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60年代は如何なる時代だったか? 熊切圭介写真展より
「揺れ動いた60年代の光と蔭」という題で熊切圭介写真展が品川のCANON GALLERYで開催されています(2008.5.9~6.17)。

熊切圭介氏は、1960年代の日本の社会を色々な視点からモノクロの大判の写真で丹念に報道しています。

ダービーに熱狂する大衆から始まって、屋上ビヤホールに集まる人々など、豊になった大衆が社会の各方面に現れます。他方、北海道や山陰の地方では、まだ豊かさが届かずに厳しい生活をしている人々もいることも伝えています。

激動する高度成長の姿を眼に見える形で表現したのが新産業都市の建設であり、重厚長大産業の発展でした。製鉄所、石油化学基地などの建設で地域は活況を呈しますが、その蔭では四日市コンビナートでの公害や水俣病の発生が社会をむしばみ始めます。東京の隅田川にも白い泡が流れます。

経済の発展は社会の秩序を変更する働きでもありますから、政治も流動化します。60年代初めに安保反対闘争が始まり、60年代末には東大学園紛争で安田講堂の攻防戦がありました。激動の時代には政治的闘争も暴力化しました。

しかし、一方では昭和元禄と言われたように人々の生活は豊かになります。家電製品が普及し、自動車が増え始め、路面電車の多くが廃止され、都市の近代化が加速します。それに拍車をかけたのが東京オリンピックの開催です。新幹線が運行を開始し、首都高速道路が急造されました。

熊切圭介氏の写真には、今は見るみることの出来ない淀橋浄水所や、市電の走る永代橋の工事現場が写されています。このことで、東京オリンピックを堺に東京の風景は大きく変わる様子が分かります。

60年代が終わるとき、その最後を飾るかのように大阪万博が開催されます。高度成長の成果を世界に示す格好の場でした。しかし、この十年間について報道する熊切氏の写真には、光より蔭の部分が多いように見えます。

家電製品に囲まれた楽しい家庭生活、新幹線に乗って遠くに旅する喜び、当時のモダンな型の自動車に得意になって乗る人々など、今より元気のいい日本人は沢山いた筈です。今振り返ると60年代は日本の輝かしい十年だったと思います。

アメリカは50年代に輝かしい十年を過ごし、それに続く60年代になると、キング牧師による市民権運動、婦人権拡張運動、ベトナム反戦運動、ヒッピー運動などが燃えさかる分裂の時代に入りました。

アメリカから十年遅れの日本では、輝かしい60年代が終わると間もなく、オイルショック、低成長、社会不安と低迷の十年を迎えます。時代認識は比較することでその特性がはっきりします。70年代と比較して60年代の写真報道をピックアップしたら、なお良かったと思いました。

1960年代は平成生まれの若者には歴史ですが、戦前生まれの者にとっては生活史です。日本の60年代は「揺れ動いた」というより「激動」の良き時代でした。そして良くも悪くも今日の日本の経済社会を形作った時代でした。
(以上)
【2008/05/14 23:21】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
シュルレアリズムと写真
東京都写真美術館で「シュルレアリズムと写真」というテーマで写真展が開催されています(2008.3.16~5.6)。その副題は「痙攣する美」です。

美は感動するものであり、挙げ句の果てに耽溺するものと思っていたので、「痙攣する美」とはどんなものか興味を以て見に行きました。以下に写真展の配列順に感想を述べます。

写真界でシュルレアリズム作家と言えば先ずマン・レイですが、作品「醒めて見る夢の会」は女一人と数人の男が何か一点を見詰める写真です。ウジェーヌ・アジェの「日食の間」は、パリの街なかで大勢の人が曇りガラスで欠けていく太陽を見詰める写真です。

シュルレアリズム(超現実)とは現実を越えるのではなく、現実のなかに内包する本当の現実に迫る芸術手法ですから、シュルレアリズムとは現実の「凝視」から始まると言いたいのでしょう。

シュルレアリズムは「凝視」であるなどと難しいことを言わずに、それを実践した写真家はウジェーヌ・アジェでした。しかし、アジェは自分はシュルレアリストではないと言って、誘われてもその運動には加わりませんでした。

アジェはパリの街中、建物の内部や装飾品などを克明に撮影しています。それらの写真は過ぎ去る時間に濾過されて存在感を増していきます。それがアジェ流のシュルレアリズムでした。

ブラッサイは、「パリの夜景」では高い位置からパリの街を見下ろしています。夜の街の光に浮かぶシルエットとして建造物の輪郭線を捉えています。屋上に並ぶ煙突群や壁面の彫刻は、シルエットになって初めて昼間見えない姿を現します。ブラッサイは同じ手法で「グラフィティ・太陽王」「オー・ト・プロヴァンスの石切場」でも、暗さの中に昼間見えない映像を切り取って見せます。

ソラリゼーション作品は白黒を反転させて存在の本質を明らかにするものですが、マン・レイは、「眠るモデル」「長い髪の女」などで、肉体の線を浮かび上がらせて美しさを引出しています。現実の中に内包する本当の現実を映像化するには、ソラリゼーションの手法を使うことが効果的だと分かります。

マン・レイの「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の出会いのように美しい」は難解な作品です。写真は題名の通りの内容ですが、この比喩が何故美しいのか分かりません。しかし、同じ手法を用いたマン・レイの作品「アングルのヴァイオリン」なら分かります。裸婦の臀部の少し上にト音記号を二つ貼り付けて女体からヴァイオリンを連想させるからです。

関係のない二つの対象物を一つの画面に入れて、その相関関係から第三の世界を創造する手法を徹底させたものに、多重露光の作品があります。モーリス・タバールの作品「コンポジション」「フォトモンタージュ」、瑛九のモンタージュ写真などは、現実の内奥を探って心に写った映像を描く写真です。しかし、これらのモンタージュ写真からは具象を想像することは困難です。

心象が具象に繋がる写真もあります。アントン・ケルテスの作品「ディストーション」は、人体、顔をデフォルメした写真です。現実には存在しない映像を現実から造り出したデフォルメ写真も一種の心象写真ですが、これなら具象へのつながりは分かります。

以上、理解できる範囲でシュルレアリズム写真とは何かを辿ってみると、凝視、暗闇、白黒反転、比喩、多重、心象などの方法で表現される一連の写真が浮かび上がってきます。これらの写真で新しい美の発見に感動することはあっても、その過程で幾重もの知的操作を要求されるのがシュルレアリズム写真だと分かりました。とても「痙攣する美」には到達出来ませんでした。
(以上)
【2008/04/08 19:00】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真の詩人 ジャコメッリ
いま、東京都写真美術館で写真展「知られざる鬼才 マリオ・ジャコメッリ」が開かれています。(2008.3.15~5.6)

マリオ・ジャコメッリは、生まれ故郷のイタリア北部の街、セニガリアで殆どの作品を撮り続けたアマチュア写真家です。今まで日本では余り知られていませんでしたが、欧米では戦後の写真界を代表する写真家の一人として既に高い評価を受けているとのことです。

今回の写真展は、ジャコメッリの代表作品群をシリーズ毎に纏めて展示した日本最初の写真展です。そしてジャコメッリの写真が欧米で高い評価を得ている理由を存分に分からせる写真展です。

ジャコメッリの写真の凄さは、ジャコメッリが詩人として感得した心象を、写真で造形して見せたところにあります。ジャコメッリにとって、写真は外界に存在するモノを撮影するものではなく、心の中に湧き出でるイメージを撮影するのものでした。

その具体的な例示を、彼の作品のシリーズ別に見て行きましょう。

第一は、遺作の「この想い出をきみに伝えん」(1998~2000)です。死を意識したジャコメッリは、廃屋や畑の中でカラス、犬などと共に写真に写っています。大きな黒い鳩の影を凝視するジャコメッリの眼には、自然と動物たちへの愛があります。写真の中のジャコメッリは来し方を回想します。回想する意識の流れを写真で捉えた作品です。

