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晩秋に自然が残る飛鳥山公園に遊ぶ
1.飛鳥山公園-07D 2211q
写真1

2。飛鳥山公園-10D 2211q
写真2

4.飛鳥山公園-15D 2211q
写真3

5.飛鳥山公園-18D 2211qc
写真4

飛鳥山公園は江戸時代に桜見物の名所として開発されたところで、今でも上野と隅田川の桜と並んで東京の三大桜見物の名所です。

飛鳥山と言いますから人は都内に山があったのかと思いますが、ここは武蔵野台地の北東端に位置し、隅田川、荒川が流れる東京低地との境界線ですが、東京低地から見ると小山のよう高く見えるので飛鳥山と呼ばれたのです。

今は樹木が茂っていて公園から東京低地の眺望はよくありませんが、徳川吉宗が江戸町民の行楽の場所として桜を植えた頃は、江戸の高台として眺望の良い花見の場所だったことでしょう。明治の実業家渋沢栄一が飛鳥山に別荘を設けたのも、その地勢の良さからだったからでしょう。

飛鳥山公園内には桜を始め種々の樹木が植えられていて、その林の中を起伏のある変化に富んだ散歩道が循環しています。桜の咲く頃は、多くの花見客が桜の林の中にシーツを敷いて宴会を開いていますが、木の葉が落ちた晩秋には、公園内は都内とは思えない自然の静けさが支配します。
(1、2、3、4)

都内には大名屋敷跡を日本庭園として公開して場所が幾つかありますが、人工的に誂えた庭園よりも、都内に居て四季を通じて自然を感じさせる公園は飛鳥山以外には余り見る事はありません。自然が残る飛鳥山公園に遊んでみませんか。
以上


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【2023/11/29 20:27】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
花街だったところに旨い物屋が多い
1.根津二丁目:はん亭-06D 1906qtc
写真1 根津のはん亭

2.土手通り:天麩羅、桜肉の老舗-02D 1104qr
写真2 土手通りの天麩羅屋と桜鍋屋料理屋

3.渋谷円山町-86D 1706qt
写真3 渋谷円山町の料理屋

東京で花街だったところには今でも旨い物屋が多いそうです。昔の花街は三業地と言いいまして芸者屋と待合と割烹料理屋が軒を連ねていたたところでしたから、高級割烹料理屋の名残りがあるためでしょう。

浅草、新橋、人形町には江戸時代から花街がありましたが、震災、戦災で焼かれたこともあり、往時の名残りは見つかりませんが、戦災に遭わなかった根津や湯島などに古風な料理屋が残っています。

根津の裏通りを歩いていたら木造三階だけの料理屋がありました。今では串揚げ専門店として有名な「はん亭」ですが、これも根津遊郭の近くの割烹料理屋の名残でしょう。一葉記念館を訪れた後、足を伸ばして土手通りを行くと古い木造の天麩羅屋と桜鍋屋料理屋が並んで建っていました。ここは吉原大門の近くですから花街近くの旨い物屋の名残でしょう。いずれも戦災を免れた古い木造の建物なので花街の名残りを感じさせます。
(写真1、2)

江戸時代に大山街道の休憩所だった道玄坂上の円山町には130年ほど前から花街があり、大正時代には賑やかな三業地だったそうです。渋谷の円山町は今ではラブホテルが集積する地域ですが、三業地名残りの高級料理屋が未だ一、二軒営業しています。
(写真3)

都内に続々と起ち上がる超高層ビルには、都市景観を楽しみながら食事できる高級レストランが数多く出店していますが、昔の花街近くで、下町に残る江戸の郷愁を感じさせる古風な木造の料亭や食事処で静かに食事を楽しむのもよいものでしょう。
以上


【2023/11/20 11:57】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
今年のハチ公広場はハロウィン禁止で静かだった
1.渋谷駅前:ハチ公像-05D 1604qt
写真1

2.渋谷スクランブル交差点:ハチ公広場ハロイン禁止-03D 2310qt
写真2

JR渋谷駅北口にある駅前広場のハチ公広場は待ち合わせ場所として有名で、一年中;人が大勢集まっているところです。外国人観光客にも人気があり、ハチ公銅像を背景に写真を撮っている姿をよく見かけます。そして、毎年のハロウィンの時は夜中まで仮装姿の若者であふれる処でした。
(写真1)

ところが、今年のハロウィンの時期にハチ公銅像のあるハチ公広場は封鎖されて、白い天幕で覆われてしまいました。嘗てハロウィン祭りに集まった群衆が暴徒化して、町の秩序を破壊したことに懲りて、渋谷区役所が予防措置を執ったのです。
(写真2)

当日は、有名なスクランブル交差点に通じる通路は一方交通を強制して立ち止まることを禁止しました。毎年7月末に開催される両国花火大会の日は、橋を一方通行させて、立ち止まりを禁じていますが、その手法を採用したのです。今年の渋谷のハロウィンは静かに整然と打ち過ぎました。

これを寂しいことと思う人も居ますが、キリスト教国でもこのハロウィン祭りは必ずしも歓迎される祭りではないのです。況してキリスト教国でない日本人でその意味や由来を知っている人は殆どいない筈です。

中世にゲルマン族が進出する前にヨーロッパに住んでいたケルト人の宗教は、自然界の精霊の存在を信じた自然崇拝の信仰でして、ケルト族がキリスト教化された時、ケルトが崇拝した精霊達はキリスト教の神々の下に位置づけられて生き延びました。しかしその姿は妖怪でした。キリスト教の世界からも正当視されない、このハロウィンの祭りを日本で規制されても嘆く事はないのです。
以上
【2023/11/09 17:53】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本庭園の飛び石の魅力
1.とうふ屋うかい-07D 1204q
写真1

2.清澄庭園:庭石-05D 2305qc
写真2

3.清澄庭園:磯渡り-21D 2305q
写真3

日本庭園では庭園の構造は主屋から眺めた景色を楽しむように造られますが、同時に庭園内を散策しながら変化する景色を楽しむようにも造られます。造園の難しさから言うと、眺める視点が固定しているより動く散策の際に眺める風景を造る方が難しいでしょう。

その場合、回遊式庭園では築山と池を巡る庭園内を散策する道の配置が最も重要となり、更に散策路の途中に橋を架けたり飛び石を敷いて、散策に変化を付ける工夫を凝らします。橋上では周囲を見渡す機会を造り、飛び石を渡るときに視角の異なる風景の造形美を発見する機会を造ります。

ここでは、日本庭園美で見落しがちな散策路での飛び石について観察してみます。
一般に飛び石とは、表面の平らな石を人の歩幅に合わせて少しずつ離して据えたものですが、飛び石は、もともとは茶の湯で来客を玄関や茶室に誘導する通路として据えられたのが始まりと云われます。
(写真1)

その後、飛び石が日本庭園の散策路の一部に採用されると、飛び石を伝い歩いて色々な角度から庭を観賞するための誘導路になりました。と同時に飛び石は庭の芝や苔を踏まないためにもなりますし、雨の日には散策者の足元を泥から守る役割も果たします。
(写真2)

造園家は、飛び石が目障りにならないよう配置しますが、更に進んで飛び石が庭の景観に溶け込むように配置し、庭が美し見えるよう工夫します。そうなると飛び石は庭石の一部になるのです。その典型的なケースが池の中に置かれた飛び石です。
(写真3)
(以上)

【2023/10/31 18:09】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
老人の喜びは語り合い
1.六郷町の老婆-01P 97qt
写真1 秋田県の農村にて

2.老人-04P 88q
写真2 香川県の高松城にて

何時の頃からか老人を高齢者と呼ぶようになりました。名前を変えても老人は老人であり、年老いた人々のことです。老人という言葉が嫌われたのは、老人ボケと言うようにボケと結びついているからでしょう。

荘子には「寿(いのちながければ)辱め多し」と書いてあるますが、西鶴は老いれば恥多しと同じ事を言いました。更に、徒然草で兼好法師は「四十路にならぬほどにて死ぬのが程よい」とまで言いました。古人は、それ程までにボケを嫌ったのです。ボケが何故嫌われるか言うと、他人に迷惑をかけながら迷惑をかけたことが分からなくなるからです。

その意味では、若者にも壮者にもボケた人は結構います。ボケは他人に迷惑を掛けるだけでなく、ボケた人には人生の喜びが分からないから、本人も不幸なのです。ボケても自分は幸せだと思う人は単なる独りよがりなのです。

幸せな生活とは、生きている毎日に喜びを感じられる生活です。仕事をしている人は仕事をする中で喜びを発見しますし、仕事から引退した人は、趣味や社会奉仕に励んで喜びを発見します。

仕事や趣味や社会奉仕を離れても、人々は友達や知合いと語り合い、自分の経験を分かち合い、互いに勇気づけ、慰め合うことで喜びを感じることができます。人生経験の豊かな老人は、互いに語り合うことによって、これまでの経験を分かち合えるのです。

元気で働いていたときも趣味に打ち込んでいたときも喜びはありましたが、年老いて親しい友や知人と語り合うことは、他人の体験や考えを共有できる良い機会であり、一人では到底達成できない、もう一つの人生を生きることになります。

二枚の写真は、第一は秋田県の農村で、第二は香川県の高松城で見かけた情景です。楽しい会話が聞こえてくるようです。
(以上)
【2023/10/21 13:49】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
隅田川が東京の下水道だった頃
2.隅田川:ゴミ廃棄船-11P 02hqt
写真1 東京湾に汚泥を捨てて隅田川に戻り遡上する船

3.隅田川:ゴミ廃棄船-10P 02q
写真2 廃棄船に満載の汚泥

大正時代に洪水防止のため荒川排水路(今の荒川下流)が開削される前までは、隅田川は荒川の下流でもありましたから、江戸時代に大川と呼ばれた隅田川は水量も豊かであり、きれいな水が流れていました。

歌舞伎の一場面で、早春の隅田川では小舟が漁り火を焚いて白魚漁をする情景が演じられていますが、白魚は清流にしか棲まない小魚ですから、当時の隅田川は川底も見えるほど澄んだ川だったのです。

昭和時代になりますと隅田川上流地域に大規模な化学工場などが進出し町工場も増加して、戦前には既に隅田川はどぶ川のように汚れてしまいます。永井荷風の「墨東奇譚」や吉行淳之介の「原色の街」は、いずれも隅田川の東岸の花街を舞台にした小説ですが、それらの小説の中で描かれた戦前の隅田川の水は既に醜悪そのものになっています。

東京大空襲で東京が廃墟になった一時期は工場の活動が止まったこともあって、隅田川は昔の清流に戻りましたが、戦後に工場も復活し人口集中が進むと、再び工業汚水と生活排水で隅田川の水質は悪くなります。

隅田川の流れは墨汁のように黒くなって「墨だ川」と揶揄される程に汚れ、隅田川の水の臭気は両岸一帯の町中にまで広がりました。そのような隅田川には、汚泥海洋投棄の作業船が隅田川を行き来していた時代が暫く続き、まさに隅田川そのものが東京の下水道になっていたのです。
(写真1、2)

しかし、昭和45年(1970)公害対策基本法が制定されて工業汚水や生活排水の排出規制が強化されて以降、隅田川の汚染状況は徐々に改善され、平成の頃(2000年の頃)には隅田川の水も年々綺麗になっていき、上流から中流の墨田川の岸辺で釣り人が隅田川に糸を垂れている光景が見られるようになりました。今では浅草の乗船場から浜離宮やお台場の間を遊覧船や屋形船が頻繁に往来しています。
(以上)



【2023/10/11 17:07】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
農村の畑には人知れず描かれたランド・アートがある
1.畑-24P 89
写真1

2.  畑-03P 95
写真2

3.畑-16P 85qr
写真3

4.畑-13P 90qt
写真4

5.畑-14P 90q
写真5

6.畑-04P 95q
写真6

7.畑-19P 92qt
写真7

8.畑-20P 93q
写真8

畑は畠とも書きますが、両方とも意味も読み方も同じで、水田以外の農地を意味します。しかし、元々は「畑」は火で焼いた焼畑を意味し、「畠」は水のない白田と書いて焼き畑以外の農地を指しました。

畑や畠には畝(うね)があります。蒔いた種や芽を風による被害から守るのが畝の役目です。同時に、畝は作物の種類を区分して、農作業をし易くする整理整頓箱の役目を果たします。
(写真1)

その整理整頓箱の姿は、作物の成長に応じて変化します。蒔かれた種は芽生えると、その列は畝の線に沿って、ある時は真っ直ぐに、ある時はうねりながら延びています。
(写真2、3)

近頃は作物の発芽を促すために、ビニール・シートを被せる畝もありますが、透明の光を反射するビニール・シートの畑と、暗いビニール・シートの畑では、同じ農地でも、その全風景は様変わりします。
(写真4、5)

離れた場所から広がる畑を見渡すとビニール畑も色々です。畝全体をビニール・シートですっぽり被せた畝あり、ビニールの衣装を破って芽を出す畝あり、縁取り縫いのステッチのある衣装を纏うお洒落な畝もあります。
(写真6,7、8)

ランド・アートはナスカの地上絵だけではありません。零細農業の多い日本の農地には、無数のランド・アートが、誰にも観賞されること無く、描かれては消えていきます。地球を彫刻の素材とすることを提案していたイサム。ノグチがこの日本農村のランド・アートを見たらなんと言うでしょう。
(以上)


【2023/09/30 13:57】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人が木目を美しいと感じるわけ
1.木目-06Phq
写真1

2.木目-02Pq
写真2

3.木目の紋様-03D 0804q
写真3

日本建築では木材を主要な資材として使います。床も壁も天井も柱も木材です。日本家屋の室内に入ったとき人は木の暖かさを感じるといいますが、同時に木の美しさもにも気付くはずです。

古来、日本建築家は木材の木目(もくめ)の美しさに気付いていて、床や壁や天井や柱に現れる木目を室内装飾の重要な要素と考えていました。床や壁や天井の木目を揃えてその全面が美しく調和するように配置するのが普通でしたし、柱に木材の筋や瘤をあしらって室内装飾にアクセントを付けました。

木材の断面に現れる美しい木目はどうして産まれるのでしょうか?
そのメカニズムを米国の教育哲学者ジョン・デューイは著書「経験としての芸術」の中で次のように答えます。
自然界には本来的に「律動(リズム)」があり、生きるものの美しさは、その自然の律動が創り出すもので、生命のあるものは、動物でも植物でも皆美しい形を持っていると。

そして、この自然の美しさは、その外形に止まらず内面の構造に及びます。規則正しい幅をもつ木目だけでなく、幅が徐々に広がる木目、直線でなく曲線の木目、複雑に湾曲する木目などは、夏は大きく冬は小さく成長する樹木の成長の変化が産み出したものなのです。
(写真1、2、3)

自然が産み出した木目の精妙な紋様の絵柄は、人工の加工技術の及ぶところではありません。
(以上)
【2023/09/20 20:40】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
波のリズムは繊細で複雑
1.冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 qc
写真1

2.浜の模様-01D 0909q
写真2

3.浜の模様-02D 0909q
写真3

葛飾北斎の冨嶽三十六景の中の一枚、「神奈川沖浪裏」の描写をよく見ると、大波の裏側の先端には大波と相似形の小波が沢山描かれていますが、これは北斎の自然観察眼が精緻であることを示しているのです。
(写真1)

波は風が作った水のリズムの形ですが、それは波の外面だけではなく、内面にも生じており、しかも波の内外に関わりなく同じ形なので、そこに自己相似形が形成されていることを北斎は見抜いたのです。

戦後に数学者ブノワ・マンデルブロはフラクタル幾何学を考案しましたが、彼はそのフラクタル幾何学で、図形の全体とその部分とが自己相似形になっていることに着目して、単純に見えるものの内部に実は複雑さを抱えているのだが、それは同時に複雑に見えるものの本質は実は単純であるのだと説きました。北斎は江戸時代に既にフラクタル幾何学の手法で大波の実態を描いて見せたとも云えます。

海の入江の静かな浜辺を歩いていると、潮の退いた砂浜の上に細かな波の紋様を見ることがあります。それは、静かに寄せては返す細波(さざなみ)のリズムの足跡です。足跡の一つ一つは似た形ですが、よく観察すると微妙な変化を伴った足跡です。

寄せる波も返す波も、浅瀬になると浜の底からの反動で波形が変わり一律ではなくなります。その波の力が浜の底の砂や土を押上げたり削ったりします。潮が退いた後に砂浜に残る軌跡は、細波(さざなみ)の複雑な運動の足跡なのです。

米国のプラグマティズム哲学者ジョン・デュウイーはその著書「経験としての芸術」で美的秩序を次のように説明しています。
「律動(rhythm)は常に変差(variation)を伴っている。なぜなら律動とは力(energy)が秩序立った変差を以って現われたものだからである。この変差は秩序と同様に重要であるばかりでなく、美的秩序に必ず件う不可欠の要素である。秩序が維持されている眼り、変差が大きければ大きいほどその結果は面白い」と。

写真2と3は東京湾の内奥の葛西海浜公園で見つけた海砂の紋様です。波の律動は微妙な変化を伴いながらも足跡に秩序を維持しています。しかし、場所によっては細波の律動が足跡の形を大きく変えることもあります。ジョン・デュウイーが言うようにリズムが維持される限り大きな変化も面白いものです。
(写真2、3)

葛飾北斎が見た波の律動は複雑で力強いものですが、浜の細波の律動は複雑で繊細です。北斎は動いている水の状態で見届けましたが、私は砂浜にプリントされた状態で、それを発見しました。
(以上)
【2023/09/09 14:02】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
鯨のような横浜大桟橋は異次元空間でいっぱい
1.横浜大桟橋-06D 1201q
写真1 巨大な鯨が横たわった形の横浜大桟橋

