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江戸の火消しの伝統
1.四谷消防博物館
写真1 四谷消防博物館

2.火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒
写真2 火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒

3.江戸の火消し纏
写真3 火消し纏の模型

地震、雷、火事、親父とは、この世の中で特に怖いとされているものを順に並べて語調よろしく述べた言葉ですが、地震も雷も火事を起こして全てのものを灰にしますから最も怖いのは火事と言うことになります。

日本の建物は木造が一般的でしたから、江戸時代には火災は街の最大の災難でした。季節風の強い時期に町の何処かで一旦火がでると、木と紙で出来た江戸の街は広い範囲が焼き尽くされました。

最大の火災は明暦の大火(明暦3年1657)で、江戸の街の60%が消失し、江戸城内にも延焼して天守閣も焼け落ちました。その時を機に幕府は火災に備えて江戸城内の武家屋敷の再配置と下町の防火対策を断行しました。

先ず外濠内の屋敷を外濠外へ移動し、その跡地に密集していた内濠内の屋敷を移転し、江戸開闢以来の城内の屋敷の再配置を行ったのです。城外の下町でも延焼を食止めるため、上野や両国には道路を広げた広小路を設けました。更に町々には「町火消し」の組を組織させて町民による消防活動を強化しました。

火事と喧嘩は江戸の華と言われたのは、火事が多い江戸では町火消しの働きぶりが華やかだったことと、短気な江戸っ子たちは派手に喧嘩をしたからですが、町火消しの「め組」と江戸相撲の力士たちとの乱闘事件を取扱った講談や歌舞伎「め組の喧嘩」が有名になったことに肖った言葉でもあります。

相撲取りと喧嘩する位威勢の良い町火消しの組の権限は、火災の時は強大でした。火災の通報を受けると、真っ先に駆けつけて高みに登り、その時の風の向きを読み、延焼防止のため除去する家並みを指示します。町火消しは鈎付きの長い棒では家々を壊します。土地の有力者も家の所有者もそれを止めることは出来ません。燃える家の除去は町火消し組の権限なのです。

消火活動は一刻を争いますから、真っ先に到着した町火消しの組に主導権が与えられます。火消組が現場に持込み高々と空に掲げる火消し纏いには、組名が明示してあり、この火事場での指導権を示すものでした。

江戸時代の消火活動は火を水で消すのではなくて燃える家を壊して延焼を防ぐことでしたが、昭和になってからもその手法は採用されました。東京の街がアメリカの焼夷弾攻撃を受け始めた頃、幅広い大きな道路の両側の家屋は、都内のあちこちで強制的に撤去させられました。

国道246号に面して商売をしていた我家も東京大空襲の前年に取壊されましたが、そのお陰で反対側の住宅街は戦災を免れました。江戸の智恵が昭和に生かされた事例です。

写真は、四谷三丁目交差点に建つ四谷消防博物館と、館内に展示されている江戸の町火消し組が着ていた半纏、用いた鈎付きの長い棒、纏いをデザインした木の模型です。
(以上)
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【2020/05/06 12:02】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
築地塀は江戸の遺産
1.報土寺-04D 0805qr
写真1 本土寺の築地塀
2.報土寺:築地塀-06D 1909qt
写真2 三分坂から見た本土寺の築地塀
3.谷中寺町:観音寺:築地塀-07D 1909q
写真3 観音寺の長い築地塀
4.谷中寺町:観音寺:築地塀-14D 1909qt
写真4 築地塀にある観音寺の裏門
5.待乳山聖天-05D 0804qr
写真5 待乳山聖天の築地塀
6.待乳山聖天-06D 1102q
写真6 待乳山聖天の参道 築地塀は階段上の右手にある。

京都御所や西本願寺は長い土塀で囲われていますが、これらの土塀は築地塀(ついじべい)と呼ばれるもので、外敵の侵入を防ぐ堅牢な防護壁として築かれたものです。古都京都では、公家の屋敷や伝統のある寺院・神社が築地塀で囲われている例を良く見かけます。

嘗ての江戸でも武家屋敷や寺院には築地塀が数多くありましたが、明治以降、武家屋敷は壊され、残ったものも震災と戦災に遭って焼かれて、今の東京では築地塀を見る場所は滅多にありません。

しかし、現在の東京の町中で、築地塀が見られる場所が三ヶ所あります。それは港区赤坂にある報土寺と台東区谷中にある観音寺と浅草にある待乳山聖天です。

赤坂の報土寺の築地塀は、瓦と粘土を交互に積み重ねた形態ですが、瓦の層が幾層にも密に重なっているので、瓦と瓦を粘土で張り付けた様な仕上がりになっていて、重厚な築地塀です。しかも粘土の部分は白い漆喰で塗り固められているので、瓦屋根の黒色と漆喰の白色が縞模様になって美しい築地塀です。報土寺は三分坂という急坂の途中に建っているので、傾斜に沿って斜めに走る築地塀の縞模様の線はダイナミックであり、モダンに見えます。
(写真1、2)

谷中の観音寺の築地塀は、観音寺の南側を通る小道沿いに長く続いています。築地塀の途中に境内への出入口の扉があるので、それが長い築地塀の単調さに変化を与えるアセサリーになっています。観音寺の築地塀も、報土寺と同じく多層の瓦が積まれていますが、瓦の層には欠けた部分も目立ち、粘土の部分に彩色を施していないので、却って江戸時代からの築地塀の古さを感じさせます。小道を挟んで、観音寺の築地塀の対面には真新しいモダンなデザインの土塀が建っているので、この小道は新旧土塀のコントラストを演出した面白い光景です。
(写真3、4)

浅草の待乳山聖天の築地塀は、参道の階段を上った右側に一部残された短いものです。待乳山は堆積層の平地に独峯のように突き出た10メートる程の丘で、隅田川を眺める名所でしたから、歌川広重が描いた絵にもこの築地塀が描かれています。
(写真)5、6)

築地塀は、鉄砲の弾を通さないので、安土桃山時代以降は城郭の内部に多く使われました。そう言えば、戦国時代には寺は屡々臨時の軍事拠点として使われましたから、寺に築地塀が多いのはその所為かも知れません。築地塀が装飾的になったのは江戸時代以降だそうです。

現在の東京には、江戸時代を偲ばせる遺跡は江戸城跡の皇居の他には見附跡しか残っていませんが、築地塀は東京にある江戸時代の数少ない証拠品です。
(以上)
【2019/11/28 18:12】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
菊の紋章
                  1.三笠公園-16D 1303qt
                  写真1
                     2.靖国神社-02D 0705q
                     写真2
外国旅行をする日本人は平成30年(2018年)千九百万人に増えましたが、彼らが所持するパスポートの表紙には菊の紋章が付いています。

パスポートは日本人であることを証明するものですから、菊は日本国の国花だと思いましたら、菊か櫻かは公式には決めていないのです。菊の紋章は皇室の紋章ですが、天皇陛下は日本国民の象徴ですから、菊が日本国を表す紋章になったのです。

菊は唐の時代に薬草として日本に持込まれたので、菊の花は梅や桜のように古くは注目されませんでした。鎌倉時代になって、当時の天皇が菊の花を深く愛したことにより、菊が天皇家の紋章に取り上げられたと言われます。

水戸黄門のドラマで格さんが悪人どもに「この紋所が目に入らぬか!」と掲げる印籠には葵(あおい)の紋が付いています。葵は徳川家の紋章ですから、幕府は自由に使うことを禁じました。その代わり、菊の紋章は天皇家のものでしたから、徳川時代その使用は自由でした。

そのため、江戸時代には和菓子や仏具にも菊花紋が使われたそうです。しかし、明治維新で徳川幕府が崩壊し、天皇が政治の実権を握ると、菊は国家の威信を示すシンボルとして復活します。

そして明治時代に入ると、皇族以外の者が菊花紋を勝手に使うことは禁止されました。そして菊の紋章は国家権力に関係する書類、器物、施設などに表示されることになりました。

