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ススキは光を捉える名人
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野口雨情作詞、中山晋平作曲の演歌、船頭小唄では次のように歌われます。

おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき

この歌は、花も実もなく頼りない二人の人生を、ススキへ感情移入して歌ったものです。しかし、実はススキは逞しい雑草なのです。生存競争をする雑草のなかでも最後に勝ち残るのがススキなのです。ススキが繁茂した後に、草原を支配するのはアカマツなどの樹木だそうです。アカマツの林の中でススキは静かに消えていきます。

昔はススキは実用品としても重用されました。農家では屋根葺きの材料でしたし、家畜の餌にもなりました。ススキ野は農業を営む上で大切な場所だったようです。富士の裾野では、戦後のある時期までススキ野に農家の入会権が主張されていた位です。

ススキは万葉集でも秋の七草の一つとして「尾花」の名前で数多く詠まれていますが、当時からお月見は風流なあそびでした。今では中秋の名月を愛でるとき、団子、里芋、栗などと共に花瓶には必ずススキが挿されています。ススキの穂は月の光を柔らかく受けて、観月のムードを演出します。月夜にはススキがよく似合います。

風にそよぐススキはしなやかです。光に映える穂は暖かそうです。野原一面を被ったススキ野は、秋の太陽に照らされて、真っ白な毛皮のコートのようになびいています。丘の起伏に合わせてススキの穂が波打つ風景は、ススキ野が草原としての最後の覇者であることを謳歌している姿です。

ススキの穂は光を捉える名人です。月の光でも、太陽の光でも、ススキの穂は満遍なく光を捕捉します。光を受けたススキの穂には影はありません。ススキの穂は光を全身で包み込み、その殆どを吸収し、僅かな光を放出するだけです。

自然風景の撮影を試みる人は、一度はススキの穂の魅力に囚われる筈です。そして、ススキの穂によって日本の自然の穏やかさと明るさを知ることになります。

狐の子と揶揄されながら、私はススキの穂に魅せられてススキの野原を跳び回った頃を思い出します。その時の写真を数枚掲げます。
(以上)
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【2007/10/27 20:44】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
動きを描写する能力
写真が最も得意とする能力の一つは、動きを描写する能力です。すぐれた画家は、動きの一瞬を静止させて記憶し、キャンバスに描き止めます。しかし、そのようなことは、すべての画家が出来るわけではなく、又そうするために画家は大変な努力を払います。

ところが、写真機では素人でも動きの一瞬を停止させて捉えることが出来ます。勿論、何が美しい一瞬かを決めるのは写真家の能力ですが、一瞬を止めて記録することだけに関しては誰にでも、そして努力なしに出来ます。

写真機は、動きの一瞬を止めて描写する能力の外に、人間の目では知覚も記憶もしない動きの姿を描写する能力を持ちます。それは写真の世界ではブレと云われる現象の一つです。

人間の目は、映像の全てのカットを適切な明るさで見て、それを連続して記憶するので、早く動くものでも正確に見えて、ブレたような不思議な影には見えません。しかし、写真では、フィルム面に十分に感光するより早く動くものは、その姿をフィルムに完全な姿を留めません。動くものはフィルムの面を露光不足のまま移動して不思議な形の影となります。

このブレた映像を、動きの軌跡と理解するには思考のジャンプ(翻訳)が必要です。写真機を扱う人々は経験でジャンプして、このブレた像に躍動を感じるのです。

もう一度整理しますと、写真には動きを止める能力と、動きを躍動させる能力があります。前者は肉眼で見えますが、後者は肉眼では見えず、頭で翻訳して理解するものです。

下に掲げた写真はゲームの一瞬を止めたものと、鳩の乱舞を躍動させたものです。
(以上)


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【2007/10/21 11:18】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真家は選択者
絵画はプラスする芸術であるのに、写真はマイナスする芸術であると言われます。或いは写真は「選択する芸術」とも言われます。

これは、絵画は真っ白なキャンバスを絵の具で塗り上げていく芸術ですが、写真は画面から不要な映像を省く芸術である、と言う程の意味です。

写真ではレンズがカヴァーする範囲の対象物は全て写ります。それは写す者の意図とかかわりなく機械的に写ります。それが結果として撮影者が意図した美しい写真であり、意味ある写真であるなら結構ですが、そのようなことは偶然以外に起こりません。写真家は機械的に写る写真機を駆使して、機械的でない映像を映そうとするのです。写真が選択の芸術と言われる所以です。