2.横浜大桟橋:飛鳥Ⅱ-06D 1408q
写真2 豪華客船に負けない巨大鯨の背中

3.横浜大桟橋:飛鳥Ⅱ-04D 1408q
写真3 横浜大桟橋の出入り口

4.横浜大桟橋:構造-07D 05
写真4 見慣れない奇妙な形の階段

5.大桟橋-04N 04qc
写真5 歩いていると大桟橋が揺れているように感ずる屋上の うねるようなウッドデッキ

横浜港は神戸港と共に東西日本を代表する国際貿易港ですが、クルーズ客船の発着港としては日本を代表する港です。そして、世界を周航する豪華客船が停泊する横浜大桟橋を訪れた人は、その形態が極めて独特なのに驚かされます。その内部は幾何学模様の階段と緩やかで広いスロープで満ちているからです。

長大な客船が横付けできるだけで良いのなら、桟橋は細長い平坦な堤防のような形で良いのですが、横浜大桟橋の全体像は、中央が高く盛り上がっていて、巨大な鯨が横たわったような形をしているのです。大桟橋への進入路は床が2階まで隆起し、床面の一部は屋上にまでつながっています。
(写真1、2)

客船専用の国際港ですから、横浜大桟橋では出入国する船客のために税関、検疫などの諸手続を行うスペースが必要であり、また多数の歓送迎者を受け入れるスペースが必要です。これらのスペースを横浜大桟橋内に効率よく設置する斬新な設計が施され結果、巨大な鯨が横たわる大桟橋になったのです。

大型客船が到着するとき出帆するとき、船に出入りする人も大勢ですし、外部から来る乗用車と送迎者も大勢です。大桟橋では大勢の乗船客と歓送迎客の流れを1階2階の上下に分けて回転するように桟橋内の通路が設計されています。
(写真3)

そのため横浜大桟橋内の構造の多くが、階段とスロープを巧みに組み合わせた形になっており、その結果、多くの階段はよじれた形の斜面となり、見慣れない奇妙な姿になっています。ですから階段を歩くとき不安を感じますが、これを思わぬ造形美と見る人もいます。
(写真4)

屋上に上がると、うねるようなウッドデッキと、ねじれる階段が組み合わされて、歩いていると横浜大桟橋全体が揺れているかのような感覚に見舞われます。
(写真5)

このような構造を専門語ではトポロジカル構造と云うのだそうですが、その学問は日本語で位相幾何学と言い、紀元前からあるユークリッド幾何学とは異なる、「やわらかい幾何学」として知られいます。成る程やわらかい空間は、桟橋内部でも屋上に上がっても、とらえ所の無いものと知りました。
(以上)

【2023/08/26 10:05】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
鎌倉の寺の境内で見た晩夏の花
1.桔梗-02Pq
キキョウ

2.のうぜん蔓-05Pqc
ノウゼンカズラ

雨上がりの鎌倉の寺の境内には
旧盆なのに人影はない

一人参道を進むと
花壇にキキョウの花が咲いていた

もう、秋は近いかと頭上を見上げたら
ノウゼンカズラの花がが揺らいでいた

キキョウは紫色で涼しげに
ノウゼンカズラは橙色で燃えるよう

キキョウは秋が相応しい
ノウゼンカズラは夏の盛りが相応しい

と感じるのは人間だけ
それぞれの花の盛りは夏から秋という

暑さで空気までが動かない鎌倉の寺
花は晩夏を謳歌する

以上

【2023/08/16 14:39】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
海浜都市、お台場の今と昔
1.お台場:オフィスビル群-13D 1905qtc
写真1 建ち並ぶオフィスビル街

2.お台場公園から見た海浜公園-02D 1206q
写真2 エンターテイメント施設のあるお台場海浜公園

3.お台場:海浜公園-72D 2211qc
写真3 お台場:海浜公園の砂浜

4.埋立地-02PAq
写真4 開発前のお台場 ススキの広がる荒れ地だった。

5.海辺-16P 96q
写真5 自然のままのお台場の砂浜

6.ウインドサーフィン-09P 87q
写真6 強い海風を受けて疾走するウインドウ・サーファー

東京で下町と言われる地域の殆どは、東京湾を埋め立てて拡大してきたところです。ですから昔から下町には絶えず東京湾からの潮風が流れ込んでいました。しかも東京湾は内海ですから海風は穏やかであり、戦前の東京の下町は、温暖で湿潤な住みよい環境の町だったのです。