その代表的な例が軍艦の船首に取り付けられた菊の紋章です。横須賀港に係留されている日露戦争時の旗艦三笠の船首にも、第二次世界大戦の戦艦大和にも菊の紋章が付けられました。また、外国にある日本大使館の玄関にも菊の紋章が付いています。
(写真1)

しかし、戦後は菊の紋章の使用制限はなくなりましたので、国務を預かる国会議員も菊のバッジを付けています。国家のシンボルとして重みがある菊の紋章に魅力を感じるからでしょう。

国家・国民を守るために命を落とした兵士達を祀る靖国神社の扉にも大きな菊の紋章が付いています。一際大きく、鮮やかな金色の菊の紋章でした。
(写真2)
(以上)
【2019/08/14 16:42】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
なぜ日本人は行列好きなのか
1.中央通り:銀座:正月雑踏-02D 1901q
写真1 銀座中央通り
2.明治神宮:初詣-07D 0901qt
写真2 明治神宮初詣
3.千鳥が渕-06N 03(皇居・九段 NP)q
写真3 千鳥ヶ淵の花見
4.新宿南口:サザンテラス:クリスピー・クリーム・ドナツ-05D 0706q
写真4 新宿南口サザンテラスの跨線橋
5.銀座マロニエ通り-40D 1901q
写真5 銀座裏通り
6.明治通り:表参道交差点~千駄ヶ谷小学校-31D 1902qt
写真6 明治通りの神宮前交差点付近
7.年末ジャンボ宝くじ-01D 1112q
写真7 有楽町の年末ジャンボ宝くじ売り場

東京の街を歩いていると色々な行列に出会います。
新年の銀座で歩道いっぱいに秩序よく歩く人々がいる。(写真1)
明治神宮の初詣では寒くても夜中から人々は我慢強く長い列をつくる。(写真2)
千鳥ヶ淵の桜見物では人々は濠端の道を列を作って粛々と歩く。(写真3)
新宿南口のサザンテラスでは人気のドーナッツを買う人々が跨線橋まで長い列を作る。(写真4)
ブランドを求めて人々は銀座の有名ファッション店を取り巻いて長い列をつくる。(写真5)
新型スマホを求めて待つ若者達の列は長すぎて途中で仕切られる。(写真6)
年末の新橋ではジャンボ宝くじを買う人々が歩道まで延びる長い列をつくる。(写真7)


中国メディアのサーチナは、日本の「行列信仰」はすさまじい、列に並ぶ日本人の習慣はもはや「強迫性障害」に近いほどと批判的ですが、最後には「並ぶ」のは「平等」を直接表現する形で公平な社会秩序を体現しているので文明国の公衆道徳の見本だと好意的に評価しています。また香港の鳳凰網は行列を「秩序の美」であり、日本の行列文化は手本にすべきとまで褒めます。総じて中国系メディアは日本の「行列」を褒めますが、その狙いは中国社会への批判に力点があるのでしょう。

中国メディアの行列評価のなかで「行列は日本人にとって帰属感を与えてくれる」という指摘がありましたが、「行列の核心」を衝いていると思います。地縁・血縁による結びつきは利益・機能による結びつきより強固です。島国日本に住む日本人は、大陸国家の中国人より共同体意識が強いのです。

それでは同じ島国のイギリス人はどうでしょうか?
少し旧い記事ですがNews Week(2011,02,09)の「行列と秩序とイギリス人」(コリン・ジョイス)が面白いことを書いています。

イギリス人には、何事も先着順位を尊重し、割り込みには強く反対する習性があると言い、公衆電話が複数あっても一列の行列ができて、先頭者がいずれの電話機にも優先権があるという暗黙の了解があるのだそうです。

パブでイギリス人は飲み物を注文しにカウンターの前に立つとき、誰が自分より前にいたか、誰が自分より後に来たか、無意識のうちにチェックしていて、先着者が優先する暗黙の決まりがあり、列は作らなくても互いに順序を無意識のうち守るのだそうです。イギリス人の深層心理には平等や公平を重んじる意識があるのだろうと述べています。

行列作法一つとってみても中国、日本、イギリスの国民性の違いが見えて面白いものです。
(以上)
【2019/03/09 15:42】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大正時代の文化人に愛された代々木
1.高野辰之住居跡-01D 1812qr
写真1 高野辰之住居跡
2.春の小川-09D 1007q
写真2 春の小川記念碑
3.絵画:切通しの写生(道路と土手と塀)
写真3 岸田劉生の「切通しの写生(道路と土手と塀)」
4.切通しの坂-01D 0703qtc
写真4 切り通しの坂の現状
5.菱田春草終焉の地:史跡標柱-01N 1901q
写真5 菱田春草終焉の地の史跡標柱
6.田山花袋終焉の地の史跡標柱-04N 1902q
写真6 田山花袋終焉の地の史跡標柱
7.代々木公園-31D 04q
写真7 緑の多い代々木公園

その歴史を辿ると、代々木には加藤清正や彦根藩井伊家の有力武士たちの屋敷があったところで、明治神宮境内に清正の井戸(湧水)があり、彦根藩の下屋敷には代々木と言われた大樅木があったように、地勢に優れたところでした。

大名屋敷の跡地は明治時代に桑畑や茶畑になりましたが、明治末期に都心のお茶の水から八王子への鐵道(今の中央線)が敷けると、大正時代には代々木駅周辺は便利な郊外となり、詩人や画家や小説家たちが移り住み、文化人ゆかりの土地になりました。

「春の小川」の作詞者で国文学者の高野辰之は代々木に居を構えましたが、その住居跡には今も「高野」という表札のある木造の家が残っています。場所はJR代々木駅から西に歩いて10分程のところです。
(写真1)

高野辰之の旧居跡の前の道を真っ直ぐ西に進むと小さな坂があり、その坂を下った先に「春の小川」の水源池(今はマンションの下に埋まる)があり、そこから河骨川が流れ出ていました。高野辰之はその畔を散歩しながら故郷の長野県野沢の風景を思い浮かべて作詞したのでしょう。

高野辰之が見た「春の小川」は河骨川と言い、渋谷で宇田川に合流し、その後渋谷川に流れ込みます。最近、渋谷駅の南側が大開発され、その一環で渋谷川の浄化が行われた時、「春の小川」が復活したとメディアが騒ぎましたが、実は春の小川は渋谷川の支流の、また支流なのです。
(写真2)

春の小川に行き着く前に通った下り坂は、岸田劉生が描いた絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」(重要文化財)の坂です。土手を切り開いて造られた赤土の道、垂直に切り立った片側の赤土の土手、反対側の真新しい石垣と石塀は、当時、代々木のこの辺りが住宅地開発中だったことを物語っています。岸田劉生は、その頃、代々木の山谷町に住んでいましたから、散歩の途中にこの光景に出会ったのです。
(写真3、4)

この絵は、よく見るとディテールまで現実を精細に描いているのに、道路の消失点は高く、両側の塀と崖の消失点は低く、一致していません。奥行きを表現する消失点を二つにして道路を立ち上がるように強調したデフォルメ画は、赤土の真新しい坂道への愛着と、当時流行りのポスト印象派への強烈な異議申し立てなのでしょう。

茨城県の五浦で横山大観と共に画業に励んでいた菱田春草は、目を患って代々木に引越してきます。高野辰之の旧居跡の近くに代々木山谷小学校がありますが、その校庭の角に菱田春草終焉の地の史跡標柱が建っています。菱田春草の絵画「落葉」(重要文化財)は有名ですが、菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いていますから、当時の代々木は、まだ国木田独歩の言う武蔵野の一部だったのでしょう。
(写真5)

文化服装学院の裏通りの一隅に小説家、田山花袋終焉の地という史跡標柱が建っています。田山花袋は明治末期に代々木のこの地に居を構え、没するまで住んでいました。その場所は甲州街道に近く、高野辰之の旧居跡から遠くないところです。

