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庭のお色直し
さつき-07P 90qc

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結婚の披露宴でお色直しという行事があります。披露宴たけなわの頃、新婦が衣裳を着替えて改めて登場する儀式です。この頃は新婦だけでなく新郎もお色直しをする人も現れていますが、なんと言ってもお色直しの花形は新婦の方です。

新婦のお色直しは、大抵は和装から洋装に変身するものです。洋装に着替える方が、和装に着替えるよりも手間暇が掛からないからでしょう。宴会の花形が衣替えして参会者の目を楽しませることは大いに結構なことです。

ファッション・ショウでは何人ものモデルが衣裳を替えて次々と舞台に登場します。結婚披露宴では人物が主役ですが、ファッション・ショウでは衣裳が主役主です。ですから、登場人物のモデルが交代しても気にしてはいけません。

しかし、ファッションの専門家でない人々にはモデルが代わることは大変気になります。何故なら衣裳とそれを着る人とは一体として見えるからです。ですから、ファッション衣裳の評価もモデルの好みで変わることもあると思います。

さて、衣裳を替えるのは人間だけではありません。自然界も四季に応じて衣替えをすることは、皆さんご存じの通りです。日本の四季は徐々に変化しますから、自然の衣替えは、披露宴のように忽然と変化するのではなく、グラデーション(諧調)の変化として現れます。

その変化は、変化したことを強調しない変化です。同じ所を何度もくり返し見ていないと、つい見落としてしまう変化です。それは色のグラデーションであると同時に、時間のグラデーションでもあります。

そこで、ここではファッション・ショウのようではなく、結婚披露宴のようにモデルを固定します。そして徐々に変化する時間を、シャターで固定します。そうして撮った写真を掲げました。お色直をした自然の新婦の様子をご覧下さい。
(以上)
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【2007/12/27 11:29】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
雪吊は何故美しいか
旧古河庭園-24D 0712qc


冬が近づくと金沢市の兼六園では常緑樹に雪吊(ゆきつり)という仕掛けが施されます。仕掛けられた雪吊は、傘を半開きにした三角帽子の形です。ですから藁縄で編まれた雪吊を被せられた木は、恰もクリスマスツリーのように見えます。

丁度その頃はクリスマス・シーズンで、街中では同じく三角帽子形の針葉樹にクリスマス電球と短冊などを載せたクリスマスツリーを見かけます。そこで、ついつい比較してしまうのですが、無機質の飾りものを付けたクリスマスツリーよりも、藁工品の雪吊の方が樹木にマッチして美しいと思うのです。

それはともかく、雪吊は、水分を含んだ重い雪に木の枝が耐えるために作るものであって飾りではありません。しかしその装飾性はアートにまで高められています。何故そう感じるのでしょうか?

雪吊は三角帽子の形ですから、庭のどの位置から見ても三角形に見えます。また、雪吊そのものの絵柄も三角形です。頂点から等間隔で傘の裾に伸びる縄は、細長い三角形を形作るからです。雪吊は三角形のリズムで構成されています。

更に、庭に並ぶ幾つもの雪吊は、大きさは違っても皆三角形のリズムを維持します。そして雪吊は池に映ります。こうして雪吊は、池の中にも逆三角形の雪吊を描きます。かくして雪吊のある庭には、冬を迎えて三角形という形態の統一美に満ちるのです。

面を作るときも、立体を作るときも、最も少ない辺と面で構成されるのは三角形です。この単純さが雪吊の庭を美しく見せる秘密でもあります。樹木の形態は曲線ですが雪吊は直線です。樹木をアナログだとすれば雪吊はデジタルです。雪吊の単純なデジタルの直線が樹木の複雑なアナログの曲線と交わるとき、庭園全体がアートの作品に変ずるのです。