しかし、戦後になると下町の海浜は、臨海工業地帯となったり、都市ゴミの捨場となったりして、海水浴や潮干狩りが出来た海辺は消えていきます。更に東京集中が始まり下町の臨海地帯にも高層ビルが建ち並ぶようになると、心地よい東京湾からの潮風は遮られて下町に入らなくなり、戦前にあった海の薫りは下町から消え去りました。

他方、東京の一極集中が進んだ結果、都心部では都市過密の弊害が生じてきました。そこで、都心部の都市機能を移転させる新しい場所として目を付けられたのが海浜部に存在するお台場でした。都心部に溢れる都市機能の一部を海辺に移転させようという計画です。

お台場は、その名の通り砲台を設置するため海中に造られた土塁です。開国を迫る欧米諸国の軍艦が江戸湾に侵入するのを防ぐため江戸幕府が築いた土塁です。ですから、ここは、海に突き出た離れ島で、海の光と風に満ちた自然の溢れる場所でした。

そのお台場の一つを核として埋立造成したのが現在のお台場新都市です。いま仕事やレジャーでお台場を訪れる人々は、広いお台場全域にわたって、オフィスビル街が建ち並び、各種の研究機関が進出し、エンターテイメント施設が配置され、素晴らしい近代都市が誕生したのを眺めることが出来ます。すっかり都市化したお台場の海は、波しずかで海風も穏やかな池のように静かです。
(写真1、2、3)

しかし、ここに海浜都市は建設される前のお台場は、遙かに野趣に富んだ海岸でした。遠くまですすき野原が広がり、遠くの対岸には荷揚げクレーンが並び、砂浜の海岸線は自然の儘に湾曲し、沖から強い海風が吹き込んで海面は波立ち、その海風を受けて疾走するウインドウ・サーファーを見ることができました。酷暑の最中に、爽やかで涼しかった昔のお台場風景を思い出しました。
(写真4、5、6)
(以上)

【2023/08/05 15:25】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
華奢な立葵(タチアオイ)は真夏の太陽を迎える花
1.たち葵-02PAqr

2.タチアオイ-01D 1306q

3.タチアオイ-03D 1306q

梅雨に入ると紫陽花とともに咲き始め
梅雨が終わっても咲き続ける立葵の花

すらりと伸びた一本の長い茎に
下から上へと大きな花弁を次々と開く立葵

紫陽花は日蔭で淑やかに咲くが
立葵は陽を浴びて背伸びして胸張って咲く

向日葵の花は太陽を追うという
立葵の葉は太陽を追うという

立葵の花が盛りを迎える頃
いよいよ夏の太陽の季節がやってくる。

以上
【2023/07/27 13:40】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東京の僻地を走る舎人ライナーに乗ってみませんか
1.舎人ライナー-11D 2305q
写真1

2.舎人ライナー-05D 2211q
写真2

3.舎人ライナー-08D 2305q
写真3

4.舎人ライナー-07D 2305qt
写真4

5.舎人ライナー車上より:町並み(足立区)-14D 2305qr
写真5

6.舎人ライナー車上より:舎人公園-29D 2305qr
写真6

7.舎人ライナー車上より:舎人公園-02D 2211q
写真7

8.舎人公園-07D 0805q
写真8

江戸への郷愁にかられた作家永井荷風は、小説「墨東奇譚」で隅田川の東側を墨東(ぼくとう)と呼んで、隅田川周辺に残る江戸の風情を描いていますが、大正から昭和にかけて東京の下町を歩いて書いた作品「日和下駄」では、消えゆく江戸の風景を惜しんでいます。その後、永井荷風は隅田川の更に東にある荒川放水路の堤防の突端に立ったとき、その広漠たる風景を見て東京の滅亡を感じたと言っています。

その荒川の向こう側の足立区、葛飾区、江戸川区では、戦後久しく経っても、多くの町は賑わいは少なく寂れていました。今でも、映画「男はつらいよ」の寅さんの実家、葛飾柴又の江戸川沿いには田園風景が広がっています。

中でも荒川の向こう側で最北に位置する足立区は最近まで東京の僻地と言われました。交通量が少ないないということで、この地域に長いこと都心部からの鉄道が敷かれなかったからでした。ところが、鉄道ではなくモノレールなら採算がとれるというので平成20年(2008)にのモノレールの公共交通機関が敷設されました。現在の日暮里・舎人ライナーです。

モノレールは鉄道に比べて速度と輸送量で劣りますが、その軌道は公道の上空に建設できたので安く早く建設できました。またコンピュータ制御による自動運転の新交通システムを採用したので運営経費も安上がりです。
(写真1、2、3)

