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今は昔、瑞穂の国の物語
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瑞穂(みずほ)の国とは日本国のことです。瑞穂の国とは日本の国の成り立ちを意味する言葉です。瑞穂とは、国民を養うお米の生産だけを意味する言葉ではありませんし、国土を表すだけの言葉でもありません。

戦前は日本国とはどんな国か、と問われると瑞穂の国と答えましたが、戦後も暫く経つと瑞穂の国という言葉は余り聞かれなくなりました。僅かに大銀行の名前に、その名を留めているだけです。

水を引いた田で乙女らが一列に並んで稲の苗を植えている風景は、昔の農村の典型的な田植え風景でした。今は、高齢の農夫が一人、耕耘機を運転して田植えをしています。

しかし、満面に水を引いた田んぼに早苗が一斉に元気よく背伸びしている田園風景は、すがすがしいものです。日本の神話で語られる豊葦原の瑞穂の国と言うのは、日本の各地では、このような田園風景があったのでしょう。
(写真)

日本古来の宗教、古神道では罪の観念を「天つ罪」と「国つ罪」の二つに分けて説いています。「国つ罪」というのは、地上で国法を犯した罪ですが、「天つ罪」のうちの最初の三つは、「田の畔を壊すこと」「田に水を引くために設けた溝を埋めること」「 田に水を引くために設けた樋を壊すこと」を挙げています。

古代から、お米の生産は社会の基礎を支えるものであり、その秩序を乱す者には天罰を加えるという思想があったのです。

江戸時代には、米は現金と同じであり、幕府や大名の財政を支えるお金でした。米が不足することはお金が不足すること同じでしたから、その管理や取立ては厳重でした。その意味では、江戸時代、お米は瑞穂の国の伝統から、やや外れた時代だったかも知れません。

江戸時代に何度か日本全国を襲った飢饉の原因は米の不作でしたが、飢饉を更に悲惨にした原因は、現金として幕府や大名に引き渡された残りの米が大きく不足したからでした。米以外に現金として支払われる物資があれば、食料としての米の流通は実需に合わせて、もう少し弾力的に全国に配分されていたでしょう。

減反政策で休耕田があちこちに見られる今、「今年は日照りが続いたお陰で米は豊作だ」と言って喜んだ時代を思い出す人は希になりました。戦後のある時期まで、「日照りに不作無し」という諺が、実感を以て生きていたのです。

ところが、今はお米の増産が好ましくない時代になりました。先祖代々耕してきた田んぼを放棄させる減反政策が行われています。その根拠は、米作農民の所得を維持するために米価を維持し、米価を維持するために米の生産を削減すると言うものです。

田んぼは米の生産のために耕されますが、それ以外にも大きな働きをしています。田んぼには土壌や水質や気温や湿度と言った環境を柔和にする働きがあります。また、地下水の水位を保ち、表土の流出を防止します。昆虫や魚に棲息の場を与えます。これらの働きは畑では不可能です。田んぼの働きだけが、これらを実現しています。

お米は生命の源であり、一粒のお米も粗末にするなと教えられた時代は遠くなりました。田んぼは、多くの人手を掛けて長年にわたり造成されてきた貴重な資産ですが、農民の所得を維持するため採られた減反政策によって、人々はお米を軽んじるようになり、農民は田んぼを潰して平気になり、瑞穂の国は消えようとしています。

瑞穂の国のお米を早く本来の地位に戻して、日本人の基礎食料として生産し、穏やかで美しい国土を回復するよう、本来の農業政策に戻る日はいつ来るのでしょうか。さもなくば、やがて「天つ罪」の天罰が日本国民に下ることになるでしょう。
(以上)
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【2019/07/04 21:44】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
森は神という文明は世界に通じる
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2.鹿島神宮-04D 0805q
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古代文明は森林を破壊して滅びたと文明史家は言います。森林は築城や造船のため伐採されて消えていきました。森林の消滅は水資源の消滅であり、大地の砂漠化でした。森林は炭酸ガスを吸収し酸素を供給します。人類は酸素を消費し炭酸ガスを排出します。森林と人類は相互補完関係にある友人なのに、現代まで人類は一方的に森林を痛めつけてきました。

