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窓のリズム
コペンハーゲン-12Pq
       コペンハーゲンにて

                    ホテルの窓-01Pq
                    東京 新宿にて

窓から外を見るのも楽しいですが、外からビルの窓を眺めるのは、もっと楽しいと思いませんか? 窓を見るのが楽しいのは、そこにリズムがあるからだと思います。

J.デュウイーは、その著書「経験としての芸術」で次のように云っています。
「芸術的形式を可能ならしめる外界の第一の特徴は律動である。詩や絵画や建築や音楽が存在する前から、自然には律動があった。・・・大いなる自然の律動は人間の基本的生存の條件とも繋がっている」

絵画の世界ではリズムは極めて大事な要素です。形のリズム、色彩のリズム、構成のリズムが、ある時は整然と、ある時は破調して一つの絵に描き込まれます。抽象画では直接リズムが表現されるので分かり易いです。カンディンスキーやクレーの絵は音楽的です。

このことは写真とて同じです。撮影するときは、とっさに撮るのでリズムなど考えていないかも知れませんが、撮影した写真を選ぶとき、画面にあるリズムを見いだしています。

例示した窓の写真は、撮影のときリズムを意識して撮りました。窓のリズムが面白い、楽しいと思って撮りました。サティの音楽が聞こえてきませんか?
(以上)


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【2006/06/27 16:49】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は内的風景である
評論家スーザン・ソンタグは「風景写真は写実か」と問うて、風景写真といえども本当は「内的風景である」と答えています。

即ち、写真を撮る行為は、撮影者の心が対象に働きかけ、そこから何物かを奪ってくる行為であり、従って撮られた写真は撮影者の「内的風景」になると言うのです。

俳句の世界では、目に見えるように詠うのを良しとします。いわゆる写生句を尊重します。正岡子規は「鶏頭の十四五本もありぬべし」という有名な写生句を残しています。子規が病床に臥して庭に咲いた鶏頭の花の数を述べただけの句であるとの解釈もありますが、結核で余命幾ばくもない心境を語った痛切な心境を述べた俳句だと解釈されています。

眼前の風景や事物に感情移入して、自分の気持ちを表現することは俳句や短歌ではよくなされています。その場合、詠み人の心境を知らない読み手には、単なる風景や事物を述べた詰まらない歌に読めます。

同じ事は写真の世界でも起きます。写真は事実をありのまま写すドキュメンタリー性が身上ですから、「内的風景」を描くのは俳句や短歌よりも遙かに難しいです。最近はパソコンを用いて写真の加工や修正は自由自在ですから内的風景は簡単に描けますが、そのような写真は、もはや写真ではなくて絵画と云うべきでしょう。

意図的に内的風景を描いた写真としては、昔から多重露光の写真がありました。多重露光とは、二つ以上の写真映像を重ね合わして一つの映像を産み出す作業です。写真のドキュメンタリー性を維持しながら、新しい別の映像世界を創り出す作業です。

多重露光という手法で心の内奥にある映像を写真に写した人々は、目前の風景よりも心の風景が現実的であるとする超現実主義者でした。彼らは非現実的な事象を描こうとしたのではなく、心に映る、更に云えば潜在意識に潜む、映像を描こうとしたのです。それはソンタグが云う「内的風景」よりも狭い意味であり、かつ、深い意味でもあります。

一枚の写真が内的風景を描いた深い意味を持った写真であるか、或いは独りよがりの思い入れだけの詰まらない写真か、その評価は多くの人の鑑賞を経て自ずと決まるのでしょう。

いずれにしても、ソンタグが云う「内的風景」を見いだすための手がかりが写真の中に埋め込まれていなければ話になりません。題名や説明で補う写真は、やはり力不足の作品です。
(以上)


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【2006/06/24 20:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
看板のデザイン
赤坂看板-01D 06tq

                    表参道:青山通り東側-01D 06q


看板は情報を発信する手段です。看板は一回伝達したらそれで終わりになるテレビ、新聞、雑誌などのメディアとは違い、何回でも人目に触れる伝達手段です。

最近はインターネットの発達で情報を探す人達が増えましたが、彼らは目的意識を持った積極派です。しかし、看板は情報を求める積極派の人達だけでなく、情報に受身の人達にも働きかけます。繰返し同じ情報を発信するので、受身の人々の記憶に残るのです。

