写真1
 写真2
 写真3
 写真4
飛鳥山公園は江戸時代に桜見物の名所として開発されたところで、今でも上野と隅田川の桜と並んで東京の三大桜見物の名所です。
飛鳥山と言いますから人は都内に山があったのかと思いますが、ここは武蔵野台地の北東端に位置し、隅田川、荒川が流れる東京低地との境界線ですが、東京低地から見ると小山のよう高く見えるので飛鳥山と呼ばれたのです。
今は樹木が茂っていて公園から東京低地の眺望はよくありませんが、徳川吉宗が江戸町民の行楽の場所として桜を植えた頃は、江戸の高台として眺望の良い花見の場所だったことでしょう。明治の実業家渋沢栄一が飛鳥山に別荘を設けたのも、その地勢の良さからだったからでしょう。
飛鳥山公園内には桜を始め種々の樹木が植えられていて、その林の中を起伏のある変化に富んだ散歩道が循環しています。桜の咲く頃は、多くの花見客が桜の林の中にシーツを敷いて宴会を開いていますが、木の葉が落ちた晩秋には、公園内は都内とは思えない自然の静けさが支配します。 (1、2、3、4)
都内には大名屋敷跡を日本庭園として公開して場所が幾つかありますが、人工的に誂えた庭園よりも、都内に居て四季を通じて自然を感じさせる公園は飛鳥山以外には余り見る事はありません。自然が残る飛鳥山公園に遊んでみませんか。 以上
スポンサーサイト
|
写真1
 写真2
JR渋谷駅北口にある駅前広場のハチ公広場は待ち合わせ場所として有名で、一年中;人が大勢集まっているところです。外国人観光客にも人気があり、ハチ公銅像を背景に写真を撮っている姿をよく見かけます。そして、毎年のハロウィンの時は夜中まで仮装姿の若者であふれる処でした。 (写真1)
ところが、今年のハロウィンの時期にハチ公銅像のあるハチ公広場は封鎖されて、白い天幕で覆われてしまいました。嘗てハロウィン祭りに集まった群衆が暴徒化して、町の秩序を破壊したことに懲りて、渋谷区役所が予防措置を執ったのです。 (写真2)
当日は、有名なスクランブル交差点に通じる通路は一方交通を強制して立ち止まることを禁止しました。毎年7月末に開催される両国花火大会の日は、橋を一方通行させて、立ち止まりを禁じていますが、その手法を採用したのです。今年の渋谷のハロウィンは静かに整然と打ち過ぎました。
これを寂しいことと思う人も居ますが、キリスト教国でもこのハロウィン祭りは必ずしも歓迎される祭りではないのです。況してキリスト教国でない日本人でその意味や由来を知っている人は殆どいない筈です。
中世にゲルマン族が進出する前にヨーロッパに住んでいたケルト人の宗教は、自然界の精霊の存在を信じた自然崇拝の信仰でして、ケルト族がキリスト教化された時、ケルトが崇拝した精霊達はキリスト教の神々の下に位置づけられて生き延びました。しかしその姿は妖怪でした。キリスト教の世界からも正当視されない、このハロウィンの祭りを日本で規制されても嘆く事はないのです。 以上
|
写真1 秋田県の農村にて
 写真2 香川県の高松城にて
何時の頃からか老人を高齢者と呼ぶようになりました。名前を変えても老人は老人であり、年老いた人々のことです。老人という言葉が嫌われたのは、老人ボケと言うようにボケと結びついているからでしょう。
荘子には「寿(いのちながければ)辱め多し」と書いてあるますが、西鶴は老いれば恥多しと同じ事を言いました。更に、徒然草で兼好法師は「四十路にならぬほどにて死ぬのが程よい」とまで言いました。古人は、それ程までにボケを嫌ったのです。ボケが何故嫌われるか言うと、他人に迷惑をかけながら迷惑をかけたことが分からなくなるからです。
