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桜の花道
桜-13PAY3

花道(はなみち)とは、歌舞伎の舞台装置の一つを云い、舞台から客席をよぎり舞台の反対側の楽屋裏(鳥家という)へ至る通路です。歌舞伎役者が舞台へ出るとき、舞台から退くとき、演技する華々しくも重要な場所です。

相撲でも歌舞伎の「花道」を借用して、力士が勝負に勝って土俵から退くときの道を花道といいます。更に転用されて、会社の社長さんが業績を上げて退任するとき「花道」を飾って辞めると云います。今では「花道」とは華々しく見送られる場所となりました。

さて、ここに掲げた写真は、そのいずれの「花道」でもありません。華々しく咲いた桜の花びらが落ちて、道を白く染めた「花道」です。

この「花道」は、美しく静かな優雅さに満ちています。幽玄の世界へ導かれる思いがします。「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌った西行法師が歩んで往った道はこのような花道だったでしょう。
(以上)
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【2020/04/17 23:01】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は古いほど感動的
1.青函連絡船-01P
写真1 青函連絡船の甲板にて
2.青森港-07P
写真2 青函連絡船岸壁跡

人間は忘れ易い動物です。過去の事柄はどんどん忘れていき、昔のことは余程印象的なことでなければ思い出しません。

しかし、過去の一枚の写真は、瞬時にそれに纏わる忘れていた感情を思い起こさせてくれます。この写真は60年程前の昭和35(1960)に青函連絡船に乗ったとき撮影したものです。
(写真1)

三等船室の畳の大部屋で雑魚寝しているのも厭きて甲板に出たところ、船は左右に津軽半島と下北半島を見ながら津軽海峡に出るところでした。空は晴れていましたが、連絡船の甲板は薄暗くなる位濃い煙に覆われていました。振り返ると四本の煙突が黒煙を濛々と吐き出しています。

この青函連絡船は、数時間かけて青森から函館まで黒煙を吐きながら航海していきます。台風で沈没した悲劇の洞爺丸よりもずっと古い型の船でした。

当時は蒸気機関車が普通でしたから汽車の煙には慣れていましたが、油臭い汽船の煙に巻かれたのは初めてでした。夕方の陸奥湾を眺めながら、何処か遠い国へ旅立つような心細い気持ちになりました。この煙突の煙は、その匂いを思い出させ、当時の心細い気持ちを甦らせるのです。

写真は、ある時の、ある所の、ある状況を記録に留めます。一枚の写真の伝える内容は時間的にも場所的にも一部に過ぎませんが、時には多くの言葉で語るよりも雄弁です。

リアリズム文学のモウパッサンが数十ページの文章で部屋の状況を事細かく描写するところを、写真は一枚で語り尽します。更に文章では描けない部屋にあるベッドや机椅子のディテールまで写真は描写します。

文章では想像力を働かせて思い出を自由に表現できますが、写真は限定された過去の記録を提示するだけで、後は見る人の想像力に任せるのです。写真は歴史の記録者でありながら、過去を現在に甦らせる不思議な力があります。
(以上)

(追録)
青森港の外れに青函連絡船の船着き場跡が保存されています。連絡船だけでなく、列車が船に乗り込んだとき使った港側のレールも残してあります。連絡船と云えば人間を運ぶものであり、カーフェリーは自動車を運ぶものですが、青函連絡船は、青森駅と函館駅を結ぶ「列車」を運ぶ船として運行され、鉄道連絡船と云われました。そして青函トンネルが完成した昭和63年(1988)に青函連絡船は運行を終了しました。
(写真2)
【2020/04/09 20:15】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
トラック搭載広告塔の公害は何故批判されないのか
1.渋谷交差点:広告塔バス-03D 1512qr
写真1 ハチ公前スクランブル交差点を通過するトラック搭載広告塔
2.渋谷交差点:広告塔バス-10D 1706qr
写真2 渋谷の公園通りを行くトラック搭載広告塔
3.公園通り:広告塔車-06D 1512qt
写真3 渋谷の公園通りを行くトラック搭載広告塔 目立ちたいだけのナンセンス広告 
4.公園通り:広告塔車-07D 1512qt
写真4 渋谷の公園通りを行くトラック搭載広告塔 ホストクラブの宣伝車
5.渋谷交差点:広告塔バス-08D 1706qt
写真5 渋谷のファイヤー通りを行くトラック搭載広告塔 反対車線にも通り過ぎたトラック搭載広告塔が見える。

最近、混雑する繁華街の街路を、巨大な広告塔を載せて走り回っている大型トラックをよく見かけます。それも宣伝のための音楽を大音量で流しながらゆっくり走るので、やかましい限りです。

車体に広告を描いて街中を走る宣伝方法を最初に始めたのは都バスでした。その後、山手線の車両にも宣伝広告が載りましたが、こちらは宣伝効果が乏しいのか、いつの間にか消えました。しかし、街中を走るバスの車体の広告は効果があるので続いています。

その広告効果に目を付けて、始めたのが冒頭の大型トラックに広告塔を載せた宣伝車です。バスは人を運びながら、ついでに宣伝車として利用しているのですから良いですが、人も物も運ばないで空気だけを運ぶ大型車が、混雑する街路に割り込んで走るのは、いかがなものでしょうか?

大型トラックの宣伝車の性能は日進月歩しています。高音質のスピーカーシステムを搭載して大音量を流すので、高層ビルに囲まれた街路では、さながらカラオケ・ルーム内のように響きます。内照式照明システムを搭載して夜には光輝度を高めるので、まぶしさで街の景観を歪めます。それにトラック搭載の広告塔に描かれた宣伝文句も、デザインも、品が無くセンスが悪いものを見かけます。

大型トラックの宣伝車は、銀座や新宿など都内の繁華街に出没していますが、特に渋谷に集中して徘徊しています。渋谷は若者の街であり、最近は情報発信の街とも言われているので、宣伝効果が大きいからだそうです。

しかし、渋谷の繁華街の道路は、道幅は狭く、坂が多く、複雑に曲がっています。交通の流れが悪いところへ、バスより図体が大きい宣伝車が加わると、渋滞は一層ひどくなります。ところが、この渋滞が宣伝車にとっては望むところで、滞留時間が長くなるだけ宣伝効果が上がるというわけです。
(写真は渋谷の繁華街の路上で見た車載広告塔の一部です)