田山花袋は「蒲団」「田舎教師」などの告白型小説で有名で、島崎藤村と共に自然主義文学の旗手として活躍しましたが、懺悔と小説(フィクション)との区別を知らない当時の文壇の人々から攻撃され、その後、白樺派の台頭と自然主義派の衰退で文壇の主流から離れ、晩年は静かな郊外の代々木で過ごしたと言います。

しかし、人生の真実を追究する文芸の立場からは、当時の日本の文壇では私小説の存在意義は大きく、キリスト教会的考え方に支配された西欧文学には生まれなかった独特のものでした。
(写真6)

第一次世界大戦で戦勝国となった大正時代の日本は、大正デモクラシーと言われる平和な時代を謳歌しました。そして代々木は、活躍する多くの文化人が好んで住んだ場所でした。現代の代々木も、明治神宮と代々木公園がある、都内では皇居に次いで緑の多いところです。
(写真7)
(以上)
【2019/02/20 18:57】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
丼の食文化
1.深川めし-01D 1202q
写真1 深川めし 江東区の深川江戸資料館の近く
2.土手通り-01D 1104qt
写真2 老舗の天麩羅屋 台東区三ノ輪の土手通り
3.人形町:玉ひで-04D 1305q
写真3 玉日で 日本橋人形町の親子丼屋
4.人形町:玉ひで-07D 1605qr
写真4 玉日で 昼食時の長い行列

 「どんぶり勘定」と言えば、勘定の内訳明細なしに大ざっぱな支払いをすることを言いますが、食べ物で「どんぶりもの」と言えば、大きな茶碗(丼)にご飯とおかずを一緒に入れたものです。

元々「どんぶり」とは職人の前掛けに付けた袋を指しましたが、食べ物の丼は瀬戸物の食器です。同じ表現の「どんぶり」が使われたのは、一つの入れ物に色々なものを一緒に入れることに由来します。

それにしても、日本の食文化の中で丼モノは人気が高い料理です。丼モノの人気の秘密は、料理するのも簡単、食べるのも簡単ということです。最近は高級な丼モノがあり、料理するのに手間を掛ける場合もありますが、丼モノは「簡単」が基本です。

アサリの味噌汁をご飯にぶっかけて食べる「深川めし」は、江戸時代に忙しい漁師が舟の上で食べた朝食でした。今はやりの吉野家や松屋の牛丼は、サラリーマンのぶっかけご飯です。ワンコイン(五百円玉)の食事のルーツが江戸時代にまで遡るなんて愉快です。
(写真1)

和風の丼モノに対して、洋風のワンコイン食事はマクドナルドなどです。こちらは入れ物に丼を使わず、簡便な紙で包みフライドポテトなど合わせて手掴みで食べます。簡単でも箸を使う和風ワンコイン食事に比べて、手掴みで食べる洋風は粗野に感じます。

お値段はワンコインの倍余りになる丼モノに、カツ丼、天丼、親子丼があります。夫々かなり手の込んだ料理ですから値段は少々高くなりますが、おいしい丼モノを所望される人々に人気があります。

これらの原材料は豚肉、海老、鶏肉、卵などですが、調理法は日本独自のものです。

カツ丼ですが、溶いた卵に豚肉を浸し、パン粉を付けて油で揚げ、これをカツレツ風に切って、更にタマネギと一緒に鍋で煮てご飯にかけるのです。

天丼はテンプラをご飯の上に載せただけの料理です。テンプラはオランダから伝来した時はふんわりしたものでしたが、その後サクサクした和風テンプラに進化しました。江戸時代は屋台で揚げたてを食べたそうで、意外と庶民的な食べ物でしたが、今では揚げたてを食べる専門料理屋は高級店です。それを庶民風に仕上げたのが天丼です。
(写真2))

親子丼は鶏肉と鶏卵の合せ技料理です。カツ丼との違いは、鶏肉と鶏卵が半々の重みを持つことです。どんぶり一面に半熟卵がたっぷり掛かった親子丼は、見た目には殆ど卵料理に見えます。時々鶏肉に代えて豚肉を使う親子丼を見かけますが、これは手抜きした親子丼です。

日本橋人形町に「玉ひで」という鳥料理屋があります。元々は軍鶏鍋(しゃもなべ)専門店でしたが、明治の中頃「親子丼」を発案して、以後知る人ぞ知る名店となりました。その秘密は軍鶏鍋の残りの割下に卵をとじるところから始まったと言います。
(写真3)

日本の丼の食文化は、簡単を求めましたが結構奥行きがあります。その奥行きを味わうのに一度軍鶏肉の親子丼を「玉ひで」で試してみては如何ですか?
でも、昼飯時はご覧のような行列が出来ますのでご用心を。
(写真4)
(以上)   
 
【2017/07/19 19:04】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本は谷に恵まれた国
1.山姿-05Pt

2.山姿-06P 84t

3.山村-01P 88t

4.山村-03P 89t

5.渓谷-01P 84t

6.渓谷-02P 83t

世界の四大文明は全て河川のほとりで発生しました。チグリス川とユーフラテス川の間に広がる沖積平野は、平野であって谷ではありません。メソポタミアとは複数の河川の間を意味するそうで、河川の下流に生成した肥沃な河川敷は農耕に適していて、そこに古代文明が育ちました。

日本では広大な平野は北海道を除けば関東平野くらいで、国土の大半は山と丘陵です。ですから、人々は山や丘陵の間の、僅かな平地に住処を見出し、山間の谷間(たにあい)で農業生産を行っていました。今で言う中山間地(ちゅうさんかんち)が格好の生活の場でした。

大平野には大規模な灌漑施設が必要です。しかし谷間は、急峻でなければ、農業用水の管理利用は大平野より容易でした。大規模の灌漑施設がなくても、段々畑に見るように水は流れて細長い谷間の畑を満遍なく潤します。それに山々は雲を呼び雨を降らせます。

このように日本では、谷は恵みの地でした。しかし、世界には逆に谷は忌避すべき劣悪な環境の場所であると言う国々もあります。

インドネシアのジャワ本島では低地は湿度が高く、マラリアなど病気に罹りやすいから、人々は好んで高地に住むと聞きました。赤道周辺の高温多湿の地帯では、概して谷より高地が住みやすく、文明発生の場所になりました。

その他の国でも、東アフリカのタンザニアやモザンビークでは、インド洋に面した低地は気温が高く、伝染病も発生し、住みにくいとのことです。逆に内陸にある丘陵地帯は、標高が高いので気候がよく、人々は内陸部の高地を好むと言います。

広大な大陸の中国では、寒冷で乾燥した北の黄土の大地では小麦が栽培され、湿潤で水利に恵まれた南の揚子江流域では稲作が盛んでした。水の流れるところは当然、谷があります。その南の稲作地帯では、人々は谷あいを好んだと言います。

山を越えたら小さな盆地が現れ、そこには桃の花が咲き、犬と鶏の鳴き声が聞こえ、のどかな山村があります。そこが中国人が言う理想郷の「桃源郷」でした。桃源郷のイメージは、谷間のイメージと重なります。

老子は「谷神は死せず」と言いましたが、谷を女性に喩えて、谷は命を産み出すところだから死はないという意味だそうです。山と丘陵に囲まれた農村は、生産的であり、永遠の命のある桃源郷なのです。

身近な東京都の奥座敷の多摩地方にも、谷神が住む渓谷があります。そこには谷住まいの村落があり、人々は谷川の水の恵みを受け、その水蒸気にまみれて暮らしています。この谷間に住むと母の胎内で暮らしている気持ちになるでしょう。

山陵が重なる奥深い谷間には、ひっそりと山村があり、夕べには家々からたち上る登る煙が谷間にたなびき、朝早く谷川に出れば川靄が立ちこめる、奥多摩の風景を写真で眺めて下さい。
(以上)
【2016/08/04 13:11】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
相馬野馬追い祭り
1.相馬神社-01P 99r
写真1 相馬中村神社

