つの画面に入れて、その相関関係から第三の世界を創造する手法を徹底させたものに、多重露光の作品があります。モーリス・タバールの作品「コンポジション」「フォトモンタージュ」、瑛九のモンタージュ写真などは、現実の内奥を探って心に写った映像を描く写真です。しかし、これらのモンタージュ写真からは具象を想像することは困難です。

心象が具象に繋がる写真もあります。アントン・ケルテスの作品「ディストーション」は、人体、顔をデフォルメした写真です。現実には存在しない映像を現実から造り出したデフォルメ写真も一種の心象写真ですが、これなら具象へのつながりは分かります。

以上、理解できる範囲でシュルレアリズム写真とは何かを辿ってみると、凝視、暗闇、白黒反転、比喩、多重、心象などの方法で表現される一連の写真が浮かび上がってきます。これらの写真で新しい美の発見に感動することはあっても、その過程で幾重もの知的操作を要求されるのがシュルレアリズム写真だと分かりました。とても「痙攣する美」には到達出来ませんでした。
(以上)
【2008/04/08 19:00】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
藁とトタンの屋根のデザイン
1.白川郷-08D 0702qtc
写真1
       2.トタン屋根-04P 97qtc
       写真2
                 3.会津-02P 96qtc
                 写真3
                              4.角館-08P 98rc
                              写真4
                                     5.三内丸山-12P 99t
                                     写真5

日本の家屋の屋根は、瓦か藁かトタンで葺かれています。瓦は6世紀終わりに朝鮮半島を経て仏教と共に日本に伝わりました。そして、奈良の飛鳥寺で初めて使用されたと言われます。

瓦は高価でしたから、その後も瓦は主として寺院の屋根を葺くのに使われ、下って江戸時代になっても、お城や武家屋敷に使われるのが普通でした。

一般の家屋では、屋根は藁、蘆などの草、檜などの木の皮で葺くのが普通でした。近代になるとトタンなどの金属板が現れましたが、藁やトタンで葺かれた屋根のデザインは、瓦建築の屋根に劣らず優れたものが多くあります。

有名な例は岐阜県の白川郷の合掌造りですが(写真1)、その他の農村でも藁葺きやトタン葺きの美しい屋根を見ることが出来ます。そのデザインは端正で品格があるものです。(写真2、3、4)

更に時代を縄文期に遡りますと、想像復元の家ではありますが、青森県の縄文遺跡三内丸山にあるような流麗なデザインの高床式家屋の屋根を見ることができます。(写真5)

西洋建築で重要視するのは壁であるのに対し、日本家屋で重要視するは屋根と床です。高緯度にある西洋諸国では厚い壁で寒気を遮断することが大事ですが、モンスーン地帯に属する日本では雨露をしのぐ屋根が大事です。

従って、西洋の建物は壁を飾りますが、日本の家は屋根に衣裳をこらします。昔から日本の農村で美しいデザインの屋根が生まれたのは、それだけ屋根を重視したからです。

今まで見過ごされていた日本の伝統的屋根のデザインに、もう一度注目してみては如何ですか?
(以上)
【2008/04/01 19:46】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |