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江戸の火消しの伝統
1.四谷消防博物館
写真1 四谷消防博物館

2.火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒
写真2 火消し組が着ていた半纏と鈎付きの長い棒

3.江戸の火消し纏
写真3 火消し纏の模型

地震、雷、火事、親父とは、この世の中で特に怖いとされているものを順に並べて語調よろしく述べた言葉ですが、地震も雷も火事を起こして全てのものを灰にしますから最も怖いのは火事と言うことになります。

日本の建物は木造が一般的でしたから、江戸時代には火災は街の最大の災難でした。季節風の強い時期に町の何処かで一旦火がでると、木と紙で出来た江戸の街は広い範囲が焼き尽くされました。

最大の火災は明暦の大火(明暦3年1657)で、江戸の街の60%が消失し、江戸城内にも延焼して天守閣も焼け落ちました。その時を機に幕府は火災に備えて江戸城内の武家屋敷の再配置と下町の防火対策を断行しました。

先ず外濠内の屋敷を外濠外へ移動し、その跡地に密集していた内濠内の屋敷を移転し、江戸開闢以来の城内の屋敷の再配置を行ったのです。城外の下町でも延焼を食止めるため、上野や両国には道路を広げた広小路を設けました。更に町々には「町火消し」の組を組織させて町民による消防活動を強化しました。

火事と喧嘩は江戸の華と言われたのは、火事が多い江戸では町火消しの働きぶりが華やかだったことと、短気な江戸っ子たちは派手に喧嘩をしたからですが、町火消しの「め組」と江戸相撲の力士たちとの乱闘事件を取扱った講談や歌舞伎「め組の喧嘩」が有名になったことに肖った言葉でもあります。

相撲取りと喧嘩する位威勢の良い町火消しの組の権限は、火災の時は強大でした。火災の通報を受けると、真っ先に駆けつけて高みに登り、その時の風の向きを読み、延焼防止のため除去する家並みを指示します。町火消しは鈎付きの長い棒では家々を壊します。土地の有力者も家の所有者もそれを止めることは出来ません。燃える家の除去は町火消し組の権限なのです。

消火活動は一刻を争いますから、真っ先に到着した町火消しの組に主導権が与えられます。火消組が現場に持込み高々と空に掲げる火消し纏いには、組名が明示してあり、この火事場での指導権を示すものでした。

江戸時代の消火活動は火を水で消すのではなくて燃える家を壊して延焼を防ぐことでしたが、昭和になってからもその手法は採用されました。東京の街がアメリカの焼夷弾攻撃を受け始めた頃、幅広い大きな道路の両側の家屋は、都内のあちこちで強制的に撤去させられました。

国道246号に面して商売をしていた我家も東京大空襲の前年に取壊されましたが、そのお陰で反対側の住宅街は戦災を免れました。江戸の智恵が昭和に生かされた事例です。

写真は、四谷三丁目交差点に建つ四谷消防博物館と、館内に展示されている江戸の町火消し組が着ていた半纏、用いた鈎付きの長い棒、纏いをデザインした木の模型です。
(以上)
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【2020/05/06 12:02】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
郷愁を覚える商店の商品たち
盛岡市内にて

商店は店先で商品を展示して販売するのが普通でしたが、最近はテレビで広告したり、インターネットに映像を載せて販売する方法が圧倒的に多くなっています。

高級な自動車や家屋までインターネットで閲覧して購入する人達もいるそうですから、これからは商品を店先に展示して販売する方法は少数派になっていくのかも知れません。

写真は、ある地方都市で見かけた荒物屋の光景です。店先に掃除道具が丁寧に並べてありました。熊手や高箒(たかぼうき)は郷愁を覚える道具です。また、荒物屋の店構えにも懐かしさを覚えます。

この商店の店先に並べられた商品の姿から、この地方の人々の日常生活を想像することができます。この地方では、毎年同じ行事が繰り返され、ゆっくりと時間は流れて、安心できる生活が営まれているのです。

何でもデジタル化する時代に、ここだけはアナログの世界が残っていたので気が安らぎました。でも、このような光景はいずれは消えていくのでしょう。
(以上)
【2020/05/02 13:31】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
セトモノと陶芸の間
1.合羽橋道具街-02-1D 1805qr

名古屋市の近郊に窯業が盛んな瀬戸市があります。セトモノとは瀬戸地方で作られた焼き物という意味でしたが、今では焼き物の普通名詞になりました。瀬戸地方では古代から焼き物が盛んだったようですが、釉薬(うわぐすり)をかけた現在の陶磁器(瀬戸焼)は、鎌倉初期に宋で学んだ陶工によって瀬戸の地にもたらされたと言われています。

中国や朝鮮から日本に入ってきた焼物産業は、瀬戸以外でも日本各地で盛んになりましたが、実用品の焼き物が、見た目の美しさで珍重されるようになるのは茶の湯の世界でした。実用品であると同時に芸術品としての陶磁器は、茶の湯の世界で発達します。

茶器の世界では、初期の頃は中世支那から輸入した唐物(からもの)が珍重されましたが、その後日本で発達した独自の茶器が各地で作られます。茶器の世界では萩焼、信楽焼、唐津焼が珍重され、一萩、二楽、三唐津などといわれました。