2.相馬野馬追い-03P 99t
写真2 参上いた武士たち

3.相馬野馬追い-01P 99t
写真3 迎える武士たち

4.相馬野馬追い-16P 99t
写真4 指揮する武将

5.相馬野馬追い-10P 99t
写真5 広場で神旗争奪戦が始まる。

6.相馬野馬追い-17P 99t
写真6 神旗が打ち上げられた方向に突進する騎馬

7.相馬野馬追い-08P 99t
写真7 神旗を鞭で巻き取ろうと競り合う武士たち

相馬野馬追い祭りは、毎年7月の中旬から下旬にかけて、福島県の浜通りの街、相馬市を中心とした地域で開催されます。平将門が野馬を捕らえ馬を神前に奉納したことに由来する祭りで、千年という古い歴史があります。今では、相馬野馬追いは、国の重要無形民俗文化財に指定され、一地方の祭りが全国的に知られるようになりました。

平成23年(2011)3月の東日本大震災と、それに続く福島原発事故で、相馬市は甚大な被害を受けましたが、旧い神社の多くは標高の高いところにあり、津波の被害を免れたそうで、相馬野馬追い祭りの相馬中村神社も健在だと聞きます。
(写真1)

相馬野馬追いの、祭りとしての起源は、鎌倉時代以前に遡り、土地の豪族の相馬氏が、野生の馬を放して敵兵と見立てた軍事訓練をした事に始まると云われますが、その後は、神事という名目で継続され、現在の形で祭りが復活したのは、明治になってからだそうです。

それにしても、相馬野馬追い祭りでは、相馬中村神社の氏子たちは、現在の身分を離れて相馬時代の身分に戻り、先祖伝来の鎧甲を身にまとい、武士の作法に従い、その時代の身分に応じた役割を演じ、町を挙げて往時の武家社会に変身します。
(写真2、3、4)

例えば、現在は市役所の平(ひら)の職員でも、先祖が相馬藩の重臣であったらそのように、そして市役所の部長の先祖が足軽であったならそのように振る舞うのです。祭りでは現世の地位は逆転して部長は平の職員の指揮に従います。

殿様の使者が市役所を訪れたとき、市庁舎の二階から眺めていた職員は頭(ず)が高いと叱られました。殿様の使者を高いところから見下ろすことは大変失礼なことだからです。三日にわたる祭りの間は、町中では武者姿の武将達が、馬に乗って走ったり、家来を連れて歩いたり、交わす挨拶も、なにかユーモラスな光景があちこちで見られます。

行事のハイライトは二日目の神旗争奪戦だと云われます。多数の鎧甲の武者が広場に集まり、空中に打ち上げられた布の旗を馬上から鞭で巻き取る戦いで、騎馬戦のような激しさがあるからです。
(写真5、6、7)
(以上)
【2016/07/27 12:47】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
寅さん映画は日本民俗の表現
1.柴又駅前-02D 1507qr

2.柴又帝釈天参道-16D 1507qt

3.柴又帝釈天:帝釈堂-07D 1507qr

4.柴又帝釈天:二天門-03D 0701qr

寅さん映画「男はつらいよ」は、昭和44年(1969)の第一作から平成7年(1995)の最終作までの27年間に全48作品が製作されて、世界最長の映画シリーズでした。

どの作品も場面(シーン)は違いますが、ストーリーの構成は同じです。神社の縁日で露天商を営む的屋(てきや)を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が主役で、地方での営業の合間に生まれ故郷の東京葛飾柴又に戻ってきて、叔父の経営する団子屋で一息入れる時に、親戚の人や近所の人々と騒動を起こすという喜劇です。

的屋(てきや)の寅次郎は、寺社の祭日を求めて日本全国を股にかけて歩き回りますから、毎回舞台となる地方の街や農村は違いますし、そこで繰り広げられる話題も変わります。毎回違った日本の風景が紹介され、地方の人々と寅次郎との間で繰り広げられる人情話が、滑稽であると同時に、ほのぼのした暖かいものですから、似たようなストーリーの繰り返しにも拘わらず人気は衰えませんでした。

このように単純なストーリーの繰り返しなのに、何故映画「男はつらいよ」の人気が高く続いたのかと云うと、そこには戦前まであったが、今は失われつつある、日本人の人間性の生地(きじ)とでもいう気質が描かれているからだと思います。明治の近代化で次第に薄れていき、特に戦後の経済優先主義の風潮で急速に消えていった、日本人の良き気質を、観客は寅さんの中に見出して懐かしみ、取り戻したいと願ったのでしょう。

日本人の良き気質と言いましても、一言で説明するのは難しいですが、それは国民或いは民族が長年共同生活の中で培ってきた対人関係で示す人間感情の全てです。それは「社会」ではなく「世間」という世界で生まれた生活感情です。それは具体的な形として見えるものは、習俗、習慣、しきたりなどとして継承され、これらは総称して「民俗」と呼ばれます。

戦前は民族学と言い、戦後はアメリカ流に文化人類学とい云う学問がありますが、その学問では「民俗」を捉えることは出来ません。外観から民族を研究しても「民俗」という内容までは立ち入れないからです。ところが、寅さん映画は、その「民俗」をいとも簡単に、映像として取り出してみせています。

司馬遼太郎は、日本人に「公共性」はあるかと問うて、それは「実直さ」であると答えています。「実直さ」は日本人の文化的遺伝子であるとまで云っています。実直は正直(honesty)でもなく、誠実(sincerity)でもない、ですから「実直」は外国語に翻訳できない日本固有の価値観であるというのです。

日本人には「社会」の公共性が乏しいと批評されますが、「世間」の実直さがあります。そう言えば、映画の中で寅さんは屡々「地道(じみち)が大事だよ」と云っていました。

写真は柴又駅前の寅さんの銅像と、寅さんの実家の団子屋と、寅さんが産湯を浸かった帝釈天の本堂と境内です。
(以上)
【2016/07/17 11:55】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本には初詣という宗教がある
1.明治神宮:初詣-07D 0901q
写真1 明治神宮 初詣 西参道
2.明治神宮:初詣-09D 0901q
写真2 明治神宮 初詣 本殿へ
3.明治神宮:初詣-24D 1501q
写真3 明治神宮 初詣 本殿前の賽銭場
4.成田山参道-33D 1601q
写真4 成田山新勝寺 初詣 混み合う参道
5.成田山:仁王門-01D 1601qr
写真5 成田山新勝寺 仁王門
6.成田山:大本堂-04D 1601q
写真6 成田山新勝寺 本堂

毎年、年が明けた元旦には多くの日本人は初詣と言って神社や寺院へお参りし、新しい年を祝います。その前日の大晦日には、寺院で撞く除夜の鐘を聴いて、その年に抱いた数多(百八の)煩悩から解放されて、清らかな気持ちになります。

日本人が馴染んだこの習慣は、長い間、繰り返されているので至極当たり前のように感じていましたが、ふと外国では新年をどのように迎えているかと見てみますと、日本とは大分事情が違うようです。

欧米では前年の大晦日に夜遅くまで酒を飲んで馬鹿騒ぎをして、年を越した元旦は休日ですが、次の二日から平常通りの生活に戻ります。中国では春節と言いまして旧暦の正月に数日間の祝日があり、家族と長寿を祝い、爆竹をならして近隣の人々と喜びを分かち合います。いずれの新年行事も宗教行事とは無関係です。

しかし、日本では年を越す行事には、仏教で煩悩を払い、神道で神を迎えると言う、宗教行事を中心に据えています。キリスト教やイスラム教を信じる人々に比べて、日本人は宗教心が乏しいと言われますが、大晦日から元旦にかけて国民全員が寺院と神社で行われる宗教行事に参加する行為こそ、日本人の宗教心の現れです。

