FC2ブログ
花火を撮る
晴海-40P 02tc


               熱海-016P 95c


                         晴海-38P 02tc


                            
花火は写真を撮る者にとって一度は試みてみたい被写体です。しかし、見た目に綺麗なものは試してみると意外に難しいものです。

花火はもともと綺麗なものですから綺麗に撮れて当たり前です。それではと言うので、人と違う写真を撮ろうとしても、撮影する場所は限定され、花火は一定の場所に打ち上げられるので、撮影条件はほぼ決まって仕舞います。

それに花火は動くものですから、その動きに合わせてタイミングを計ることが大事です。打ち上げのポイントや頻度を予想して、遅れることなくシャッターを切らねばなりません。

花火の写真は、多重露光で撮ると、一コマのフィルムに多くの花火を収めることが出来ます。シャッターの開放時間を長くすることで花火が流れる様を収めることも出来ます。花火が打ち上げられるポイントを想定して色々試しながら撮っています。

日本では花火は夏のものです。夏には、江戸時代の頃から隅田川で、玉屋!鍵屋!のかけ声で、賑やかな花火打ち上げが行われたそうです。今のように一日でいっぺんに打ち上げずに、毎日少しずつ上げていた、と言います。

今は、夏になると日本の各地で花火大会があります。歴史のある隅田川の花火は7月最後の土曜日です。夏の終わりに花火の全国大会が秋田県大曲で開催されます。日本最大の花火大会と言われます。

また、所により冬でも花火が打ち上げられます。写真を撮るには夏よりも冬の方が好都合です。空気が澄んでいるので夏よりも鮮やかに撮れます。

綺麗だなと思った花火の写真を掲載しました。
(以上)
スポンサーサイト



【2007/07/30 07:51】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
報道写真の読み方

文字よりも映像の方が情報量が多くて訴える力が強いのは、報道の場合でも同じです。文字で勝負する新聞、雑誌の人達はよく「絵が欲しい」と言いますが、それは映像の力を熟知しているからです。

戦争や災害などでは、殊更、映像が重視されます。それは文章では脚色ができますが、映像は手を加えることがないから、「絵」を示してこれが真実だと言えるのです。

しかし、映像による真実には、映像の撮り方によって、また映像の見せ方によって、幾通りもあり得ます。更に、その映像を見る人々の見方によっても、真実は分かれます。

勿論、写真の真実は一つである必要はありません。人によって違っても構いません。真実は他人に押しつけるものではなく、何が真実かは映像を見る人の判断に依存します。

そのことを、去るフォトジャーナリズム・シンポジウムでの討論で感じました。

討論で取り上げられた写真は、イラク戦争で戦死した米海兵隊員の遺骸が、帰国のため中東の空港で民間航空機に乗せられる場面の写真です。この写真は、米ニューヨーク・タイムズ紙のフォトジャーナリスト、トッド・ヘイスラー氏の写真集「最後の敬礼」(ピュリツァー賞受賞)の冒頭の写真です。

民間機ですから、既に多くの民間人が搭乗して小窓から外を見ていますが、遺骸は機体の下方口から運び込まれるので、乗客にはそれは見えません。

シンポジウムのパネラーの一人が、この写真は米国民とイラク戦争との関係を象徴するものだと説明しました。何故なら、戦争の悲劇が起きているところをアメリカ国民には見えない(或いは見せない)と語っているからだと言いました。

その発言者は報道関係の人でしたから、写真を見て直ぐにそう読み取ったのですが、別の解釈もあり得ます。写真の遺骸は、国家のために命をかけて戦場で死んだ英雄です。英雄と言えども、いずれは人々から忘れ去られて行くと言うことを語っていると解釈することも出来ます。

何故そのような解釈をするかというと、写真集「最後の敬礼」は、戦場の外で起こる人間的悲しみと苦悩を、政治的な含意を越えて、戦死をテーマにしながら、反戦を煽るのでもなく、さりとて美化するのでもなく、戦争を繰り返す人間の「業」の姿を映像化した写真集だからです。

20世紀初めにアメリカ・ドキュメンタリー写真が社会報道の手段として大いに活躍したことは既に述べました(「アメリカ・ドキュメンタリー写真の創始者たち」06.05.16)。当時は社会の悲惨な事態を議会に伝え、社会政策の法律を作成するのに写真が大きな働きをしたことは事実です。

ですから、報道関係のパネラーの解釈を否定するわけではありませんが、この写真からイラク戦争の悲惨さを国民に知らせない証拠と読み取るだけならば、わざわざ映像で回りくどく語るまでもなく、文章で述べても事足ります。

写真は言葉では伝えられない感動を伝えるものです。それは音楽や絵画が言葉では伝えられない感動を伝えるのと同じです。取り上げられた写真は、人間の避けがたい「業」を表現する序曲であり、単なる政治的プロパガンダではないのです。
(以上)
【2007/07/24 08:48】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
網膜では見えない写真のブレ
浅草寺-06N
風に吹かれた風鈴

                 桜-01P 99c
                 桜並木の古木

                               光のブレ-02Pc
                               夜のカーテン

初心者はブレた写真をよく撮ります。初心者でなくても慌てたときには写真がブレて仕舞います。写真はピントが生命ですから、ブレた写真を人に見せても誰も相手にしてくれません。