第二に、「雪の劇場」(1984~86)は、「イメージの内面への喚起力に対する実験的作品」と説明が付いています。6枚のモンタージュ写真は独立していて相互に関連はありませんが、夫々に厳しい雪の風景のイメージが写されています。中でも雪の中を数人の老婆が迫ってくる写真には鬼気迫るものがあります。不安と恐れとは、このように写すのだと言っているようです。

第三に、「自然について知っていること」(1954~2000)は農村の風景を鳥瞰した写真です。耕作された大地は、時には波打つように、またある時はしわ寄せるように、様々な表情を示しています。そこには秩序ある紋様と、攪乱された混沌が入り交じった自然の姿が展開します。大地は語っています、大地は嘆いています、大地の心はこのように写すのだと、ジャコメッリ言います。

第四に、「樹木の断面」(1967~68)では輪切りにされた大木の年輪が拡大して写されています。その年輪の紋様は、上述の大地の耕作された紋様に似た曲線で構成されています。人間の営みの結果としての大地の造形と、樹木の成長の結果としての造形が、同じ形に終わるのは不思議な現象です。遂には、年輪に目鼻まで付いて、老婆の顔に見えるに至って絶句します。老いたる樹木の心情は、ジャコメッリの眼にはこのように見えたのでしょう。

第五に、「スカンノ」(1957~59)は、イタリア北部のフブルッツオ山塊の中央に位置する、山間の古い町スカンノの村民たちの写真です。ここでは独特の黒衣を着る風習があります。ここでは白い壁の家々を背景に町を歩く黒衣の老人たちの表情や仕草が撮られています。もともと写真撮影はある時点の光景を凍結する行為ですから、ここでも時間が止められています。しかし、これらの写真を見ていると、止まった時間が見る人の意識の中で再び動き出すようです。

第六に、「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」(1954~83)は、死を迎える所、ホスピスで撮影した写真です。「老いとは時間」であり「生は死と共存」し「皺がその象徴」であると説明しています。ジャコメッリは、死には生の全てが凝縮していると見ています。生きてきた時間の全てが死に埋め込まれていると感じています。ホスピスの老人たちを撮影しながら、ジャコメッリは死を共感していたのでしょう。

最後に、このマリオ・ジャコメッリの写真展は、他の写真展にはない新鮮さと重量感があります。その理由は、この写真展が、数年または数十年に亘りジャコメッリが撮った写真を、それぞれのコンセプトに纏めて編集したからです。それにもう一つ、これらの写真が全てモノクロ写真であることです。

詩人としての感性で撮り続けた写真を、詩人の感性で編集したジャコメッリの写真は、絵画や動画の映像芸術とは違った、新しい写真表現の世界があることを示したものと思います。
(以上)
【2008/03/26 18:16】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
土田ヒロミの写真展
東京都写真美術館で写真展「土田ヒロミのニッポン」が開催されています(07.12.15~08.2.20)。

写真展の名前が「ニッポン」となっているのは、写真家土田ヒロミ氏が写真で追求したのは正にニッポンだからです。そのニッポンも、表面的な現象としてのニッポンでなく、日本社会の底流に流れる根源的なニッポンとは何かを明らかにしようとした写真展です。そして、その方法もメジャーを避けてマイナーな現象から根源に迫りました。

写真展は、「俗神」「砂を数える」「パーティー」「新・砂を数える」「ヒロシマの三部作」「続・俗神」の6部に分かれています。以下に各部の感想を述べてみます。

「俗神」は土田ヒロミ氏が写真家としての出発点となった作品群でして、日本の高度成長期にその光に当たらない農村地帯の風俗を撮影したものです。土俗的な神事を撮るよりも、消えゆく生活風俗を撮影したものが良いと思いました。その中で「秋田・黒湯」の老婆たちの入浴風景、「青森・岩木」の湯治場風景が印象に残りました。背後に土俗信仰を感じさせます。

「砂を数える」は、群衆のエネルギーを直截に、余すところなく捉えた傑作の作品群です。この大衆のエネルギーが戦後日本の復興を成し遂げたのです。大衆はこれらの写真を見て、ここに自画像があると思ったでしょう。

中でも、「初詣 鎌倉」の2点は圧巻だと思います。参道を埋尽くす新年の参拝者を、背後から前面から捉えたものです。特に、背後から撮影した写真は、黒髪の頭、頭、頭と、画面が真っ黒です。現在のように白髪も茶髪も混じっていません。日本人が集団になると黒山の人だかりになるとは、このことかと納得しました。黒山の群衆は当時のエネルギーを示しています。

「パーティー」は一連の作品群の中では異色の写真です。ハレの場の有名人?をアップで捉えています。作者はバブル経済で踊る日本の一面を捉えたと言いますが、人物の豊かな表情や仕草は、性格までスナップしていて、見ていて飽きません。バブルに浮かれた軽薄さというよりは、明るく陽気な人々で好感を持てるショットです。

「新・砂を数える」は、前作の「砂を数える」が凝縮する群衆であったのに対し、拡散する群衆です。広いスペースに散在する人物が、拡散しながらも相互の関係を維持して、夫々の動きを示しています。凝縮する群衆にあったエネルギッシュな動きはありませんが、その代わりに、調和の姿があります。高度成長から安定成長への世相を形で示したものです。

その中で、自然を背景にした「横浜」「鳥取」「三国」「秩父」「三春」は、広がる群衆が心地よい調和を表していましたが、人工的な施設を背景とした「東京(流れるプール)」「東京(お台場)」「十日町」「養老」は施設のどぎつい色彩が目立ち、調和というより攪乱を感じます。安定した社会で人々は色彩感覚を失い、原色の氾濫に鈍感になったことを示しているのでしょうか?

「ヒロシマの三部作」は、原爆の遺品、原爆体験者のその後の集めた写真です。物言わぬ遺品や体験者が、無言の表現で迫ります。「パーティー」の諸作品からは想像できない写真家土田ヒロミの一面をみます。

「続・俗神」は日本の祭りを記号化したものだと作者は言います。しかし、最初の「俗神」が当時の風俗を撮影して伝統的な土俗信仰まで連想させるのに対し、この「続・俗神」で風俗の衣裳を纏った人間は、形の面白さに終わっています。記号化するのであれば、縄文時代までを連想させる何かが欲しかったと思います。
(以上)
【2008/02/12 15:35】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東松照明の写真 TOKYO 曼荼羅から
東京都写真美術館で東松照明の写真展「TOKYO 曼荼羅」が開催されています。東松は、今までにマンダラと称する写真展を「長崎マンダラ」「沖縄マンダラ」「京まんだら」「愛知曼荼羅」と4回開催しており、今回は第5回目に当たり、東松はこれを最後にしたいと言っています。

東松は名古屋生まれで、撮影のため長崎、沖縄、千葉などに移住して作品を制作していますが、今回は、東京を拠点として撮影していた時代、即ち20~60歳代の40年間に撮影した1183点から選んで、「TOKYO 曼荼羅」と題したと言います。

曼荼羅とは仏教で宗教的世界観を視覚的に象徴したものですが、東松が「曼荼羅」と言うとき何を意味するのかは作品を通して理解する外なく、「TOKYO」の意味も活動拠点が東京だったと言うことだけですから東京に特に意味があるわけでもなく、要は東松が青年期から壮年期に写真撮影で何を求め、何を訴えたかを作品で示そうとした展覧会だと言って良いでしょう。

そう考えると、戦後の日本を写真で切り取ってきた東松の主張が明瞭に現れた写真展であると思います。

敗戦後の日本で、占領軍の姿は日本人に強烈な違和感を与え続けました。東松の写真集「チューインガムとチョコレート」は、その違和感を克明に映像化した作品です。好き嫌いを越えて、異質な物への強烈な興味が、東松をして米兵とそれに関わる日本人を撮り続けさせたのでしょう。今回の会場で、間欠的に展示された「チューインガムとチョコレート」の多数の写真は、東松の撮影態度の基調を示すものとなりました。