こうして日本の焼物技術は独自の芸術世界を築きましたが、唐物を珍重していた戦国時代に大変面白いエピソードがあります。千利休が愛用した(現在国宝になっている)茶器の一つは、嘗て朝鮮の農家で使われていたご飯茶碗(高麗の井戸茶碗と云います)であったそうです。

その真偽の程は分かりませんが、たとえそうであってもその茶器の国宝としての価値は変わりません。焼き物を作る技術と、焼き物を鑑賞する能力とは別物だからです。芸術家だけが芸術品を作れるというわけでもなく、また豚に真珠という諺があるように、眼前の美術品の価値が分からない人も多いのです。

19世紀に「アーツ・アンド・クラフト」運動でデザインから生活様式を変えていこうとしたウイリアム・モリスは、工芸と芸術を区別することを嫌い、生活用品を作る実用技術にも美的な評価を与えたことで有名です。

日本でも20世紀早くに同じことを柳宗悦が民芸運動の中で行いました。美術史家が正当に評価してこなかった無名の職人達の工芸品に美を発見し、民衆芸術品(民芸品)として世間に紹介しました。

柳宗悦と会い民芸運動に参加した陶芸家の河井寛次郎は「暮らしの中から美を見つけ出す」「民芸品の有名は無名に勝てない」「暮らしの中の「用」の美に魅せられた」などの名言を吐いています。

セトモノの里、瀬戸市は、有田、備前、九谷のように藝術陶芸品を創り出しませんが、大衆食器の地味な瀬戸焼に特化して大衆の用に応えています。写真は、浅草合羽橋道具街の瀬戸物問屋でセトモノを物色しているお客さん達です。
(以上)
【2020/04/24 16:31】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
桜の花道
桜-13PAY3

花道(はなみち)とは、歌舞伎の舞台装置の一つを云い、舞台から客席をよぎり舞台の反対側の楽屋裏(鳥家という)へ至る通路です。歌舞伎役者が舞台へ出るとき、舞台から退くとき、演技する華々しくも重要な場所です。

相撲でも歌舞伎の「花道」を借用して、力士が勝負に勝って土俵から退くときの道を花道といいます。更に転用されて、会社の社長さんが業績を上げて退任するとき「花道」を飾って辞めると云います。今では「花道」とは華々しく見送られる場所となりました。

さて、ここに掲げた写真は、そのいずれの「花道」でもありません。華々しく咲いた桜の花びらが落ちて、道を白く染めた「花道」です。

この「花道」は、美しく静かな優雅さに満ちています。幽玄の世界へ導かれる思いがします。「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」と歌った西行法師が歩んで往った道はこのような花道だったでしょう。
(以上)
【2020/04/17 23:01】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
下町に未だラウ屋さんが居た頃
湯島天神-01N.jpg
湯島天神-02N

これも旧い話ですが、江戸時代から続く珍しい商売が昭和30年代の東京に未だ残っていた話です。

江戸時代に喫煙の習慣が始まると、下町に煙管(キセル)を修理する行商人のラウ屋が出現しましたが、そのラウ屋が戦後の昭和にも修理器具を備えた屋台車を曳いて営業していました。

煙管で煙草を吸っていると管の中に脂(やに)が溜まり吸いにくくなります。ラウ屋はその脂を取り除くのが仕事です。煙管の吸口と雁首との間にある竹の管を新しいのに取り替え、吸口と雁首の内側の脂を蒸気で溶かし掃除します。取り替える竹の管はラオスから輸入していましたので、修理屋の名前がラオ屋になった次第です。

今では煙草は殆ど両切りの紙たばこですが、昔は煙草の葉を刻んだキザミという煙草が売られていて、これを指で小さく丸めて煙管の口に詰め込み吸いました。今でも歌舞伎や時代劇で、旦那や女将さんが長火鉢の脇で煙管をふかす様を舞台で見ることがありますが、両切りの紙たばこを口にくわえるより、ずっと粋な姿です。

ところで汽車や電車の不正乗車する方法に嘗て「キセル」と称する方法がありました。改札を入るときの一区間と出るときの一区間だけカネ(煙管の金属部分)を払い、中間を無賃乗車する方法でしたが、今はスイカやパスモの時代なので「キセル」は出来ず「キセル」という言葉も消えました。

もう60年以上も前、梅が咲く頃、湯島天神で営業しているラウ屋さんを見かけました。時々、煙管の掃除用の蒸気で汽笛を鳴らして存在を周囲に知らせていたので気付きました。甘酒で一服しているラウ屋さんの屋台の箱には沢山の煙管が並んでいました。その当時でも既に珍しい姿でしたので写真に収めておきました。
(以上)
【2020/04/14 12:42】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
写真は古いほど感動的
1.青函連絡船-01P
写真1 青函連絡船の甲板にて
2.青森港-07P
写真2 青函連絡船岸壁跡

人間は忘れ易い動物です。過去の事柄はどんどん忘れていき、昔のことは余程印象的なことでなければ思い出しません。

しかし、過去の一枚の写真は、瞬時にそれに纏わる忘れていた感情を思い起こさせてくれます。この写真は60年程前の昭和35(1960)に青函連絡船に乗ったとき撮影したものです。
(写真1)