かくして、大音響をまき散らしながら、夜の街の景観を壊しながら、トラック広告搭載車が我が物顔にのろのろと渋谷の街を走り回ります。この異常な現象を誰も非難しないのは不思議です。

ある人が、これは言論の自由の権利だから制限できないと言ったので、思わず噴き出してしまいました。
(以上)

 
【2017/06/18 21:16】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
街角で托鉢する僧侶を見かけて感じたこと
                    人-15P 96t
                    写真1 皇居のお濠端で
                    大阪城城内-01D 07010qt
                    写真2 大坂城の石垣の前で

時々街中で僧侶が道行く人に寄進を求める姿を見かけます。直立不動の姿勢で立ち、時折、小鐘を鳴らすだけで終始無言の行です。托鉢僧は、寄進する人が現れると、合掌して頭を下げるだけです。

古来、インドでは、宗教に身を投じる者は、財産を一切持たず、実生活で必要な最低限の食料、衣料などを信徒の寄付によってまかない、一切の経済行為を行わないことを戒律としていました。

インドで生まれた仏教もまた、このインド宗教の伝統に従い、托鉢で実生活を支える戒律を取り入れています。托鉢とは、僧侶の実生活の糧を得る行為を通じて、信徒に教えを広める修行でした。寄進を通じて信者に功徳を積ませる宗教活動でした。

托鉢は修行と布教を二つながらに実行する方法ですが、これがインドから中国に伝わり日本に渡ってくると、時代を経て変貌を遂げていきます。中国にも、日本にも既存の宗教があり、国民の価値観が異なり、気候風土も違います。そのような外的要因で、仏教の信仰内容も信仰方法も変貌を遂げるのです。

お釈迦様が教えた本来の仏教は、上座部仏教と言われ(嘗て小乗仏教ともいわれました)、スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジャへと伝わりましたが、中国や日本に伝わったのは、それとは違った大乗仏教でした。両者の大きな違いは、上座部仏教では出家者として修行するのですが、大乗仏教では在家信者のままでも修行して釈迦の精神に生きれば救済されるとした点です。

上座部仏教では、出家者の戒律が厳格に守られ、托鉢は必須の修行でしたが、大乗仏教では、宗派や寺院が信者の寄進で維持されされましたから、必ずしも托鉢を行わなくても生活に支障が生じなかったので、インドのように托鉢は広く行われませんでした。

財力を信じ政治を優先させる伝統の強い中国では、裕福でない寺院には信者が集まりませんでしたし、また裕福な寺院の僧侶たちは托鉢をしませんでした。日本では、外来の仏教は支配階級など社会上層部の人達の間で普及しましたから、修行の手段としての托鉢が重きをなしたとは思えません。

日本の托鉢の歴史は、僧侶の生活を支えると言うよりも、布教活動の手段として行われて来たと言えます。僧侶が托鉢に出かけるのは、地方の民衆に説教をするためでした。また、地方での寺院の創建や、農漁村の社会施設の整備などのために、托鉢が行われました。

ですから、今は希にしか見かけない街頭での托鉢僧の行は、仏教の教えを僧侶が追体験しながら、仏教の存在を大衆に知らしめるという、仏教の普及活動だと思います。

花見客で賑わう皇居のお濠端で一人の托鉢僧の姿、観光客で賑わう大坂城の石垣の前で二人の托鉢僧の姿を見かけました。(写真1、2)

ところで、戦前の日本人は、必ず家に神棚と仏壇を設けて毎朝、毎夕、家族全員が掌を合わせて感謝と願い事を唱えました。しかし戦後は核家族となり、その習慣が薄れたと言われます。

神社や寺院に参拝することも大切ですが、日常生活の中で宗教心を日夜涵養することも忘れてはいけません。街角で托鉢僧を見て、日常生活での己の宗教心の薄さに恥じた次第です。
(以上)
【2015/04/26 18:55】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
伐り瘤の怒り
               1樹木の切瘤-13D 1501qtc
                         2樹木の切瘤-09D 1501q
                              3樹木の切瘤-12D 1501qtc

都会の中心部はどこも高層ビルが密集して林立しています。人呼んでこれをコンクリート・ジャングルと言います。このコンクリート・ジャングルに潤いを与えるために街路樹が植えられています。

しかし、道路に沿って樹木を植えた歴史は古いのです。それも都会の道路ではなく街道に沿って樹木が植えられました。東海道の松並木や日光街道の杉並木は有名です。

外国に目を向ければ、3000年前にインドのカルカッタからアフガニスタン国境に至る幹線道路に街路樹が植えられていたと言います。また2500年前の中国、周の時代は都の道路に壮大な街路樹が植られていたと言います。

これらの昔の並木はコンクリート・ジャングルに植えられた街路樹のような目的ではなく、通行人を守るためのものであり、防風、防砂、防熱という重要な役割を果たしたのでしょう。それだけに街路樹の並木は大木であり、枝葉も濃く茂っていたでしょう。

現代の日本の都市の街路樹は、昔のような実用面よりも、装飾的な役割が大きいのです。美しく涼しげであることが求められており、常緑樹なら枝の姿形が、落葉樹なら葉の色彩が選ばれて植えられています。

ところが、街路樹が大きく成長し、人間の日常生活に不便を与えることもあります。例えば、木の枝が電線に引っかかるから、信号機が隠されて見えなくなったから枝葉を伐って欲しいと言われます。また、落ち葉が道路を汚すから、落ち葉で道路が滑りやすくなるから街路樹を伐採して欲しいと言われます。

こうして、コンクリート・ジャングルに潤いを与えていた樹木の枝葉が伐られたり、根こそぎ伐採されることが起きています。街路樹を邪魔者扱いにする人は、その恩恵を忘れた人です。ですから、枝葉を伐られた樹木の姿形など、気にもしません。

町を歩いていると、街路樹が切り刻まれて哀れな姿になっているのを時々見かけます。枝葉が繁るのは邪魔だということなのでしょう、伸びた枝を枝元から毎年伐り落とされた木が、伐られた先端を拳固のように突き上げて並んでいました。無骨な瘤を空に突き上げた街路樹の行列は異様な光景です。

これらの瘤は伸びる思いを断たれた木の執念の固まりです。木は怒りの拳を振り上げているのです。
(以上)
【2015/03/14 22:22】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
千変万化の波紋の造形
1.波紋:飛鳥Ⅱより-32D 1409q
写真1
2.波紋:飛鳥Ⅱより-16D 1409q
写真2
3.波紋:飛鳥Ⅱより-03D 1409q
写真3
4.波紋:飛鳥Ⅱより-14D 1409q
写真4
5.波紋:飛鳥Ⅱより-12D 1409q
写真5

芸術家にして発明家のレオナルド・ダ・ビンチは水の流れのスケッチをいくつも残していますが、変幻自在な水の姿に自然の真理を読み取っていたのかも知れません。葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」には小舟を翻弄する大きな波が克明に描かれていますが、水の造形に藝術の美を見いだしていたのかも知れません。

大海原を疾走する船が海面につくる波形は、同じ波紋の繰り返しのようですが、一つとして同じものはありません。船が一定の速さで進んでいても海面は常に変化しているからです。船の進行がつくる波紋は、たちまち姿を変えていきますが、一つとして同じ変化はしません。

青い海と白い波のツートンカラーの波紋は、濃淡を変えながら、千変万化して消えていきます。ふと、空と雲を撮り続けた、アメリカ近代写真の父と言われるアルフレッド・スティーグリッツを思い出しました。千変万化する点で、天空に浮かぶ白い雲は海面に浮かぶ白い波に似ています。

妻ジョージアのポートレイト写真で名声を博していたスティーグリッツは、被写体のおかげだと批評されて、写真の価値は被写体で決まらないと主張するために多くの雲の写真を撮り、その写真集で再度名声を獲得します。妻のポートレイトも雲のシリーズも、写真家の感性が捉えたもので変わりは無いと言う意味で、これを「イクィヴァレンツ(等価)」と称しました。

次々と海中から盛り上がる波頭は、尖端をキラキラと輝かして、突き上げるエネルギーを見せつけます。(写真1)

波頭は砕けて泡となり、深い海の濃い青を淡い白色で消していきます。(写真2)

海面で消えゆく波紋は、最初は太く逞しく、やがて柔らかくまろやかに変わります。(写真3、4)

最後には、波紋は波の網の目のようになって、荒い網の目から細かい網の目になって海面に広がります。(写真5)

これらの写真をスティーグリッツのように等価とは言いませんが、撮影していて飽きなかったことは事実です。
(以上)
【2014/11/18 18:44】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
場所を変えて初島を眺めれば
                      1.熱海:初島-01D 1112qrc
                      写真1
               2.西熱海別荘内-47D 1410 qt
               写真2
                             3.熱海:初島-03D 1410q
                             写真3
               4.熱海の浜-05D 1011q
               写真4
                                5.熱海-02P 94t
                                写真5
                      6.相模湾-02D 1011qrc
                      写真6

初島とは、晴れがましくも新鮮な気分になれる、目出たい名前です。初日の出、初陣(ういじん)、初日、初鰹などすべて目出たい意味で使われます。

ですから初島という名前の島は全国に数多くあると思いましたら、人工島を初島と呼ぶ例が二件あるだけで、自然の島では熱海の沖の初島だけでした。

初島と言えば、歌人としても有名だった鎌倉幕府の将軍、源実朝が「箱根路を わが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」と詠んだ和歌が有名で、古くから美しい島として知られていました。

実朝に倣ったわけではありませんが、たまたま十国峠から熱海峠を経て熱海の町へ向かって下山していたとき、姫の沢公園を過ぎた辺りで、相模湾に浮かぶ初島が見えました。海は凪いでいたので、初島には白い波は寄せていませんで、少し霞んだで見えました。(写真1)

山を下りてくるに従って、最初は木々の合間から見えた初島は、やがて家屋などの人工物が混ざった丘陵の彼方に見えるようになります。源実朝が眺めた初島とは随分違った初島でしたが、それでも初島は初島です。ガス灯や電信柱と組み合わせた初島もおつなものです。(写真2、3)

熱海の港に着いたときは大分太陽が傾き、夕日を浴びた初島は意外に近く見えました。初島には、今はエクシブ初島というリゾート施設が建っていて、その建物は熱海の港からも肉眼で見えます。(写真4)

しかし、やはり初島は人工物が写り込まない方がよろしいです。雲の合間から太陽光線が漏れて、スポットライトを浴びた初島は、余分の人工物が見えなくて、幻想的で素敵でした。(写真5)

熱海港からは初島行きの遊覧船が往復していますが、その先にある大島へも高速艇が就航しています。相模湾に浮かぶ二つの島を一望するには伊豆山からの眺望が良いようです。(写真6)
(以上)
【2014/11/09 19:42】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
クールビズは個性的で格好良く
地球温暖化の所為で世界中で気候の変調が目立っています。気象予報では今夏は平年並の暑さだとの予報を聞いて安心していましたら、今夏も去年並の気温だと云われて、何故かと問いましたら、平年気温が上昇したのだから平年並みというのだと説明されました。

とすれば、地球温暖化の影響で日本は亜熱帯の気候になったと言うことです。そう云えば、この頃の雨期は、しとしと降るタイプの梅雨は姿を消し、しばしば局所的な集中豪雨が襲い、雷は多くなり、強風が襲い、積もるほどの雹が降りました。

日本の夏の気候が亜熱帯になる前から、省エネルギーのため夏の洋服にクールビズと言うスタイルが奨励されています。ネクタイを外し、シャツの一番上のボタンも外し、時には上着も脱いで、はだけたワイシャツ・スタイルで執務するスタイルです。

むかし見た時代物の大河ドラマで、若き織田信長が美濃の国主、斉藤道三の娘を嫁に貰うべく、彼の館を訪ねていく場面でした。暑い頃なのでしょう、裸に近い衣装で馬に跨り、傍若無人な振る舞いで館に近づく信長を物陰から密かに見た道三は、信長はこの程度の男かと軽蔑し、会うなり無礼だと一喝しよう待ちかまえます。

ところが、道三の前に現れた信長は、武士の礼装を身にまとい、礼儀正しく挨拶します。道三は虚を突かれ、信長を改めて見直すという話です。

この逸話は、時と場所に相応しい身なりをすることの重要性を語っています。そこには礼儀もありますが、それ以上に人に接するときの身なりは、当事者の心を顕し、覚悟を表明し、相手もそのように受け取るものだと教えています。

ですから、はだけたワイシャツ・スタイルで執務するスタイルは良くないのです。ワイシャツは西洋人の間では背広の下着ですから、下着姿で人前に出るのは礼儀を失します。ならば、ワイシャツの要らない上着を考案すべきでしょう。日本の夏の和装には、作務衣(さむえ)、甚平(じんべえ)、浴衣(ゆかた)など涼しい着物が色々あります。

これらは湿度の高い日本の気候に合わせて考案された衣類です。これらの衣装は現代では合わないと云うなら、上下のアンサンブルに一工夫加えれば、意外に洒落た和風夏服が誕生するかも知れません。

蒸し暑い夏の気候が一年中続く東南アジアでは、フォーマルの夏服から普段着の夏服まで涼しげな洋服を用意しています。その中には、西洋式の洋服をベースにしながら、伝統的な民族衣装のデザインを施した夏服もあります。嘗てバンコクで国際会議に出席したとき見た、タイ、フィリッピン、インドネシアなどの代表は、夫々の国の伝統衣装を生かした個性ある服装をしていました。

40年ほど前、日本で最初にクールビズが叫ばれて、普及のため当時の通産大臣が着て見せた洋服は、通常の背広の袖を半分切り落としただけの不格好のものでした。その後、改善が進んだとは聞いていません。日本の和装クールビズは未だ現れていないとすると、デザイナーの怠慢です。

和装クールビズに名案がなければ、いっそのこと、熱帯、亜熱帯の国々で使われている夏服を採用してはいかがでしょうか? タイのオフィスでは、写真のような夏服が正装でした。
(以上)


                    チャンタブリ出張-15N 80t
【2014/07/19 11:38】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
猫と犬の飼育は実用に始まり愛玩に終わる
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現在は猫と犬はペットとして飼われていますが、昔は愛玩動物ではなく人間のために有用な仕事をしてくれる動物として飼われていました。

古代エジプトでは倉庫の穀物を鼠から守るため飼われた記録があります。古代エジプトでは猫は豊饒の神様として崇められ、崇拝の対象としての猫の彫像も発掘されています。これもその元を質せば穀類を守る神様だったからです。

また地中海の貿易船では鼠から食料の穀類を守るため必ず猫を乗せていました。日本は猫を中国から持ち込みましたが、その目的は同じく鼠駆除のためでした。最近(戦前)でも生糸を作る養蚕農家では必ず数匹の猫を飼っていました。蚕(かいこ)が鼠に食われないためです。

犬も人間のために有用な仕事をさせる為に飼いました。狩人が獲物を発見し追い出し、射る手伝いをさせました。牧羊では牧場で羊を管理する仕事や、羊を狼から守る役目を与えました。

犬は人になついて飼い主を主人だと認めますが、猫は己が欲するままに振る舞う利己的な性質です。そこで、犬は人に馴染み、猫は家に馴染むと言います。

犬は群れをなす性格なので、人間を仲間と認めて人なつこいのだと言います。猫は単独で行動する動物だから自己中心的に振る舞うのだと言います。その所為で猫が実用的に使える分野は限られていますが、犬はいろいろな分野で広く使えます。現代社会では、狩猟や牧畜だけに限らず、人命救助犬、麻薬捜査犬、盲導犬として人間以上の働きをします。

愛玩用動物として猫が飼われたのは日本が一番早いようです。平安時代には猫がペットとして飼われた記録があるそうです。日本人が動物を人間の友達とみる感覚は、欧米人や中国人よりも早くから発達していたようです。

現代人の家族生活は集団から戸別に向かい、孤立化が進んでいます。そして高齢化は孤独化に繋がります。そのため、心の癒やしを求めてペットを飼う人が増えています。愛玩動物として飼われる猫や犬は、心を癒やすのに欠かせない存在になっています。

心を癒やす働きは、従来の実用の働きと違う、高度な働きです。それは物質的な関係から精神的な関係に変わってきたのです。更に云えば、使う立場と使われる立場であった関係が、対等になったということです。心を通わせて和むことは、人間にも動物にも同じ効用があります。

そうだとすると、犬と猫が実用から愛玩用になったというのは間違いで、犬と猫は人間の友となったと言うべきでしょう。
(以上)
【2014/07/01 16:06】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真展「スピリチュアル・ワールド」を観て
写真展「スピリチュアル・ワールド」の入場券qt

いま東京都写真美術館でコレクション展「スピリチュアル・ワールド」(2014.5.13~7.13)が開催されています。具象を題材にする写真がスピリチュアルな世界をどのように表現できるのかと興味をもって観に行きました。

テーマ別に「神域」「見えないものへ」「不死」「神仏」「婆バクハツ」「王国・沈黙の国+ジャパネスク・禅」「全東洋写真・インド」「デクナメーション」「湯船」の9つに分かれていて、30数人の写真家の作品が展示されています。

社寺の建造物の造形美から精神性に迫る写真、仏像などの信仰対物を直視して信仰そのものに迫る写真、信仰に生きる人々姿や所作から精神生活を写した写真など、多岐にわたる作品183点の大きな写真展です。

冒頭に述べた私の興味の観点からすると、最初のテーマ「神域」の説明文にあった西行の和歌「なにごとの おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という日本人の宗教観を顕す作品に最も強く惹かれました。

この和歌は、僧侶である西行が伊勢神宮を参拝して感じた神聖を素直に詠んだものですが、神を詮索することなく恐れ多いと畏敬の念に浸る心境は、信仰を持つ持たぬにかかわりなく、多くの日本人には容易に理解できるものです。

古来、日本人の感じるスピリチュアル・ワールドは、既成宗教が教える世界とはかなり違うものです。日本人の宗教感覚の性格を最もよく顕しているのは神道と言われていますが、それは具象的でありながら具象にこだわらない抽象性にあります。八百万の神々を信仰することは神の形式にこだわらないと言うことですから。

この宗教の抽象性を、もっぱら具象を取り扱う写真機で如何にとらえるか、その観点から一番先に感心したのは東松照明の「太陽の鉛筆 西表島」(作品31)でした。二艘の沖の小舟に向けて老婆とおぼしき二人の女性が拝むように両手をさしのべている情景です。

古来、日本では人は死ぬとその魂は海の底深くに行くと伝えられていました。ご先祖様は海底に住んでいるとの信仰は、社寺を海辺に、岬に建立する習慣として残っています。二艘の小舟には二人の女たちの漁師の夫たちが乗っているのでしょうが、この写真から小舟にはあの世のご先祖さまが乗っていると理解すると、この写真の精神性を感じるのです。