誰でも新年には氏神様への初詣をしますが、今年は珍しく、初詣参拝者の多さでは関東で一、二を競う、明治神宮と成田山新勝寺に参拝に出かけました。

明治神宮は明治天皇を祀った神社であり、成田山新勝寺は真言宗の寺院ですが、日本では神社も寺院も、いにしえから互いに排斥批判することなく、両方の信者を分け隔て無く受け容れています。これも一神教の宗教から見れば奇妙なことですが、日本では当たり前のことです。

日本では神仏まで和を以て貴しとなすを実践しています。その際に見た、神社と寺院への参拝情景を写真でお見せします。
(以上)
【2016/01/12 15:26】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
サツマイモと人口と焼き芋屋
                        1.焼き芋や-01D 0910qr

                      2.焼き芋や-03P 03t

芋(いも)と言えばサツマイモとジャガイモです。やせた土地でも生育して、大量生産が可能であり、栄養価も高いので古来、世界の国々で主食として栽培されてきました。

人口は幾何級数的に増加するのに対し、食糧は算術級数的にしか増加しないとの説を唱えたイギリスの経済学者マルサスは、食料の供給量で人口の増減が決まると主張しました。

南太平洋の人々はタロイモを主食とします。タロイモには毒があってそのまま食べられませんでしたが、ある時、イモを砕いて水にさらすと毒を抜けると分かりました。すると南太平洋の人口が増大したと言います。

イモではありませんが、バナナでも同じ現象が起きました。バナナを輪切りにすると果肉の断面に花びらのような斑紋が沢山見えます。この斑紋は昔々バナナに種(たね)があった印(しるし)なのです。

断面の模様から想像するに、種の容積は大きく、果肉は小さかったと思います。ある時、突然変異で種が消えてバナナは果肉だけとなったと言われます。その頃から熱帯地方の人口は急に増大し始めたと、ある研究論文は伝えています。

今ではマルサスの人口論をそのまま信じる人はいませんが、食料の存在が人口の数を規制するという考え方は否定できない原則です。

19世紀にアイルランドで病虫害のためジャガイモ栽培が壊滅的打撃を受け、主食の大半をジャガイモに依存していたアイルランドでは大きな飢饉が起こりました。そのとき、大勢のアイルランド人はアメリカに移民しました。

日本では、ジャガイモは明治以降に栽培を始めましたが、サツマイモ(甘藷)は江戸時代に主食の米の代用品として栽培が奨励され、広く全国に普及しました。

と言いますのは、江戸時代は寒冷な時代であった上に、異常気象や富士山の宝永噴火、浅間山噴火などで、数回の大きな飢饉に見舞われたので、18世紀の初め、幕府は飢饉に備える食料として、青木昆陽に命じて、薩摩藩で栽培されていたサツマイモの栽培を全国に奨励しました。その後、飢饉での餓死者は少なくなりました。

第二次大戦中、サツマイモは米に代わる大切な基礎食料でした。今の若い人達には想像出来ないでしょうが、戦後のある時期まで、ご飯代わりにサツマイモを主食として食べたのです。ということは、つい最近までサツマイモは饑餓を救う食料だったのです。

因みにサツマイモの国内生産は鹿児島県、茨城県、千葉県、宮崎県、徳島県で全国生産の80%を占めており、中でも鹿児島県は全国の40%を生産するダントツの第一位です。サツマイモは、今も薩摩国(さつまのくに)のお芋なのです。

今は、サツマイモの基礎食料としての役割はなくなりましたが、それでも人々はサツマイモを愛します。石焼芋は焼いた石でじっくりと芋の芯まで熱を浸透させるので、まろやかな甘みがあります。

冬の寒い夜、焼き芋屋の呼び声に戸外に出て買い求めたり、裏町を行く焼き芋屋からホカホカの焼き芋を買い求めるのは、今でも冬の風物詩です。
(以上)
【2015/10/25 21:03】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸切子と薩摩切子
1.錦糸町:江戸切子館-05D 0902qr
写真1 錦糸町駅前の江戸切子館
2.錦糸町:江戸切子館-06D 1410qr
写真2 蔵前橋通りの江戸切子館
3.錦糸町:江戸切子館-02D 0902qr
写真3  錦糸町駅前の江戸切子館の展示場
4.錦糸町:江戸切子館-03D 0902qr
写真4  錦糸町駅前の江戸切子館の展示品
5.薩摩ガラス工芸-02D 150q8t
写真5  薩摩ガラスの製作所
6.薩摩ガラス工芸-07D 1508qt
写真6 薩摩ガラスの製作所の製造現場
7.磯工芸館(薩摩切り子)-02D 1508qt
写真7 磯工芸館 薩摩切子の展示販売場
8.磯工芸館(薩摩切り子)-13D 1508q
写真8 薩摩切子の創作製品

切子とはカットグラス工法によるガラス工芸のことであり、その製品であるガラス細工のことです。

江戸時代末期に江戸町民が製造を始めたガラス細工を江戸切子と言い、同じく江戸末期に薩摩藩が江戸のガラス職人を招いて製造したものを薩摩切子と言います。

江戸切子は天保年間(1830~1844)に日本橋でガラス業を営んでいた加賀屋が金剛砂でガラス面に切子細工をしたのが始まりとされています。明治時代になって政府によって創設された品川硝子でガラス製造が始まると、海外から吹き硝子技術、カット・摺り技術が導入され、ここで技術を習得した者たちがヨーロッパで行われていた本格的なグラヴィール技法(回転軸の先に円盤を取り付けて研磨剤でガラス面を彫刻する技法)を用いて工芸硝子の江戸切子を造るようになりました。

墨田区の錦糸町にある江戸切子館では江戸切子の展示販売を行っており、下町には江戸切子の工房が各所に散在しています。ガラスに色彩を着けて、多面的な切り口を施すと、その反射光が交錯して、ガラス器が輝きます。ダイヤモンドの輝きにも似て、ガラスを宝石に変える力があります。(写真1、2、3、4)

他方、薩摩切子は薩摩藩主の斉興が興したもので、その子の島津斉彬が集成館事業として薩摩切子の製造を振興しました。薩摩切子は素地のガラスの表面に着色ガラス層を貼り付ける、色被せという技法を用いた重厚な作品でした。江戸切子が江戸町民の手になるものでしたが、薩摩切子は技術を江戸から導入しながら、薩摩藩という財政的後ろ盾があったので、薩摩独自の優れた切子作品を生み出したのです。

明治に入り薩摩藩の事業は途絶えましたが、その後、古い薩摩切子の復元を目指した製造が始まり、薩摩切子の特色である、銅で発色させた赤硝子を復活させて、薩摩切子らしい特徴のある新しい製品を産み出しています。

鹿児島市郊外に薩摩切子工芸という製作所があり、その近くの磯工芸館では薩摩切子を展示販売しています。そこでは、江戸切子にない重厚な薩摩切子を見る事ができます。
(写真5、6、7、8)
(以上)
【2015/10/10 13:16】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東北の夏祭り ふたつの佞武多
1.五所川原:立佞武多の館-05D 1508qt
写真1
2.五所川原:立佞武多-08D 1508q
写真2
3.五所川原:立佞武多-72D 1508qt
写真3
4.家族旅行:青森・岩手-03N 98t
写真4
5.家族旅行:青森・岩手-20N 98t
写真5
6.家族旅行:青森・岩手-08N 98t
写真6

東北のねぶた祭りと言いますと青森市の佞武多(ねぶた)祭りが有名ですが、青森市以外でも弘前市、大湊市、黒石市、五所川原市などの各市で佞武多祭りが行われ、夫々に歴史と伝統があり、練り歩く佞武多にも違いがあります。

青森市の佞武多祭を見たのは十数年前でしたが、今年は五所川原市の立佞武多(たちねぷた)を楽しみました。五所川原市の立佞武多は、青森市の佞武多のような激しい踊りはありませんが、夜空に高く聳え立つ立体的な佞武多でして、ほかの市の佞武多とは山車の外見がかなり違います。