次に興味を持ったのは、東松の写真には、部分を示して全体を理解させる類の作品が数多くあることです。そのような作品として原爆のヒロシマ・シリーズは既に有名ですが、アスファルト・シリーズや砂浜の廃棄プラスティックを題材にした作品も、写っているモノの背後にあるものを暗示して、見る人に深い思考を求めます。

第三に、「インターフェイス」28点は、海底の岩に棲息する貝、海草、虫などが描く生命の軌跡を撮影したものです。ここには人工的なものは一切ありません。しかし、自然は不思議なリズムを以て、人間が想像できない複雑で美しい形態を造形するものだと示しています。

第四に、作品「ニューワールド」は、部分を以て全体を想起させる東松の従来の手法とは違い、象徴を掲げて具象を想像させると言う不思議な写真です。俳句の世界では、詠む人と観賞する人との間に経験や価値観の相違があると、描かれた実像が虚像になり、心の虚像が実像になるという逆転が生ずると言います。東松のこれらの作品を見ていると、虚実の逆転を強いられる心境になります。

第五に、作品「キャラクター」は電子部品が主役になります。「ニューワールド」では有機物と無機物との混成(例えば電子部品と海草の組み合わせ)で虚実の役割を分担させていたのが、個々では無機物だけの世界になります。投げ出された電子部品が、生命のある動物や昆虫に見えてくる映像です。虚実を併せ持つ世界を、電子部品に発見したのかも知れません。

そう言えば、我々が住む現代の社会は、電子部品で動かされている世界です。個々の電子部品は隠されていて私達の目には触れず、それらが動かしている世界を私達は毎日見ているわけです。毎日見ている世界は虚像であり、実像は電子部品にあるのだと、東松は主張しているようです。

曼荼羅は、サンスクリット語で「本質をもつもの」と言う意味だそうです。「キャラクター」は現代社会のエッセンスはここにあり、と主張しているようです。

東松照明は、嘗てテレビで次のように述べていました。
「あらゆる事が閉塞情況にある今、写真が見直される。人々は見えにくい世の成行きを見定めようとして、写真を見る。だから、今改めて写真なのだ」と。

東松が曼荼羅シリーズを「TOKYO 曼荼羅」で最後にしたいと述べた意味が分かりました。
(以上)
【2007/12/02 10:00】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
オイルショックからバブルの時代の写真史

昭和の写真、第三部「高度成長期」(「高度成長期の写真史」07.10.9)の続きものとして、第四部「オイルショックからバブルへ」が東京都写真美術館で開催されています(開催期間07.10.20~12.9)。

昭和47年(1973)に起きたオイルショックは世界経済に大打撃を与え、日本経済の高度成長にとどめを刺しました。その後、長く低成長を続けた日本経済は、昭和61年(1986)から平成3年(1991)までの約5年間、土地投機による未曾有の好景気に沸きます。世に言うバブル経済の時代です。

今回の写真展では、ドラマティックに下降し上昇する日本の社会を、多彩な写真で語っています。写真展のテーマは「崩れゆく風景」「内向する風景」「変容する風景」に分かれています。第一と第二のテーマは昭和50年代を、第三のテーマは昭和60年代を取り上げています。

先ず昭和50年代について述べますと、突然襲ったオイルショックは、高度成長で長く走り続け、疲れが溜まった社会と人々を一気に突き落とします。それに取り残された寂しい姿は、社会のあちこちにありました。

「崩れゆく風景」のテーマに忠実なのは、外壁をセメント塗りした古びた安アパート(石内都)、消えゆく農村のスナップ(大島洋)です。正に崩れゆく風景で、時代の変化を記録しています。
ここで「風姿花伝」(須田一政)を取り上げたのは場所違いのように思います。伝統様式は崩れずに伝わります。
しかし、崩れゆく風景には当たりませんが、生まれくる風景を写した群衆「砂を数える」(土田ヒロミ)は、この時代の社会状況の変化を的確に捉えています。

「内向する風景」は、急激な下降を続ける昭和50年代に、写真家が内なる風景に何を見たかがテーマです。ここに展示された写真は多岐にわたり、この時代に写真家たちが各自の関心あるもの撮影したものです。しかし、これらの写真が何故50年代の心象風景と言えるのか、私には理解できませんでした。原因は写真家にあるよりも編集者にあるのかも知れません。
ただ一つ、街行く人々の顔をクローズアップしてスナップした「東京」「人へ」「街」の所謂ストリートスナップ(山内道夫)は、背景と併せて人々の顔の表情に時代を反映していて大変面白かったと思います。

昭和60年代のバブルを捉えた「変容する風景」は、テーマにピタリの素晴らしい写真が沢山ありました。

「ランドスケープ」(小林のりお)は、郊外に開発される大規模な住宅地を大画面で捉えて、バブルを具象化して見せました。大規模開発はバブル以前から行われていたのですが、時期は問題ではありません。バブルを映像にしたことが新鮮です。このような風景写真は写真ではないと考えていた観念をひくり返した所が手柄です。

「IN TOKYO」(伊奈英次)の視点も新鮮です。これらの作品は、六本木、水道橋という既存の都市中心部が高層ビル群の谷間に沈没して行く様を描いて秀逸です。これがバブルの都市現象であると教えてくれます。

「建築の黙示録」(宮本隆司)はバブルの裏側で生起していること記録した写真です。バブルは、人々が慣れ親しんだ建物を壊していきます。バブルで破壊されるのは、劇場、体育館、刑務所など、使われなくなる古いものです。災害による突然の破壊でなく、人手による計画的な破壊は、消えゆくものへの哀惜を一入強く感じさせます。

更に、バブルは、遠いところで自然を破壊しています。「ライムヒルズ」(畠山直哉)はセメントの原料である石灰岩の採掘現場を大画面で捉えています。バブルはビルを建て街を造りかえますが、その建設の裏にもう一つの破壊があることを示す写真です。

最後に、「軍艦島ー捨てられた島の風景ー」(雑賀雄二)は素晴らしい写真ですが、バブルが廃墟をもたらした例としては不適切です。軍艦島が廃墟となった原因は、エネルギー源が石炭から石油に変わったためであり、バブル発生のずっと前、昭和49年に炭坑は閉鎖されました。連想としても繋がりません。

写真展で時代史を編集することは、かなり難しい仕事だと思います。写真家たちは夫々の関心と感性で撮影します。時代史の編集は、その中から時代区分に相応しい作品を発見し分類するのですが、その際、写真の素晴らしさに負けて時代史とはかけ離れた解釈をすることがあります。

それでも、個々の作家を越えて時代に共通する潮流を見定めて、作品を評価する作業は大いに意味あることですし、観賞する人達にも写真への理解を容易にする役割を果たします。
大変勉強になりました。
(以上)
【2007/11/20 10:32】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
高度成長期の写真史

昭和の写真、第一部「占領下の昭和写真史」(07.6.1掲載)の続きものとして、第三部「高度成長期」が東京都写真美術館で開催されています(開催期間07.8.25~10.14)。

1960年代(昭和35~45年)に日本は高度成長を遂げましたが、その10年間とその前後数年を含む20年弱の間に発表された130点余りの写真が展示されています。

写真は高度成長期の社会を次のような現象で捉えています。
農村から都市への集団就職、米軍基地反対闘争、安全保障条約改定の反対運動、成田飛行場の建設阻止運動、水俣病の被害の苦しみ、原爆被害の苦痛と想起、各地の公害問題の発生、大阪万国博覧会の開催、首都高速道路の普及、過酷な炭鉱労働者の実態など。
社会現象の他にも、造形美を求めた写真、耽美的な写真、心の内面を写した写真などもありましたが、ここでは割愛します。

これらの写真は高度成長期の社会の歩みを雄弁に語っています。この時期の高度成長は国民の生活を豊かにしたのですが、逆に低成長期よりも摩擦と苦しみの多い時代でもありました。摩擦と苦しみとは、成長の過程で生まれたものです。成長は社会の各層に色々の格差を作ります。社会はその格差をバネにして高度成長を達成してきたとも言えるのです。