文明の始まりは森林の中でした。それは母の胎内で生命が育まれるのと同じです。動物は母なる海から母なる森へ移り住みました。人類もその動物の一分派なのです。

西洋の伝説には森に悪魔や妖怪が住むと云う話が沢山あります。西洋人にとって森林は未開の暗黒の世界でした。しかし日本では、樹木を恵みの源と見て巨木を神聖視する信仰があり、人間の寿命の10倍も20倍も生き続ける古木に畏敬の念を持ち、森は神の住む神聖なところ、更には森そのものが神であると信じて来ました。

日本に古くからある山岳信仰は、森林に覆われた山全体に神性を認めるところから始まったのです。古代の日本人は、山奥深くに仮小屋のような小さな社(やしろ)を建てて、そこで山の神の祭事を行いました。「やしろ」は今様の神の住む神社ではなく、屋代(仮の小屋)だったのです。神は山そのもの、山全体であり、屋代は山の神を祀る儀式を執り行う、祭場であったのです。

日本では地方に行くと山裾や村はずれに鎮守の森を見ます。年を経た大木の森に囲まれた神社です。神は山であり森ですが、その神が山から里まで下りてきて、そこで人々から豊作と安寧の祈願と感謝を受けるところが鎮守の森です。

西洋の文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏は、森林に対する日本人の意識が日本の国土に森林を広く自然のまま残してきたと、次のように指摘します。(田中英道著「本当にすごい!東京の歴史」より引用)

「私が本で読んだところでは、日本の総面積の七五パーセントは開発されないままの状態にあるそうです。その面積については、人は何も言いませんが、この七五パーセントというのは、一体何でしょうか。……(中略)……この問題に、日本は西洋とは違った答えを出しているのではありませんか。西洋は、まだ手を施す余地のあるところでは自然の保護を試みています。しかし日本は別の解決、つまり必要なところでは過剰開発し、それがないところでは、自然を完全に尊重するという解決を見出しているのではないかと思うのです。」と。

自然を神聖視する日本古来の思想が、日本の森林を守っていると西洋人も理解しているのです。

写真は茨城県の鹿島神宮です。
(以上)
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【2019/05/11 18:36】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
神道はユニヴァーサル
鹿島神宮-07D 0805qr

多くの日本人は、新年には初詣と称して神社にお参りします。そのとき普通の人は氏神(うじがみ)様にお参りします。誕生したときも七五三のお祝いのときも、氏神様に感謝を捧げました。新しい年の門出に際しても、昨年の加護に感謝し、今年の幸せを祈るためです。

日本の神社には二つのタイプがあります。一つは産土(うぶすな)型神社であり、もともとは祖先神を祀った神社でして、普通は氏神様と云われます。その後、氏神様は村ごとに祀られ、鎮守の杜に鎮座し、五穀豊穣などを祈る地域共同体の祭神となりました。

もう一つは、勧請(かんじよう)型神社であり、総本社から分霊して創設した神社です。家内安全とか無病息災などの個人的な祈願をする崇敬型の神社です。このタイプには、神道だけでなく、仏教、儒教、道教などの祭神も加わり、所謂「神仏習合」が行われているものが多くあります。

キリスト教やイスラム教の一神教の人々からみると、このような神道(しんとう)の習合という活動は、理解しにくいもののようです。しかし、明快な論理で神を説く一神教の世界で、布教を巡り屡々激しい闘争がくり返されている歴史を見ると、神道が持つ他宗教への包容力は不思議な魅力があり、それが何処から生まれてくるのか知りたくなります。

神道の神社に参拝したとき本殿の内部に目をやると、そこには仏像やイエスの十字架のような具象物はありません。信仰の対象になる本尊を表現する具象物がないのです。神社にある具象物と言えば、三種の神器に相当する鏡であり、それらは信仰からみれば道具にすぎないもです。

言うなれば神社の中は空っぽなのです。神社が神社である所以は、そこに神道の神が降りてくると信じることだけなのです。古神道(こしんとう)では万物に神が宿るという八百万の神々を信じますが、それは既存宗教のいう人格神だけでなく、自然神をも含めたものです。

神道では神社を「やしろ(屋代)」と言います。「やしろ」とは仮小屋のことです。神が現れて神事を行う場所を指し示す仮小屋なのです。そのことを知るには数百年も前に建立した古い神社に参拝すると良く分かります。広大の境内の奥深くに飾り気のない質素な奥の宮がひっそりと建っています。
(写真は鹿島神宮の奥の宮)

哲学エッセイストの池田晶子氏は「人生は愉快だ」という著書の中で出雲大社へ参拝したときの感想を次のように述べています。

「神社という空間の清潔なこと、およそ人じみたところがなく、あるのはそれこそ「枠」だけ、つまり神々がそこにいるというそのことだけである。これに比べると、寺院、仏閣などが、いかに人の観念やら情念やら、教義やら権力やらによって構成されているものかということが、今さらながらよくわかる」と。

更に続けて云います、
「わが国の古神道が、きわめてユニバーサルであるということに私は気がついた。私はユニバーサルなものに、どうしても惹かれてしまうたちなので、日本の神道もローカルのひとつなのだろうくらいに思っていたのだけれど、違った。何もない空間を、あるいは己れの眼としての鏡の面を、なおよく見ようと眼を凝らせば、そこは万物照応するアニミズムの宇宙である。人じみた観念や教義は、何から何を救済するのか」と。

神道の空(くう)は、全てを呑み込む包摂力があるのです。
(以上)
【2019/01/22 21:15】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人間が神になる国 日本
1.東郷神社-04D 1811qr
写真1 東郷神社

2.乃木神社-02D 1811qc
写真2 乃木神社

キリスト教やイスラム教の一神教では、神は人間を支配し、人間は神の許しを求めるという関係が絶対的なものです。一神教の世界では、人間が神様になることなど、とんでもないことです。しかし、多神教の日本では、古来、人間は神様の仲間入りをしてきました。

日本の神話では、自然神(太陽)を人格神(天照大神)とし、天照大神は皇室の祖神(皇祖神)であるとしています。そして神話では神と天皇の境界線は曖昧になっています。人間が神になる素地は、この辺にあるのかも知れません。

菅原道真は死後、天神様になりました。讒訴で左遷された道真が死後に祟りをもたらすと恐れた政敵達は、道真の怨念を鎮めるために京都に天神社を設けて道真を祭りました。菅原道真は政敵によって死後、神様にされたのです。

しかし、生前から自らを神にしようとする者も現れます。豊臣秀吉は死後、豊国大明神となり、京都に豊国神社を建てました。徳川家康も東照大権現となり、日光に東照宮を建てました。彼らは生前から死んだら神になることを求めていました。その外にも日本の歴史上、人が死後に神になった例は幾つもあります。

日本人だけでなく外国人も日本では神様になれます。江戸時代に盛んになった七福神巡りの神様の一柱、布袋様(ほていさま)は唐の時代の中国の僧侶で、後に仙人になった人です。

戦前の一時期、軍国主義者は天皇陛下を現人神(あらひとがみ)と云って神様にしましたが、戦後は人間宣言で天皇は人間に戻り、日本民族を象徴することなりました。歴史を振り返ってみても、天皇陛下が自ら神と名乗った天皇は有史以来ひとかたも居られませんで、有史以来、天皇は人間天皇であったのです。

貴族政治の時代、天皇は貴族の権力闘争に巻き込まれたことはありますが、闘争の当事者になったことは希でした。源平以来の武家政治の時代になって、政治的実権を武士階級が握るようになってからは、天皇が行う政治行為は、征夷大将軍のような官職を与えるだけで、政治的権力闘争から超越していました。

西洋でも、日本と同じように皇室と同じ王室は存続しますし、君臨すれども統治しない君主がいる国はあります。しかし西欧の君主は国を超えて屡々入れ替わりましたから、その国の民族の長(おさ)というわけではありません。しかし、日本では創国以来万世一系の君主は日本民族の長(おさ)なのです。天皇は神様ではありませんが、日本民族にとって神様以上の存在なのです。