リアリズム写真家として有名な土門拳は、室生寺の仏像を観て霊性に触れ、古寺巡礼の写真撮影を始めたと言われますが、今回の写真展には仏像の顔を正面から撮った大画面の写真が四枚展示されています。

法隆寺東院夢殿観音菩薩(作品59)は迸る情熱を、中尊寺大日如来(作品60)は慈しむ愛情を、室生寺金堂十一面観音立像(作品61)は深淵なる知恵を、神護寺金堂薬師如来(作品62)は静かな中の強い意志を顕しています。被写体に肉薄する土門拳のカメラで見事に仏像の霊性をとらえています。

二人の高名な写真家、渡辺義雄と石元康博が、伊勢神宮について夫々の角度から全景と部分をとらえた写真を展示しています。伊勢神宮は皇室の氏神であり、同時に日本国全体の鎮守の神社です。西暦6世紀に建立され、爾後20年ごとに建て替えられて今日に至りますが、建造物として造形の美しさはモダンでさえあります。

この写真展では伊勢神宮の外形だけが写されていますが、氏神様を参拝した人は皆ご存じのように、多分、神殿の中には鏡と榊と短冊があるだけで、仏教の寺、キリスト教の教会にあるような飾り立てるものは全くありません。そのシンプルさは外観にも及び、装飾的な造作は出来るだけ削り落としたのが伊勢神宮なのです。神道の抽象性を建造物でも顕しているのです。

まだまだ語りたい作品は数多くありますが、特に印象に残った三点について感想を述べました。
(以上)
【2014/05/15 14:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美しいものを撮ることは写真にとって大事ではない
私達は写真を撮るとき美しい物を美しく撮ろうとしますが、写真評論で有名なスーザン・ソンタグは「美しいものを撮ることは写真にとって必ずしも大事なことではない」と言います。(スーザン・ソンタグ「写真論」)

その一例として、アメリカの写真家エドワード・ウェストンの造形美を求めた写真を例に挙げます。ウェストンは、20世紀に静物写真(貝殻、野菜など)で人々の気付かないフォルムの美を捉えて有名になりましたが、やがて人々の関心は19世紀半ばのフランスの写真家ウジェーヌ・アッジェが撮ったパリの町の平凡な風景写真に心惹かれるようになったと言うのです。

しかし二つの写真を比べてみれば、美はウェストンにあり、アッジェにはありません。にも拘わらず人々の興味は何故ウェストンからアッジェに移っていったのでしょうか?

ソンタグは19世紀に撮った日常的な街角の写真の方が、20世紀に撮った造形美の写真よりも人々の心を捉えるのは何故かという問いには答えず次のように言います。

「カメラは個人色のない、客観的な映像を与えるという仮定は、写真はそこにあるものだけでなく、どの個人が見るかということの証拠であり、ただの記録ではなく、世界の評価であるという事実に道を譲ることになった。」と。

回りくどい表現ですが、要は写真というものは客観的な事物の単なる描写ではなく、写真家の目で評価された事物の表現であるということです。

そうであれば、エドワード・ウェストンが静物の造形美を評価して表現した写真も、ウジェーヌ・アッジェが写真に切り取ったパリの街角の写真も、同等の価値を持つということになります。そこから、美しいか否かは写真にとって本質的なものではないと結論を引き出すのです。

しかし、そこまででは何故ウェストンの美の評価からアッジェの事実の評価へ人々の関心が移って行ったかは未だ説明されていません。

写真だけが持ち、他の芸術が持っていない特性は記録性(ドキュメンタリー)にあります。写真は譬え事物の一面や一部であっても、それを有りのまま記録したという特性があります。この記録性について、ウェストンとアッジェの間には決定的な違いがあります。

ウェストンは自然物を、アッジェは人工物を被写体に選んだところに違いがあるのです。そしてウェストンの自然物は時間の経過により変化するものではありませんでしたが、アッジェの人工物は時間の経過と共に変化するものでした。

木村伊兵衛は、周囲の日常的な情景をさりげなく撮影しながら「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と云ったそうです。 そして東京の街を撮り続けました。ウジェーヌ・アッジェのパリの写真は、五十年、百年後に見ると人々の心を惹き付ける写真なのです。
(以上)
【2013/05/31 19:08】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
感動的と感傷的
             1.原田、青函連絡船-01P S34t
             写真1 青函連絡船の船上で
                            2.バルト海-03Phr
                            写真2 バルト海にて

「君は感傷的だね」と言われると何か馬鹿にされた気持ちになりますが、人の心は半分は感情で支配されていますから、感傷的と言われても怒る必要はありません。逆に時と場合で感傷的になれない人は人格的に欠陥があると言えます。

感傷的になるとき、人は過去に経験した感動を思い起こして、深くそれに没入するのです。感動すると言うとき、その感動には必ずしも過去への回想はありませんが、感傷的というとき必ず過去への想起があります。

ある音楽を聞いて感動して涙すると言う人もいますが、それは希です。しかし、その音楽と結びついた過去の経験が想起されて涙すことがあったと言う人がいれば、そうだろうと思います。今は亡き親しかった人の若い頃の古い写真を見て、感傷的になることがあります。自分が経験した過去の情景の写真を見て何故か感傷的になることもあります。

この写真(写真1)は、若い頃青函連絡船で初めて北海道に渡ったとき黒煙けむる船上で撮ったものですが、その後で北海道で起きた諸々の出来事がこの黒煙から思い出され、胸を突く写真です。単に昔が懐かしいというもの以上の感動がある写真です。 

英国の作家ロレンス・スターンには「センチメンタル・ジャーニー」という紀行文があります。戦前のアメリカ映画に「センチメンタル・ジャーニー」というのがありました。そこでドリス・デイは「センチメンタルジャーニー」を歌いました。いずれも日本語に翻訳すれば感傷的旅行となります。失恋を癒すための旅を指すこともありますが、多くは人生に振り返って噛みしめる旅であり、心の中で我が家へ、故郷へ帰る旅です。、

モーリス・ラヴェルの曲に「優雅で感傷的なワルツ」があります。作曲技法では最も完成度の高い曲ばかり残したラヴェルにしては、珍しく情緒的な、或いは緩みのある曲です。ラヴェルは過去に経験した感動を想起して作曲したものと想像します。曲は感傷的という情緒を十分に表現しています。