この写真展では、この20年間に社会に生まれた多種多様な格差を、人々が如何に乗り越えてきたかを示しています。各種の闘争はイデオロギーの対立の結果だとの意見もありますが、イデオロギー対立そのものも格差の所産です。

これらの写真は、写真家がその格差の断面を切り取って見せた一枚一枚です。そのうち印象に残った幾つかの写真について感想を述べてみます。

「浅草六区の興行街」(薗部澄)を見ると、映画館のある街路は人の波で埋まり、昭和35年頃は映画が娯楽の全盛時代であり、浅草六区が映画のメッカであったことが分かります。貧しいけれど、どん欲に生活を楽しむ人達が溢れています。

「集団就職・出発」(英伸三)は、集団就職する生徒達を乗せて出港するフェリーボートから、無数の別れのテープが風に吹かれて岸壁にそよいでいる写真です。出港する船は傾き、別れを惜しむテープは乱れ飛び、生徒達の憧れと不安を表現しているようです。集団就職列車の存在は知っていましたが、この写真で船での集団就職もあったことを知りました。

「公害の源流」(東松照明)は足尾銅山の公害風景です。衆議院議員だった田中正造は、議員を辞し全財産を投げ打って足尾鉱毒事件の解決に取り組み、明治天皇に直訴するなど、晩年の執念は鬼気迫るものがありました。
写真では、暗く重い雲がたれ込める丘陵地帯に一本の細い川が流れています。その川に注ぐ一筋の白い水流は工場廃液です。奥まった所に銅鉱精錬の一本の煙突が立っています。この写真は田中正造が命懸けで挑んだ公害問題の全てを映像化しています。

「東京インターチェンジ」(森山大道)は、東名高速道路の起点となるインターチェンジのトンネル内を走り去る自動車を写したものです。東京は1964年開催の東京オリンピックのために、新幹線や高速道路を急遽建設しました。何事も遠くへ早くという当時の人々の気持ちを造形化したものです。

「人間の土地、緑なき島」(奈良原一高)は一炭鉱労働者のスナップ写真です。この写真一枚で炭坑労働が如何なるものか瞬時に理解できます。石炭を掘る炭坑夫は、戦後の日本経済の救世主でしたが、いまは鉱山廃止とともに見捨てられました。この写真は、まだ石炭を掘っている時代のものですが、廃山となった今見ても尚迫りくるものを感じます。多言を要さず本質を表現するところが写真の威力です。

まだまだ、素晴らしい作品はあるのですが、社会の変遷という観点から印象に残ったもののみに止めました。
(以上)
【2007/10/09 10:31】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
マーティン・パー写真展 写真の原点へ
今、東京都写真美術館ではマーティン・パー写真展「FASHION MAGAZINE」(07.7.7~8.26)が開催されています。東京都写真美術館のホームページでは、この写真展について、2005年に出版されたマーティン・パーの『FASHION MAGAZINE』は、そのシンプルなコンセプトに華やかなイメージとその裏側、そして何よりも彼一流のアイロニーを効かせた代表作といえるでしょうと紹介しています。

しかし、マーティン・パーはこの写真展の開催挨拶の中で次のように言っています。「この写真展のためのテーマというものが存在するならば、人生のすべて、と言えるでしょう。われわれは、日々仕事に向かい、ショッピングを楽しみ、歯医者に通い、かと思えば浜辺のバカンスにも出かけます。そんな日常生活の中で、いくつかの写真にはモデルを起用し、またいくつかの写真には通りで見かけた人々を撮っていますが、どうです? みなさん、区別がつかないでしょう?」

嘗て、スーザン・ソンタグは彼女の「写真論」の中で、写真家は都会の孤独な散歩者、地獄と官能の観察者として始ったと言いました。マーティン・パーは、まさに孤独な散歩者として身辺の人生すべてを観察して撮影しています。

更にマーティン・パーは開催挨拶の中で続けます。
「ある写真はドキュメンタリーのように、またある写真はファッションらしく撮っていますが、いずれもアートっぽくも見えるでしょう。それらの違いについて論じることはなんて面白いことか! 世の中の決まり事などかなぐり捨てて、私は新たなスタイルを展闘していきます」

新たなスタイルを展開するとのマーティン・パーの決意は、芸術的写真を美的に、また技術的に完成させると言う、従来の伝統的手法に反旗をひるがえすことを意味します。それを、彼の写真にはユニークなコンセプトがあるとか、アイロニーに満ちているとか批評するのは、いささか見当違いだと思います。

そのことを、具体的な展示作品で見てみましょう。
先ず、展示場に入るなり狭い廊下のような展示場の両側に、中高年の男女のキッス・シーンを大写した写真が並びます。「クチュール・キス」シリーズと称するこれらの写真は、ファッションショウに集まる人々の裏側をスナップしたものです。この廊下の展示場を進む私達は、これからファッションショウを見に行く気分になります。

「研修生」シリーズでは仕事を習い始めの女性が、上司の指導を受け、コピーを取り、書類を探す平凡な場面を撮った写真です。日常何処でも見るありふれた場面が被写体に選ばれ、それをカメラに捉えられると「そうなんだ」と事実を確認させる写真です。これが伝統的写真とは違う写真であると、マーティン・パーは主張しています。

「ジャンク・スペース」シリーズも、同じく平凡な事実を淡々と伝える写真です。スーパーの外と中で日常の食料品を買う女性は「こうなんだ」と駄目を押すような情景です。カメラは、他のいかなる伝達手段よりも事物をよく見る力があると、主張しています。

ドキュメンタリーでありながらファッションらしく、その結果アートっぽく見える写真は、「リミニ」シリーズの一枚です。浜辺を長身の着飾った美女が歩き、反対側から短躯の中年男が半裸で歩く海浜風景は、相対化の手法で写真の美の意味を示した例だと思います。

相対化と言う手法で見る人を惹き付ける写真は「ジョッキー」シリーズです。長身で大柄な顔無しの美女を前面に据えて、小柄な競馬騎手たちにカメラを凝視させる構図は、ひたむきな騎手たちの表情を引き立てます。写真を見る人達は、美女はどんな顔をしているかと視線をめぐらすが発見できず、騎手たちの引き締まった顔に目を向けるのです。

写真を見る人々にこのように語りかける写真としては、ハイヒールを撮った「シリーズ・ファッション」があります。女性のハイヒールをフォーカスしたりアウトフォーカスしたして、背景から靴へ、靴から背景へと視線を誘導するのです。被写体はいずれも平凡なものですが、マーティン・パーの手になると一種のダイナミズムが生まれて、ひとびとを惹き付けるのです。

スーザン・ソンタグは前述の「写真論」で、写真はそれ自体は芸術形式ではないが、その主題を全て芸術作品に変える特別の能力を持っていると述べています。マーティン・パーは、写真の原点に戻ることによって主題を芸術作品に変えているのでしょう。
(以上)
【2007/08/08 15:33】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
占領下の昭和写真史

いま東京都写真美術館では写真展「昭和-写真の1945~1989-」が開催されています(07.5.12~6.24)。
展示されている125点の写真は、すべて占領下の日本を写した写真です。敗戦後の占領下に生きた者にとって、これらの写真は映像で見る同時代史です。

第一に、日本にとって敗戦の年、昭和20年(1945)は、非戦闘員が多数焼死し、国土が焦土と化した年です。昭和20年に撮影された「東京大空襲(石川光陽)」「焼死体の脇に茫然と立ちつくす若い女性(山端庸介)」「防空壕に避難して助かった女性(山端庸介)」の3枚の写真は、東京と長崎の街が、焼夷弾と原子爆弾で焼き尽くされた様子を、焼死した人と焼け出された人の姿を写し込んで強烈に物語っています。