三等船室の畳の大部屋で雑魚寝しているのも厭きて甲板に出たところ、船は左右に津軽半島と下北半島を見ながら津軽海峡に出るところでした。空は晴れていましたが、連絡船の甲板は薄暗くなる位濃い煙に覆われていました。振り返ると四本の煙突が黒煙を濛々と吐き出しています。

この青函連絡船は、数時間かけて青森から函館まで黒煙を吐きながら航海していきます。台風で沈没した悲劇の洞爺丸よりもずっと古い型の船でした。

当時は蒸気機関車が普通でしたから汽車の煙には慣れていましたが、油臭い汽船の煙に巻かれたのは初めてでした。夕方の陸奥湾を眺めながら、何処か遠い国へ旅立つような心細い気持ちになりました。この煙突の煙は、その匂いを思い出させ、当時の心細い気持ちを甦らせるのです。

写真は、ある時の、ある所の、ある状況を記録に留めます。一枚の写真の伝える内容は時間的にも場所的にも一部に過ぎませんが、時には多くの言葉で語るよりも雄弁です。

リアリズム文学のモウパッサンが数十ページの文章で部屋の状況を事細かく描写するところを、写真は一枚で語り尽します。更に文章では描けない部屋にあるベッドや机椅子のディテールまで写真は描写します。

文章では想像力を働かせて思い出を自由に表現できますが、写真は限定された過去の記録を提示するだけで、後は見る人の想像力に任せるのです。写真は歴史の記録者でありながら、過去を現在に甦らせる不思議な力があります。
(以上)

(追録)
青森港の外れに青函連絡船の船着き場跡が保存されています。連絡船だけでなく、列車が船に乗り込んだとき使った港側のレールも残してあります。連絡船と云えば人間を運ぶものであり、カーフェリーは自動車を運ぶものですが、青函連絡船は、青森駅と函館駅を結ぶ「列車」を運ぶ船として運行され、鉄道連絡船と云われました。そして青函トンネルが完成した昭和63年(1988)に青函連絡船は運行を終了しました。
(写真2)
【2020/04/09 20:15】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
サイタ サイタ サクラガ サイタ
目黒川の花見風景-06D 05qrc

「サイタ サイタ サクラガ サイタ」は戦前の小学校一年生の国語の教科書にある文章です。昭和8年より昭和13年までの間に発行された、サクラ読本と言われた「小學国語讀本」の冒頭にある文章です。

日本語は動詞が語順の最後に来るので、西欧や中国の言葉のように韻を踏むことは容易ではありません。そこで韻を踏む代わり発音語数でリズムをとる詩歌が発達しました。短歌(五、七、五、七、七)や俳句(五、七、五)です。

サイタ サイタ サクラガ サイタは短歌でも俳句でもありませんが、三、三、四、三と発音語数でリズムをとりながら且つ韻を踏んでいます。小学生にも憶えやすい文章です。以前の国語教科書では導入部は単語でしたが、サクラ読本では文章から教えるようになりました。

それを絵にした写真が目黒川の橋の上で撮れました。
(以上)
【2020/04/05 21:41】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
令和最初のお花見は諦めて
平成最後の千鳥ヶ淵の桜
1.皇居の花見:千鳥ヶ淵-82D 1904q
          2.皇居の花見:千鳥ヶ淵-121D 1904q
                    3.皇居の花見:千鳥ヶ淵-95D 1904q

平成最後の上野公園の桜
4.上野花見-78D 1904qt
          5.上野花見:人物-13D 1604qt
                    6.不忍池:櫻-18D 1904qt

二月の梅園では混雑は嫌われますが、四月の櫻並木では人出の賑わいが好まれます。しかし、今年は新型ウイルスの蔓延で花の下のブルーシートの宴会は禁止になりました。それでも、東京の櫻の名所には、かなりの花見の人出はありました。

外出を自粛するようにとの要請に従って、令和最初の花見は諦めて、平成最後の花見を昨年撮影した写真で一人楽しみました。密室ではありますが密集と密着ではない、一人静かな花見でした。訪ねた場所は、皇居の千鳥ヶ淵と上野公園です。
(以上)
【2020/03/26 18:35】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
切り株に芽生える命
1.喰違見附跡(紀之国坂)-12N 1904q
2.喰違見附跡(紀之国坂)-14N 1904qt
3.喰違見附跡(紀之国坂)-18N 1904q

都会は樹木には棲みにくいところ
枝葉を自由に伸ばせない

せっかく涼しい日陰をつくっても
街が暗くなると苦情を言う

それではと秋に葉を落すと
落ち葉が街路を汚すと嫌われる

伸びた枝は無機質なビル街の飾りなのに
それも邪魔だと丸坊主に

無骨な幹だけにされた樹木は
春には切り株に芽を葺く
逞しい街路樹にエールを送ろう
(以上)
【2020/03/21 20:48】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
老人の喜びは語り合い
1.六郷町の老婆-01P 97qt
写真1 秋田県にて
2.老人-04P 88q
写真2 香川県にて

何時の頃からか老人を高齢者と呼ぶようになりました。名前を変えても老人は老人であり、年老いた人々のことです。老人という言葉が嫌われたのは、老人ボケと言うようにボケと結びついているからでしょう。