画家も写真家も、優れた観察者です。何が美しいか良く知る観察者です。しかるに、画家も写真家も、通常の人が美しいと感じる対象物を美しいと感じないようです。画家が壮麗な建築物を描かずにみすぼらしい稲藁積の情景を描いたり、写真家が風光明媚な湖水を撮影せずに壊れかかったアパートを写したりします。画家も写真家も、既存の美を求めずに新しい美を探求するからです。

素描は画家の力量を試すものと言われます。風景や人物に向かった画家は、先ず対象から主題を表現する骨格を描きます。箪笥などの引出を drawing と言いますが、素描を英語で drawing と言うのは、素描とは主題を「引き出す」ことだからです。主題を引き出した後は、それを中心として構成する部品を加え、または装飾を施して絵を完成させます。

写真でも主題を決める行為は、画家の drawing と同じです。写真では主題を決めた後に主題に関係ある映像を如何に選択していくかが肝要です。選択する行為の中には、対象物の存在する場所を選ぶことから始まって、そこの対象物の何処を選んで写すか、画面の中に写る不要な対象物を如何に外すか、そして写した数多くの写真の中からよりよい写真を選ぶことまで含みます。

絵画でも写真でも、主題の決定が最も重要ですが、主題に即した表現を完成する作業も重要です。主題を曖昧にしたり、損なったりする表現は失敗です。絵画では表現は後から訂正ができますが、写真では不可能です。そこで何枚もヴァリエーションを撮影しておいて、後で選択するのです。

新しい美を一つの映像に仕上げる画家と同じく、新しい美を一つの映像に絞り込んでいく写真家も、美の探求者としては同じです。
(以上)
【2007/10/15 10:52】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
高度成長期の写真史

昭和の写真、第一部「占領下の昭和写真史」(07.6.1掲載)の続きものとして、第三部「高度成長期」が東京都写真美術館で開催されています(開催期間07.8.25~10.14)。

1960年代(昭和35~45年)に日本は高度成長を遂げましたが、その10年間とその前後数年を含む20年弱の間に発表された130点余りの写真が展示されています。

写真は高度成長期の社会を次のような現象で捉えています。
農村から都市への集団就職、米軍基地反対闘争、安全保障条約改定の反対運動、成田飛行場の建設阻止運動、水俣病の被害の苦しみ、原爆被害の苦痛と想起、各地の公害問題の発生、大阪万国博覧会の開催、首都高速道路の普及、過酷な炭鉱労働者の実態など。
社会現象の他にも、造形美を求めた写真、耽美的な写真、心の内面を写した写真などもありましたが、ここでは割愛します。

これらの写真は高度成長期の社会の歩みを雄弁に語っています。この時期の高度成長は国民の生活を豊かにしたのですが、逆に低成長期よりも摩擦と苦しみの多い時代でもありました。摩擦と苦しみとは、成長の過程で生まれたものです。成長は社会の各層に色々の格差を作ります。社会はその格差をバネにして高度成長を達成してきたとも言えるのです。

この写真展では、この20年間に社会に生まれた多種多様な格差を、人々が如何に乗り越えてきたかを示しています。各種の闘争はイデオロギーの対立の結果だとの意見もありますが、イデオロギー対立そのものも格差の所産です。

これらの写真は、写真家がその格差の断面を切り取って見せた一枚一枚です。そのうち印象に残った幾つかの写真について感想を述べてみます。

「浅草六区の興行街」(薗部澄)を見ると、映画館のある街路は人の波で埋まり、昭和35年頃は映画が娯楽の全盛時代であり、浅草六区が映画のメッカであったことが分かります。貧しいけれど、どん欲に生活を楽しむ人達が溢れています。

「集団就職・出発」(英伸三)は、集団就職する生徒達を乗せて出港するフェリーボートから、無数の別れのテープが風に吹かれて岸壁にそよいでいる写真です。出港する船は傾き、別れを惜しむテープは乱れ飛び、生徒達の憧れと不安を表現しているようです。集団就職列車の存在は知っていましたが、この写真で船での集団就職もあったことを知りました。

「公害の源流」(東松照明)は足尾銅山の公害風景です。衆議院議員だった田中正造は、議員を辞し全財産を投げ打って足尾鉱毒事件の解決に取り組み、明治天皇に直訴するなど、晩年の執念は鬼気迫るものがありました。
写真では、暗く重い雲がたれ込める丘陵地帯に一本の細い川が流れています。その川に注ぐ一筋の白い水流は工場廃液です。奥まった所に銅鉱精錬の一本の煙突が立っています。この写真は田中正造が命懸けで挑んだ公害問題の全てを映像化しています。

「東京インターチェンジ」(森山大道)は、東名高速道路の起点となるインターチェンジのトンネル内を走り去る自動車を写したものです。東京は1964年開催の東京オリンピックのために、新幹線や高速道路を急遽建設しました。何事も遠くへ早くという当時の人々の気持ちを造形化したものです。

「人間の土地、緑なき島」(奈良原一高)は一炭鉱労働者のスナップ写真です。この写真一枚で炭坑労働が如何なるものか瞬時に理解できます。石炭を掘る炭坑夫は、戦後の日本経済の救世主でしたが、いまは鉱山廃止とともに見捨てられました。この写真は、まだ石炭を掘っている時代のものですが、廃山となった今見ても尚迫りくるものを感じます。多言を要さず本質を表現するところが写真の威力です。

まだまだ、素晴らしい作品はあるのですが、社会の変遷という観点から印象に残ったもののみに止めました。
(以上)
【2007/10/09 10:31】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
家紋のデザイン性
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日本の家紋は、江戸時代の武家社会で発達したと言われます。武士の社会では血統が何よりも重視されました。血統は家で続きます。その家のアイデンティティを表彰するのが家紋でした。徳川家、各大名は勿論、下級の武士に至るまで家紋を持ちました。

武士社会は血統が支配した社会であることは、源氏と平氏が対峙した時代を見れば明らかです。平氏に追われて命からがら逃げ回る源氏の頼朝が兵を挙げると、関東の豪族達は頼朝のもとにはせ参じますが、これは頼朝が源氏の正当な後継者であるからに外なりません。

武家社会だった徳川時代には家系を顕す家紋は大変重視されましたが、明治以降は社会から急速に消えていきました。戦後の社会では夫婦単位の家庭を重視し、家系を粗末にする風潮が顕著です。そこでは家紋への関心は完全に薄れて、今では和服に付けられた家紋を発見して、これが我が家紋かと思う有様です。

西欧でも家紋に当たる紋章は、中世の騎士達の間で用いられました。戦闘の時、敵味方を識別するため楯に各自の紋章を付けたと言われます。現在、グループやティームを表すエンブレムが楯の形が多いのは、中世からの紋章の伝統が続いているのでしょう。

日本人は自分たちの家紋に無関心になりましたが、西欧では日本の家紋に注目が集まっています。それは家紋の歴史的、社会的側面ではなく、西欧人は美術品として家紋に着目しているのです。

私達日本人が家系を維持し主張する実用品として考案した家紋は、デザインとして優れており美的鑑賞に相応しいものとして評価されているのです。草花や鳥や漢字を模様のようにデフォルメしたデザインは、美的価値を持っていたのです。

このことは、19世紀に日本の浮世絵が印象派に大きな影響を与え、ジャポニズム運動を起こしたことを想起させます。日本から輸入した陶芸品の包み紙として浮世絵が使用されていて、それを見た西欧人は日本人の新しい絵画の描き方に驚愕したというのです。

当時、日本では浮世絵は美術品ではなくて娯楽品でした。ですから陶磁器の包み紙にしたのです。日本人と欧米人との美的感覚に微妙なズレがあることは、家紋のデザインへの関心でも明らかです。このズレを私達日本人は喜んで良いのか悲しんでいいのか分からなくなります。

その複雑な気持ちを、ルイヴィトン社が製造販売している婦人用バッグを見たとき強く感じました。バッグの全面を日本の家紋で埋め尽くしているのです。
(以上)
【2007/10/03 11:28】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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