第二に、国土が焦土と化した写真としては、「東京大空襲後の銀座4丁目交差点(師岡宏次)」「大空襲後の虎ノ門付近(師岡宏次)」「上野広小路付近の焼け跡(師岡宏次)」の3枚が印象的です。敗戦直後の銀座、虎ノ門、上野の街にあるのは、僅かなコンクリート造りの焼けたビルだけです。その中で、見覚えのあるビルは銀座では服部時計店、虎ノ門では旧文部省くらいです。

第三に、戦後間もなく、大陸から大勢の日本人が帰国しました。「復員(林忠彦)」の復員兵には笑顔がありましたが、「引き上げ(林忠彦)」の、父の遺骨と共に帰国した母と子の表情は暗いものでした。

第四に、戦後直ぐ、街路も鉄道も駅も、標識は全て横文字になりました。「四谷見附(木村伊兵衛)」「戸越公園駅(中村立行)」「英語標識のある有楽町駅(林忠彦)」の3枚の写真では、日本語の表示は一字もなく、英語だけで表示されています。占領下にあることを人々に突きつけます。

第五に、戦後の数年間、人々は厳しい経済状態に置かれます。衣食住の全てが何もかも不足でした。その中で、育ち盛りの子供達が最大の犠牲者でしたが、彼らはけなげでした。「敗戦、饑餓の島より(福島菊次郎)」「浮浪記(田村茂)」「敗戦の素顔(田村茂)」「山の兄弟(白井薫)」「橋の上(土門拳)」「子守の少女、浅草(田沼武能)」の6枚の写真は逞しく生きる子供達の姿と表情を捉えています。

第六に、戦後6~7年経って敗戦の混乱が収まり始めた頃の写真に、面白いものを見つけました。写真「新宿聚楽前、新宿区(薗部澄)」には、高級洋装店”東京スタイル”という商店の前の広場に、100個以上の肥桶(こいおけ)が二段に積まれて写っています。当時は人糞が大切な肥料でした。街でくみ取られた人糞は肥桶に詰められて近郊の農家に売られていきました。

第七に興味を持ったのは、焦土と化した東京の街が整備されていく過程を示す写真「土橋付近、有楽町~新橋間の車窓より(薗部澄)」です。この写真では、山手線に沿っ続くお濠が、焦土の瓦礫で幅半分ほど埋められていました。東京は江戸時代から水路の発達した街でしたが、関東大震災と東京大空襲で発生した大量の瓦礫を水路に投げ込んだため、水の都が台無しになったと言われます。この写真はその証拠写真です。

以上の写真の外にも、写真的に優れたものが数多く展示されていました。しかし、今回は時代史としての写真に焦点を合わせて感想を述べた次第です。
(以上)
【2007/06/01 22:01】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
マグナムが撮った東京
マグナム・フォトス創設60周年を記念して、写真展「マグナムが撮った東京」が東京都写真美術館で開催されています(2007.3.10~5.6)。マグナムとはロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって1947年に創設された写真家結社です。

展示されている写真は、マグナムのメンバーが1950年代から2005年にわたり東京を撮影したものです。展示会では、50年代は復興、60年代は成長、70年代は発展、80年代は飛躍、90年代は狂乱、2000年代は新世紀と銘打って時代区分をしていますが、展示された写真は必ずしも時代の特徴を捉えているとは言えません。

外国人であるマグナムのメンバーが短期間日本に滞在して、たまたま撮影した写真が時代特性を表現すると考えることに無理があります。マグナムの写真家達の感性が日本社会をどう捉えたか、と言う観点で鑑賞すれば十分であり、時代区分や時代特性を殊更強調する必要はないと思います。

以下では、印象的だった写真についての感想を、見た順に述べてみます。

先ず、印象的だったのはワーナー・ビショフの「銀座1951」です。ハイヒールのモダンな女性が闊歩している銀座通りにリヤカーが走り、その背景には日劇(有楽町マリオンの前身)と旧朝日新聞社ビルが見えます。ロバート・キャパが当時の日本のカメラ雑誌で「ストーリーカメラマンは頭と眼と心が機動的に働かねばならぬ」と書いていましたが、まさにその通りで、この写真は一瞬のうちに戦後間もない頃の銀座の姿を捉えています。

次に、カルティエ=ブレッソンの「歌舞伎役者、市川団十郎の葬儀1965」です。葬儀場でハンカチで涙を拭う二人の女性と横顔の二人の女性を四分割の画面に均等に配置し、真ん中には漢字で告別式という立て札を置いています。決定的瞬間を提唱したカルティエ=ブレッソンは、瞬時に画面の構成を作り上げる名人でした。日本の葬儀場で動き回る人々の群れを、悲しみの塊として表現した傑作だと思います。

第三に、バード・グリンの新年の一般参賀での「昭和天皇1961」です。皇后様と美智子妃殿下を手前に大きく入れて、国民に手を振って挨拶される昭和天皇のお姿と自然な表情を巧みに捉えています。天皇家に親しみをおぼえるスナップです。

第四に、イアン・ベリーの「東京1972」は、ラウ屋を囲む客達を写したものです。ラウ屋とは、きざみ煙草を吸うとき使う煙管(きせる)の修理屋のことで、煙管の吸口と雁首との間にある竹の管のことをラウと言ったので、彼らはそう呼ばれました。彼らは、戦前からリヤカーに煙管の掃除道具を積んで街を歩いていましたが、とうの昔に消えた商売です。写真では「らう留」という屋号のラウ屋が、袢纏を着た男と商談をしています。1970年代には、こんな街の風景もまだ残っていたのかと懐かしくなる写真です。

第五は、ブルーノ・バルベイの「成田空港建設反対デモ1971」です。デモ隊の学生達は長い竹竿を槍のように警察官たちに突きつけます。警察機動隊は沢山の楯で防ぎます。やや上方から撮った写真では、両者のせめぎ合いが緊迫感を以て伝わってきます。暴力では何事も解決せず、その後遺症で成田空港が未だに国際空港として不完全な状態にある原因を思い出させる一枚です。

第六に、リチャード・カルバーの「職を探す人々1987」は、淺草の職業安定所でたむろする、不安な表情の労働者を捉えています。豊になった今、街で見るホームレスは無気力ですが、20年前、職を求めてありつけなくても、人々には未だ気力はあります。鉢巻きをして柱にもたれる男の顔を、じっと見詰めてしまいました。

第七に、同じリチャード・カルバーの「東京1983」は、公衆電話器のあるコーナーで数人の人々が思い思いの表情で小声で電話を掛けている情景です。今は、携帯電話でバラバラに大声で電話をしています。ついこの間まであった公衆電話情景は懐かしいものになっています。

第八に、デビッド・アラン・ハービーの「東京1853」は、満員の山手線でドアに押しつけられ、ガラスに手を当て必死に耐えている通勤者の表情を捉えています。今でも屡々起きている情景ですから物珍しくはありません。20年経ても変わらないものは変わらないのかと、思い知らされる一枚でした。

その他で印象に残ったのは、技巧的構図を描いたゲオルギー・ピンカソフの数枚の写真です。影の紋様、夜の階段と探照灯など、興味ある作品です。しかし、東京というテーマからは遠くなります。

1990年代以降の写真は「狂乱」「新世紀」と時代区分されていました。確かに多くの写真は、孤独、乱雑、拡散というイメージを描いていますが、東京または日本の特徴を捉えたものなのか否か、良く理解できませんでした。現代に近づくほど情報の伝達が早くなり、世界が均質化してきて、マグナムの名手たちも、これが東京だと見分けるのに苦労しているのかもしれません。
(以上)


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【2007/04/07 07:48】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
細江英公の世界

19世紀に写真が登場すると写実的な描写は写真の仕事となり、写実的な絵画は変化を遂げて抽象的あるいは心理的描写に専念することになりました。逆説的に言えば、写真は絵画を写実から開放したのです。

しかし、その後の写真の発展は、写真も絵画の後を追って、抽象的、心理的描写に進んでいます。日本の写真家の中で、この方面に最も積極的な写真家は細江英公ではないかと思います。