仏教国日本では人は死ねば皆仏(ほとけ)になります。中には神様になって神社に祀られる人もいます。戦国時代には天下と統一した武将達は豊国神社(豊臣秀吉)や日光東照宮(徳川家康)に祀られました。明治時代には日露戦争でロシアの支配から日本を護った軍人達は東郷神社(東郷平八郎)、乃木神社(乃木希典)に祀られました。もし太平洋戦争に勝利してアメリカの支配から日本を護っていれば、山本神社(山五十六)や東条神社(東条英機)が建立されたかも知れません。

八百万の神々が全土で平和共存している日本では、人が死んで神になっても不思議ではないのです。

写真1は東郷神社、写真2は乃木神社です。
(以上)
【2018/11/21 12:56】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
神と仏は互いに守り合うと考える日本人の宗教心
東大寺 大仏殿
1.東大寺-14D 1404q

東大寺境内の鏡池の畔にある手向山八幡宮
2.東大寺-48D 1404q

21世紀文明を論じた高名な歴史学者、ハンチントンは、その著書「分断されるアメリカ」で世界の信仰心の度合いをグラフを用いて次のように述べています。

(信仰心の度合いは)欧米諸国は50%前後であり、アメリカは65%と比較的高く、ロシアを含む共産圏は20%台と低い。最下位は中国で5%、日本は下から三位の18%であると。

ハンチントンは、アメリカがアイルランドとポーランドと共にトップグループに属していると自慢しています。この発言がキリスト教世界での順位づけなら敢えて異論を唱えませんが、非キリスト教世界まで含めて論じるとなると、歴史学者ハンチントンの常識を疑います。

宗教心は、宗教が発生する背景や布教する過程で育つものであり、宗教が違えば信仰の行動、信仰の表現は皆違うのです。まして信仰心の深さまで外見で推し測ることなど出来ません。それをハンチントンがキリスト教の外的基準で判定しているのですから、もう滑稽です。

ハンチントンに宗教心は最低と云われた中国の宗教事情はどうでしょうか?
紀元前500年余り前、中国で孔子は儒教と説きしたが、その思想は正しい政治の在り方を説いたものでしたので、その内容が高邁な思想ではあっても宗教心に至るものではありませんでした。

その後、中国にも後漢の末期にインドから仏教が入ります。宗教心の乏しい中国人も戦乱で荒廃する時代に宗教に救いを求めたのです。それで仏教は普及して中国流に深められましたが、中国には仏教伝来以前から道教など土着の信仰があり、かつ、中国は自らが文明の中心との考えがあるので、外来の仏教は遂に中国では定着しませんでした。

ハンチントンに宗教心は下から三位と云われた日本はどうでしょうか?
日本には仏教渡来以前から、先祖伝来の神道がありました。世界の宗教は互いに排他的ですが、神道には教祖もなく、教義もなく、あるがままの自然を神として崇める宗教でしたから、新来の仏教とも融和しました。平安時代には在来の神と渡来の仏は互いに相手を認め合い神仏習合(しゅうごう)を果たしています。(その理論的根拠を天地垂迹説と云います)

そもそも仏教が渡来した6世紀に大仏殿を建立した聖武天皇は境内の鏡池のほとりに東大寺の鎮守の神として手向山(たむけやま)八幡宮を造営しましたし、宇佐の八幡宮の境内に神社を守る神宮寺として弥勒寺(みろくじ)を建立させています。八幡宮は東大寺を守り、神宮寺は八幡宮を守るという、神仏が相互に守り合うという発想は、平安朝の神仏習合の思想の先駆けとして奈良時代に始まっているのです。

昔は、天皇は神道で即位し、退位すると出家して仏門に入りました。一般家庭では神棚と仏壇があるのが普通でした。ですから、同じ境内に神社と寺院が同居していても誰も不思議に思いませんでした。

そう言えば江戸時代でも浅草寺の境内に浅草神社(三社様)が祭られています。浅草神社の祭神の一柱は浅草寺の観音様を隅田川から引き上げた漁師というのですから仏と神は誠に近い関係なのです。

しかし、明治政府はこの神仏混淆を良しとせず、廃仏毀釈を強行します。一神教の西欧文明に遭遇して、欧米化のために宗教の混在を恥ずべきことと考えたとの説がありますが、いや違う、狂信的とも思われる一神教の激しさに恐れをなした明治政府は、神道の力で西欧と対抗しようとしたとの説が有力です。