その意味では、若者にも壮者にもボケた人は結構います。ボケは他人に迷惑を掛けるだけでなく、ボケた人には人生の喜びが分からないから、本人も不幸なのです。ボケても自分は幸せだと思う人は単なる独りよがりなのです。
幸せな生活とは、生きている毎日に喜びを感じられる生活です。仕事をしている人は仕事をする中で喜びを発見しますし、仕事から引退した人は、趣味や社会奉仕に励んで喜びを発見します。
仕事や趣味や社会奉仕を離れても、人々は友達や知合いと語り合い、自分の経験を分かち合い、互いに勇気づけ、慰め合うことで喜びを感じることができます。人生経験の豊かな老人は、互いに語り合うことによって、これまでの経験を分かち合えるのです。
元気で働いていたときも趣味に打ち込んでいたときも喜びはありましたが、年老いて親しい友や知人と語り合うことは、他人の体験や考えを共有できる良い機会であり、一人では到底達成できない、もう一つの人生を生きることになります。
二枚の写真は、第一は秋田県の農村で、第二は香川県の高松城で見かけた情景です。楽しい会話が聞こえてくるようです。 (以上)
|
写真1 東京湾に汚泥を捨てて隅田川に戻り遡上する船
 写真2 廃棄船に満載の汚泥
大正時代に洪水防止のため荒川排水路(今の荒川下流)が開削される前までは、隅田川は荒川の下流でもありましたから、江戸時代に大川と呼ばれた隅田川は水量も豊かであり、きれいな水が流れていました。
歌舞伎の一場面で、早春の隅田川では小舟が漁り火を焚いて白魚漁をする情景が演じられていますが、白魚は清流にしか棲まない小魚ですから、当時の隅田川は川底も見えるほど澄んだ川だったのです。
昭和時代になりますと隅田川上流地域に大規模な化学工場などが進出し町工場も増加して、戦前には既に隅田川はどぶ川のように汚れてしまいます。永井荷風の「墨東奇譚」や吉行淳之介の「原色の街」は、いずれも隅田川の東岸の花街を舞台にした小説ですが、それらの小説の中で描かれた戦前の隅田川の水は既に醜悪そのものになっています。
東京大空襲で東京が廃墟になった一時期は工場の活動が止まったこともあって、隅田川は昔の清流に戻りましたが、戦後に工場も復活し人口集中が進むと、再び工業汚水と生活排水で隅田川の水質は悪くなります。
隅田川の流れは墨汁のように黒くなって「墨だ川」と揶揄される程に汚れ、隅田川の水の臭気は両岸一帯の町中にまで広がりました。そのような隅田川には、汚泥海洋投棄の作業船が隅田川を行き来していた時代が暫く続き、まさに隅田川そのものが東京の下水道になっていたのです。 (写真1、2)
しかし、昭和45年(1970)公害対策基本法が制定されて工業汚水や生活排水の排出規制が強化されて以降、隅田川の汚染状況は徐々に改善され、平成の頃(2000年の頃)には隅田川の水も年々綺麗になっていき、上流から中流の墨田川の岸辺で釣り人が隅田川に糸を垂れている光景が見られるようになりました。今では浅草の乗船場から浜離宮やお台場の間を遊覧船や屋形船が頻繁に往来しています。 (以上)
|
キキョウ
 ノウゼンカズラ
雨上がりの鎌倉の寺の境内には 旧盆なのに人影はない
一人参道を進むと 花壇にキキョウの花が咲いていた
もう、秋は近いかと頭上を見上げたら ノウゼンカズラの花がが揺らいでいた
キキョウは紫色で涼しげに ノウゼンカズラは橙色で燃えるよう
キキョウは秋が相応しい ノウゼンカズラは夏の盛りが相応しい
と感じるのは人間だけ それぞれの花の盛りは夏から秋という
暑さで空気までが動かない鎌倉の寺 花は晩夏を謳歌する
以上
|