西鶴は老いれば恥多しと言いましたが、荘子にも「寿(いのちながければ)辱め多し」と述べています。更に、徒然草で兼好法師は「四十路にならぬほどにて死ぬのが程よい」とまで言いました。古人は、それ程までにボケを嫌ったのです。ボケが何故嫌われるか言うと、他人に迷惑をかけながら迷惑をかけたことが分からなくなるからです。

その意味では、若年にも壮年にもボケた人は結構います。ボケは他人に迷惑を掛けるだけでなく、本人も不幸です。ボケた人には人生の喜びが分からないからです。ボケても自分は幸せだと思う人は単なる独りよがりで、本当の幸せな人ではありません。

幸せな生活とは、毎日喜びを感じられる生活です。仕事をしている人は仕事をする中で喜びを発見しますし、仕事から引退した人でも仕事以外の趣味や社会奉仕に喜びを発見します。

更には、仕事や趣味や社会奉仕を離れても、人々は友達や知合いと語り合い、自分の経験を分かち合い、互いに勇気づけ、慰め合うことで喜びを感じることができます。人生経験の豊かな高齢者は、互いに語り合うことによって、これまでの経験を分かち合えるのです。

元気で働いていたとき、一人で趣味に打ち込んでいたときも喜びはありましたが、年老いて親しい友や知人と語り合うことは、他人の体験や考えを共有できる良い機会であり、一人では到底達成できない、もう一つの人生を生きることになります。

二枚の写真は、第一は秋田県の農村で、第二は香川県の高松城で見かけた情景です。楽しい会話が聞こえてくるようです。
(以上)
【2020/02/24 10:41】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
富士の高嶺の雪
1.富士山-26P 93 tq
写真1
2.富士山-28P 93qt
写真2
3.富士山-34P 93 qt
写真3
4.富士山-13P 93qt
写真4
5.富士山-14P 93q
写真5

地球温暖化の影響なのでしょうか、この頃は富士山全体がが真っ白な雪に覆われた姿をみることは少なくなりました。
(写真1、2)

お座敷小唄では「富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変わりはないじゃなし とけて流れりゃ皆同じ」と歌われますが、高嶺に降る雪と街に降る雪では、雪の利用価値に大きな差があります。

高嶺の雪は低温のため暫く雪の状態でいて、暖かくなると徐々に融けて水となります。高山の雪は水の貯蔵庫ですから、この貯蔵庫を失えば、それに頼って生きてきた動植物の生存が危ぶまれます。

地球温暖化は海面の上昇をもたらし、南太平洋の珊瑚礁の島、ツバルやキリバスは水没の危険があると騒がれていますが、被害は山岳地帯の高地にも襲いかかります。

世界の高山のアルプスやヒマラヤの雪が次第に消えつつあり、ヒマラやでは2000年に入って雪解け水で氷河湖が拡大しており、下流の山間にある200程の氷河湖の堤防が決壊しているとの報告があります。赤道直下のアフリカ大陸の山、キリマンジェロでも頂上の万年雪が今世紀前半には消えると外電は伝えていました。

日本列島の日本海側には雪積が多いことで有名な地域が沢山あります。雪深いことは、そこに住む人々にとっては不便なので嫌われますが、雪が水の貯蔵庫だとすると、実は恵みの雪でもあります。

その恵みの雪が日本列島に降るようになったのは、実は一万年以上前の縄文時代に遡るとのことです。この時代は氷河期が終わり地球は温暖な気候が続いていました。その結果、大海の海面が上昇して、日本列島に沿って太平洋側を北上していた黒潮の一部が枝分かれして、対馬海峡を通過して日本海に流入して日本海側にも流れ込みました。

冬期、日本海を渡って日本に吹きつけるシベリア寒風は、暖かくなった日本海の海面に触れて大量の水蒸気を発生させ、日本列島に吹き寄せました。水蒸気は日本列島を縦断する山脈に突き当たり上昇して雪となりました。

縄文時代以降、北海道を除く列島の大部分が落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになったのは、このシベリア寒風が造る雪のお陰なのです。今は東北の白神山地だけに存在するブナ林は、昔は日本本土全部を覆っていたと言います。ブナ林は雪解けの大量の水で成長し、それを樹中に保持し、徐々に放出しましたから、ブナ山林は豊饒の地となりました。

地球温暖化すれば日本海側への黒潮の流入は増えるだけで、シベリア寒風が吹き続ける限り、日本海側の冬の気象構造は基本的に変化しないでしょうから、暖冬で一部のスキー場が閉鎖されても、日本列島への雪の恵みは今後も続くでしょう。

富士山は、一際高い独立峰ですから、冬になると黒々とした周囲の山々の中に真っ白にな姿ですっくと立っているのが見られます。富士山の白雪は、日本列島に冬の恵みが訪れていることを告げているのです。そう思うと白い富士山は益々神々しく見えてきます。
(写真3.4、5)
(以上)

【2020/02/08 16:19】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
畑の紋様はランド・アート
1.畑-24P 89 qr
写真1
2.畑-03P 95q
写真2
3.畑-16P 85qr
写真3
4.畑-04P 95q
写真4
5.畑-09P 90q
写真5
6.畑-20P 93q
写真6
7.畑-19P 92qt
写真7
8.畑-14P 90q
写真8
9.畑-22P 85qr
写真9

