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写真の詩人 ジャコメッリ
いま、東京都写真美術館で写真展「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ」が開かれています。(2008.3.15~5.6)

マリオ・ジャコメッリは、生まれ故郷のイタリア北部の街、セニガリアで殆どの作品を撮り続けたアマチュア写真家です。今まで日本では余り知られていませんでしたが、欧米では戦後の写真界を代表する写真家の一人として既に高い評価を受けているとのことです。

今回の写真展は、ジャコメッリの代表作品群をシリーズ毎に纏めて展示した日本最初の写真展です。そしてジャコメッリの写真が欧米で高い評価を得ている理由を存分に分からせる写真展です。

ジャコメッリの写真の凄さは、ジャコメッリが詩人として感得した心象を、写真で造形して見せたところにあります。ジャコメッリにとって、写真は外界に存在するモノを撮影するものではなく、心の中に湧き出でるイメージを撮影するのものでした。

その具体的な例示を、彼の作品のシリーズ別に見て行きましょう。

第一は、遺作の「この想い出をきみに伝えん」(1998~2000)です。死を意識したジャコメッリは、廃屋や畑の中でカラス、犬などと共に写真に写っています。大きな黒い鳩の影を凝視するジャコメッリの眼には、自然と動物たちへの愛があります。写真の中のジャコメッリは来し方を回想します。回想する意識の流れを写真で捉えた作品です。

第二に、「雪の劇場」(1984~86)は、「イメージの内面への喚起力に対する実験的作品」と説明が付いています。6枚のモンタージュ写真は独立していて相互に関連はありませんが、夫々に厳しい雪の風景のイメージが写されています。中でも雪の中を数人の老婆が迫ってくる写真には鬼気迫るものがあります。不安と恐れとは、このように写すのだと言っているようです。

第三に、「自然について知っていること」(1954~2000)は農村の風景を鳥瞰した写真です。耕作された大地は、時には波打つように、またある時はしわ寄せるように、様々な表情を示しています。そこには秩序ある紋様と、攪乱された混沌が入り交じった自然の姿が展開します。大地は語っています、大地は嘆いています、大地の心はこのように写すのだと、ジャコメッリ言います。

第四に、「樹木の断面」(1967~68)では輪切りにされた大木の年輪が拡大して写されています。その年輪の紋様は、上述の大地の耕作された紋様に似た曲線で構成されています。人間の営みの結果としての大地の造形と、樹木の成長の結果としての造形が、同じ形に終わるのは不思議な現象です。遂には、年輪に目鼻まで付いて、老婆の顔に見えるに至って絶句します。老いたる樹木の心情は、ジャコメッリの眼にはこのように見えたのでしょう。

第五に、「スカンノ」(1957~59)は、イタリア北部のフブルッツオ山塊の中央に位置する、山間の古い町スカンノの村民たちの写真です。ここでは独特の黒衣を着る風習があります。ここでは白い壁の家々を背景に町を歩く黒衣の老人たちの表情や仕草が撮られています。もともと写真撮影はある時点の光景を凍結する行為ですから、ここでも時間が止められています。しかし、これらの写真を見ていると、止まった時間が見る人の意識の中で再び動き出すようです。

第六に、「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」(1954~83)は、死を迎える所、ホスピスで撮影した写真です。「老いとは時間」であり「生は死と共存」し「皺がその象徴」であると説明しています。ジャコメッリは、死には生の全てが凝縮していると見ています。生きてきた時間の全てが死に埋め込まれていると感じています。ホスピスの老人たちを撮影しながら、ジャコメッリは死を共感していたのでしょう。

最後に、このマリオ・ジャコメッリの写真展は、他の写真展にはない新鮮さと重量感があります。その理由は、この写真展が、数年または数十年に亘りジャコメッリが撮った写真を、それぞれのコンセプトに纏めて編集したからです。それにもう一つ、これらの写真が全てモノクロ写真であることです。

詩人としての感性で撮り続けた写真を、詩人の感性で編集したジャコメッリの写真は、絵画や動画の映像芸術とは違った、新しい写真表現の世界があることを示したものと思います。
(以上)
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【2008/03/26 18:16】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
動きを捉える写真
角館-03P 98c

                                   新宿-01P 03tc


写真には動画と静止画があります。動画は動く実像を動くままに写した映像であり、静止画は動く実像の一時点を写した映像です。英語では前者を movie と言い、後者を still photo と言います。

発明され実用に供された順序は、ご存じのように静止画が先であり動画はその後です。動画の方は、連続する静止画像を高速で切替えて、目の残像現象により実像が動くように見せるのに対し、静止画の方は、逆に動く実像をある時点で止めた画像です。

両者の原理的違いとしては、動画には時間の経過が不可欠ですが、静止画には時間軸は不要です。そのことについて、宗教哲学者の中沢新一氏は次のように述べています。
「映画は遊牧民の精神であり、写真は狩猟民の精神である」と。

しかし、この中沢氏の面白い表現は、単に時間軸の有無を述べた以上に、静止画と言われる写真の本質を衝いています。写真家は動く獲物を狙う猟師のように、動く実像から決定的瞬間を探しているからです。

動きを捉えることは、なにも動画の専売特許ではありません。静止画も動きの一瞬を切落として捉えます。動画では残像は網膜から次々消えますが、静止画では動きは点の軌跡としてフィルムに残ります。その形は点ではなく、線です。