日暮里・舎人ライナーの路線は、日暮里から終点まで殆ど尾久橋通りの上を約10km程走り、停車駅は13個もあり、地域にとって路面電車並みの便利さがあります。公道の上空を走りますが、高速道路のように幅広く地上を覆い被さり町を暗くすることも無く、車輪にゴムタイヤを使うので騒音も少なく、誠に地域の環境に優しい交通機関です。しかも車窓からは周囲の景色を俯瞰して見えるので乗客にも喜ばれます。

始発駅の日暮里を出て高層ビルの間を走りますが、やがて下町街の屋根風景が続き、やがて緑の風景が増えてきて、樹木が現れて突然森林地帯かと思える駅に止まりました。そこは自然の樹林と広い庭園公園と競技場などのある舎人公園でした。
(写真4、5、6)

舎人公園は森と池とスポーツ施設のある、東京都内では水元公園、葛西臨海公園に次いで三番目に広い公園です。今や東京の僻地と言われた足立区の郊外は、都心から短時間で行ける緑豊かな行楽地に様変わりです。更には今後は東京の快適なベッドタウンに変身するでしょう。
(写真7、8)
(以上)
【2023/07/20 20:09】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
入谷鬼子母神の朝顔市で一鉢求めて
1.入谷朝顔市-44D 1507q
写真1 入谷鬼子母神境内で

2.入谷朝顔市-34D 1407qr
写真2 入谷鬼子母神前の言問通り

3.入谷朝顔市-11D 06
写真3 一鉢の朝顔

4.朝顔-01P 96q
写真4 地方農村で見かけた俳句の小景

入谷鬼子母神の朝顔市は、江戸後期、入谷付近の農村で盛んだった朝顔栽培を寺院の境内で披露したのが始まりと言われ、それが明治には入谷鬼子母神の朝顔市として全国的に知れ渡ることになりました。

その入谷鬼子母神の朝顔市も戦前には一時廃れた次期がありましたが、戦後には復活して、近年は入谷鬼子母神の前の言問通りの歩道にまで朝顔鉢を売る店が溢れだして、毎年大いに賑わっています。

ここ3年間はコロナ禍の影響で朝顔市は開かれませんでしたが、今年は朝顔市が再開されると入谷鬼子母神の境内はもちろんのこと、言問通りの歩道は入谷の交差点から根岸1丁目のかけて朝顔鉢を売る店が並び、買う人、見るひとで動きがとれない程混雑していました。
(写真1、2)

朝顔は、江戸時代に大変愛好された園芸植物の一つで、品種改良が盛んに行われ、大輪の朝顔、花弁の変形した朝顔、豊かな色彩の朝顔などが誕生しました。それらの朝顔は世界的に見ても珍しいものが多かったようです。

植物学者の中尾佐助氏は、その著書「花と木の文化史」の中で、朝顔に限らず、花卉文化に関しては日本はヨーロッパより100~200年は進んでいたと書いています。ヨーロッパが日本に追いつくのは、19世紀になって植民地でのプラント・ハンターの活躍の結果、珍しい植物を採集・移植してからだそうです。

朝顔市の雑踏の中で買われた一鉢の朝顔は、持ち帰られて縁側やベランダに置かれてホットするでしょう。その朝顔は朝に咲いて午前中には萎れてしまいます。一本の茎に幾つかの花をつけますが、咲き続けるのは夏の一時期です。

朝顔は華やかでありながら儚い花です。華やかで儚いから尚一層愛着が涌くのです。その気持ちを表現した俳句に、元禄の俳人、加賀千代女が詠んだ「朝顔に つるべ取られて もらい水 」という句がありますが、その場面を絵に描いたような小景を田舎で見付けました。朝顔は鉢植えより自然のままが良いようです。
(写真3.4)
(以上)

【2023/07/09 13:13】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
梅雨の晴れ間に沸き立つ森
1.新緑-19P 90qc
写真1

2.新緑-16P 91q
写真2

3.舎人公園-40D 2305q
写真3

梅雨の晴れ間に山の樹林を見下ろせば
無数の小山が沸き立つごとく
初夏が近いとざわめいている
(写真1)

梅雨の晴れ間に山の樹林を見上げれば
小山が集まって大山となり
もくもく盛り上がる入道曇に似る
(写真2)

