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メイプルソープと猥褻
先日(2月19日)最高裁判所が男性器の写真が収録されたメイプルソープの写真集は猥褻物とは言えないとの判決を下したと新聞は報じました。

ロバート・メイプルソープはアメリカの写真家で、花、静物、彫像、人体などをモノクロームで撮影し、被写体に潜む形の美しさを引出す名人でした。彼の写真が芸術的表現であることは争う余地はないのですが、作品の社会的影響という点が裁判の争点になったのです。

芸術作品が最高裁判所まで争われた有名なケースはチャタレイ裁判です。その時は、D.H.ローレンスの小説「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳した作家伊藤整氏と出版社の小山社長に有罪判決が下されました。

この時は、特別弁護人を買って出た、評論家の福田恒存氏が完膚無きまでに検察側を論破しましたが、社会的影響への配慮が勝ち、有罪となりました。

芸術にはもともと毒が含まれています。毒のない芸実など芸術に値しないとまで言われます。その毒はしばしば社会の秩序と対立します。社会の秩序を維持するのが裁判官の仕事ですから、裁判官に芸術への理解を求めても無理なのです。そもそも芸術論は裁判に馴染まないのです。

チャタレイ裁判では有罪でしたが、メイプルソープ裁判は無罪でした。これは、チャタレイの芸術的価値は否定されたが、メイプルソープの芸術的価値が認められたということではありません。前者では社会的影響が大きかったが、後者では小さいと判断されたということです。

今回の裁判では、性表現に対する社会意識の変化を考慮したと新聞は伝えています。写真の芸術的価値とは拘わりなく、裁判官の判断基準は社会の状況に応じて変わるということです。それなら、社会的影響が大きい猥褻出版物が街に氾濫しているのを放置しておいて、なにゆえメイプルソープの写真集を裁判にかけるのか不思議な事件でした。

音楽家で脳生理に詳しい伊東乾氏は「エロサイトはヒトをサルにする」と言っています。淫らな刺激を過度に脳に加えると、脳は酸欠状態になり悟性的な判断を下せなくなるとのことです。これこそ社会にとって危険で有害な行為です。

裁判にかけるなら、表現の自由を口実として金儲けのために猥褻物を氾濫させている週刊誌やネットのサイトをどしどし取り締まったらよいのです。そうすれば裁判官は理解できない芸術論を論じなくても済んだでしょう。
(以上)
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【2008/02/24 12:34】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
葉は花より美しい
樹の葉-07Pq

             樹の葉-09Pqc

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美しいものは美しく見えて当然です。自然界で花は美しいものの代表です。ですから花を撮れば美しく撮れて当然です。これは「当然の美」と言いましょう。

普段、余り美しいとは思わないものが美しく見える時があります。他人が美しいと思わないものが美しく見える時があります。他人が美しいと思う以上に美しく見える場合もあります。

これらは、「当然の美」ではありません。それは新規な「美の発見」と言うものです。「美の発見」のためには、何時も見慣れたところから離れて見知らぬ土地を訪ねることも大事ですが、日常の身の回りの物事を新鮮な目で眺めることも大事です。

世の中で美しいと言われているものは敢えて追わずに、人々から興味を持たれていないものに注目する努力も大切です。一例として、主役の「花」ではなく、脇役の「葉」を取上げてみます。

花は色と形で人々を魅了します。葉も花と同じく、色と形で美しさを訴えます。葉は「美」が芽生え、成長し、衰退する、夫々の過程で違った美しさを示します。花よりも葉は多様な「美」を現します。

拙い写真ですから、意図するところを十分説明できませんが、お察し下されば幸いです。
(以上)
【2008/02/18 20:49】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
土田ヒロミの写真展
東京都写真美術館で写真展「土田ヒロミのニッポン」が開催されています(07.12.15~08.2.20)。

写真展の名前が「ニッポン」となっているのは、写真家土田ヒロミ氏が写真で追求したのは正にニッポンだからです。そのニッポンも、表面的な現象としてのニッポンでなく、日本社会の底流に流れる根源的なニッポンとは何かを明らかにしようとした写真展です。そして、その方法もメジャーを避けてマイナーな現象から根源に迫りました。

写真展は、「俗神」「砂を数える」「パーティー」「新・砂を数える」「ヒロシマの三部作」「続・俗神」の6部に分かれています。以下に各部の感想を述べてみます。

「俗神」は土田ヒロミ氏が写真家としての出発点となった作品群でして、日本の高度成長期にその光に当たらない農村地帯の風俗を撮影したものです。土俗的な神事を撮るよりも、消えゆく生活風俗を撮影したものが良いと思いました。その中で「秋田・黒湯」の老婆たちの入浴風景、「青森・岩木」の湯治場風景が印象に残りました。背後に土俗信仰を感じさせます。

「砂を数える」は、群衆のエネルギーを直截に、余すところなく捉えた傑作の作品群です。この大衆のエネルギーが戦後日本の復興を成し遂げたのです。大衆はこれらの写真を見て、ここに自画像があると思ったでしょう。

中でも、「初詣 鎌倉」の2点は圧巻だと思います。参道を埋尽くす新年の参拝者を、背後から前面から捉えたものです。特に、背後から撮影した写真は、黒髪の頭、頭、頭と、画面が真っ黒です。現在のように白髪も茶髪も混じっていません。日本人が集団になると黒山の人だかりになるとは、このことかと納得しました。黒山の群衆は当時のエネルギーを示しています。

「パーティー」は一連の作品群の中では異色の写真です。ハレの場の有名人?をアップで捉えています。作者はバブル経済で踊る日本の一面を捉えたと言いますが、人物の豊かな表情や仕草は、性格までスナップしていて、見ていて飽きません。バブルに浮かれた軽薄さというよりは、明るく陽気な人々で好感を持てるショットです。

「新・砂を数える」は、前作の「砂を数える」が凝縮する群衆であったのに対し、拡散する群衆です。広いスペースに散在する人物が、拡散しながらも相互の関係を維持して、夫々の動きを示しています。凝縮する群衆にあったエネルギッシュな動きはありませんが、その代わりに、調和の姿があります。高度成長から安定成長への世相を形で示したものです。

その中で、自然を背景にした「横浜」「鳥取」「三国」「秩父」「三春」は、広がる群衆が心地よい調和を表していましたが、人工的な施設を背景とした「東京(流れるプール)」「東京(お台場)」「十日町」「養老」は施設のどぎつい色彩が目立ち、調和というより攪乱を感じます。安定した社会で人々は色彩感覚を失い、原色の氾濫に鈍感になったことを示しているのでしょうか?

「ヒロシマの三部作」は、原爆の遺品、原爆体験者のその後の集めた写真です。物言わぬ遺品や体験者が、無言の表現で迫ります。「パーティー」の諸作品からは想像できない写真家土田ヒロミの一面をみます。

「続・俗神」は日本の祭りを記号化したものだと作者は言います。しかし、最初の「俗神」が当時の風俗を撮影して伝統的な土俗信仰まで連想させるのに対し、この「続・俗神」で風俗の衣裳を纏った人間は、形の面白さに終わっています。記号化するのであれば、縄文時代までを連想させる何かが欲しかったと思います。
(以上)
【2008/02/12 15:35】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
上空から見た街のデザイン
世界貿易センタービル眺望-06D 0802qc
写真1 世界貿易センタービルから見た浜松町付近

                 城壁からのドブロブニク-22D 0610qc
                 写真2 クロアチアの古都ドブロクニク

                 函館山-03P 99t
                 写真3 函館の街並

                                   鴨川-10P 94tc
                                   写真4 京都鴨川沿いの民家

洋の東西を問わず、ビルは道路から見栄えの良いように造られます。西欧建築でファサードとは建築物の正面を指す言葉であり、そこを豪華に飾ります。日本のビルも正面は立派ですが裏側や側面は粗末なものが沢山あります。

見える所を飾り、見えない所は程ほどにしても結構ですが、見えないと思っていた所が実は見えるようになると困ります。鳥のように空を飛べない私達は、上空から街を見下ろす機会は希でした。しかし、ビルが高層化すると、上層階の窓から街を見下ろす機会は増えてきました。ビルの後ろや横は隣のビルが隠してくれますが、上空からは隠してくれるものはありません。

飛行機や東京タワーのように高い所からでは高すぎてよく分からないですが、高層ビル群からはビルの屋上が細かい所までよく見えます。最近は高層ビルは続々と建っていますから、低層ビルの屋上が雑然として見苦しい状態が丸見えとなります。
(写真1)

上空から見た街のデザインとしては、基本的にはビルの大きさと高さが不規則でバラバラなことが悪いのですが、これには今更手を着けられませんので、せめて屋上の空調と給水の機器について色彩や形態を手直しして調和を図る手だてはないものかと思います。

外国の街は上空から眺めて美しいです。殊に古都と言われるところは、屋根の色彩は統一されており、屋根の形態も相似しており、街中を歩くより上から眺めた方が美しい位です。(写真2)

それに比べて日本の街は、色彩も形態もまちまちであり、とても美しいとは言えません。これは戦後、建築資材の多様化が直接の原因ではありますが、貧しさと美的関心の喪失の所為でもあります。
(写真3)

日本でも古都の京都に僅かに残された町屋の屋根の並びは美しいものでした。(写真4)
今でも、歴史的景観の保全に取組んでいる地域や、観光資源を大事にする地域では、家並みと共に屋根並びにも美しさを維持しようとしているところがあります。

現代の大都市でも努力すれば、もう少しましな景観に変えることは出来るでしょう。これからは、都市の美観というときには屋上の構造物の整理整頓にも関心を払いたいものです。景観条例で屋根または屋上の美化について規制を設けてみては如何でしょうか?
(以上)
【2008/02/07 10:43】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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