東京都写真美術館では写真家細江英公の写真展が年末から年初にかけて開かれていました。「球体写真二元論 細江英公の世界」と題して細江英公の写真を多面的に紹介していました。展示された写真を見て感じたことは、やはり細江英公は「写真の抽象化は何処まで可能か」を追求した写真家だと思います。

少し写真に興味のある人なら、小説家三島由紀夫を被写体として撮った細江英公の「薔薇刑」という写真集をご存じだと思います。この写真集で細江英公はエロスとタナトス(生と死)を表現したと言われます。荒い粒子のモンタージュ写真は、人間の心の奥底に潜む欲望を、暗喩と象徴で表現しています。

展示場に入ると、先ず、細江英公の最初の写真集「おとこと女」が展示されていました。すべて荒い粒子の象徴的な写真です。細江英公は、ここで性を生の原点と捉えていて、やがてその生と死を結びつけて「薔薇刑」が生まれたのだと理解しました。

同じ頃に発表された写真集「鎌鼬(かまいたち)」は、東北農村の土俗信仰に伝わる妖怪の伝説を映像化したものです。細江英公は、農村の色々な所で舞台俳優の土方巽を使って鎌鼬を演じさせて、人々の目に見えないものを見せるという写真を撮っています。それは空想の世界が現実の世界に現れる情景です。

更に、舞台俳優の土方巽と大野一雄と言う人物を撮った写真は、人物を撮ったのではなく、人物を手段として人間の心理の深層を描こうとしたものだと思います。特に、大野一雄の裸体に刺青したかのように動物や人影を多重露光した写真は、人間の霊魂を撮影しているようです。

絵画は見えるものを容易に超越して抽象の世界を描いて行きました。しかし写真が見えるものを超越して抽象の世界を描くことは絵画ほど容易ではありません。かつて、リアリズム写真は、時間的、場所的に特定の事実に拘泥して行き詰まりましたが、逆に抽象写真では、物質感を表現すると言う写真の固有の機能を軽視する危険があります。

絵画で描ける同じ抽象の世界を、写真機を使って描く必要はありません。細江英公が「たかちゃんとぼく」「おかあさんのばか」と言う写真絵本を作成しているのは、写真による抽象や象徴の表現に限界があることを感じているのでしょう。これらの写真集を見ていると、写真はあくまでも事実を直視し、その事実から人間の精神性を引き出すことが本道だと、細江英公は考えているのだと思います。
(以上)
【2007/01/18 10:03】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
イザベル・ユペール展

今、珍しい形式の写真展が東京都写真美術館で開催されています。(開催期間 2006.7.1~8.6) それは、大勢の写真家が一人の女優を撮影したポートレート写真を一ヶ所に集めた写真展です。

一人の写真家が或るテーマで撮影した写真を展示するのが普通ですが、今回のように被写体は一つでありながら、写す人が大勢という方式ですと、否応なく写真家の表現力が比較されます。更に、被写体がイザベル・ユペールという有名な性格女優であることも、大いに写真展を盛り上げています。

この写真展の副題が ”Woman of Many Faces ”とあるように、会場のどの写真を見ても女優の表情と姿態は大きく異なります。女優の演技力と写真家の演出力で創り出す表情と姿態の変容は、誠に多彩です。

以下に印象に残った写真について、写真家別に感想を述べてみます。

Peter Lindbergh
二枚の写真は全く異なる性格をイザベルに与えています。
1.2002(数字は撮影年、以下同じ)
体の力を抜き椅子に腰掛けるイザベルは、何を沈思するのか項垂れて悲しげです。比較的広い面積をもつ黒いバックは、その悲しみを深めています。
2.2001
胸から下のワンピースに身を包み、両腕を組み、顎を突き出して立つイザベルは、蔑むような視線を送ります。知的ではありますが、どこか高慢な性格を表現しています。

Karin Rochall 1990
煙草をくわえて力なく向けるイザベルの流し目には、何処か退廃的な雰囲気が漂います。

Robert Doisneau
三枚の写真はそれぞれ表情が異なり興味ある作品です。
1.1985
酒場で一人椅子に座り、振り向きながら視線をあらぬ方向に向けているイザベルには男の気をひく色気があります。
2.1985
路上を歩きながら何かを見詰めているイザベルの顔には幼い蔭があり、少女のようです。
3.1985
酒場のカウンターでマスターに酒を注がせながら、マスターの顔を凝視するイザベルの目には中年女性のあざとさがあります。

Henri Cartier-Bresson 1994
黒い長袖のブラウスを着て、腕を頭の後ろで組み、視線をこちらに向けるイザベルは、放心した表情です。イザベルの上半身は黒い長方形にまとまっており、彼女が座るソファー、入り口の扉、壁にかかる額などはすべて大小の長方形で対応しており、画面にリズムを与えています。写真の構図を重視する決定的瞬間の写真家ブレッソンらしい写真です。

Juergen Teller 2001
短パンと袖無しブラウスのイザベルは、ソファーの上で片膝を曲げ、その上にもう一方の脚を載せています。片手を自分の太ももの間に、もう一方の手でクッションを抱えたイザベルは、妖艶な視線をこちらに向けています。姿態とまなざしは挑戦的です。

Patrick Faigenbaum 2005
二枚のポートレイトは、両方共に虚脱した表情のイザベルです。これが彼女の地の顔と思えるような自然の表情で、よく言えば人生を達観した顔、悪く云えば全てを否定する虚無的な顔です。

Philip-Lorca DiCorcia 2004
一枚は男とは別の明るい部屋にいるイザベル、もう一枚は大きな花々が映るガラス戸の前に立つイザベル、この二枚の写真は、明暗の違いはありますが、共に別の世界から来たイザベラを表現しています。そうすることでイザベラの持つ神秘性を表現しています。

まだ外にもRichard Avedon,Helmut Newton,Robert Franc,Herb Ritts などの有名写真家の作品が沢山出品されています。

この写真展は2005年11月ニューヨークを皮切りにパリ、ベルリン、マドリード、東京と巡回していて、これからも世界巡回は続くという人気のある写真展です。一度に多くの世界的写真家に巡り会える珍しい写真展です。
(以上)


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【2006/07/16 10:32】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ファッション写真家 ギィ・ブルダン
東京都写真美術館でギィ・ブルダンの写真展を見ました。

ギィ・ブルダンは、ファッション写真家として注目を集め、広告写真を芸術写真にした写真家です。数々の超現実主義的な作品を発表し、晩年には20世紀で最も革新的なアーティストと云われました。

写真展では女性と靴を主題とした作品が多くありましたが、それは彼が長年、フランスの高級婦人靴メーカーのシャルル・ジョルダン社の広告写真家として活躍したためです。

しかし、彼の手になると、広告写真は広告の域を超えて、心理的な表現、更には芸術的な表現にまで高められて、見る人の目を釘付けにします。

赤いソファーに伏せる赤い服の女がはいている赤い靴、階段を上る脚だけの女がはいている靴、警官に追われる女が抱える巨大な靴、これらは靴を材料にしながら女性の願望や欲望を象徴しています。

写真家マン・レイや画家マルグリットのシュール・レアリズムを思わせる奇抜な題材と構図は、見る人に想像の世界を与えます。解説には「解読困難なメッセージを創り出し、不条理と崇高なものの間を表現した」とありましたが、見終わった後も、あれは一体何なのか?と人々を不安にさせます。

実像とその実像を写した写真とを一枚の写真に収めた作品が幾つかありました。これなどは現代画家達が超現実的手法として採用した方法ですが、ここには解読困難なメセージが込められています。

それよりも、画面の大半は沢山の黒い傘で被われていて、その一部に顔が覗いている作品、原野に散乱する倒木に縋るかのように差し伸べた赤いマニュキアした女性の手の作品など、人間の深層心理を追求したと思われる作品に、一種の凄みがありました。