それは過去形の写真でなく、現実の映像の世界でも起きます。嘗て見たことのある光景に遭遇して、それに連らなる全ての事柄が一気に胸に去来することもあります。デジャ・ヴ(既視感)は、常に何処か感傷的です。更に輪廻を信じる人々の間では、デジャ・ヴは、この世の出来事ばかりとは限らないと言います。前世で経験したことを、この世で再度見ることもあると言うのです。その時も感傷的になるのでしょう。

話は変わって、女性は感情的、男は理性的と言われることがあります。情緒的感動に動かされ易いのは女性であり、意志とか論理的思考に強いのは男性だからと言うのですが、俄に信じがたいことです。理性的な女性、感情的な男性も沢山います。そうです。男女の別れ話などでは、男性が過去に未練を感じて感傷的になるのに、女性は金銭を含めて現実的になることが多々ありますから。

もう一枚の写真(写真2)は、陽が沈む船上で思いに浸る一組の男女です。どちらが感傷的に写っているでしょうか?
(以上)
【2013/05/22 11:54】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
スチル写真とムーヴィーの違い
嘗て写真は写真師が撮るものでしたが、今や誰でも撮れるものになりました。嘗てムーヴィーは映画監督が撮るものでしたが、今やだれでも撮れるものになりました。それも一台のカメラで二つながらに撮影できる時代になりました。

スチル写真もムーヴィーも「撮る」と言い、両者とも三次元を二次元にして保存することは同じです。しかし両者は全く違う性格のものです。性格の違いは時間に関わります。撮るのにスチル写真は一瞬で終わりますが、ムーヴィーは時間が掛かります。見るのにスチル写真では時間制限はありませんが、ムーヴィーでは編集者が決めた時間に従います。

宗教哲学者、中沢新一氏は動物写真家、岩合光昭氏との対談の中で、「映画と写真を動物の命に対して並べると、映画は遊牧民の精神で、写真はハンターの精神である」と語っています。

更に敷衍して中沢新一氏は「遊牧というのは、物語を発生させていくやり方ですね。一緒に歩きながらやっていく。映画がそうでしよう。物語が必ずそこへ付着してくる。それと比べると、狩猟民は、死を仲立ちにして生き物と渡り合って、ショットによって相手に自分を関係づける」と語っています。

ここでは中沢新一氏は撮影する場合についてだけ語っていますが、観賞する場合にもスチル写真とムーヴィーとは大きな違いがあります。

スチル写真は現実の一瞬しか留めていませんが、それを観賞する人には、その一瞬を好きなだけ観賞する自由があります。それは想像する自由であり、堪能する自由です。しかし、映画には多くの映像が並べられていますが、それを観賞する人には、流れの中で立ち止まる自由はありません。

勿論、映画を観た後でもう一度感動を思い出す自由はあります。しかし、その感動は作り上げられたストーリーの塊に対してであり、映像そのものが喚起する感動ではありません。それに反し、スチル写真は、瞬間を凝固させただけの映像ですが、それを観る人の能動的な働きかけが喚起する感動なのです。
(以上)
【2013/02/04 19:50】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は感情を表す芸術
1.水の陰影-07D 1301q
写真1
2.水の陰影-11D 1301q
写真2
3.水の陰影-13D 1301q
写真3
4.水の陰影-16D 1301q
写真4
5.水の陰影-23D 1301q
写真5
6.水の陰影-26D 1301q
写真6
7.水の陰影-30D 1301q
写真7
8.水の陰影-27D 1301q
写真8

アメリカで近代写真の父と言われたアルフレッド・スティーグリッツは、ヨーロッパで学んだ写真芸術を母国アメリカに持ち帰り、初めは絵画的な写真を撮っていましたが、後にアメリカ的な現実を被写体に選んで有名になりました。(例えば冬の駅馬車)

スティーグリッツが妻のオキーフを被写体として撮った一連の写真が評判となった時、それは被写体の所為(美しい)だと批判されて、それではと、誰もが見慣れている空に浮かぶ雲を被写体に選び、雲の連作を発表して、写真の価値は被写体の所為で決まるものではないことを示しました。

そのスティーグリッツは、写真は思想や感情を表す芸術だと言っています。その意味は、被写体は写真家の芸術する心を刺激するものであり、写真家はそこで生まれた思想や感情を映像として表現するのだと言うことです。

人は環境によって良くも悪くもなる様を、「水は方円の器に従う」水の性質に喩えますが、水の特筆すべき性質は、その変容の柔軟さではなく、光を反映する素晴らしい能力にあります。それは「器に従う」というような受け身の性質ではなく、周辺の風景を積極的に描き出す能力です。そして水面そのものが芸術品に変化する能力です。

写真を撮る人の多くは経験していることですが、撮影に出かけて川や湖沼に出会うと何か心弾む気分になります。それは風景の中で水が最も強くカメラに反応する被写体だからです。

冬の夕陽が落ちて、空に未だ薄明かりが残っている頃、下町を流れる運河の水面は、突然精妙な絵画に変わります。偶々通りすぎた小舟が作り出す波紋は、水面の色に濃淡をつけ、流麗な曲線となって広がります。(写真1、2)

その水面に僅かな風が当たるとさざ波が立ち、その流麗な曲線に波動を刻みます。曲線がメロディであれば、さざ波はリズムです。
(写真3、4)

小舟とそよ風が奏でる水面の音楽の波紋は、次第に滑らかになって、両岸に広がり、やがて暮色の中に消えていきます。
(写真5、6)

そこへ、水鳥二羽が飛び入りしました。光る波紋の筋を通路と見たのか、その波紋のなかを静かに進んできます。やがて流麗な波紋に沿って並んで泳いでいきました。(写真7、8)
(以上)
【2013/01/26 12:37】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真とは一体何者か
写真の本質がドキュメンタリーにあるとしても、ドキュメンタリー写真にも色々な分野があります。

一般的にはドキュメンタリー写真と言えば報道写真のことであり、報道写真とは事件や事故を一般大衆に知らせる写真です。事件や事故ではありませんが、世間に知られていない事柄を発見して世人に知らせる写真も報道写真と言います。

事件や事故を伝える写真は「異常」な状態を伝える写真ですし、未知の世界を紹介する写真も日常的には見られないと言う意味で同じく「異常」な写真です。

「日常的」な情景を撮影した木村伊兵衛やアッジェやアボットは、記念碑的な建造物や祝祭の行事はハレの舞台ということで撮影しませんでした。日常的な情景は絶えず変化して何時かは消え去るものですが、ハレの舞台は容易に変わらないので、記録する価値はないと見たのでしょう。