畑は畠とも書きますが、両方とも意味も読み方も同じで、水田以外の農地を意味します。しかし、元々は「畑」は焼き畑を意味し、「畠」は白田(はくでん)と書いて焼き畑以外の農地を指しました。

畑には畝(うね)があります。蒔いた種や、出た芽を風による被害から守るのが畝の役目です。同時に、畝は作物の種類を区分して、農作業をし易くする整理整頓箱のようなものです。
(写真1)

その整理整頓箱の姿は、作物の生長に応じて変化します。畝の線をなぞらえて、芽生えは真っ直ぐに延びたり、或いは微妙にうねりながら延びています。真っ直ぐな畝は機械耕作の畑であり、うねる畝は手作業の畑でしょう。
(写真2、3)

ビニールの衣装を纏って芽を出す畝もあります。
衣装には、白いものもあり、黒光するものもあります。
全身に衣装をすっぽり被る畝もあり、片肌脱いだ畝もあります。
縁取り縫いのステッチのある衣装を纏うお洒落な畝もあります。
決められた場所に二列に整列して芽を出した行儀の良い畝がありました。
(写真4、5、6、7)

広がる畑を見渡せば、畝は畑の絵柄となります。
或る畑の大地は、時にはきめ細かな小紋の着物を纏い、時には艶やかな絞り染めの着物を纏います。

ランド・アートはナスカの地上絵だけではありません。零細農業の日本の農地には、無数のランド・アートが、誰にも観賞されること無く、描かれては消えていきます。それを発見するのは農村散策の楽しみです。
(以上)
【2020/01/31 14:15】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夕暮れ時のシルエット演劇
1.喰違見附跡q

2.喰違見附跡(紀之国坂)-20N 1904q

冬の夕暮れは足早に来る
明るかった空が陰り出すと
木々の姿態がシルエットで浮かび上がる

葉が落ちた大木は
梢を軽やかに空に延ばして
小木は自慢げなポーズをとって
土手の斜面に一列に並ぶ

大木たちは梢で囁やきかける
小木は離れて傍耳を立てる
喰違見附跡の土手上の
だれも見ない一幕の芝居
(以上)
【2019/12/28 13:37】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夕陽に映える枯れすすき
1.すすき-04P 89t
写真1
2.すすき-05P 89t
写真2
3.すすき-20P 89t
写真3
4.すすき-19P 89t
写真4

戦後ヒットした演歌「昭和枯れすすき」は、映画の主題歌にもなり、多くの有名歌手に歌い継がれました。演歌の歌い出しは「貧しさに負けた」で始まり「花の咲かない二人は枯れすすき」で終わります。

ですから枯れすすきには寂しさのイメージが付きまといます。しかし、群生する枯れすすきの原野は、落ちぶれた寂寞とした景色ではなく、生命が最後に見せる深遠な自然の摂理を造形化したものに映ることがあります。

それを目にしたとき厳粛な気持ちになり、すすきの原野は美しくも神々しい光景に変じるのです。初冬の霞ヶ浦へドライブに出かけたとき、湖畔の水辺に群生する枯れすすき野に出会いました。

遠くの水中に佇むす枯れすすきは寒そうで寂しく感じましたが、手前の枯れすすきの溜まり場は、僅かに薄日を浴びて、穂がしらを揃えて幾重にも並び、大勢で楽しそうでした。
(写真1、2)

残照の一瞬の輝きに照らされて、すすき野は田園の夕べのハイライトになります。水溜まりの反射の光がアップライトになって、身を躍らせるすすきの穂は得意げに背伸びします。
(写真3)

ふと目を遠くに転ずると、夕空に光り輝く電線の束が波状に走り、その下を土手の団子状のすすきが珠々つなぎに延びています。薄暗い田園風景をバックにして夕日に映える電線とすすきだけが浮かび上がる光景に、一瞬息をのみました。
(写真4)

手前を見ると、すすき野は足許まで続いていました。すべてのすすきの穂は、暖かいオレンジ色の光を確りと捉えて精一杯反射しています。足許から丘の彼方まですすき野の原野は、光の夕景を謳歌していました。
(以上)
【2019/12/17 14:46】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
築地塀は江戸の遺産
1.報土寺-04D 0805qr
写真1 本土寺の築地塀
2.報土寺:築地塀-06D 1909qt
写真2 三分坂から見た本土寺の築地塀
3.谷中寺町:観音寺:築地塀-07D 1909q
写真3 観音寺の長い築地塀
4.谷中寺町:観音寺:築地塀-14D 1909qt
写真4 築地塀にある観音寺の裏門
5.待乳山聖天-05D 0804qr
写真5 待乳山聖天の築地塀
6.待乳山聖天-06D 1102q
写真6 待乳山聖天の参道 築地塀は階段上の右手にある。

京都御所や西本願寺は長い土塀で囲われていますが、これらの土塀は築地塀(ついじべい)と呼ばれるもので、外敵の侵入を防ぐ堅牢な防護壁として築かれたものです。古都京都では、公家の屋敷や伝統のある寺院・神社が築地塀で囲われている例を良く見かけます。