また、流れ出た赤いペンキが倒れた女の吐いた血の如き作品、口紅と黒人の厚い唇を組み合わせた作品など、色彩感覚も強烈なものがあります。

確かに、ギィ・ブルダンはファッション・フォトを追求して、従来のファッション・フォトの約束事を破壊しました。しかし、広告写真の本道は踏み外しておりません。それは、高級婦人靴の老舗、シャルル・ジョルダン社が、こんなに長くギィ・ブルダンに仕事を依頼し続けたことが何よりの証拠です。
(以上)


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【2006/05/31 11:07】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本の子供写真展を見て
昨年12月から今年1月にかけて、東京都写真美術館で「日本のこども60年」という写真展が開催されました。そこには、戦後60年の間に、日本の写真家達が撮影した色々な場面の子供達の写真が展示されていました。

現代の青少年の多くは、物質的に恵まれた現在の生活しか知らず、現状を当然のことと考えています。彼らは祖父母や両親が生きた子供の時代の写真を見て、ここは何処の国?と思うでしょう。

15世紀にグーテンベルグが印刷機を発明したとき、文字の情報が社会に素早く伝わりました。19世紀にダゲールが写真機を発明すると、やがて映像の情報が社会に伝わりました。

印刷機と写真機の発明は、文字情報と映像情報の伝達に大いに貢献しました。その結果、同時代の人々が同じ情報を共有できるようになったと同時に、異時代の人々が時代を越えて同じ情報を共有できるようになりました。

敗戦直後の破壊と貧困の中でも子供達は明るく元気でした。遊びに熱中する子供達は、生き生きとして喜びに満ちあふれていました。家族や友達とのふれ合いの微笑ましい光景もありました。そこには、子供達の逞しさと喜びを見ることができます。

過去60年間の子供たちの写真は、人生における子供の時代の大切さを教えてくれます。映像が伝える過去の歴史は、文字で伝える歴史よりも人々に強烈な印象を与えます。
(以上)


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【2006/05/24 21:00】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ブラッサイという写真家
旧聞に属しますが、昨年、東京都写真美術館でブラッサイのポンピドゥーセンター・コレクション展を見ました。メモを頼りにその印象を語ります。

ブラッサイとい写真家は、写真機を用いた芸術家と云われます。有名な写真集「夜のパリ」から始まり、「変異」と「落書き」に終わる写真集の全ては、写真が芸術的に表現できる深さと広さを余すところなく語ってくれます。

写真集「夜のパリ」は、夜の女性の生態を撮りながら、単なるルポルタージュではない、人の命そのものを捉えています。また、「夜のパリ」には、見事な造形写真も含まれています。

「オートゥイユ高架橋」のコンクリート橋脚、「ウラク運河の石炭置場」の階段などは、夜の姿を見事に抽象して隠れた夜の美を気付かせてくれます。

1951年ニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「5人のフランス人写真家」展に出展した写真でも、ブラッサイは風景を造形化してとらえています。「地下鉄の石柱」は石柱の影に人の気配を感じさせ、路上に広げた漁網と街路樹の列とを組合わせた「漁網、カンヌ」は形で音楽を奏でているようです。

写真集「ミノトールとヌード」に収められた「状況的魔術-芽の出たジャガイモ」という二枚の写真は、画家ゴッホが植物の生命力を引出そうと描いた静物画を彷彿とさせます。

 写真集「変異」は写真とオブジェをコラージュして組合わせて、別の世界を創造しています。その中の「捧げ物」「夢見る少女」は奔放な想像力で私達を別の世界に連れていきます。その想像力の飛躍は意表を突き、写真に付けられた題名を見て、成る程と納得する次第です。

最後に、展示場の隅の左右の壁面一杯に、写真集「落書き」の写真が60枚弱ほど不規則に並べて掲げてありました。ブラッサイは、パリの街の古い壁に刻まれた落書きを数年にわたり繰り返し撮影し、後に写真集「落書き」として発表していますが、これらはその一部です。

誰が描いたか分からない壁の傷跡を写真に切り取って抽象画にしてしまうブラサイは、どんな人なのでしょうか。

彼は何処かで云っていました。ヴィジョンによって幻想化された現実の世界を以て、実在性を表現するのだと。「落書き」シリーズは、それを実践した作品なのでしょう。

掲載した写真は、隅田川近くの柳橋を夜に撮影した私の写真です。現物をお見せできないブラッサイの「夜のパリ」をイメージするにはお粗末様でした。
(以上)


                柳橋-01P 02h


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【2006/05/22 10:41】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ウィリアム・クラインの写真
アメリカ・ドキュメンタリー写真は、20世紀半ばに突然現れたウィリアム・クラインによって、新しいスタイルを獲得します。

クラインは、1956年写真集「ニューヨーク」でデビューしましたが、その時、彼はアメリカ物質文明を痛烈に批判したと評されました。彼は事実を客観的に写した従来のドキュメンタリー写真では真のリアリズム写真にはならないとして、映画的手法で社会的風景を切り取って行きました。

彼のドキュメンタリー写真は、訴えたい対象を画面の前面に押し出します。画面はデフォルメされたかのように、強いコントラストで描かれます。画家を目指し、映画も制作したクラインならではのドキュメンタリー写真です。

東京都写真美術館で「パリとクライン」という題名の写真展が開かれたとき、彼の「ニューヨーク」をを期待して見に行きました。作曲家ガーシュインは、詩曲「パリのアメリカ人」でジャズの旋律とリズムを取り入れて従来のクラシック音楽に挑戦しましたが、ニューヨーク生まれのアメリカ人クラインにも、デビューの時見せた斬新な手法でダイナミックにパリを撮影した写真を期待していました。しかし、展示された写真の殆どは社会的風景ではなく、パリの街の人々の表情を撮ったものでした。

今回の写真展「パリとクライン」では、クラインは人々の「心」を写しています。その中で印象的だったのは、葬列の人々を撮った4枚の写真でした。(65、
66、67、68の各号)

これら4枚の写真は、モーリス・トレーズ、ティノ・ロッシ、およびイヴ・モンタンの葬列に参加する男女の表情を写したものですが、故人に対して抱く哀しみが的確に捉えられています。クライン自身が、葬列に参加した人々と悲しみを共有していたのでしょう。

クラインは別のところで述べています。
「絵を描くこと、映画を撮ること、そして写真を撮ることは、表現の方法は違っても、それらは何時も私の自写像である」と。

作品の一つに、寂れた裏町でただ一人パンを抱えて新聞を読む少年「バケットを抱えた物知り坊や」
(46号)が気になりました。これは幼い日のクライン少年の自写像なのかも知れません。
(以上)


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【2006/05/20 09:51】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ドキュメンタリーを芸術にまで高めた写真家達
(「アメリカ・ドキュメンタリー写真の創始者たち」の続き)
以下も昨年、東京都写真美術館で「明日を夢見て」というテーマの写真展を見た時の記録と作品毎の感想です。

この時代、アメリカ政府は、社会政策の必要性を議会に理解させるため、写真家たちに記録写真を撮るよう委嘱しましたが、政府に依嘱されアメリカ・ソーシャル・ドキュメンタリーの写真家達は、記録写真にとどまることに飽きたらず、それを芸術的表現にまで高めた多数の写真を産み出しました。


(1)Walker Evans
 Evansは、世界恐慌の後のニューディール政策に協力し、農業安定局が進めた農民救済政策のための記録写真を撮影する事業に参加しました。
 彼はその仕事を遂行するに当たっても、記録写真には生き生きとしたイメージで本質を捉えたものこそが最も重要であり、単に問題を写実して提示するだけの写真は、真の記録写真ではないと主張しました。
 その所為か、彼の記録写真は、芸術的な構図と明暗で表現されていて、美しさまで感じます。

  作品「ジョージア州アトランタの黒人地区」
黒人達の貧困地区にある街路の一廓をリズムある形で捉えており、建築物の明暗のバランスも良く、貧しさを混沌ではなく秩序を以て表しています。