夕方になると、立佞武多の館に格納されていた山車が会場へ向かいます。これを立佞武多の出陣と言いまして、地元の人はその時が最高の見所だと言うのです。日没前の薄明かりの中、館からおもむろに出陣する立佞武多を見ようと、多くの人々が館の前の路上に車座になって見物していました。(写真1)

館を出てゆっくり歩む立佞武多の山車が会場に到着する頃には宵闇が迫り、色鮮やかに輝く立佞武多が、山車に乗って夜空に仁王立ちとなって迫ってきます。その高さは20メートル余りはあり、道路端の観覧席に立佞武多が近づくと、余りに大きい立佞武多の全身は視界からはみ出してしまい、下から上に見上げるように視線を動かして見る有様です。(写真2、3)

立佞武多の行列は長く続き、その合間には、青森市の佞武多で見るような低い佞武多、太鼓の山車などが入り、最後に、踊りの列が会場を盛り上げて、五所川原市の立佞武多祭りは終わりました。

五所川原の立佞武多の舞台は夜空であり、あたかも花火を楽しんだような気分になりましたが、十数年前に見た青森市の佞武多は、町中の路上で演じる踊りの激しさが特徴で、その激しい踊りは印象に残っています。(写真4)

青森市の佞武多祭りも、巨大な武者人形が山車に乗って、市の中心部をねり歩くのですが、その後を追って、独特の派手な衣装をまとった「跳人(ハネト)」と呼ばれる大勢の人たちが「ラッセラー、ラッセラー」というかけ声をかけて跳ねまわるのです。(写真5、6)

跳人は、その呼称のとおり激しく踊り跳ねるだけ、踊りに難しい作法はなく、跳ねる激しさだけが目立ちます。ハネトは、ただひたすら己を無にして跳ねるのです。青森の人に言わせると、この踊りは日本の他の地方の踊りとは全く違うもので、青森だけの独特の踊りだ、東北人の情念が生み出した踊りだ、と言います。

東北地方は、古代に縄文文化が栄えたところです。青森県には縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡の三内丸山遺跡があります。縄文文化に強い関心を持った芸術家、岡本太郎は、自らの芸術作品のモチーフに縄文土器のデザインを取り入れています。その岡本太郎の口癖は「芸術は爆発だ」でした。

青森佞武多のハネトの踊りは、年に一度、縄文時代の先祖の情念が蘇る爆発の行為なのかも知れません。
(以上)
【2015/09/06 17:04】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東北の夏祭り 秋田の竿灯
1.秋田竿燈祭り:入場行進-01D 1508qt
写真1
2.秋田竿燈祭り-03D 1508qt
写真2
3.秋田竿燈祭り-13D 1508qt
写真3
4.秋田竿燈祭り:高灯籠担ぎ-06D 1508qr
写真4
5.秋田竿燈祭り:高灯籠担ぎ-10D 1508qr
写真5
6.秋田竿燈祭り-29D 1508q
写真6
7.秋田竿燈祭り-26D 1508qt
写真7

夏の東北三大祭りと言いますと、仙台の七夕祭り、青森の佞武多(ねぶた)祭り、秋田の竿燈(かんとう)祭りです。この東北の三大祭りの源は、いずれも七夕祭りにあると云われますが、祭りの態様は大分違います。

仙台の七夕は目抜き通りに七夕を飾って、通行人がそれを鑑賞する形ですが、秋田の竿燈祭りは長い竹竿に沢山の提灯を提げた重たい「竿燈」を町中で担ぎ上げる姿を見せるもので、その力強さと豪華さを披露する祭りです。また青森の佞武多は巨大な張子の武者人形の山車を町中を引き回し、山車の周りに大勢の踊り手が跳ね回りながら練り歩く祭りです。

日本各地の祭りの特徴は、神輿担ぎのように、見るだけでなく参加できるところにあります。日本人は飾ったものを見るだけの祭りよりも、山車を繰り出す動きのある祭りが好きです。その動きでも、力強い動き、激しい動きがより好きです。更には、祭りの行事に自らも参加できる祭りが一番好きです。

その点から言うと、夏の東北三大祭りでは、仙台の七夕祭りよりは秋田の竿燈祭りが、秋田の竿燈祭りよりは青森の佞武多祭りが、喜ばれるでしょう。祭りに自ら参加するという意味では徳島の阿波踊りが全国的に有名ですが、その秘密は阿波踊りが誰にでも踊れる易しさにあります。その点で、青森の佞武多の踊りも易しさでは共通するものがあります。

今年の夏、秋田市の竿燈祭りと五所川原市の立佞武多(たちねぷた)祭りを楽しむことができましたので、東北の夏祭りについて感じたことを述べてみます。

秋田市の竿燈祭りでは、夕方になると秋田市の目抜き通りの山王大通りに、沢山の竿燈が行進してきて、長い道路を埋め尽くし、竿燈を担ぐ場所に停止します。(写真1)

竿燈とは、一本の主軸の竹に7~8本の横竹を取り付けて、その横竹にぎっしり提灯を並べて吊り下げた、巨大な団扇の形をしたものです。その形は丁度、稲穂が実ったようにも見えるので、豊作を祝う祭りでもあります。

山王大通りを埋め尽くした竿燈の列は、さしづめ田圃に稲穂が勢い良く屹立して並んでいる様を表しています。祭りの行事が始まり、提灯に蝋燭の火が灯され、横に寝ていた竿燈が一斉に起ち上がります。竿燈の提灯は明るく空に輝き、実った稲穂のように色づくのです。(写真2、3)

やがて竿燈を担ぎ挙げる若者達が、色々な演技を始めます。重い竿燈を片手で支えたり、肩や腰で支えたり、更には額や顎で支えたりして、傾きかけた竿燈のバランスを巧みにとるので、観客は手に汗を握ってみとれます。倒れそうになる竿燈にはどよめきが起きて、立ち直ると喜びの歓声があがります。(写真4、5)

祭りの第二ステージになると、竿燈の尖端が垂れ下がり、竿燈全体が反り返るように撓(しな)いました。ただ真っ直ぐ建てるだけでも難しいのに、深く撓い、大きく傾くので、あちこちで観衆の溜息と歓声が交互に上がります。中には遂に倒れて燃え出す竿燈もありました。そうして祭りの会場は最高潮に達します。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」と言われるように、稲の豊作を祝福するに相応しい終盤の光景でした。(写真6、7)
(以上)
【2015/08/26 20:56】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本のファストフードは江戸時代に遡る
1.並木やぶそば-01D 1102qt
写真1 池波正太郎が通った並木やぶそば
2.浅草風景-20D 1103qr
写真2 伝法院通りにある大黒家天麩羅本店
3.前川うなぎ屋-01D 1103qt
写真3 駒形のうなぎ料理専門店「前川」
4.どぜう:駒形-01D 1102q
写真4 駒形どぜう屋

料理は値段が高ければ旨いのは当たり前で、安くて旨いのが自慢なのです。それに忙しい時代ですから注文していち早く提供される料理が喜ばれます。ファストフードとは本来そういうものなのです。

と言うことで、ファースト・フッド・サービス(fast food service)は今や大いに流行っています。店内ではセルフサービス化が進み、テイクアウトできるのが普通です。日本生まれでは丼物、うどん等、西洋ものではハンバーガー、ピッツア、フライドチキンなど、業態もフランチャイズやコンビニと多様です。

ファストフードというと西洋ものと思いがちですが、日本で即席の外食が盛んになったのは大変古く、江戸時代の下町でした。

関東に封ぜられた家康は、江戸城を築き、城下町を作りましたが、新しい城、新しい町をつくるには、飲み水の確保や、道や橋のインフラ整備が急務でした。そのために大勢の職人や仕事師などを江戸の町に集めました。

地方から出稼ぎ労働者が集まって出来たのが江戸の町ですから、女手の少ない男社会でした。当然、家庭料理とはいかず、外食が盛んになり、男達は旨いものを町に求め出歩きました。需要が多ければ供給が増え、舌が肥えた人が多ければ旨いものが生まれます。