しかし私は、時にはブレた写真を捨て難くて感じて保存することがあります。写っている被写体が何だか分からない位ブレた写真に愛着を感ずることがあります。

人間が動いているものを見るとき、今見た映像の残像は、次に見る映像に置き換えられます。残像の連続が起きるので人間には物が動いているように見えるわけです。

しかし、映像の残像を固定するのがカメラの役目です。残像の固定に失敗したのがブレです。視点、即ちカメラが動いたため複数の残像が一緒に写ってしまったのです。

人間の場合は、目の位置が激しく動いても瞬時に残像の連続処理を行いますから、映像はブレずに動いているように見えるのです。ですから、カメラが捉えるブレは人間の網膜では感知できないものなのです。

写真は、網膜が感知できないブレた映像を記録してくれます。目では見えないブレた写真を見ていると、奇妙な印象を受け、不思議な感情が湧いてきます。

それは何処か抽象画が与える印象に似ています。具象画がもつ説明的な要素が全く欠けた、感情のみに訴える抽象画を思い出すのです。両者の違いは、抽象画は画家が意識的に描いたものですが、ブレた写真は偶然に生まれた失敗作という点です。

陶芸作品の製造工程では、窯の中で藁や薪が釉薬と触れ合って不規則な紋様を着けることがあります。人はその紋様を美しいと感じて、その作品を高く評価します。しかし、それは陶芸家が意識的に創作した紋様ではありません。

従って、陶芸品の価値は、制作者が意識的か否かに関係ないところで生まれることもあります。写真の世界でも、偶然が大きく左右することが間々あります。決定的瞬間は意図しても撮れないし、漫然と待っていても撮れませんが、時には神様が写真家に微笑むこともあります。

此処に掲げた写真は、決して神様が微笑んだものではありません。躓いたり、慌てたり、間違えたりして撮った写真です。でも、私には捨てがたい写真です。
(以上)
【2007/07/17 10:21】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
デザインとエントロピー増大の法則

デザインという言葉の日本語訳は何か?
ある人は「意匠」だと言い、別の人は「設計」だと言いました。また第三の人はデザインは日本語だから翻訳する必要はないと言いました。

しかしデザインの訳語を考えることは、デザインの本質を考えることに通じます。「意匠」は外観であり、「設計」は構造または仕組みです。外観も設計もデザインを構成する不可欠なものですが、これらの訳語はデザインの一面を述べたに過ぎません。デザインの本質は別のところにあるようです。

自然科学の言葉ですが、エントロピー増大の法則というのがあります。この法則は、自然は放置しておくと時間とともに無秩序な状態になっていくと言う意味です。

デザインとは、このエントロピー増大の法則に逆らって、無秩序な状態に秩序を打ち立てることだと言ってみたら如何でしょうか。混沌とした私達の生活の中に、何らかの秩序を取り戻す作業がデザインである、と言うのです。

人類がデザインをするのは、エントロピーの現水準に満足できず、これを改善したい、解決したいと言う要求を満たすためです。意匠とは色や形です。設計とは内部の仕組や構成です。それらの対象は物質的なものから精神的なものに及びます。家族や、都市や、社会や、国家という分野にも意匠と設計は不可欠です。

問題を発見して解決し、無秩序への流れを秩序へ戻すのがデザインの本質である、と考えますが如何ですか。
(以上)
【2007/07/11 14:55】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
自然の演出家
北上川-07P 96(地方:岩手県)
北上川の朝明け

                 渓谷-03P 83(関東圏:東京郊外:奥多摩)
                   奥多摩渓流の雨上がり

                             霧の湖-01P 86(地方:長野県)
                             霧に閉ざされた長野の湖

日本は湿潤な風土ですから、春は霞(かすみ)たなびき、秋は霧(きり)が降り、朝夕には靄(もや)が立ちこめます。霞や霧や靄は自然の演出家です。自然により演出された自然は、格好の被写体です。

自然の演出は予想できることもありますが、偶然が多いです。そして自然の演出は速やかに変化するので撮影は素早くしなければなりません。二度と同じ光景は現れませんから、取りこぼしないように多めにシャッターを切ります。

自然の演出家は、自然の一部を隠すことによって普段は見られない自然を演出するのです。演出家が風景の何処を隠し何処を顕すかで、撮影すべき場面は決まります。そのような決定的瞬間は何時かとじっと眺めているときが写真撮影の醍醐味です。

決定的瞬間は本当は一度だけですが、何度も訪れるように感じます。今が決定的瞬間だと感じた後に、また新たな決定的瞬間が現れるからです。本当の決定的瞬間は、家に帰ってプリントしてから決めることになります。

今は露出はオートで大抵は間に合いますが、それでも微妙な色彩のニュアンスを捉えるには、半絞り大きいものと小さいものとを撮ることにしています。機械は正確ですが融通は利きませんから余裕をとっておく必要があると感じています。

自然が演出した自然を撮影していて何よりも楽しいのは、見た目より美しい自然を撮影したときです。見た目より美しく撮れたと感じた、私の好きな自然演出写真を3枚掲げます。
(以上)




【2007/07/04 08:45】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム |