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過去に囚われたデザイン
ブラッセル-16P


                    鉄道博物館-02D 04q


技術革新によって全く新しい機能の乗物が発明されたのに、その新しい乗物は旧来の乗物と同じ発想でデザインされた例を挙げてみましょう。

先ず、フォードが T 型自動車を試作したとき、そのデザインの雛形は馬車でした。エンジン部分は馬であり、運転席は御者の席でした。その後、エンジン部分を車体の後ろに置く自動車が現れて、初めて運転席が最前列に置かれたトラックやバスが作られます。安全性や運転性能の観点からエンジン部分を車体の前に置く車も多いですが、自動車の基本デザインが、馬車の観念から開放されるには暫くの時間が必要でした。

蒸気機関車のデザインも同じく馬車の発想で作られました。機能的には蒸気を発生させる釜を機関車の前に据える必要性はありません。釜を先頭部分に据えた結果、機関士は運転中に前方が見えにくくなるばかりでなく、石炭の煙をかぶる結果になりました。蒸気釜の要らない電気機関車の出現で最前列に運転手が座ることができて、その不合理さが分かりました。でも、蒸気釜を運転席の後ろに据えた蒸気機関車は生まれませんでした。電気機関車に取って代わられたのです。

プロペラの飛行機がジェットエンジンの飛行機に進化した時も、過去のデザインに囚われました。牽引するものは牽引されるものの前に置くというのが、自動車と汽車の場合の常識でしたから、飛行機でも同じでした。推力を生み出すプロペラは、機体の前に付けられました。推力がプロペラからジェットエンジンに代わっても、最初はそれは主翼に取り付けられました。その後、エンジンを機体の何処につけても同じだと分かって、エンジンを後尾につけた飛行機が生まれました。ロケット推進機は後ろに着けるものです。

このように、人は屡々過去のデザインに捕らわれて新しいものを造ります。そして、暫くして新しい機能に合った、よりよいデザインを考えつくのです。過去のデザインは過去の機能に合ったデザインでした。それはそれで美しいものですから、人々は愛着を感じます。ヴィンテージ・カーや蒸気機関車を人々が今も愛するのは、機能は死んでもデザインは生き続けるからでしょう。
(以上)


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【2006/12/27 11:25】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
時を止める写真
銀杏:部分-04D 05q


「写真を撮ることは、生きるものの瞬間を薄切りにして凍らせることだ」とは批評家スーザン・ソンタグの言葉です。

写真は瞬間の冷凍品であるとは、よく言ったものです。撮影されたとき、時間はそこで止まります。止まった時間は写真の中に存在し続けます。写真が存在する限り、過去の時間は止まったまま存続します。

写真は古くなるほど値打ちが出てくるのはそのためです。時間は生けとし生けるものを変えていきます。写真に撮られたものは直ぐ過去のモノになると言いますが、その反対の意味で、写真を撮られたモノは直ぐに「この世に存在しなくなった」モノとも言えるのです。

人間、街、自然、何であっても、写真を撮られて瞬間から価値がついてくるのです。幕末に日本を訪れた西欧の写真家が撮った写真は貴重です。私たちはこの世で決して見ることの出来ない過去の存在を見ることが出来るからです。写真は歴史を文字でなく映像で伝えてくれるからです。

時間を止める写真は動きも止めます。早いシャッターは高速度で動いているものを止めます。これは瞬間を薄切りにする写真の魔力です。目にも止まらない早業も写真は止めます。ですからゴルフやバットのスイングの流れを小刻みに止めてチェックすることが出来ます。

写真でなくても時を止めることはあります。会議で議論が紛糾して予定していた日時まで合意が出来ないとき、時計の針を止めて、会議を続けたケースもありました。サッカーのロスタイムというルールもそうです。試合時間の中で選手がケガをして試合が中断した時間だけ、タイムアウトの時間を延ばしますが、これも時計を止めたのです。

しかし、会議やサッカーで時計を止めるのは人為的な調整です。写真の場合は有無を言わせぬ切断です。問答無用で時間を切り取るところに、写真だけしか出来ない威力があるのです。

写真は銀杏の葉が黄色く落ちる瞬間を止めたものです。
(以上)
【2006/12/21 08:16】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
原風景とは何か
農家-15P 90