いずれにしても、明治政府はそれまでの寛容な日本の宗教のあり方に打撃を与えました。しかし、明治政府の廃仏毀釈政策にも拘わらず、一般庶民の間では神と仏は同居したままです。神仏習合は奈良、平安時代からの日本人の長い伝統であり、今も人々の宗教心の中に生き続けているのです。
(以上)
【2018/08/06 13:49】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
三内丸山遺跡が語る縄文時代
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平成の始めに青森市で発掘されて有名になった三内丸山遺跡は、その規模の大きさと出土品の多さで、国内最大の縄文集落と云われて話題を呼びました。しかし、その存在は江戸時代から知られていたとのことです。

三内丸山遺跡は、縄文時代の前期から中期(5~6000年前)のものと云われますが、優れた出土品から見ると既に高度の農耕文化が栄えていたと推測され、弥生時代の開始時期を3000年弱前とする従来の学説に異論が出ています。

日本の縄文時代は一万年余りも続きますが、その長く続いた時代に狩猟と漁撈を営みながら、大陸の遊牧民族のように移動せず、縄文人は一ヶ所に定住していたと言われます。そのことが、農耕生活も同時に可能にし、土器の独創的な製造技術を生んだのです。

縄文中期の土器に見られる様式は「火焔様式」と言われるもので、土器の形態や土器の表面の模様は、単調でなく不規則で即興的な変化に富んでいて、極めて独創的なのです。

長い縄文時代に比べると短かい弥生時代は、日本社会の変動に与えた影響は大きかったと言われますが、にも拘わらず、縄文時代に培った古来の文化は、日本文化の基底を形成して、現在までも脈々と息づいていると言われます。

また、縄文時代は、その後に続く弥生時代に比べて、平和な社会だったとも云われますが、何故それ程長く平和だったかと言うと、それは日本全土が深い森林に覆われていたからで、豊富な木の実と小動物を食料として、縄文時代の日本人は満たされた生活をしていたのでしょう。

そして、何故日本全土が厚い森に覆われていたかと言うと、それは豊かな水のお陰でした。水は台風などで太平洋側からも来ますが、大半は冬に日本海を渡ってくる寒風がもたらす雪でした。日本海側に沢山の雪が降るようになるのは、ほぼ一万年以上も前からと云われます。当時、地球は氷河期が終わり、海面が上昇し、黒潮の一部は九州南方で分岐して対馬海峡を通り、日本海を北上し始めたのです。

温かい黒潮は、冬期にシベリアから吹いてくる乾いた寒風に曝されて水蒸気となり、その水蒸気は日本列島に押し寄せます。日本海側の山の斜面には大量の雪が積もります。その雪は夏にかけて徐々に溶けていく、水のダムの働きをしました。これは樹木の生育にとって最適な環境でした。いま東北の白神山地に僅かに残るブナ林は、縄文時代に日本全土を覆っていた証拠の印です。

紀元前4000年以前に栄えた世界の四大文明が、みな森林を利用し尽くして森林の消滅と共に衰退しました。幸いにも日本海側の降雪と台風の襲来が続く限り、日本の山々は緑を失うことはないでしょうが、それでも、縄文時代の日本人が抱いていた自然への愛と尊敬の念を失えば、保障の限りではありません。

写真の映像は、発掘現場の遺構や遺物から想像した、当時の三内丸山村落の姿を再現したものです。狩猟と農耕を併せ営み、縄文人は豊かな生活をしていたことが分かります。

個々人の住居は小さな竪穴式ですが、中には長屋のような集会所と見られる建物もありました。(写真1、2、3)

高床式の建物は食料の保存倉庫かと思われます。これは日本列島の北端でも当時は気温がかなり高かったことを示しています。(写真4)

巨大な木造の櫓は、外敵の襲来を早期に発見するためのものとも、沖に出た漁船に村落の位置を示す灯台の役目をしていたとも言われています。(写真5)
(以上)
【2015/01/21 21:24】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
エレベーターとエスカレーターはホモ・サピエンスの良き友
                    1.エスカレーター-01D 0709q
                     2.シオサイト:フォンテーヌ汐留-02D 1304q