梅雨の晴れ間に公園を訪ねれると
大きな森は突如盛り上がり
大津波となって逃げる二人に襲いかかる
(写真3)
(以上)
【2023/07/04 18:33】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
あじさいの咲く白山神社の今は
1.紫陽花-02P 86q
写真1 鎌倉明月院

2.本土寺:あじさい-28D 1306qc
写真2 松戸本土寺

3.白山神社-01D 0706qt
写真3 白山神社

4.白山神社-35D 2306qt
写真4 白山神社

5.白山神社-44D 2306q
写真5 白山神社 富士塚

あじさいの咲く寺として鎌倉の明月院と松戸の本土寺が有名ですが、東京には白山神社があります。

鎌倉の明月院には、あじさいの小道を縫うように歩く楽しみがありますし、本土寺には花菖蒲と一緒に咲く広いあじいさいの苑を眺める愉しみがあります。
(写真1、2)

しかし大都会の真ん中にある白山神社は境内が狭いですが、境内の入り口から境内の全面があじさいの花で覆われてしまいます。
(写真3、4)

中でも境内の隅にある小さな富士塚は、あじさいの花で覆われていました。白山神社の富士塚は頂上まで登れるので、歩幅ほどの、あじさいの花で埋まる登山道を上る人も大勢いました。
(写真5)
以上



【2023/06/25 12:34】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本庭園のつつじの築山にも二通りある
1.浜離宮恩賜庭園:御亭山-02D 2305qr
写真1 浜離宮恩賜庭園

2.六義園-88D 2304q
写真2 六義園

3.六義園-96D 2304qt
写真3 六義園 

東京には、江戸時代の大名屋敷の庭を庭園として残したところが幾つかありまして、日本庭園として都民だけで無く、外国人観光客にも喜ばれています。

伝統的な日本庭園は、たいてい回遊式の造りで、中央に大きな池があり、それを眺める小山を築いて、その山に登って、大きな箱庭のような景色を眺める趣向になっています。

その築山に植える樹木には丈が高く伸びず、幹が太くならない灌木が選ばれて、その灌木には派手な赤い花が咲くつつじが好まれます。

今年の5月、偶々訪れた二つの庭園で、対称的な赤いつつじの築山を見て、同じ日本庭園でも造りようによって、洋風あり和風ありの二通りあるものだと感じました。

刈り込まれたつつじのある築山はメリハリのあるモダンな姿であり、山つつじに覆われたような築山は自然を造形する箱庭に相応しい姿です。後ろに控える松の木の見栄を切る枝振りまで、前者では派手で後者では地味に見えたのは思い過ごしでしょうか。
(写真1、2、3)
(以上)
【2023/06/14 12:01】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
道幅が狭いまま高層ビルが背伸びする都心の街路
1.北側特別展望台-03D 1001q
写真1 京京タワーから俯瞰した都市風景

2.六本木表通り:外苑東通り-127D 2211q
写真2 六本木外苑東通りから見た東京タワー

3.六本木表通り:外苑東通り-142D 2211qtc
写真3 六本木外苑東通りの町並みの一部

バブル崩壊で日本経済は長いデフレに落ち込んで
経済停滞が20年、いや30年も続いたと言うのに
東京の高層ビル建設ラッシュは止まらない

都市計画が無きに等しい東京の都市景観は
春に生え出す筍のように
不規則に伸び出す高層ビルで乱れに乱れる
(写真1)

道幅は狭くても沿道のビルに高さ制限はない
道行く人の空が狭くなり町並みが暗くなっても気にしない
高く聳えた東京タワーさえ低く見えてくる
(写真2)

ふと見ると立ち退かないで居続ける二階建ての商店街あり
やむなく高層ビルはその後ろに一歩後退して建つ
期せずして道幅に見合う高層ビル街がここに出現した
そこは六本木の外苑東通りの一区画だけです
(写真3)
以上


【2023/05/31 13:08】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
野山につつじが燃えるころ
1.岩つつじ-01P 99q
写真1 福島県夏井川の岩つつじ

2.つつじ-25P 03q
写真2 伊豆 小室山

3.つつじと樹木-08Pq
写真3 新宿御苑

桜が散り
野山に新緑が萌え出る頃
淡い緑に誘われて
赤いつつじが燃えさかる

日本は火山国
山の麓は酸性土壌
全土はつつじの繁茂に好都合

岩山には山つつじが咲き乱れ
山の斜面はつつじの園が満開になり
庭のつつじはお色直して華やかに
(写真1、2、3)

日本の野山は年に二度燃える
秋の紅葉は寂しく燃えるが
春のつつじは熱く燃える
以上
【2023/05/17 20:29】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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