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黒塀は「いき」である
角館-04P 98qc
写真1 秋田県角館の武家屋敷跡


                    神楽坂-22D 06
                    写真2 東京神楽坂の花街跡


地方の都市に行きますと、黒塀に囲まれた白壁造りの立派な家を見かけることがあります。立派な屋敷は、大抵その昔、武士とか名主とか、その土地の有力者ちの家だった建物です。

秋田県の角館の一廓に黒塀が連なる街区があります。むかし武家達が集まって住んでいたところで、黒塀の内側から桜の古木が街路にせり出していて、桜の季節には花の街路になります。観光客が尤も賑わうのはその時期です。

角館は雪深いところですが、寒い冬にも多くの観光客が訪れます。東北の雪を見に来ると言えば言い過ぎですが、白い桜の花が黒塀で引き立つように、白い雪は黒塀で一層白く見える、その様を見に来るのでしょう。
(写真1)

湿潤な日本の風土では、白と黒の色彩が基調になります。従って、白壁に黒い屋根瓦、それを黒塀で囲った家は、自然の風景とよく調和します。

ところで、風景にマッチするから塀を黒く染めたのかと言うと、必ずしもそれだけではないようです。黒塀を塗装する材料は、藁を焼いた灰を柿渋で溶いた塗料です。柿渋塗料は、いま化学塗料を嫌う人達に見直されて脚光を浴びていますが、昔から日本では身近な防腐剤でした。

建造物の色彩がその土地で獲れた材料に左右されるのは、世界共通の現象です。西洋の都市の色彩は、その近隣で産出する石材の色で決まります。昔からシナ大陸では赤の原色が好まれましたが、それは黄土が多量の酸化鉄を含んでいて焼くと赤色になるからです。

演歌「お富さん」は、「いきな黒塀 見越しの松」と歌い出します。ヤクザ者となった与三郎が、昔親しくしていた女、お富さんを見つけ出しカネを強請にくる歌舞伎の有名な一場面を演歌でうたったものです。

金持ちの囲われ者となったお富さんが住む妾宅は「いき」な黒塀で囲まれていました。「いき」とは江戸町人の生き様に対する美意識です。今様に言えば「格好良い」とでも言えましょう。黒塀は街中にあっても格好良いものでした。

東京は神楽坂の奥まったところに黒塀の小径があります。昔、花街だった名残です。(写真2)
黒塀をバックにして派手やかに化粧した芸者が行き交ったこの小径は、さぞかし「いき」だったでしょう。黒塀は芸者の顔の白さを際だたせたからです。
(以上)
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【2007/09/27 08:57】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夕陽は何時も美しい
すすき-20P 89


                    道東旅行:家族-04P 86



                                   いか釣り船-08P 00



印象派の画家のジョルジュ・スーラは点描画を創案したことで有名です。彼は画家でありながら科学者のように太陽の光を分析し、光は無色ではなく色の源泉であることを突き止め、光そのものをキャンバス上に表現しようとして点描法を発明したのです。

太陽の光は地上のものに当たって多様な色彩を表現するのですが、太陽が最も豊かな色彩を表現するのは、太陽が昇る時と沈む時です。中でも夕日の色彩は、太陽の当たらない部分が暗くなるだけ鮮やかに映えます。

写真は光で写るのですから、美しい写真は美しい光の出ている時に撮るに限ります。画家は光の印象を筆と絵の具で描きますから、自分のイメージを自由に調整して描けますが、写真家は光の印象を写真機で描きますから、自分のイメージは露出を調節することで描きます。

夕日が演出する自然の美しさを写した写真三枚を掲げます。
(以上)
【2007/09/22 10:51】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美の捉え方 東洋と西洋

西洋人は美を「人工的に創造」し、日本人は美を「存在から発見する」と言われます。西洋の芸術は、自然の美を「えぐり出して」創造しますが、日本の芸術は、自然に潜む美を「すくいあげる」ように発見します。

造園芸術について見ると、ベルサイユ宮殿は原野を切り開き、樹木を切り刻んで造られた人工の庭園です。他方、桂離宮は自然の野山から不必要な樹木を引き抜いただけで造られた庭園です。それは、日本の造園技術は、自然が備えている本来の美を引き出す技術だからです。

写真芸術でも、欧米の写真には対象物に切り込んでいくダイナミックなものが多いと感じます。特にドキュメンタリー写真にそれを強く感じます。他方、日本の写真は、一瞬の美を捉えることを得意とするようです。

俳句は森羅万象の一瞬を捉えて五七五の文字で表現します。俳句は具体的な事象について新しい見方を発見することを良しとします。俳句は表現の完璧よりも軽快さと連想の広がりを良しとします。
これはスナップ写真と通じるものがあると思います。

決定的瞬間を主張したアンリ・カルティエ=ブレッソンは、スナップ写真で一瞬の美を捉えることに優れていましたが、一瞬を捉える時でも画面構成を強く意識していたと言います。