太古の昔から人間は地面を歩いて生きてきました。湿気や害虫から逃れるため高床式の住居に住むことはあっても、生活の大半は地面の上を歩いて過ごしました。人間は他の哺乳動物と同じく平面を水平に移動することが普通でした。

しかし、建築技術が発達して背の高い建造物を造れるようになると、人間はその建物の中で上下に移動する必要に迫られました。上下の移動は重力に逆らう動きですから歩くときの運動負担が大きくなります。そこで階段は不便というのでエレベーターが造られ使われるようになりました。

階段は横に動きながら少しずつ上下するので水平移動も伴いますが、エレベーターは垂直に、しかも急速に上下するので、人間にとって初めての空間移動体験でした。例えば、デパートのエレベーターに乗って降りた階の風景は、乗った階とは全く違います。初めてエレベータに乗った人がエレベーターが止まって扉を開いたとき、少しオーバーに言えば、恰も玉手箱を開いて見る感じがしたでしょう。

エレベーターに続いて開発され普及したエスカレーターは動く階段です。眼前の風景は連続的に変化しますからエレベーターを降りたとき感じる意外性を人々には与えません。急ぐ時でなければフロアーを次々と眺めながら移動する楽しみがあります。

エスカレーターは、ゆくりと時間を掛けて大勢の人を運びます。エレベーターとエスカレーターの関係は、飛行機と船舶の違いに似ています。飛行機は少数を迅速に運び、船舶は大勢をゆくりと運びます。それぞれ一長一短がありますから、デパートなどでは両方を設置しています。

高層ビルでは高速のエレベーターが威力を発揮しています。低層のビルと低層のビルとの間を横に移動するよりも、同じ高層ビルに入居して、上下に移動した方が、ずっと早いので時間の節約になります。分散していた会社が一ヶ所の高層ビルに集まるのは当然です。一つの高層ビルに街の機能が同居すれば、そのビルは一つの街になります。

しかし人々は、高層ビルで便利に仕事をし、高層マンションに快適に住んでみて、地上から高く離れた空間にいることに、時々落ち着かない気持ちになります。それは中空に吊り下げられているという不安であり、何か大切なものから隔離されたという感じです。それは、人類が地球に誕生して以来、ずっと大地に足を着けて生活してきた遺伝子の囁きかもしれません。

他方、人間は地下にも潜っていきます。私たちの地下生活は地下鉄に乗るとき位でしたが、新しく建設される地下鉄は、かなり地下深いところを走るようになり、地下生活の深さは増しています。深い地下を走る地下鉄には長いエスカレーターが利用されています。それは移動の早さよりも移動の量が求められているからです。

現在の地下鉄では移動するのに長いエスカレーターが主役ですが、今より深い地下を利用するとなれば、エスカレーターではなくて、エレベーターが用いられるようになるでしょう。折角地下鉄で早く目的地に到着したのに、地上に出るのに時間が掛かっては不便だからです。

地下鉄だけでなく地下深く伸びるビルを建設する構想もあります。地価の高い場所では地中ビルの建設費が高くなっても採算がとれるからです。地下100メートルを越える大深度にビルが建築されたとき、そこで働いたり住んだりする人々は、今度は空が恋しくなります。ここでも高速のエレベーターが使用されるでしょう。

人間の活動範囲が空中と地中に伸びていくとエレベーターとエスカレーターは必要不可欠の手段となります。しかし、そんなに高く登らなくても、そんなに深く潜らなくても、エレベーターとエスカレーターは社会生活で益々必要になっています。

今では殆どの駅でエレベーターとエスカレーターが設置されていますが、これは高齢化社会になって、それが必要になったからです。さもなくば足腰の弱った老人達は都会で公共交通機関を利用出来ないからです。

ホモ・サピエンスは知恵のある人と言う意味ですが、老人は多くの知恵をもつホモ・サピエンスです。同時にホモ・サピエンスは二本足で動き回る動物ですが、老人は不自由な二本足をもつホモ・サピエンスです。