江戸社会に詳しい食通の作家、池波正太郎氏によると、江戸の代表的な料理は、鮨、蕎麦、天ぷら、鰻、泥鰌だそうですが、これらの料理は現在でも旨いものの代表になっています。これらの料理は、江戸の町民が創り出したものだ自慢してよいのです。

なんだ、旨いかも知れないが値段は高くて江戸町民の手に届かなかったのではないかと思わないで下さい。当時の江戸では食材は豊富にあり安く手に入り、調理は屋台で手軽に提供されるものが多く、ファストフードとして町民に親しまれていたのです。

江戸前の海では美味の魚が豊富に獲れ、下町の湿地帯の堀では鰻と泥鰌は湧くように育ちました。池波正太郎氏によると、隅田川や多摩川が注ぎ込む江戸湾は、海水と淡水が適当に混ざり合っていて、同じ種類の魚でも太平洋で獲れたものより江戸前の海で獲れたものが味がよかったのだそうです。

江戸の本所で発明された握り鮨は握りたてを手早く食べるものだし、天ぷらも屋台で揚げて即座に食べるスタイルですから、正にファストフードです。蕎麦や鰻は丼(どんぶり)で安直に食べ、泥鰌は鍋をつついて皆で食べました。

江戸のファストフードが最初に生まれたのが下町の淺草であり、その伝統は今に引き継がれています。下町生まれの作家、池波正太郎や、淺草を愛した小説家、永井荷風が足繁く通った蕎麦屋やどぜう屋や鰻屋が淺草に残っています。その他にも江戸時代、明治時代の創業の老舗の店が沢山あります。(写真1、2、3、4)

江戸時代の職人や仕事師は、現代ではサラリーマンですが、彼等が昼どき牛丼屋、ラーメン屋に列を作って食べるもの、ハンバーガーや弁当屋で買うもの、これらは現代のファストフードです。江戸時代のファストフードとは種類は変わっても、安くて旨ければ、鮨、蕎麦、天ぷら、鰻のように今後も愛され続けるでしょう。
(以上)
【2015/08/14 11:30】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本人の実直さを描いた寅さん映画
寅さん映画「男はつらいよ」は日本中で長い間愛され続けた映画です。世界最長のシリーズとなったのは、毎回描かれるストーリーに戦前まであった日本人の生地(きじ)がそのまま描かれているからです。戦後は希薄になったた昔の良き日本人気質(かたぎ)を思い出させてくれるからです。

日本人の生地とか気質とか言っても、それだけでは説明になりませんが、寅さん映画を見れば、日本人にはそれが説明無しに直ぐ分かるです。思い違いでも相手の立場に立って振る舞う態度、思いついたら直ぐにでも実行する気っ風のよさ、何でも引き受ける心意気など、それらが映画の随所に描かれます。

国民あるいは民族は一つの集団として生活していますが、その集団の中で示す日常の振る舞いの多くは、互いに理解し合えるものであり、特に説明を要するものでもなく、時には意識すらされません。

しかし、外国でも映画「男はつらいよ」は評判がよいのです。ということは日本の社会が長い間に育んできた庶民の風俗、習慣が外国人にも理解され、日本人の気質が外国人に好かれるということです。

勿論、黒澤明監督や小津安二郎監督などの日本映画は国際的に評判を得ていますが、それらは異国情趣として認められたのであって、娯楽が売り物の寅さん映画が、そのまま外国の庶民に受け容れられるとは意外でした。

寅さん映画の舞台は、寅さんがテキ屋として歩き回る日本中の地方の町や村であり、それらを結びつけるのは、思い出したように時々帰る寅さんの生家がある葛飾柴又の団子屋「とらや」であり、柴又の帝釈天とその参道です。
(写真1、2、3)

1.柴又駅前-02D 1507qr
写真1 柴又駅前に旅姿の寅さんの銅像が建ててあります。
2.柴又帝釈天参道-16D 1507qt
写真2 映画「男はつらいよ」の舞台となった団子屋は「とらや」ではなく「高木屋老舗」です。
3.柴又帝釈天:二天門-05D 1507qt
写真3 「高木屋老舗」が並ぶ帝釈天参道から柴又帝釈天の二天門を見たところです。

美しい風景を背景にして繰り広げられる地方の人々の生活や慣習と、葛飾柴又で繰り広げられる下町の人情は、未だ日本に存在するものです。そこで人々が示す日本人気質はを一言で言えば、飾らない実直さだと思います。

司馬遼太郎は、実直さは正直(honesty)でもなく、誠実(sincerity)でもない、ですから「実直」は外国語に翻訳できない日本固有の価値観であり、日本人の文化的遺伝子であると云っています。

寅さん映画は日本人の実直さを描いているから日本人にも外国人にも好かれるのです。
(以上)
【2015/07/14 12:07】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
どぜう屋
どぜう:駒形-03D 0706qrc
写真1 駒形どぜう 大通りに面していて観光バスのお客さんたちも訪れます。
どぜう:飯田屋(合羽橋本通り)-03D 1302q
写真2 どぜう飯田屋 多くの老舗が並ぶ合羽橋商店街にあります。

どじょう料理は江戸時代からあった古い料理です。今でも浅草、本所、深川に江戸の伝統料理を食べさせる有名などじょう料理屋が数軒あります。江戸情緒の残る淺草では老舗の「駒形どぜう」と「どぜう飯田屋」が有名です。

「駒形どぜう」は駒形橋近くの江戸通りにあり、「どぜう飯田屋」は国際通りの公園六区入口から合羽橋商店街を少し行ったところにあります。(写真1、2)

「どじょう」と発音するのに、老舗の店では申し合わせたように「どぜう」と書きます。「どぜう」という表現は、江戸時代から戦前まで使われていた歴史的仮名遣いです。江戸時代から続く老舗だという意味で、わざと歴史的仮名遣いを用いているのでしょう。

文芸評論家の福田恆存氏は「表記法は音にではなく、語に隨ふべし」と云っています。歴史的仮名遣いで「どぜう」と書くのは、文学的にも正しいことなのです。それが宣伝のためのブランドとして認知されているのですから、大いに結構なことです。

土用の丑の日に鰻を食べる習わしがありますが、どぜうも、暑い夏にスタミナ料理として食べます。どぜうは、カロリーが低いのに、ビタミン類を豊富に含み、カルシウムをも含む優れたれ食べ物です。

近年はうなぎは稚魚を輸入して養殖する高級魚となりましたが、どぜうは大衆魚です。それでも昔は水田に棲息するどぜうを捕獲して食べたのですが、水田に農薬が使われるようになってから、休耕田を使って養殖しているそうです。

どぜうは泥臭い魚ですから、煮込んだ上に輪切りの長ネギを沢山掛けて食べます。骨と内臓を抜いて煮込むどぜう鍋と、まるごと煮込むどぜう鍋がありますが、まるごと煮込むと内臓の苦みがあり、食通は渋い味と言って好みます。
(以上)
【2015/07/02 21:06】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
羽子板 遊具から工芸品に
             1.淺草羽子板市-03D 0612qt
             写真1 浅草寺境内の羽子板市
             2.淺草羽子板市-16D 0612q
             写真2 浅草寺境内の羽子板市
             3.淺草羽子板市-11D 0612q
             写真3 江戸押絵羽子板
                              4.羽子板資料館-02D 0908q
                              写真4 羽子板資料館「鴻月」
                              5.羽子板資料館-01D 0908qc
                              写真5 羽子板資料館「鴻月」
今ははやらない正月の遊びに羽根突きがありました。ムクロジの種子に羽を付けたものを羽子板で打ちあって、その羽を打ち損じて負けると顔に墨を塗られました。さすがに女性が勝負に負けても塗られませんでしたが、書き初めの筆で顔を汚され男たちが、なお羽根つきに興じていた路地裏の風景は戦前の昭和にはありました。