看板は限られた狭い空間を使って情報を伝達するので、情報は凝縮されます。しかし、凝縮されても、一見して理解できるよう工夫されています。

従来の看板には情報の内容を説明するのが多く見られましたが、この頃は連想させる方法が使われます。要は、販売する商品やサービスが優れていて魅力あるものだと、看板を見る人々に伝わることが肝心であり、それで十分だからです。

例示した写真を見ていると、最近は看板も随分スマートになりました。まるでパブリック・アートを見るようで、看板という古い言葉で呼ぶのをはばかります。
(以上)


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【2006/06/21 21:42】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
歩道のカラー舗装
歩道-02P 94q
北九州市の橋上

                    青森港-05P 99q
                    青森市の海浜通路

地方都市では歩道のカラー舗装が盛んです。歩く人々の気分を楽しくしようとの試みです。街に人が集まり、賑わいを取り戻そうとの企てです。

歩道のカラー舗装は、街角に立つ彫刻や塔のように、パブリック・アートの一種でもあります。パブリック・アートには常に賛否両論があるように、歩道のカラー舗装にも賛否両論があります。

パブリック・アートでは、余り自己主張の強い作品は敬遠されます。少数の人々の好みに偏ったものも困ります。周囲の風景や環境に合わないものも厭きられます。結局、その場の雰囲気に合った控えめな作品が選ばれます。

写真で取り上げたのは、北九州市の橋上のカラー舗装と青森市の海浜通路のカラー舗装です。北九州の方は、赤茶色の橋上の色彩が鉄の街を表現していて、デザインもモダンです。青森市の方は、木製の通路に平行して伸びる歩道は波模様で統一してあって、その上を歩く人は海面を歩いている気分になります。

路面をアートの場にした成功例だと思います。
(以上)


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【2006/06/18 09:14】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
デザインはメッセージです
                  ガラス器具-01P


デザインとは一言で云うと何でしょうか?
それは視覚を通した価値のメッセージなのです。

メッセージですから、誰に何を伝えるかで、デザインは決まります。
芸術家は美を伝えるために、絵画や彫刻の下絵をデザインしますが、実業家は商品の良さを伝えるために、商品の形態や様式をデザインします。

コティ社はガラス工芸家ルネ・ラリックに香水瓶のデザインを依頼しました。ラリックは瓶の栓を大きくすることで、瓶そのものを女性像に見立てたのです。女性像で香水の匂いを表現し、女性の心を引きつけました。

芸術の世界では、美の創造にデザインが決定的な働きをしますが、それと同じように、産業界でもデザインが商品の価値を決めるのに重要な働きをします。デザインは商品の外見を装うものではなく、商品の内容や価値まで決めることになります。

このことは、芸術の世界では自明のことですが、産業の世界ではデザインのメッセージ性を正しく読み取ることは意外と難しいようです。
(以上)


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【2006/06/15 10:02】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
木村 伊兵衛の写真
山本夏彦氏は、日常の平凡な事象を素材にして、人間と時代の本質を簡潔に表現した評論家です。氏は書いています。
「人生は些事から成る。些事を通して大事に至るより外に、大事を理解する術はない」と。

私は、この言葉で写真家木村伊兵衛を思い出します。
木村伊兵衛は土門拳とともに日本のリアリズム写真運動を推進した写真家として有名です。二人は同じくリアリズム写真家と言っても、作品も撮影手法も大きく異なっていたと云われます。

土門拳が力強くダイナミックな写真を撮った写真家なら、木村伊兵衛は軽快でさりげない情景を撮影した写真家と云われます。映画の世界で黒澤明と小津安二郎の両監督が動と静として対照的に評価されているのに似ています。

周囲の日常的な情景をさりげなく撮影して、木村伊兵衛は云ったそうです。
「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と。

記念碑的な風景は五十年後、百年後にも実物が残っている可能性が大きいですが、平凡な日常情景は大抵変化し消えてなくなります。ですからその時には誰も昔の日常情景を見ることは出来ません。

だからと云って、日常的な情景なら何処でも何でもよい分けではありません。弟子だった田沼武能氏(日本写真家協会会長)はある雑誌に書いていました。
「木村伊兵衛の写真には、その場の空気、人物の呼吸が写っている。それも「居合い抜き」のような早業で撮ってしまう」と。

撮影に当たっては、木村伊兵衛は構えることなく撮ることをを尊重しましたが、これは何処か俳句や川柳の精神に通じます。芭蕉は後年「かるみ」を大事にしましたし、川柳では「かるみ」をその三要素の一つにしています。

軽快なタッチで記録する時代の語り部は、日常的な情景の中から未来に語り継ぐのに相応しい対象を選んで描いてくれました。
(以上)