時間の経過とともに消え去るものを記録に留めることが、写真が写真たる本質だとすると、それだけで写真は芸術たり得るのかとの疑問が湧きます。写真の本質がドキュメンタリーにあるとの主張は、写真の芸術性を弱めるのではないかとの疑問です。

嘗て、写真は絵画や文学や音楽のように芸術ではないと批判され、写真は芸術形式を持っていないと断じられた時代がありました。やはりそうだったのかとの疑問が湧くのです。

しかし、他方では、写真はその他の芸術のような芸術形式は持たないが、彼らが追求する主題を芸術作品に変える特別の機能を持っていると、反論する人もいます。

この写真が持つ特別な機能は、他の全ての芸術を表現し、解説し、統合することが出来ると言う、他の芸術に対して超越した機能なのだと言うのです。と言うことは、写真芸術は、芸術のメタ(超)芸術の地位を占めていると言うのです。

これはある意味で、写真はメディアに変身したと言うことと同じです。メディア論で有名なマーシャル・マクルーハンによれば、メディアは本質的に無内容だそうで、だから今やあらゆる芸術は写真の条件に憧れるのだそうです。

何か狐につままれたような結論になってしまいましたが、これが写真の正体なのです。
(以上) 
 
【2012/11/06 13:30】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真が過去と結びつく理由
高齢者になって社会から身を退いて暇になると、学校や職場の昔の友人や仲間と会う機会が増えます。会合の最後に、記念に集合写真を撮ることがあります。みな素直に仲間と並んで写されますが、中には今更この年齢で写真なんか要らないと冗談に言う人がいますが、これは本音です。

先行き短い者に現在の記録を残しても、それに関心をもつ者はいずれ消えていきますので、その写真を見る人も居なくなりますから、同窓会や OB 会の写真は要らないというのは本音なのです。

それに対して、若い頃、仲間と一緒に撮った写真は、懐かしく捨てがたいものです。自分が写った写真でも、若ければ若い時の写真ほど思い入れは強くなります。写真は古いものほど貴重なのです。

古い写真に不思議な魅力を感じるのは人物写真だけではありません。自分が嘗て住んでいた所や屡々訪れた所を写した写真を見ると、当時のその場所にまつわる記憶が戻ってきて、言葉だけでは伝わらない不思議な感情が蘇ってきます。

この写真の働きを、スーザン・ソンタグは「写真論」で次のように述べています。
「写真の発揮する魅力は死の形見であるが、同様にそれはまた感傷への招待でもある。写真は過去を優しい眼差しの対象に変え、過ぎ去った時間を眺める普遍化した哀愁によって道徳的差別をごちゃまぜにし、歴史的判断を取り去るのである。」

絵画でも文学でも音楽でも芸術というものは、時代を予見したり予言したりして、将来を先取りするものですが、スーザン・ソンタグによれば、写真は「現在を過去にする」のであり、「写真に撮られたものは、その時から過去に向かって去って行く」と言うのです。

写真が過去と結びつくことを違った言葉で語った写真家に木村伊兵衛がいます。木村伊兵衛は近代日本写真界のパイオニアと言われた人ですが、周囲の日常的な情景をさりげなく撮影して「五十年、百年後に見られるような写真を撮りたい」と言っていたそうです。

木村伊兵衛の弟子の田沼武能氏(現在、日本写真家協会会長)は「木村の写真は年を経るに従い写真が語る度合いが強い」と述べていましたが、これも写真が過去と結びつくことの重要性を指摘した言葉です。

スーザン・ソンタグは「写真論」でアメリカの写真の歴史の変化を次のように述べています。
「(写真家)ウェストンの映像はいかに見事な、いかに美しいものであろうとも、多くの人びとにとっては興味が薄れてきた一方で、たとえば十九世紀半ばのイギリスとフランスの素朴な写真家やアツジェが(パリの街を)撮ったものはますます心をとらえるようになる。」

ウエストンやカルチエ・ブレッソンは写真に形態や構図の美を見出しましたが、「変わりゆくニューヨーク」を撮影したベレニス・アボットは、ニューヨークがすっかり変ってしまう前に記録しておきたかったと、淡々とニューヨークの街を撮影しました。ここには、木村伊兵衛が平凡な日常風景に意味を見出そうとしたことと共通の意識があります。

写真が過去と結びつく最大の理由は、やはり写真の本質がドキュメンタリーにあるのだと理解しました。
(以上)
【2012/10/30 22:49】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
静止画と動画の違い
今までは動画(movie)は映画として専ら職業的専門家が取り扱うものでしたが、コンパクトカメラに動画機能が付くと、素人でも簡単に動画を撮ることが出来るようになりました。ネット上で動画サイトの YouTube の人気が高いのは、静止画(still)と較べて動画の方が説明能力に優れているからです。

しかし、宗教哲学者の中沢新一氏は、映画(movie)は遊牧民の精神であるが、写真(still)は狩猟民の精神であると言い、スチル写真の優れた点を指摘しました。この喩え話は動画と静止画の違いを巧みに捉えた表現です。

ここで重要な指摘は、静止画の撮影を狩人の射撃に喩えた点です。狩人は生きている動物の生命の流れをを止めるように、写真家は被写体に流れる時間を止めるのです。このことを評論家スーザン・ソンタク氏は次のような表現で述べています。

「写真を撮る行為には何か略奪的なものがある。・・・ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲し気でおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。」(「写真論」)

中沢新一氏は、動物写真家の岩合光昭氏との対談で次のように云い、静止画は動画よりも濃い内容を持つと考えています。
「狩猟民は、死を仲立ちにして生き物と渡り合って、ショットによって相手に自分を関係づける。・・・カメラマンは、動物を殺しましませんけど、動いていくものを瞬間的にカシャッととめていく。」

このことをソンタグに云わせれば、「写真は時間の明解な薄片であって流れではないから、動く映像よりは記憶に留められるといえよう。」となります。動画は撮影後もなお動き続けているイメージですが、静止画は撮影後は死の形見となります。それは狩人にとって、獲物が格闘の結果の形見であるのと同じです。