この羽根つき遊びは既に室町時代には存在していて、負けた方が酒を振舞ったそうですから、優雅な遊びとしての歴史が長いのですが、その後、羽子板は縁起物と見なされるようになり、江戸時代になると遊戯としての羽根突きよりも、道具の羽子板に人々の関心が移ります。

羽子板が縁起物になれば、重視されるのは羽子板の装飾であり、浮世絵の美人や人気のある歌舞伎役者を貼り付けた高級な羽子板が販売されるようになりました。いわゆる江戸押絵羽子板という羽子板で立体感があります。三次元の人形には及びませんがが、さしずめ膨らみのある二次元のレリーフと云ったところです。

遊戯としての羽根突きは廃れても、装飾品としての羽子板は、現在でも大いにもてはやされています。浅草寺の境内では、毎年12月中旬に羽子板市が開かれて大勢の愛好家が訪れます。(写真1、2、3)

この江戸の伝統工芸である江戸押絵羽子板を製作しているところが墨田区向島にあります。「鴻月」という羽子板資料館です。東京都文化功労賞受賞者である西山鴻月氏が今でも押絵羽子板を製作しているとのことです。
(写真4、5)

柳宗悦らと共に民藝運動を推進した陶芸家の河井寛次郎は、暮らしの中の「用」の美に魅せられたと云って、実用品の中に工芸美を見出した芸術家です。

日本の伝統工芸は、最初は実用品として製造され、やがて製品を美的に観賞する人々が多くなり、その要求に応えて美術品として制作されるようになったものが多くあります。その最たるものは日本刀ですが、遊具から工芸品に発展したこの江戸押絵羽子板もその一つです。
(以上)
【2015/01/01 16:19】 | 文化 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
美しい森林の豊かな国 日本
1.丹那盆地-04D 0905q
写真1 静岡県丹那盆地
2.上高地:東側山岳-05D 1410q
写真2 長野県上高地
3.新緑の丘-01D 05
写真3 静岡県熱海
4.立山ロープウェイ-27D 1410q
写真4 富山県立山
5.立山ロープウェイ-28D 1410q
写真5 富山県立山
6.袋田渓谷-05D 1311q
写真6 茨城県袋田
7.袋田渓谷-14D 1311qt
写真7 茨城県袋田

島国の日本は大陸に比べて国土が狭く、その狭い国土は山岳地帯が多くて平野が少ないと嘆く人がいますが、山の多い島国の日本には他国から羨ましがられる利点、いや美点が沢山あるのです。

山岳列島の日本では高山帯より低い山岳は殆ど緑の森で覆われています。このように山奥深く森林が生い茂るのは降雨量が多いからです。降雨量が多いのは海で囲まれているからですが、それに加えて山が高いからです。海から運ばれる湿った空気が山に当たって上昇し、雨を降らせるからです。

古代文明は森の消滅と共に滅びました。森を破壊し続けている現代文明も、やがて森を失えば滅びることは必定です。中国内陸部は雨が少ないだけでなく、植林の伝統がないので、森林は殆ど消滅してしまいました。日本と同じ北半球に位置する欧州でも森の破壊は進んでいて、それを食い止める手当で大わらわだと言います。

地方を旅して山々が緑の森で覆われているのを見て日本人は当たり前と思っていますが、中国人や西洋人は日本の緑溢れる山々を珍しと思い、美しいと感じるそうです。

文化人類学者として世界的に有名なレヴィ=ストロース氏と対談した川田順造氏は、その著書「江戸=東京の下町から」で次のように書いています。

「いまでも日本の国土の七〇パーセントは森林です。そのすべてが未開発というのは語弊があるかもしれませんが、少なくとも半分は天然林と言われています。しかも、国土の七五パーセントは山地が占めています。この七割という数値に、なにか意味があるのではないかと、レヴィ=ストロースは気が付いているわけです。」

川田順造氏との対談で、レヴィ=ストロース氏は、西洋文明と日本文明を比較して、日本人の自然への愛や尊敬の念が日本の山に多くの天然林を残させていると示唆しています。言い換えれば、日本人の自然観、宗教観が国土の七〇パーセントの森林を維持しているというのです。

これには別の解釈もあります。日本全土が森林で覆われていた縄文時代は、森林は人々に食料を与える恵みの場でした。森林に棲む小動物と森林に成る木の実は、縄文人の貴重な食料でしたから、森林を破壊することはありませんでした。

稲作が普及した弥生時代になっても日本人は肉食をしませんでしたから、西洋のような牧畜は行わず、放牧による山林の破壊が進まなかったと言う解釈です。

しかし、森の鎮守と言われるように日本では神社は森に囲まれています。しかも神社は神様の住まいではなく神事を執り行う場所に過ぎず、神様とは森そのもの、山全体が神様であるというのが、日本人の伝統的な神道の考え方です。そうであれば、日本人が神様の森林を破壊する筈はありません。

日本人の自然観、宗教観が国土の70%もの森林を残していると言う、レヴィ=ストロース氏の指摘は正しいのです。

更に素晴らしいことは、国土に残された70%の森林が、穏やかに移り変わる四季のお陰で、季節に応じて粧いを色々に変えることです。天然林は長い年月をかけて安定的な樹相を形成しますが、その過程で多くの樹種が入り交じります。

春には木々の若芽は濃淡のある薄緑色に、秋には赤や黄色の紅葉があでやかに、常緑樹は一年を通じて濃い緑色で明るい色彩を引き立てます。本当に日本は美しい森林に満ちあふれた国なのです。
(以上)

【2014/12/06 13:53】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
背広スタイル考
男性のスーツの起源は17世紀に遡るそうですが、男性は女性のように色々なファッションを楽しむべからずと言うのが、その動機だそうです。従って、現代の三揃えスーツは、飾りたい男の欲望を三点セットに押さえ込むために考案されたものだそうです。

リクルート・スーツと言えば、色はグレーかブルーの無地の背広が一般的です。就職活動では、評価されるのは知性、性格などの内部であって、外部で目立つ服装は却ってマイナスになると思うからです。

これは何も就職のときばかりではありません。通常のビジネス活動でも、男性は衣装で目立つことは避けています。こうして男性にとって背広姿は風俗であり、依るべき流行となりました。

ところが、長い社会人生活を地味な背広スーツで過ごした人が、定年退職したとき困るのが外出着の選択です。会社勤めでもないのに背広姿で出かけるのは変だし、何を着て行こうかと迷うのです。

実際、勤めはやめたのだから背広はダメよと、いきなり言われても、何を着て良いか分からなくなります。戸惑って買う普段着は、サラリーマン時代のワイシャツより高いものが多くて、それがファッションの値段なのでしょうが、戸惑いは倍増します。

更に普段着は、背広のように同じものを毎日繰り返して着る訳にはいかず、種類を増やさねばなりません。長年の背広生活でファッションは楽しむな教え込まれていたので、スタイルや色合いを選択するセンスがありません。そして背広は便利なものだったと知るのです。

しかし、よくよく考えて見ると、背広は日本人の体型に合わない衣装です。欧米人と日本人とでは体型が違います。足が短く胸板の薄い日本人には洋服は、もともと似合わないのです。

警世家の山本夏彦氏は、その著「かいつまんで言う」で次のように言います。
「洋服の歴史は浅い。男の洋服は五十年、女のそれは三十年にならない。だから洋服は、若者のもので、若い内は何とか見られるが、年をとったら見られない。衣装は人に馴染むまで五百年や六百年はかかる」

歳をとり仕事から退いたら、洋装から和装に還るのが良いようです。普段着も流行のない和風の着物が良いようです。何よりも、何を着ようかという気持ちから解放されて、ゆったりした気持ちになれます。

休日の銀座の街で、和服を愉しむ人たちを見かけました。毎日が日曜日になったのですから、これからは和装で過ごそうではありませんか。

  1.銀座着物衆-02D 056q
          2.通行人-19D 1104q
                  3.着物姿-07D 056qt
(以上)

【2014/10/07 21:37】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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