金沢では雪吊が冬の到来を告げる風物詩となっています。雪深い金沢の兼六園に訪ねる人々が多いのは、このアートを見たいからでしょう。しかし、そのアートは兼六園だけのものではありません。最近では雪の少ない東京の公園でも雪吊のアートは見られます。写真は旧古河庭園のものです。
(以上)
【2007/12/21 12:10】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
アートディレクター これからのデザイン界のリーダー
戦後のデザイン界をリードしてきたのは、工業デザインだと言われます。高度成長時代には工業製品のデザインの善し悪しが売り上げに影響するので、産業界が熱心に取り組み、当時の通産省がグッドデザイン賞を設けて、産業界を後押ししました。

その後、消費者の立場から誰にでも使いやすいデザインを求めるユニヴァーサル・デザインの運動が広がり、最近では環境に優しいエコ・デザインという新しい発想も生まれています。

通常、人々はデザインという言葉を、商品の形態や色彩のような物の衣裳という意味で使っていますが、それだけに限らず装置や建物にもデザインがあります。更に、組織や運営方法までデザインする対象になります。

デザイナーには、アートディレクターと称する人々がいます。彼らは、食器や自動車や洋服等のような、形のあるものをデザインするわけではありません。これらの形あるものを構成したり総合したりして、人々の求める空間を作り、組織を作ります。

それは、丁度、雑誌の編集者の仕事に似ています。編集者は、読者の欲望を充足するために雑誌に載せる記事や小説を選択します。編集者は誰に何を書かせるかを決めるのが仕事であり、自らは書きません。しかし雑誌の売り上げには、小説家より編集者の腕にかかるところが大きいのです。

アートディレクターは、私達の五感に感知されるもの全てをデザインします。それは具象、抽象を問いません。アートディレクターは、むしろデザインが持つ抽象的効果を良く知っており、その方面で力を発揮します。

アートディレクターは、商品であれ組織であれ方法であれ、社会が求めるものを模索し、創案する人達です。アートディレクターは潜在的な需要を掘り起こして実現する人達です。

もともとデザインとは、人に利便性を与えるとともに、心に感動を与えるもでした。
ドナルド・A・ノーマンは著書「エモーショナル・デザイン」の中で、デザインは三つの要素から構成されるとして、(1)見た目の良さ、楽しさ、(2)使うときの喜び、楽しさ、(3)美しくもなく、実用的でもない、だが何かを考えさせる、と指摘しています。

美しくもなく、実用的でもないが、人々を考えさせ、やがて喜びになり、人々の心に感動を与える仕事をするのが、理想的なアートディレクターでしょう。それがアートと呼ばれる所以です。
(以上)
【2007/12/15 12:59】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
秋の野山は絵柄の宝庫
                                   旧古河庭園-22D 0712qc
                                   旧古河庭園
京都:外務研修-16N 72
修学院離宮
                                 紅葉-01P 99c
                                 八甲田山
紅葉-35P 88qc
奥多摩

秋に日が短くなり、気温が下がり始めると、木々はみどりの葉を赤や黄色に変えます。日本の野山では常緑樹の緑色に、赤色と黄色が加わり錦色となります。常緑樹と落葉樹が共棲している山々は、本当に美しく輝きます。

外国で見る紅葉は、色鮮やかで豪快です。それは赤一色、黄気一色という風景が多く、圧倒されます。カナダの原野は全山赤一色となりますし、北欧の山林は黄一色で被われます。しかし、その風景は全体として単調であり、長く見ていると退屈します。

他方、日本の秋の野山は、赤と黄と緑の三色が織りなす錦色をしています。その原因は日本の気候風土が四季に寒暖の差が少なく、降雨量が比較的多いためです。自然の樹林に異なる樹種が混ざり合って生育し、それが日本の紅葉林を、きめ細かく見飽きない風景にしているのです。

それに加えて、日本の秋の景色が素晴らしいのは、常緑樹の暗い色が赤色や黄色の色彩を目立たせるからです。京都の西陣織は、この原理を生かしています。華やかな錦色の絵柄は黒の地によって更に映えます。

