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サイケデリックは気に掛かる

ファッションの世界では、サイケデリックと言うと極彩色のことです。しかし、psychedelicとは「心理で見る」という程の意味でして、元々は、麻薬などの幻覚剤によって起こる心理的恍惚状態に似た状態を言う言葉でした。そして彼らが恍惚状態で見る色彩が極彩色だったのです。

音楽の世界では、ロック音楽の演奏を聴いて精神が高揚し、一種の恍惚状態になることをサイケデリック・トランスと言います。最近ではオーディオ・ビジュアルのライブ映像を用いたサイケデリック・アートも盛んになっています。音楽や映像で精神を高揚させ、異次元の世界を自由に遊弋することもサイケデリックな行為と言えます。

色彩論ではニュートンの「光学」が有名です。太陽光をプリズムを使って屈折率の違いから7つの色に分解し、それが人間の感覚中枢に認知されるとの説です。自然科学的にはその通りなのですが、人間の眼の働き、更には心理的働きにより色彩は濃淡が変わり多様な色合いを示す、と反論したのはゲーテの「色彩論」でした。

サイケデリックな色彩は、ニュートンの説では理解できず、ゲーテの理論に聴いてみるべきでしょう。色彩と心理の相互関係は、まだまだ分からないことばかりと言います。合理的な色彩の配合よりも複雑怪奇な色の取り合わせに憧れの感情を抱く人々は多いのです。

写真を撮っていて、モノトーンの色彩に強く惹かれながら、他方では複雑で理論的に説明できない色の複合物に心が引っかかることがあります。それを見て恍惚状態になるわけではりませんが、捨て去るには気に掛かる色彩です。
言葉では説明できないので、その一例を写真でお見せします。
(以上)

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【2007/02/19 10:06】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
ユビキタス時代とカメラ

ライカが世に出て写真家は機動力を得ました。小型で俊敏に操作できるライカは、動きを捉えるのに適しています。動きの中で決定的瞬間を捉えることは、小型カメラによって可能になりました。

また、小型カメラは携行に便利でしたから、何時でも何処でも写真を撮ることが出来ます。ネット時代になって何時でも何処でも情報にアクセスできる時代をユビキタス時代と言います。小型カメラはネット時代が到来する前に、ユビキタス時代を先取りした機械でした。

いま、カメラの小型化は、デジタルカメラの分野で急速に進んでいます。カメラの部品が電子化されると、カメラはどんどん小さく作れます。厚さ1センチで名詞サイズのデジカメもあります。胸のポケットに入れて歩けます。それにフィルム代が要らないのも魅力です。カメラの小型化は撮影を気楽なものにしました。

携帯電話は情報を扱うユビキタス時代の代表選手ですが、今ではその携帯電話の殆どにデジカメ機能が付いています。正に携帯電話は耳と口だけでなく、眼も持つようになりました。写した映像を即座に他人に送れるのですから、カメラの眼はユビキタス千里眼とでも言うべきです。

人々がこんなにカメラに夢中になるのは、人間が外部から入手する全情報のうち、映像を通して入手する情報が圧倒的に多いからです。そして各人はカメラで自らが望む映像を選べるのです。ユビキタス時代を迎えてカメラは益々隆盛になるでしょう。

写真は、続々と売り出される色とりどりのデジカメ付き携帯電話です。
(以上)

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携帯電話売り場-01D 0702qtc

【2007/02/12 16:25】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
写真は芸術か?

近代写真の始祖と言われるマン・レイは彼の著書で次のように述べます。
「写真そのものは、現実の記録以上のものではない。そこで、写真は芸実ではないと言える・・・一般に云われる写真とは、現在から過去に結ばれるものであり、絵画は現在から未来への過程を示すものである。従って、写真がこの拘束の下にある時、作家の個性は二義的なものである」

アメリカで画家として出発し、後にフランスに渡り写真家になったマン・レイは、絵画と写真の両方の世界を知っていた芸術家です。ダダイストの画家として活躍しながら、シュールリアリズムの写真も残しています。

写真家として、印画紙に光の造形を描くレイヨグラフや、写真の白黒を反転させるソラリゼーションなどの絵画的手法を発明しました。また写真的手法を絵画に応用して絵を描きました。マン・レイは二つの世界を自由闊達に往来した芸術家です。

マン・レイに言われるまでもなく、現実の記録以上でない写真は芸術ではありません。これは自明のことです。次に、そのマン・レイが「写真は過去に結ばれるもの」という時、写真に撮影された対象物は時間の経過と共に古くなり、過去のものになると言う意味なら何ら異論はありません。しかし、画家の未来志向と対比して、「写真がこの拘束の下にある時、作家の個性は二義的なものになる」と言うと、果たしてそうか?と疑問を持ちます。

芸術家の仕事は、感動を感得し、それを再構成し、同じ感動を他者に伝達することです。文芸の世界では作家の仕事を感動の再建と言っています。小説を書くことは人生における感動を文字を使って他人に伝えられるように再建築する作業なのです。

写真家は、身辺の森羅万象の中から、感動したものを選択し撮影します。選択したものは、先ず自分が感動したものですが、撮影された写真を見る他人をも感動させるものでなければなりません。そうでなければ独りよがりです。

マン・レイが言うように、写されたものは、時と共に過去のものになりますが、勝れた写真は過去のものになっても人に感動を与えます。否、古くなれば更に強い感動を与える場合もあります。見る人に感動を与える写真は紛れもなく芸術品です。その点で絵画も写真も同じです。

マン・レイの「作家の個性は二義的なものになる」という批判を聞くと、フランス文学研究者であり文芸評論家としても活躍した桑原武夫氏が、戦後間もなく、俳句は「第二芸術」だと論じとことを連想しました。

桑原氏の俳句第二芸術論に対して、日本の伝統的詩歌の文学を理解しない暴論との反論がありましたが、桑原氏は俳句が芸術ではないと批判したのではなく、当時の俳人たちの句作は芸術性に欠けると言ったのです。同じ論法で、マン・レイは芸術性のない写真を取り上げて、写真は芸術ではなく、写真家の個性は二義的と断じたのでしょう。
(以上)


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【2007/02/07 17:52】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
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