歌川広重の江戸百景「大はしあたけの夕立」には、黒い雲から橋の上に降る夕立を沢山の線で現しています。西欧印象派の画家は水滴を線で捉えた浮世絵に感嘆したと言います。

江戸時代の絵師たちは、still photo の目を持っていたのです。現代の still photo が捉えた雪と自動車の線を写真でお目に掛けます。
(以上)
【2008/03/20 19:04】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
枯木は冬山の地味な衣裳
山姿-07P 88tc

山姿-08P 88tc

                  樹木-11P 89qtc

                  樹木-26P 91qtc

                            白樺-01P 89qtc

                            白樺-02P 89qtc


諺に「枯木も山の賑い」と言いますが、その意味は「つまらないものでも無いよりはまし」と言うことです。しかし、現実はそれとは大違いで、冬の枯木は無くてならぬ山の装いです。

常緑樹だけで覆われた山は、夏と冬で姿を余り変えませんが、落葉樹の山は、四季に応じて彩りを変えます。

秋の紅葉は落葉樹が美しさのピークを飾るものですが、冬の枯木も秋の紅葉に劣らず山の美しさを演出します。

落葉樹の枯枝で覆われた山は、明るいモノトーンの風景を繰り広げますが、それに常緑樹の濃い緑が混ざると、山はツートンカラーの複雑な模様に変わります。

写真をご覧になれば、冬の山は地味な衣裳を纏って、夏の山とは比較にならぬ程シックな姿になることが分かるでしょう。
(以上)
【2008/03/13 11:42】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は神性を抱けない
近世から現代への絵画は、具象画から抽象画へ変遷していくように見えます。19世紀に写真が発明されてから、その傾向が強まったようです。

しかし、人類の絵画の歴史は、抽象画から具象画へ進んできたとヴォリンゲルは言います。数千年も前の洞窟に描かれた動物の絵は、具象的ではなく抽象的でした。それは古代人の絵画技巧が稚拙だったからではなく、抽象画の方が感情を移入し易かったからだと言うのです。

ルネッサンス以前の宗教画やイコンを見ると、現実描写は稚拙に見えますが、そのことは宗教的感情を移入する観点からは障害となりませんでした。イコンに神性を見いだせれば十分だからです。

例えば、キリスト教、特にギリシャ正教では聖人をかたどり礼拝の対象とするイコンは重要なものです。イコン崇拝は宗教の物語を伝えると同時に、イコンそのものに神性を与えてきたからです。

しかし、ルネッサンスは人間性の回復運動であり、絵画や彫刻は、宗教の束縛から人間を解放するものでした。ルネッサンス芸術は、神への賛美から人間の賛美へと転換を遂げます。

ルネッサンス芸術は西ローマの世界で花咲き、やがて西洋絵画の主題は、宗教をテーマにしたものから人間そのものを描くようになります。ギリシャ彫刻が神々を具体的に造形したように、西洋絵画は人間や自然をあるがままに表現しました。

かくて宗教から解き放たれた近代芸術は、純粋なアートとして発展していきます。更に進んで、具体的な意味を離れて造形性が強調されます。絵画から「モノ」の姿を消した抽象絵画が現れます。

抽象絵画は画家が言葉によらないで構築した思想や感情です。抽象画を見る人は、その絵から言葉では説明できない感動を受け取ることになります。しかし、写真家は感動を構築しません。ただ人の気付かない真実を暴露するだけです。

批評家ソンタグが、画家は構築するのに写真家は暴露すると言ったのは、そのことです。ヴォーゲルの言うように抽象画の方が感情移入し易いでしょうが、形有るもの全てを記録に留める写真では感情移入が働く余地はありません。

写真の暴露する力は神性を否定します。その意味で、写真は宗教性と相容れないでしょう。絵画は宗教性を排除しながら抽象画に至りましたが、写真は最初から宗教性を抱く余地はなかったのです。
(以上)
【2008/03/07 22:05】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
枯木の造形美
01.樹林-01P 85qtc
写真1

02.枯木立-01P 90q
写真2

          03.樹木-50P 89qc
          写真3

          04.樹木-42P 89qtc
          写真4

                    05.柿-07P 91qtc
                    写真5

                    06.樹木-09P 89qc
                    写真6

                              07.樹木-05P 99qc
                              写真7

                              08.樹木-37P 91qtc
                              写真8

                                   09.樹木-30P 91q
                                   写真9

                                   10.樹木-30Pq
                                   写真10

満遍なく葉が太陽の光を受けるべく、樹木は大枝、小枝を空中に広げます。夏は葉に隠れて枝の姿は見えませんが、秋から冬にかけて葉が落ちると枝の全容が現れます。みな精一杯に太陽に手を差伸べている様子がよく分かります。

その枝の形は樹種により様々です。
すっくと真っ直ぐに立っている樹もあれば、お辞儀するようにかがむ樹もあります。(写真1、2)

流れるように一方になびいている枝もあれば、自由気ままに這い回る枝もあります。(写真3、4)

孤立して生えている樹は、一本だけで樹形を整えて己の世界を築きますが、何本も集まって生えている樹は、互いに協調して集団としての樹形を整えます。(写真5、6)

枝と枝との間隔を詰めて隙間がなく枝を伸ばす密度の高い樹もあれば、枝を満遍なく広げて与えられた空間を余すところ無く上手に使っている樹もあります。(写真7、8)

冬も終わりに近づくと、いち早く春を感知して芽を膨らます枯木もあります。そうなると、樹は僅かに色づき、枯木全体が柔らかみを帯びます。(写真9、10)

これらの樹の枝々を見ていると、自然の造形の素晴らさに感嘆します。
(以上)
【2008/03/01 19:01】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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