日本の秋の野山は絵柄の宝庫です。西陣織の原型を見るかのようです。
(以上)
【2007/12/08 11:58】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東松照明の写真 TOKYO 曼荼羅から
東京都写真美術館で東松照明の写真展「TOKYO 曼荼羅」が開催されています。東松は、今までにマンダラと称する写真展を「長崎マンダラ」「沖縄マンダラ」「京まんだら」「愛知曼荼羅」と4回開催しており、今回は第5回目に当たり、東松はこれを最後にしたいと言っています。

東松は名古屋生まれで、撮影のため長崎、沖縄、千葉などに移住して作品を制作していますが、今回は、東京を拠点として撮影していた時代、即ち20~60歳代の40年間に撮影した1183点から選んで、「TOKYO 曼荼羅」と題したと言います。

曼荼羅とは仏教で宗教的世界観を視覚的に象徴したものですが、東松が「曼荼羅」と言うとき何を意味するのかは作品を通して理解する外なく、「TOKYO」の意味も活動拠点が東京だったと言うことだけですから東京に特に意味があるわけでもなく、要は東松が青年期から壮年期に写真撮影で何を求め、何を訴えたかを作品で示そうとした展覧会だと言って良いでしょう。

そう考えると、戦後の日本を写真で切り取ってきた東松の主張が明瞭に現れた写真展であると思います。

敗戦後の日本で、占領軍の姿は日本人に強烈な違和感を与え続けました。東松の写真集「チューインガムとチョコレート」は、その違和感を克明に映像化した作品です。好き嫌いを越えて、異質な物への強烈な興味が、東松をして米兵とそれに関わる日本人を撮り続けさせたのでしょう。今回の会場で、間欠的に展示された「チューインガムとチョコレート」の多数の写真は、東松の撮影態度の基調を示すものとなりました。

次に興味を持ったのは、東松の写真には、部分を示して全体を理解させる類の作品が数多くあることです。そのような作品として原爆のヒロシマ・シリーズは既に有名ですが、アスファルト・シリーズや砂浜の廃棄プラスティックを題材にした作品も、写っているモノの背後にあるものを暗示して、見る人に深い思考を求めます。

第三に、「インターフェイス」28点は、海底の岩に棲息する貝、海草、虫などが描く生命の軌跡を撮影したものです。ここには人工的なものは一切ありません。しかし、自然は不思議なリズムを以て、人間が想像できない複雑で美しい形態を造形するものだと示しています。

第四に、作品「ニューワールド」は、部分を以て全体を想起させる東松の従来の手法とは違い、象徴を掲げて具象を想像させると言う不思議な写真です。俳句の世界では、詠む人と観賞する人との間に経験や価値観の相違があると、描かれた実像が虚像になり、心の虚像が実像になるという逆転が生ずると言います。東松のこれらの作品を見ていると、虚実の逆転を強いられる心境になります。

第五に、作品「キャラクター」は電子部品が主役になります。「ニューワールド」では有機物と無機物との混成(例えば電子部品と海草の組み合わせ)で虚実の役割を分担させていたのが、個々では無機物だけの世界になります。投げ出された電子部品が、生命のある動物や昆虫に見えてくる映像です。虚実を併せ持つ世界を、電子部品に発見したのかも知れません。

そう言えば、我々が住む現代の社会は、電子部品で動かされている世界です。個々の電子部品は隠されていて私達の目には触れず、それらが動かしている世界を私達は毎日見ているわけです。毎日見ている世界は虚像であり、実像は電子部品にあるのだと、東松は主張しているようです。

曼荼羅は、サンスクリット語で「本質をもつもの」と言う意味だそうです。「キャラクター」は現代社会のエッセンスはここにあり、と主張しているようです。

東松照明は、嘗てテレビで次のように述べていました。
「あらゆる事が閉塞情況にある今、写真が見直される。人々は見えにくい世の成行きを見定めようとして、写真を見る。だから、今改めて写真なのだ」と。

東松が曼荼羅シリーズを「TOKYO 曼荼羅」で最後にしたいと述べた意味が分かりました。
(以上)
【2007/12/02 10:00】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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