嘗ての江戸でも武家屋敷や寺院には築地塀が数多くありましたが、明治以降、武家屋敷は壊され、残ったものも震災と戦災に遭って焼かれて、今の東京では築地塀を見る場所は滅多にありません。

しかし、現在の東京の町中で、築地塀が見られる場所が三ヶ所あります。それは港区赤坂にある報土寺と台東区谷中にある観音寺と浅草にある待乳山聖天です。

赤坂の報土寺の築地塀は、瓦と粘土を交互に積み重ねた形態ですが、瓦の層が幾層にも密に重なっているので、瓦と瓦を粘土で張り付けた様な仕上がりになっていて、重厚な築地塀です。しかも粘土の部分は白い漆喰で塗り固められているので、瓦屋根の黒色と漆喰の白色が縞模様になって美しい築地塀です。報土寺は三分坂という急坂の途中に建っているので、傾斜に沿って斜めに走る築地塀の縞模様の線はダイナミックであり、モダンに見えます。
(写真1、2)

谷中の観音寺の築地塀は、観音寺の南側を通る小道沿いに長く続いています。築地塀の途中に境内への出入口の扉があるので、それが長い築地塀の単調さに変化を与えるアセサリーになっています。観音寺の築地塀も、報土寺と同じく多層の瓦が積まれていますが、瓦の層には欠けた部分も目立ち、粘土の部分に彩色を施していないので、却って江戸時代からの築地塀の古さを感じさせます。小道を挟んで、観音寺の築地塀の対面には真新しいモダンなデザインの土塀が建っているので、この小道は新旧土塀のコントラストを演出した面白い光景です。
(写真3、4)

浅草の待乳山聖天の築地塀は、参道の階段を上った右側に一部残された短いものです。待乳山は堆積層の平地に独峯のように突き出た10メートる程の丘で、隅田川を眺める名所でしたから、歌川広重が描いた絵にもこの築地塀が描かれています。
(写真)5、6)

築地塀は、鉄砲の弾を通さないので、安土桃山時代以降は城郭の内部に多く使われました。そう言えば、戦国時代には寺は屡々臨時の軍事拠点として使われましたから、寺に築地塀が多いのはその所為かも知れません。築地塀が装飾的になったのは江戸時代以降だそうです。

現在の東京には、江戸時代を偲ばせる遺跡は江戸城跡の皇居の他には見附跡しか残っていませんが、築地塀は東京にある江戸時代の数少ない証拠品です。
(以上)
【2019/11/28 18:12】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
晩秋の農村を彩る美しい稲田
1.白馬~扇沢-13D 1410q
写真1
2.立山駅~富山市-08D 1410q
写真2
3.白馬~扇沢-08D 1410q
写真3
4.長野~上越-20D 1409q
写真4
5.長野~上越-22D 1409q
写真5
6.長野~上越-28D 1409q
写真6
7.長野~上越-41D 1409q
写真7

深緑というより濃紺に近い、くすんだ色の重厚な山塊に囲まれた農村が、旧盆過ぎた秋のひととき、明るい金色に輝きます。
それは稲田が色づく時です。
(写真1、2)

立秋を過ぎれば稲刈りが始まります。
刈取りが済んだ茶色の稲田と、未だ残っている金色の稲田と、その背後に黒々と控える山塊と、その山塊の裾野に並ぶ農家が夕陽に映える光景は、日本が誇る田舎の景色です。
(写真3)

近くに目を転ずると刈り終わった稲田には切り株が整然と並んでいます。
早くも春の作物が、これまた整然と出番を待っています。
その奥に建つ端正な立ち姿の農家にとっては、整然たる稲田は広い裏庭です。
(写真4、5)

しかし、中には稲刈り作業でかき乱された稲田もあります。
稲刈耕耘機の軌跡でしょうか。
畝(うね)の並びは不規則に断ち切られて、稲の刈取跡は斜めに切り結ばれています。
不協和音のように縦横のリズムは乱されています。
それが又、稲田が見せる新しい造形美です。
(写真6、7)
(以上)
【2019/10/13 17:45】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
代々木八幡宮の例大祭
1.代々木八幡:初詣-38D 1901qr
写真1 代々木八幡宮の森 元旦の初詣風景

2.代々木八幡古代住居跡-03D 1701q
写真2 代々木八幡古代住居跡

3.代々木八幡神社:例大祭-05N 1909q
写真3 代々木八幡宮例大祭 参道口

4.代々木八幡神社:例大祭-08N 1909q
写真4 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

5.代々木八幡神社:例大祭-10N 1909q
写真5 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

6.代々木八幡神社:例大祭-14N 1909qt
写真6 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

7.代々木八幡神社:例大祭-25N 1909qr
写真7 代々木八幡宮例大祭 境内は参拝者で埋まる。

8.代々木八幡神社:例大祭-20N 1909q
写真8 代々木八幡宮例大祭 宮入りした神輿

9.代々木八幡神社:例大祭-31N 1909q
写真9 代々木八幡宮例大祭 本殿前の参拝風景

私の鎮守様は代々木八幡宮です。
代々木八幡宮は、その創建が鎌倉時代に遡る古い由緒ある神社です。
頼朝の長男、頼家が修善寺で暗殺された(1204年)後、武蔵野国の代々木の野に隠遁していた頼家の家来の荒井外記智明は、鶴岡八幡宮の託宣を受ける夢を見て、建暦2年(1212年)9月23日、この地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けて代々木八幡宮としたのです。

鶴岡八幡宮は鎌倉八幡宮とも呼ばれ、鎌倉武士の守護神であり、鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面では知名度が高かった神社でした。代々木八幡宮は創設の経緯からみて、その鎌倉八幡宮の直系の神社のひとつです。

代々木八幡宮の境内は、小高い丘の上にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていて、都市化が進む都内では珍しく神社らしい雰囲気に満ちた神社です。正面の鳥居がある山手通り側から見ると、小山の上にある境内はこんもりした森に包まれていることが分かります。
(写真)1)

時代を遡りますと、縄文時代にはこの高台に縄文人が定住していました。戦後に発掘調査が行われて、縄文時代の竪穴式住居跡が発見され、「代々木八幡遺跡」として境内に保存されています。
(写真2)

代々木八幡宮の例大祭は、現在でも創建日と同じ9月23日に毎年盛大に執り行われます。新年の初詣の三元日は、長い参道にも拘わらず、参拝者の列が境内の外にまで延びて、神社の前の山手通りにまで行列ができますが、、例大祭の日は境内の中に人が溢れて、身動きが出来ない程になります。長い参道の両側には参拝者相手の屋台が隙間なく店を張ります。参拝者は大人も子供も屋台での買い物を楽しんでいます。
(写真3、4、5、6、7)

参拝するため本殿に近づいたとき、丁度、町内の神輿が一つ宮入したときに遭遇しました。神社本殿の前は神輿を担ぐ人とそれを見る人が集まっていて動きがとれない程でした。一般の参拝者は、神輿が神主からお祓いを受けて本殿前を立ち去るまで、立ち往生でした。お祭りの日の神社の境内は、また特別の熱気に溢れる場所になります。
(写真8、9)

最後に、直木賞作家の平岩弓枝氏は代々木八幡宮の一人娘であることは文学好きの人の間では知られていますが、平岩弓枝氏のお嬢様が代々木八幡宮で神職に従いておられることは、知る人は少ないでしょう。氏子の私は、神主のお嬢様に新年のお祓いをして頂いた事があります。
(以上)
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【2019/10/02 10:55】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
晩夏の上高地散策
1.上高地:梓川-24D 1410qr
写真1 梓川
2.上高地:梓川-12D 1410q
写真2 梓川
3.上高地:河童橋-02D 1410q
写真3 河童橋
4.上高地:河童橋-03D 1410q
写真4 河童橋
5.上高地:大正池-02D 1410qr
写真5 大正池
6.上高地:涸沢カール-03D 1410q
写真6 涸沢カール
7.上高地:前穂高-01D 1410qr
写真7 前穂高
8.上高地:東側山岳-04D 1410q
写真8 上高地の東側山脈
9.上高地:猿-01D 1410q
写真9 森の小径を歩く野生の猿
10.上高地:猿-03D 1410q
写真10 木に登り餌を求める野生の猿 
 
晩夏の上高地は登山者と避暑の人々で賑わいます。
梓川の清流は透き通って冷たく流れています。
川辺に立つ枯れ木に冷水の冷気を感じます。
(写真1、2)

上高地の賑わうところは河童橋です。
山を登る人と下りてきた人は橋で出会います。
避暑に訪れた人は橋に集います。
(写真3、4)

河童橋から梓川の下流に大正池が見えます。
焼岳の噴火で梓川が堰き止められて誕生した池です。
池に浸かった多くの立木は枯木となって上高地のオブジェになりました。
しかし、そのオブジェも今は倒れて数少なくなりました。
(写真5)

河童橋から梓川の上流を見ますと涸沢カールが見えます。
氷河が削った幅広い北アルプスの渓谷です。
スポットライトを浴びた涸れ沢カールは壁画のようです。
(写真6)

正面の前穂高は高い屏風のように立ちはだかり
横に連なる山脈は囲い塀のように聳え立ち
河童橋と梓川は巨大な箱庭の一景となります。
(写真7、8)

上高地の森の小径に入ると野生の猿に出会いました。
小径を堂々と歩き、木に登り餌を探します。
彼等は人を恐れず、人に馴染まず、自然のままでした。
(写真9、10)
(以上)


参考:大正池
大正池は大正4年(1915)年の焼岳の大噴火で生じた火山泥土流が梓川が堰き止められて出来た池です。池に林立する枯れ木は上高地の特色ある景観でしたが、時の経過と共に枯れ木も倒れて残り少なくなりました。

参考: 涸沢カール
涸沢カールは穂高連峰の東側に氷河によって削り取られた深い谷です。涸沢の雪解け水は、涸沢出合で横尾本谷と合流し、屏風岩の北側を横尾谷となって流れ、横尾で槍沢の水と合して梓川となります。

【2019/09/16 15:57】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夏に小笠原諸島を訪ねて
1.三日月山中腹より:二見港-01D 1409q
写真1  父島の二見港