同じく決定的瞬間を大事にした木村伊兵衛も一瞬に賭けていましたが、画面構成の乱れすらも美に結びつけるところがありました。

芭蕉は晩年、「わび」「さび」の完成度よりも「かるみ」を主張しましたが、木村伊兵衛の写真には「かるみ」があります。

浮世絵が西洋の画家達に衝撃を与えたように、日本の写真が、美の捉え方の違いで国際的に評判になることを期待しています。
(以上)
【2007/09/16 21:59】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真家は暴露し略奪する

スーザン・ソンタグは、画家は構築するが写真家は暴露する、と言います。また、写真を撮る行為には何か略奪的なものがある、とも言います。

写真が誕生して世の中に広まった頃、絵画は大きく変貌を遂げます。印象派の写実主義的な絵画から象徴的は絵画、精神的な絵画、抽象的な絵画が盛んになります。それは、絵画が自ずと発展する方向であり、それ故に豊かな成果をあげることになりましたが、その発展は写真の出現で促進された面もありました。現物を忠実に写実することでは、絵画は写真に勝てないからです。

ギリシャ文明以来、西欧では真理探究とは、隠れているものを誰の目にも分かるように明らかにすることだとの信念があります。アリストテレスに代表される分析的思考は、西欧文明に引き継がれて近代文明の中核的思想となりました。確かに近代科学技術には暴露し略奪する性格があります。

写真芸術は、近代科学の助けを借りてこの世に生まれました。従って写真は近代科学の性格を受け継いでいます。そのため写真は、絵画に比べて分析的であり説明的です。写真家は、画家のような構想力がなくても、直感的な感性で対象物を切り取って把握し、批評はしないけれども評価して見せます。

ソンタグが言いたかったのは、写真は暴露的、略奪的だから、近代社会を把握するのに向いていると言うことでしょう。既に、写真は絵画の写実能力に限界があることを暴露し、写実する絵画の地位を略奪した実績がありますから。
(以上)
【2007/09/10 09:28】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真の正体は何か?

西欧における絵画の歴史は長く、社会との関わりも時代と共に変化しています。その変化は西欧絵画の主題の変遷を見ると分かります。

西欧絵画として残っている古い絵画は、殆ど宗教を主題としています。宗教の教義を映像で説くための絵画、宗教を普及宣伝のための絵画など、現在では芸術的観点から評価される絵画でも、当時は宗教的意味が大きかったようです。

次に現れるのは歴史の史実を伝える絵画です。歴史絵画は、時代的には宗教絵画と並行していますが、やはりルネッサンス以降、宗教からの自由を得てから多くの作品が現れます。

第三番目に現れる主題は特定の人物です。王侯貴族や資産家が自分や家族を描かせた肖像画です。権威や権力を映像化して誇示する、或いは人物の名誉を後世に残すという目的で多くの肖像画が描かれました。画家の力量によってはヴィヴィッドに人物が表現され、文書よりも多くの事実を語る肖像画も生まれました。

第四番目は、印象派に代表される光を捉えた絵画で、写実主義の絵画です。ここでは色々な流派が生まれますが、人物に代わって風景が主題になります。更に、主題には静物も加わります。

やがて、絵画は主題からも開放され、何を主題にするかではなく、主題を通して何を描くかに重点が移っていきます。心情の器を描く、心そのものを描く、という風に変化します。抽象画の誕生はその帰結の一つでした。

他方、写真は19世紀に生まれた新しい映像芸術です。近世生まれの写真には絵画のような宗教に拘束された経験はありません。それだけでなく、絵画が果たしたような史実を伝えるという役目を意識したこともありません。(事実を将来に伝達しようと意識される写真が生まれるのは暫く後でした)

画家達は王侯貴族に抱えられて肖像画を描きましたが、肖像写真は彼らの独占物ではありませんでした。自由な市民社会に生まれた写真は、市民の誰にも肖像写真を提供しました。

遅く生まれた写真芸術は、誠に自由奔放で恵まれた映像芸術です。しかし、他方では写真が社会的しがらみと格闘したことのないのは欠点でもあります。絵画は己は何者かと問いながら発展してきましたが、写真はそのような悩みなしに成長してきました。

ですから、写真は、時々自分が何者なのか分からなくなるのです。何をしたいのか分からなくなるのです。そのような時、私は分からないまま、批評家ソンタグの次の断片的言葉を思い出します。(以下はソンタグの「写真論」より抜粋)

写真は絵画とは全く違った想像力を働かせる。
画家は構築し、写真家は暴露する。
写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分の所有物にすることだ。
写真を撮る行為には何か略奪的なものがある。
写真は撮影しても批評はしない。
写真は現実を誰がどう見たかの証拠であり、客観的な事実の記録ではなく一つの評価である。
(以上)
【2007/09/01 19:01】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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