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劇中劇の効果
マウリッツ美術館-04D 04q


この写真は、オランダの美術館でフェルメールの「デルフトの眺望」を鑑賞していた時のショットです。「デルフトの眺望」を眺望する男性が写っています。一種の劇中劇をカメラに収めました。

名画「デルフトの眺望」が掲げてある部屋に入ったとき、一人の紳士がその絵に見入っていました。邪魔してはいけないと思い、暫くその人の頭越しに絵を見ていると、その紳士と私が重なっていくように感じました。もっとも私はその紳士のように禿げてはいませんが。

19世紀ドイツロマン派の画家 C.D.フリードリッヒは、後ろ姿の人物をモティーフとして色々の絵を描いています。後ろ姿は、それを見る人が登場人物に重ね合わせることが出来るので、惹き付ける力があるのだ、と言う人がいます。確かに、絵を見ながら絵の中に入り込む気持ちになります。

ある光景を眺めている人物を後ろからではなく正面から描いた劇中劇に、ベラスケスの名画「女官たち」があります。中央に王女マルガリータと絵を描くベラスケス自身を配し、正面奥の鏡には、その情景を見ている人物、国王夫妻がかすかに映っています。

ベラスケスは鏡を使って、画中のベラスケスが、国王夫妻を描いている最中であることを間接的に示したのです。宮廷画家が自分の仕事ぶりを王家の絵の中に描き込むとは、大変大胆な技だと思います。

ガラス窓に映った光景を写真に撮ると、撮影者が写り込むのも同じ現象です。カメラを構えた写真家が写り込んでは折角の光景が台無しになるので、写真家は自分の姿が写らないよう撮影位置を変える工夫をします。

劇中劇は二つの異なった光景を同一画面に表現したものです。劇中劇は一つの光景だけでは表現できない世界を表現します。表現するものは人々の心理であり、回想であり、合成であり、飛躍です。多重露光の面白さは劇中劇を普遍化したものと言えるでしょう。
(以上)


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【2006/11/26 12:28】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
植田正治の写真
植田正治という写真家は日本の写真家のなかで特異な存在です。木村伊兵衛、土門拳などのリアリズム写真が主流だった当時の写真界の中で、植田正治は裏日本の田舎にあって、リアリズムとは無縁の世界を切り開き、それが国内よりも海外で評価されたという、珍しい写真家です。

平成18年に没後初めての植田正治回顧展が東京写真美術館で開かれました。展示された作品を見て、そのモダンさに改めて驚きました。一言で言えば、植田正治の写真は存在するものを写すのではなく、観念を写すという写真です。

写真展の表題が「植田正治:写真の作法」ということでも分かるように、植田正治の写真は「作法」が独自なのです。写真機とは現実を忠実に描写する機械という前提で写すのがリアリズム写真家ですが、写真機とは自らの観念を描写するため手段であるとしたのが植田正治でした。

彼の写真集「パパとママと子供達」は、彼の家族が被写体に使われていますが、家族を撮影したものではなく、彼の思い描くイデー(観念)を撮った写真でした。それ故、この写真集はモダニズム写真の代表のように言われています。その後、植田正治は観念そのものを凝縮して、抽象写真ともいうべき写真を数多く発表しています。

植田正治が砂丘を背景に、帽子や傘や杖や鏡を用いて描く観念の世界は、映像を用いて思考したベルギーの画家、ルネ・マグリットを連想させます。マグリットは「イメージの魔術師」と呼ばれましたが、同時代に活躍したシュール・レアリズムの画家達のなかでも、マグリットは写真のような鮮明な絵を描いているからです。

平板な砂丘を背景にして人物や物を線だけで描写する技法は、日本画の伝統をひくものです。西洋画は絵の具でキャンバスを塗り尽くして余白を残しませんが、日本画では白い紙に線で描き余白を残します。西洋画では塗り残しを嫌いますが、日本画では余白は大きな意味を持ちます。植田正治にとっての砂丘は、日本画の余白に当たります。

植田正治は生涯アマチュアを貫いた写真家と言われます。写真館を経営していたので、売るために写真を撮る必要がなかったとも言われます。これも、植田正治が自ら興味ある作品に打ち込めた大きな理由でしょう。

何事も一本調子になりがちな日本人の中で、世界が認める個性的な写真家、植田正治を持ったことは日本の写真界にとって誇りにして良いでしょう。
(以上)


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【2006/11/21 20:43】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
後ろ姿の写真
銀杏:人物-10D 05tq

すぐれた肖像写真家は、写される人の表情や姿態から性格や心情を引き出すと云います。それは画家が肖像画を描く場合と同じです。

画家はイマジネーションで何度でも肖像画を書き替えることが出来ますが、写真家は表情や姿態の変化を一瞬で捉えなければなりません。その一瞬を逃したら二度と同じ映像は得られません。

撮影に際しては、写真家は獲物を狙う狩人のような心境です。しかし、写真家が緊張すれば被写体である人物も緊張します。緊張も一つの表情ですが、自然の表情は捉えられません。

肖像写真は、被写体の前から、斜め横から、横から撮ります。後ろから撮った肖像写真は見たことはありません。しかし、後ろ姿の写真にも表情や姿態があります。正面から見たときよりも後ろから見たときの方が、素直な表情があり、余韻があり、見る人に強い印象を与えることがあります。

正面からの映像では情報が多すぎて目移りがしますが、後ろ姿では映像が単純化されて、訴える焦点が明瞭になるからです。

写真は、黄落の季節にイチョウの落ち葉の上を歩く人の情愛を表現してみました。                           (以上)
【2006/11/16 10:39】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
デジタルとアナログの映像
樹木とビル-27P 94t

                    樹木とビル-26P 94q


何でも電子化の時代ですから、大抵の人はデジタルとアナログという言葉は知っています。写真機もアナログのフィルム・カメラに対してデジタル・カメラが生まれ、今や両者の割合は逆転しました。

カメラにアナログとデジタルがあるように、写された写真の映像にもアナログとデジタルがあります。アナログ・カメラしかない時代からデジタル映像はありました。と言ってもフィルム・カメラで撮った写真がデジタル写真というのではなく、映像そのものがアナログ的とデジタル的という性質があると言う意味です。

自然界に眼を向けますと、森林草木は当然アナログの世界です。生物はすべてアナログ的形態を備えています。それに対して人工物はデジタル的です。建物、橋など人が造ったものは基本的にデジタル的形態を持っています。

さりとて人工物がすべてデジタル的であり、自然がすべてアナログ的だとは言えません。ガウディがバルセロナに造ったグエル公園の工作物はアナログ的であり、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿の庭木はデジタル的です。

都会の風景は人工物で占められていますから全体としてデジタル的ですが、公園、庭園、街路樹などの存在でアナログ的要素もあります。都会を撮影するとき、アナログとデジタルの二つの要素を組み合わせると、思わぬ美しさを発見するものです。

写真はビルの窓と街路樹の枝を組み合わせた映像です。不思議なアンサンブルです。
(以上)


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【2006/11/11 12:48】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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