                    すすき-14P 89


                                   火見櫓-01P 89


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原風景とは、単なる回顧の風景ではなく、畏敬の念を込めて愛情の対象となる風景である、と言います。幼いころ過ごした故郷の風景は、一生忘れることはないでしょう。人格形成の大事な時期に、その人の情操を育んでくれた風景は、感謝を込めた愛着の対象である筈です。

室生犀星は詩集「抒情小曲集」で「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」と詠んでいますが、故郷へ深い愛情があったからこそ裏切られた時の悲しみがそれだけ大きかったのでしょう。これは室生犀星の郷土愛の表現だと解釈します。

都会育ちの私には畏敬の念を込めて愛着を感じる原風景はありません。しかし、小学生の頃、母の実家があった茨城県で毎年の夏休みを過ごしました。泥まみれになって田舎の子供達と遊んだ畑、霞ヶ浦近くの夕焼け風景、藁葺き屋根や火の見櫓のある景色、母が途中で東京に帰り一人だけ残されて寂しく聞いた列車の汽笛、これらが私の原風景です。

関東平野の平坦な農村風景ですから、私の原風景は何一つ特徴的なものはない平凡なものです。でも、この風景を思い出すと、少年の頃に経験した数々の感情が沸々とわき上がってきます。それは、今は亡き母へ思慕と重なって心を満たしていきます。

母の故郷を撮影した写真集を眺めていて、久しぶりに感傷的になって、ああ、これが私の原風景なのだと気付いた次第です。思いを込めた三枚の写真を掲げます。

(以上)

【2006/12/15 11:05】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ユニバーサル・デザインには多様な洞察力が必要

ユニバーサル・デザインとは何かを議論していた時、ユニバーサル・デザインのエッセンスは完成した作品にあるのか、完成品が生まれるプロセスにあるのか、と対立したことがありました。

デザインの企画立案する仕事に従事している人達は、プロセスこそデザインの本質であり、デザインの良し悪しはプロセスで決まる、だからプロセスはデザインそのものであると主張しました。

他方、メーカーや流通に従事している人達は、作品として完成したデザインが評価されるのであり、その作品が生まれるプロセスはデザインを評価する対象にはならないと主張しました。

この対立は、デザインを作る人と、それを売る人の立場の違いを反映したものですが、良いデザインを創造するためには、プロセスも完成品も共に重要であり、殊更どちらが重要であるか否か議論するのはおかしな事です。

例えば、創作料理人は自分の味覚を頼りに新たな味を造り出しますが、その際、料理人が最も大事にするのは、味について「想像力を働かす」と言うプロセスです。新しい味覚を創造出来るか否かは、そこに懸かっているからです。

しかし、そのプロセスが成功したか否かは、その創作料理を食べる客の味覚で決まります。ですから、料理人には、先ず、客の味覚を洞察する能力が必要なのです。それがなければ料理人の独りよがりに終わります。

ユニバーサル・デザインにおいても、購入して使用する人達が真に求めるものを洞察する能力のあるデザイナーが成功するでしょう。

ユニバーサル・デザインが、「万人向け」のデザインではなく、「それぞれの人々向け」のデザインなのですから、これからのデザイナーは、それぞれの人達のために多様な洞察力を持たねばならないでしょう。

ユニバーサル・デザインで大切なのは、プロセスでもなく、結果でもなく、洞察力なのです。
(以上)


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【2006/12/09 09:56】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
風化の造形
倒木-02P 05tc

                         第五福竜丸船腹模様-02D 06qtc


風化するものの造形には、何か人を惹き付けるものがあります。それは滅び行くものへの哀惜の感情の所為かも知れません。或いは死への予感を呼び起こすためかも知れません。

現代の写真では良く「生と死」「虚と実」「原風景」をテーマに取り上げます。風化という現象には、これらの要素が含まれています。

掲げた一枚目の写真は、北海道のある火山の裾野で見た樹木の朽ちる姿です。観光客が通り過ぎる道端のあちこちに見えた風景です。雑然とした造形のなかに、自然の生と死の長い歴史が語られています。

二枚目の写真は、廃船となった漁船の船腹の一部です。船腹に塗られたペンキがひび割れしてはげ落ち、その間から船体の木目が見えています。ここでも混沌とした造形のなかに、長年にわたり海水と格闘してきた船の生涯を見る思いです。

心理学者の河合隼雄氏は、何かに書いていました。生きている人間と対話するより、死んだ人間と対話する方がリアリティがある。それは死には普遍性があるからだと言うのです。

死を直視するとき、「生の虚」が「死の実」に変化し、「生の全貌」を再認識させるからでしょう。

倒木が風化する姿は、その樹木の生涯を思い起こさせます。ペンキのはげ落ちた漁船の船体は荒海を乗り切った姿を思い起こさせます。死を撮って生を感じさせる写真は良い写真です。と言って、ここに掲げた二枚の写真がそうだとは申しません。説明のための作例に過ぎませんから。
(以上)


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【2006/12/05 10:43】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
コラージュとフォトモンタージュ展

東京都写真美術館で「コラージュとフォトモンタージュ展」(06.11.3~12.17)が開催されています。

違う分野の美術品を組合わせて、更に美しい装飾品にする手法は昔から存在していましたが、これを芸術の一分野として意図的に創作しようとしたのが20世紀初頭の「コラージュ」作品です。コラージュとはフランス語の「糊付け」と言う意味で、紙や布の切れ端を一枚の画面に貼り付けて表現する手法です。

フォトモンタージュは、プリントした写真をコラージュして(貼合わせて)社会的メッセージを伝えようとして始まった手法ですが、その後、写真家マン・レイは、複数の写真映像を「一枚の写真」に写し込んだ写真(モンタージュ写真)を創作して芸術的メッセージを表現します。

複数の映像を一枚の画面に合成することによって、一枚の映像では表現できない世界を表現しようとするのがコラージュの本質ですが、フォトモンタージュも意図するところは全く同じです。フォトモンタージュがコラージュと違うのは、素材として写真映像だけを用いて「一枚の写真」として纏めることにあります。

展示会は「コラージュとフォトモンタージュ展」と称していますが、作品の名前が「コラージュ」となっていても、大部分は「フォトモンタージュ」でした。フォトモンタージュには難解なものが多く、以下では私が理解できた作品についてのみ感想を述べてみます。

「前衛美術との関係」の部

やはり近代写真の始祖マン・レイの「アングルのヴァイオリン」がフォトモンタージュの典型を示しています。モデルのキキの背中に英語のアルファベット「f」を二つ写し込んで女体をヴァイオリンにイメージさせました。二つの映像(キキの背中と「f」の文字)を組み合わせて、全く違う第三の映像を生み出すのがフォトモンタージュの手法です。

同じくマン・レイの「モンパルナスのキキ」は正面から撮ったキキの顔と、斜めから撮ったキキの顔を主従の関係で並べて、華やかな中に潜むキキの憂いを描写したものです。マン・レイはフォトモンタージュの作品でも、あくまで美を求めているので、一際その鮮やかさが目立つのです。

ラロス・モホイ=ナジの作品「ジェラシー」と「大物たち」は、共に知的構想力の産物という感じで分かり易い作品です。ナジの作品を見ていると、日本の個性的な写真家、植田正治はフォトモンタージュの手法を用いずに、被写体を構成することによって、フォトモンタージュと同じ効果を挙げた写真家だと思えます。

日本人の作品では、中山岩太の「ヌードとガラス」と「パイプとグラスと紙幣」は立体的な構図を用いて深層心理を表現したものです。フォトモンタージュの新しい分野を切り開いた作品だと思います。

「主観主義写真と現代美術との関係」の部

1978年ニューヨーク近代美術館で開かれた「鏡と窓」展は、個人の内面を表現した「鏡派」と社会の現実を表現した「窓派」の展示会と言われました。

この中では鏡派のジェリー・N・ユルズマンの作品「無題」2点が印象に残りました。第一の「無題」は、屋根のない部屋に雲間から太陽の光が注ぎ、部屋の中にある机の上の書物の上を一寸法師のように縮小された人物が歩く写真です。第二の「無題」は、池の中から大きな樹が一本、二本と根こそぎ空中に舞い上がり、遠くの山脈の方に飛んで行く写真です。

いずれの作品にも、あり得ない空想の空間を描いて、現代人の不安を表現しています。幻想としか思えないのに、これが現実になるかのような錯覚を覚えさせます。フォトモンタージュには、人々の内面心理を飛揚させて、未来を予感させる不思議な何かがあります。
(以上)


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【2006/12/01 10:27】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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