  作品「ペンシルベニア州のベツレヘム」
巨大な白い十字架の墓碑を前面に置いて、背景に製鉄工場の煙突群が林立する二つの対称的な被写体のコントラストは印象的です。「現世での利益増進は神の栄光をいや増す」というプロテスタントの精神の現物を見せつけられる思いです。

  作品「台所の壁 アラバマ農場」
これは農場の片隅で発見した、何の変哲もない風景です。白い木板を張り付けた壁に、ナイフ、フォーク、スプーンが束ねて差し掛けられているだけの、しかし静物画を見るような情景には、Evansの強烈な美意識を感じます。


(2)Dorothea Lange
Langeは、カリフォルニア州と連邦政府再定住局の依嘱を受けて、中南部から西部に移動する開拓農民の姿を撮影しています。 ジョン・スタインベックが「怒りの葡萄」という小説で、アメリカ人に西部の開拓農業の過酷な状況を知らせたように、Langeは写真の映像で同じことを成し遂げました。

  作品「移民の母 カリフォルニア州ニボモ」
開拓移住者のキャンプの母子を撮った写真ですが、激しい肉体労働で生活を支える母親の険しい表情には、逆境に負けない強い意志すら感じます。心の内面まで描写した傑作です。

  作品「移民の綿摘み アリゾナ州イロイ」
一人の綿摘みの移住労働者が、顔の下半分を手で隠し、その手を裏返して見せる掌は何を語っているのでしょうか。その掌は、自らをカメラから隠すのではなく、カメラに向かってこの苦労を分かってたまるか、と云っているようです。
(以上)


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【2006/05/17 08:54】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
アメリカ・ドキュメンタリー写真の創始者たち
南北戦争で統一を果たしたアメリカが、本格的に経済発展を遂げるのは20世紀に入ってからです。1929年の世界大恐慌を挟んだ20世紀始めから30年間余りのアメリカ経済は、経済拡大路線をしゃにむに突き進んだ時代です。

社会の至る所に矛盾は噴出し、このままでアメリカ社会は良いのかと問われていました。しかし、その現実を正しく知る人達は少なく、その解決の緊急性について人々の理解は不十分でした。

アメリカ・ドキュメンタリー写真は、その時代に社会報道の手段として大いに活躍しました。ドキュメンタリー写真家たちは、激しく揺れ動くアメリカ社会の実態を見事に捉えて人々に伝えました。

アメリカ・ドキュメンタリー写真の創始者たちは、敢えて社会の恥部を写真に撮って公表し、国民が皆でその恥部を直視し、それを是正していこうとしたのです。写真展の副題「写真が社会を変えた」にあるように、彼らは写真で社会が変えられると信じた写真家たちでした。

以下は、昨年、東京都写真美術館で「明日を夢見て」というテーマの写真展を見た時の記録と作品毎の感想です。


(1)Jacob A.Riis
 Riisは、ニューヨーク移民の悲惨な生活を撮影しています。彼自身も移民の子であるためか、当時流行していた芸術写真には興味を示さず、誰も取り上げなかった移民達の悲惨な生活を沢山撮影しいます。今日の報道写真の祖と云われる所以です。

  作品「死の巣窟」
白っぽい数階建ての木造建物が、今にも倒壊しそうに傾いて二棟ほど立っており、窓に吊された沢山の洗濯物は、老朽化した建物内には大勢の貧しい人達が住んでいることを示しています。

  作品「幸せ者の布の城」
二本の太い角材が腰の高さに併行して設置されています。その柱に分厚いシーツがハンモックのように一定間隔に張られています。日雇い労働者のための、一泊7セントの宿泊所です。


(2)Lewis W.Hine
Hineは大学で社会学を専攻した学者であり、写真で社会の正義を実現しようとした確信者としての社会派写真家でした。

彼は、この方面で沢山の仕事をしていますが、今回展示された写真は、アメリカ政府の依頼で児童労働の過酷な現状を記録したものであり、これらの写真は児童労働禁止法案の成立に貢献しました。

  作品「新聞少年」
新聞配達の少年は、疲れ切って新聞の束を抱えたまま、階段の途中で寝ています。放課後から午後9時まで働いて10セントの報酬しか得られないとのことです。新聞には、”Wanted Small Boys”と言う求人広告がありました。

  作品「炭鉱で石炭を砕く少年達」
薄暗い仕事場で、数人の少年達が石炭を砕く作業をしています。彼らの後ろには、鉄棒を持った監督者が監視するように立っています。
(次回に続きます)
(以上)


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【2006/05/16 13:37】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ドキュメンタリー写真の見方
東京都写真美術館では、毎年ドキュメンタリー写真展を開いています。写真展では、ドキュメンタリーということで劇的な場面を写したものが数多く展示されます。

戦争で破壊された建物、災害現場の山崩れ、噴出する油井復旧作業など、確かに臨場感もあり、凄いと息をのむような写真が沢山あります。

しかし、報道写真を見て何時も感じることですが、衝撃的な事実そのものを写した直接的な写真よりも、悲劇に遭遇して嘆き悲しむ人達の表情を写した間接的な写真の方が、見る者に強い感動を与える場合が多いのです。

映画など動画ではスペクタクル場面の見せ場が大事ですが、スチル写真では静かに語る写真の方が感動は長く続くように思います。

ある写真展で、病魔と闘っているときの顔と、その人のデスマスクとを並べた二つの写真を見た時、闘い終わり安らぎを得た人の厳粛な死の事実を伝えるものとして強く印象に残りました。

2001年9月11日の同時多発テロでニューヨーク世界貿易センタービルは炎上崩壊しました。テレビや新聞雑誌はその衝撃のドキュメンタリー画像を流しました。今でもその場面を動画や静止画で見れば、その画面は私たちにその恐ろしさ、怒り、悲しみを呼び起こします。

しかし、その恐ろしさ、怒り、悲しみの感情は、在りし日の世界貿易センタービルの写真を見るだけでも、呼び起こされます。この写真にあるツインタワー・ビルは、今はないという感情は静かに、しかし長く心に残るのです。

世界貿易センタービルの跡地に新しいビルの建設計画が決まったようです。数年で空白の空間は新しいビルで埋められます。それまでの間、あの空白の空間は人々に喪失感を与え続けます。在りし日の世界貿易センタービルの写真は、ドキュメンタリー写真として、人々の喪失感を確かめることになります。

同時多発テロが起きた日の10日余り前、私は偶々旅行でニューヨークにいました。何気なく世界貿易センタービルを撮影していましたので、その一部を掲載します。遠くから見た世界貿易センタービルがニューヨーク市街で如何に際だった建物であったかお分かりになるでしょう。
(以上)

                 ニューヨーク-05P(アメリカ東海岸 01t


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【2006/05/14 10:30】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ハーブ・リッツの写真
ハーブ・リッツは「ジャンルを越え、すべての被写体をその究極まで美しく捉えた写真家」と評された写真家です。没後初の回顧展(2004.5)が東京で開催されたとき、私はその洗練された写真を数多く見ました。

写真展では、肖像写真、ファッション写真など造形美を完璧に追求した写真が多く展示され、彼が単純で力強い形態でアメリカを捉えた写真家として評価が高かったことを示しています。

ハーブ・リッツは、70年代に広告写真家として頭角を現したのですが、80年代後半からは有名雑誌のカバーを飾る写真を次々と発表して、一般大衆的人気を得ていきます。

しかし、彼の真価は、大衆的な肖像写真やファッション写真に刻まれた造形美にあります。ハーブ・リッツが広告写真家から造形美写真家に発展するプロセスは、写真展だけからは分かりませんが、彼がゲイのヌード作品を残しているところから、同じくゲイ・ヌードを撮影して評価の高かったロバート・メイプソープから、美意識を学んだのかも知れません。

メイプルソープとリッツの両者の写真には、どこかギリシャ彫刻の美を思わせるものがあります。近代の先端を行くアメリカの写真家二人が、美意識を高めて古代ギリシャの美に向かうというのも不思議なものです。
(以上)


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【2006/05/12 22:13】 | 写真展 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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