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【2006/06/12 09:58】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
写真は色々に読める
写真はあるがままの状態を記録したものです。しかし、一枚の写真の中に、見たものをすべては写せません。一枚の写真のスペースは限られているからです。

現実には、写されたものより写されなかったものが多いのです。写真を読む楽しみは、写されたものから隠されたものを想像することです。

俳句の世界では、言葉の数に制限があるのですべてを語れません。俳句は積み重ねた少ない言葉で、沢山の事柄を語ります。説明はせず、読む人の想像力に訴えるからです。

写真も俳句と同じです。沢山のものを写し込んだ写真は、見る人の想像力を奪います。状況を説明した写真はつまらないものです。
俳句が鑑賞する人によって色々解釈されるように、写真も見る人によって色々に読まれます。

評論家スーザン・ソンタグは「写真は絵画と同じく、世界についての一つの解釈である」と云っています。作者の解釈であると同時に見る人の解釈でもあります。

ここに掲げた写真は、竹の柵で隠された美しい海辺の光景です。
この写真を見て、竹柵の陰に若い二人がいるとか、浜辺に美しい貝殻が散らばっているとか、または汚いペットボトルが散乱しているとか、色々想像してみて下さい。

想像するのは具体的な物や人でなくても良いのです。うねる竹柵が前面を遮ることで、海の風景は舞台の背景のように見えてきます。現実にはないシュールな世界を見るような錯覚を覚えます。
(以上)


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                   砂浜と竹垣-07D 05q

【2006/06/09 10:41】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
サクラダ・ファミリアの原型
バルセロナ-10Pq
サクラダ・ファミリア教会

                   モンセラー-07Pq
                  モンセラの岩山

スペインはバルセロナにあるサクラダ・ファミリア教会を参拝した人は、その特異な形態に驚かされます。この教会の設計者ガウディは、従来の教会建築とは全く違った発想で建設しました(現在も建築中です)。

バルセロナの郊外のモンセラと云う所に、垂直に立ち並ぶ小高い岩山があります。サクラダ・ファミリアの複数の尖塔は、この岩山に似ています。

ガウディは云っています。
「独創とは原点に戻ることである。原点とは自然である。自然にある独創の原点を読み出すことが創造である」と。

ガウディの天才は、岩山をモデルにして教会をデザインしたのです。教会建築の歴史の中で誰もが思いつかない発想でした。
(以上)


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【2006/06/07 15:39】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
風が水に絵を描く
起伏のある狭い山間に広がる田んぼは、芸術作品です。

一枚の田の縁は、水を水平に湛えるため等高線状に区切られて、直線と曲線が混ざります。

田植え前後、黄色な稲穂の頃、稲刈り後の切株、田んぼは、四季を通じて表情を変える芸術作品です。

私は、田一杯に水を湛えた田植え前後の田んぼを見るのが一番好きです。五月のそよ風が吹いて、水面にさざ波が立ちます。

さざ波は一枚の田の上を、右から左へ、向こうからこちらへ移動します。さざ波は上の田から下の田へと、次々降りてきます。と思うと、全ての田にさざ波が立ち、全ての田が鏡のように静かになります。

さざ波はキラキラと光り、暗い田の水に命を与えます。稲が健やかに育つようにと。

丘の上から眺めていると、風が水田に絵を描いているようにも見えます。
(以上)


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                  水田-06P 99tq

【2006/06/05 10:06】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
写真のグラデーション
絵画や写真でグラデーションというと、濃淡の段階的な推移を意味します。主として同一色を段階的に変化させて表現します。対象物をグラデーションで表現すると、対象物に動きと奥行きを与えて、平板な画面が躍動します。

パソコンの世界では、グラデーション手法は同一色だけでなく、異なった色も混ぜて、更には色彩の変化に動きまで加えて表現しています。色彩の変化に形の動きまで加えれば動画になります。

しかし、グラデーションを動画にしてしまうと、グラデーションで本当の美しさを表現するのが不適当になります。なぜならグラデーションの美を味わうには、見る人が能動的であることが大事だからです。動画は制作者の意図に従い追いかけていくようになり、どうしても受動的になります。その差は、映画の鑑賞と、絵画の鑑賞との違いを考えればすぐ分かります。

ここでは、最も単純なグラデーションを、大根干しのカットでお見せします。眺めている内に、大根がいろいろな形で踊っていると見えてくれば、グラデーションは成功しました。
(以上)


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                  大根-01P

【2006/06/04 09:49】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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