こうしてエレベーターとエスカレーターはホモ・サピエンスの良き友となりました。
(以上)
【2014/06/21 16:36】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
文明の衝突と伝播 現代の課題
文明は永遠に続くものではなく何時の日か消滅するものですが、同時に文明は伝播し普及するものです。伝播して広く受け入れられて普遍性を獲得した文明は、優れた文明と云えます。

このようにして普遍性を獲得した文明としては、西洋ではギリシャ、ローマ文明がありますし、西アジアではメソポタミア文明がありますし、アジアではインド、中国文明がありました。

文明圏の拡大には、受け入れ側が征服されて強制的な場合と、征服を伴わず受容が自発的な場合とがあります。いずれの場合でも人々がその文明の価値を受容して、初めてその文明圏は拡大しました。

日本は、古くは随、唐の文明を受け入れ、近くは西欧の近代文明を受け入れましたが、両方とも自発的に他の文明を摂取しようとするものでした。日本は途中で遣唐使を中国に派遣するのを廃めましたが、その頃には唐文明が衰退し始めて、導入するに値しないと日本人が考えたからです。

明治政府は政権樹立直後のあわただしい時期に、政府首脳自らが大挙して長期間にわたり欧米の経済社会を視察するために岩倉使節団を派遣しました。外国文明の摂取に関しては、明治時代の日本人は、奈良時代、平安時代の日本人に劣らず熱心でした。

ドイツの哲学者シュペングラーは、20世紀初めにアメリカとロシアの台頭を予想して「西欧の没落」を書きました。スペインの哲学者オルテガはその著書「大衆の反逆」で過去3世紀間にわたるヨ-ロッパの世界支配は終わりに近づいていると論じました。前世紀初めに、西欧の知識人は西欧文明の全盛期は終わりつつあると予感していたのです。

一般的に言って、文明の隆盛期には文明圏は武力を背景にを拡大する傾向があります。また文明の衰退期には、その文明圏は侵略されて滅びるか、他文明により摂取されて消滅します。18世紀に世界に先駆けて産業革命を実現した西欧社会は、武力で中近東とアジアを植民地として西洋文明の支配下に置いたのです。

現代は、アジアなどの非西欧文明が興隆する兆候を示しています。そのことをオルテガは「略奪されるヨーロッパ」と表現しています。嘗て他文明を略奪した西欧文明は、今や逆に非西欧文明に略奪されつつあるというのです。

イギリスの歴史家トインビーによると、世界の文明は、発生、成長、衰退、解体を経て交代すると述べています。そしてアメリカの歴史学者ハンティントンは、21世紀は文明の衝突の時代だと論じました。そして文明と文明が接する断層線での紛争が激化しやすいのが今世紀であると指摘しました。

ハンティントンは、具体的にキリスト文明とイスラム文明との間に武力衝突が起こることを予想しています。文明間の折衝では、支配・被支配だけではなく、抱擁・吸収で終わることもあります。しかし、抱擁・吸収が起こるのは、文明を受け入れる側に与える文明を栄養として吸収する態度と能力が必要です。

複数の文明が相互に干渉することなく存在し得たのは可成り昔のことであり、現代は狭い地球上に幾つかの文明がせめぎ合っています。文明は強大なようですが壊れやすいもので、一旦壊れると再起不能な打撃を受けるものです。

そうであれば、尚更狭い地球に存在する文明は相互に理解し合い、寛容になることが大事です。今日ほど異なった文明が共通の価値観を持つことが必要な時代はありません。文明間で抱擁・吸収が進むよう努力して欲しいものです。武力で自己の文明を押しつけることは、それ自体が野蛮(非文明)なことなのですから。

下に掲げた写真はトルコ国内にあるユーフラテス川の源流を訪ねたときのものです。この川はトルコ東北部に源流を発してシリアを通過しイラクでチグリス川と合流して、ペルシア湾に注ぐ川です。世界四大文明の一つ、古代メソポタミア文明が栄えたのは、この川の流域でした。

イラクでの紛争が沈静しないまま、続いてシリアで内戦が起きている現状をみると、文明の衝突と伝播は人類の永遠の課題であるようです。
(以上)


                       ユーフラテス川-01Nh Nadbe r
                       トルコの東北部を流れるユーフラテス川
【2013/02/13 20:34】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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