これが静止画と動画とを根本的に違いなのです。
(以上)
【2012/09/21 13:53】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
美は発見されて美と分かる
1.写真-01D 1208qr
写真1 自宅の居間に飾ってあるアンセル・アダムスのヨセミテの写真
2.美瑛-09P 99t
写真2 美瑛の農村風景 人工的ではあるが自然と調和している風景です。

身辺に美は沢山あるのですが、人が発見するまで隠れているのです。発見した人が此処が美しいですねと言うと、それまで気づかなかった人も初めて美の存在を知るのです。

ヨセミテ渓谷の美を世界に知らせたのは写真家アンセル・アダムスだと云われています。アンセル・アダムスは、滅多に人の立ち入らなかったヨセミテ渓谷の、奥深いところに潜む山容、湖沼、原生林、谷川、雲の流れを見事な構図で精緻に捉えた写真を数多く発表しています。(写真1)

北海道の富良野と美瑛の広大な田畑が美しいことを人々に知らせたのは写真家前田真三です。アンセル・アダムスは深い山岳の自然の風景でしたが、前田真三の写真は、誰もが見慣れた人々の住む農村風景でした。しかし前田真三は、その農村風景には、耕された農地と防雪林が織りなす曲線美があることを人々に悟らせました。
(写真2)

写真芸術にも詳しい宗教学者の中沢新一氏は、嘗てテレビで次のようなことを語っていました。
「西洋哲学では、隠されたものを露わに暴き出すことが真理探究であると考えている。だから、西洋絵画では女も裸、キリストも裸で描かれるが、それは真理を求める発想から出ている。であるから、絵画で裸を描くことが芸術となり、写真もヌードを撮ることが芸術となる。」

「しかし、日本の写真術には、隠れているものを露わに暴く(真理探究する)という発想はない。日本の写真家は、(絵画でも同じだが)自然の奥深く隠れているものを、技芸で外部の眼に見える世界に引き出したり引き上げたりすることが芸術のテーマである。即ち、魚を釣り上げるように、見えない獲物を職人技で巧みに引っかけるのが写真芸術である。」

アンセル・アダムスと前田真三の写真を見て、中沢新一氏の云う意味を理解した次第です。
(以上) 
 
【2012/08/23 10:33】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
現代美術の工芸的展開
1.蜃気楼-02D 1207q
写真1
2.蜃気楼-04D 1207q
写真2
3.構造-04D 1207q
写真3
4.構造-02D 1207q
写真4
美術品と云えば絵画と彫刻ですが、柳宗悦に会って民芸運動に入った河井寛次郎は、暮らしの中の「用」の美に魅せられて、実用の工芸品をも芸術としました。そして、美術品は美を追いかける世界だが、工芸品は美に追いかけられる世界だと云いました。

確かに家具や装飾品はあくまでも実用が前提になっていて、出来上がった作品が鑑賞に値するから芸術品として扱われるのです。河井寛次郎はそのことを「美に追いかけられる」と云ったのです。

現代芸術でも工芸的手法を駆使する分野があります。と言うよりも従来の二次元の絵画や三次元の彫刻では表現できない世界を、工芸的手法を用いて追求する芸術があります。ここでは、美に追いかけられているのではなく、あくまで美を追いかけています。

このような回りくどいことを云いましたのは、最近、東京六本木にある小さなギャラリー MoMo で、早川克己氏という新進気鋭の芸術家による、日本では珍しい工芸的芸術作品展を観て思いついたことです。

ギャラリー MoMo での作品展「PHASE Ⅲ -構造と形態- 」(2012.7.5~8.4)は、紙という素材を用いて、近代都市の高層ビル群を連想させる構造物を中空に漂うように展示していました。構造物は糸で吊されて、絶えず僅かに揺れています。それは恰も、世界に建設される大都市がいかにも頼りないものであるかを暗示しています。
(写真1、2は「蜃気楼」と題した作品を正面と斜め上から撮影したものです。)

展示場にある作品は、すべてに僅かな印字がある白い紙だけで制作された作品です。部屋の壁から離さて宙づりになった作品二点は、一部に水色と黄色の色彩が施されています。それらは無数の微細な立方体が横に繋がる空間であり、空虚な繰り返しに過ぎず、中身のないまま図体だけは巨大化していく、現代社会を批判しているようです。(写真3、4)

早川克己氏は若くしてアメリカに渡り、既にニューヨークとヒューストンで個展を開催するなど、国際的な活動をしております。今年9月にはオランダ、ハーグで開催される「ペーパーワークスビエンナーレ2012」への参加が決まっています。

ギャラリー MoMo に展示されていた、これらの作品(写真)も、そこに出展されるとのことでした。
(以上)
【2012/08/07 16:04】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真で心象風景を撮れるか
                    ガラスの汚れ-04D 1201q

カルティエ・ブレッソンは、絵画は瞑想であり、写真は射撃であると言いました。決定的瞬間を重要視した写真家、ブレッソンには、写真家の作業が被写体を射撃するようなのに、画家の作業は、対象物を熟視して想像力を働かせて感動をキャンバスに再構成すると見たのです。

画家は屡々心象風景を描きますが、心象風景は心の中に思い描いたり、浮かんだりする風景です。多くは現実の風景から触発された風景です。画家にとっては事実をありのまま描く写生よりも、心に浮かぶ映像を描く方が自然であり、更に自由があります。

一方、写真家の方は心のイメージを描写しようとしても、なかなかイメージ通りには写真は撮れません。写真は否応なく事実を写し取りますから、却って不自由なものです。写真家が画家のようにイメージ写真を撮ろうとすれば、画家とは逆に、心のイメージに限りなく近い対象物を発見することから仕事を始めなければなりません。

抽象画家のカンディンスキーやパウル・クレーなどは、具象物から触発された心象画ではなく、抽象物から触発された心象画、音楽的絵画を描いています。写真で音楽会を撮影する事は出来ても、音楽そのものを写すのは不可能です。

ここに掲げた写真は、強い潮風が船の窓に海水を吹き付けて描いた紋様です。背景は島影と空です。この単純化された背景に、塩水が粒となり線となって痕跡を残しています。単調な紋様が限りなく続く船の窓です。この船窓の水滴のリズムは音楽で言えばエリック・サティのそれに似ています。

悪天候の中を行く船の一室で、同一音形を繰り返すサティの「ジムノペディ」を聴いている気分になりました。
(以上)
【2012/07/09 21:03】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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