2.おがさわら丸-01D 1409q
写真2 父島の二見港に停泊する連絡船おがさわら丸

3.三日月山展望台-04D 1409q
写真3 父島の三日月山展望台

4.三日月山展望台より-02D 1409q
写真4 父島の三日月山展望台から見た島々

5.小港海岸-14D 1409qr
写真5 父島の小港海岸

6.父島大通り-05D 1409qr
写真6 父島の大通り

7.父島裏通り-09D 1409q
写真7 裏通りのみやげもの屋に掲げられた日章旗と旭日旗

8.父島:花-04D 1409q
写真8 ブーゲンビリアは南国の花

9.花飾り-01D 1409q
写真9 芝生にも花のアート

10.父島二見港:漁船-03D 1409q
写真10 父島を背景に出帆を待つ漁船たち

11.扇浦海岸:飛鳥Ⅱ-01D 1409qr
写真11 豪華客船 飛鳥

12.青灯台岸壁-14D 1409qt
写真12 民族衣装で観光客歓迎のダンス

13.父島二見港出航-02D 1409q
写真13 離島する飛鳥に漁船は送別のパレード

14.父島二見港出航-25D 1409q
写真14 船で追走しながら送別の挨拶を送る島民達

15.父島二見港:沿岸風景-10D 1409q
写真15 夕焼け空に父島の島影が浮かぶ。

16.小笠原父島:落日-10D 1409q
写真16 雲の隙間から輝きを放つ落日

小笠原諸島は東京都の島です。
1000キロメートル離れた南太平洋に浮かぶ30余りの島です。

人が住んでいるのは父島と母島の2島だけです。
飛行場が無いので島の玄関は父島の二見港です。
東京港から連絡船で一昼夜の航海になります。
(写真1、2)

父島の高台から見る近くの島影は父島の自画像でしょう。
海面からそそり立つ緑濃い島々です。
広大な太平洋の水色の背景に、くっきりと浮かび上がります。
(写真3、4)

小笠原の自然は独自の生態系なので、植物、昆虫など珍しい発見があります。
世界遺産に登録(2011年)されてから訪問者は増えています。
(写真5)

父島の大通りは整然とした街並みで、バスも走ります。
みやげもの屋に日章旗と旭日旗がはためいていました。
小笠原諸島は最南端の日本の領土です。
(写真6、7)

小笠原の家並みには南国の花、ブーゲンビリアが似合います。
足許の芝生にも可愛い花飾りがありました。
(写真8、9)

小笠原諸島は観光が主要産業ですが、漁業も盛んです。
小型の漁船で南太平洋の彼方にまで出かけます。
(写真10)

偶々、豪華客船の飛鳥が小笠原島に寄港していました。
島民は民族衣装で大歓迎です。
(写真11、12)

去りゆく豪華客船に漁船は全力疾走のパレードで見送ります。
島民達は海上まで出かけて見送りの挨拶を送ります。
飛鳥の船縁からも有り難うと挨拶を交わします。
(写真13、14)

やがて、水平線に沈む太陽は小笠原の空を橙色に染め上げます。
父島の島影を浮かび上がらせて、落日と雲のドラマは尚続いていました。
(写真15、16)
(以上)
【2019/08/31 16:01】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
菊の紋章
                  1.三笠公園-16D 1303qt
                  写真1
                     2.靖国神社-02D 0705q
                     写真2
外国旅行をする日本人は平成30年(2018年)千九百万人に増えましたが、彼らが所持するパスポートの表紙には菊の紋章が付いています。

パスポートは日本人であることを証明するものですから、菊は日本国の国花だと思いましたら、菊か櫻かは公式には決めていないのです。菊の紋章は皇室の紋章ですが、天皇陛下は日本国民の象徴ですから、菊が日本国を表す紋章になったのです。

菊は唐の時代に薬草として日本に持込まれたので、菊の花は梅や桜のように古くは注目されませんでした。鎌倉時代になって、当時の天皇が菊の花を深く愛したことにより、菊が天皇家の紋章に取り上げられたと言われます。

水戸黄門のドラマで格さんが悪人どもに「この紋所が目に入らぬか!」と掲げる印籠には葵(あおい)の紋が付いています。葵は徳川家の紋章ですから、幕府は自由に使うことを禁じました。その代わり、菊の紋章は天皇家のものでしたから、徳川時代その使用は自由でした。

そのため、江戸時代には和菓子や仏具にも菊花紋が使われたそうです。しかし、明治維新で徳川幕府が崩壊し、天皇が政治の実権を握ると、菊は国家の威信を示すシンボルとして復活します。

そして明治時代に入ると、皇族以外の者が菊花紋を勝手に使うことは禁止されました。そして菊の紋章は国家権力に関係する書類、器物、施設などに表示されることになりました。

その代表的な例が軍艦の船首に取り付けられた菊の紋章です。横須賀港に係留されている日露戦争時の旗艦三笠の船首にも、第二次世界大戦の戦艦大和にも菊の紋章が付けられました。また、外国にある日本大使館の玄関にも菊の紋章が付いています。
(写真1)

しかし、戦後は菊の紋章の使用制限はなくなりましたので、国務を預かる国会議員も菊のバッジを付けています。国家のシンボルとして重みがある菊の紋章に魅力を感じるからでしょう。

国家・国民を守るために命を落とした兵士達を祀る靖国神社の扉にも大きな菊の紋章が付いています。一際大きく、鮮やかな金色の菊の紋章でした。
(写真2)
(以上)
【2019/08/14 16:42】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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