fc2ブログ
疫病に退治された隅田川花火
隅田川の橋を渡り観覧席に向かう人々
1.花火見物の人々-13D 1407qt

隅田川の橋の上で花火打ち上げを待つ人々
2.隅田川花火-29D 1108q

路上観覧席で花火の打ち上げを待つ人々
3.隅田川花火-06D 0707q

隅田川の川面から花火を見ようと待機する舟の群れ
4.隅田川花火-1108q

待ちに待った花火が上がった ビルの上から
5.両国花火-01P 0607hqt

打ち上げ終盤で明るく映える花火 ビルの上から
6.両国花火-17P 06hqt

7月末の隅田川の花火大会はコロナ禍の所為で今年も中止となり、これで3年連続の中止です。江戸時代に疫病退治を祈願して始めた花火大会ですが、令和の時代には花火大会が逆に疫病のため退治されるとは、随分皮肉な話です。

スポーツ、音楽会などは既に平常に戻りつつありますし、各地の夏祭りも再開されています。7月の京都祇園祭り、8月の青森のねぶた祭り、土佐よさこい祭りなど、日本の代表的な夏祭りは、いずれも3年ぶりに再開です。

欧米では普通の風邪のようなコロナの感染者数の数えるのは意味がないと、既にやめてしまい、コロナとの共存に切り替えていますが、日本では毎日コロナ感染者数を懸命に数えて、その数が世界一になったと大騒ぎです。

どうも日本のコロナ対策は常識的でないようです。そろそろ正常に戻ったらよいでしょう。日本人が正常だった時代、隅田川花火大会を心待ちする人々の姿をご覧下さい。
(以上)
スポンサーサイト



【2022/08/06 18:13】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
若き日の思い出 北アルプス縦走
1.北アルプス-20P S34qt
写真1

2.北アルプス-13P S34qc
写真2

3.北アルプス-18P S34q
写真3

4.北アルプス-23P S34q
写真4

5.北アルプス-24P S34q
写真5

6.アルプス-06P S34qt
写真6

今は昔の思い出の一つ
若き日の楽しい登山の記憶
忘れられない北アルプス縦走
始めたばかりの写真撮影で
記録したアルバムを見つけた

北アルプスは立山、後立山、槍穂高の連峰の山脈
燕岳を経て大天井岳、槍ヶ岳へ
初心者の稜線コースを辿る
(写真1)

森林限界を越えた山脈の稜線は
起伏の少ない見晴らしのきく山歩き
足下に目をやると屹立する花崗岩の塊
青空の下に白く映える山の彫刻
(写真2、3)

やがて尖った山頂の槍ヶ岳が全容を現わす
裾野は深い谷に落ち込み
山腹には多くの残雪を抱えて
これぞ日本アルプスのシンボルと胸を張る
(写真4)

槍ヶ岳への稜線は険しい
諦めて上高地へと山を下りた
途中振り返ると槍ヶ岳が見える
何故途中で辞めたのかと
(写真5、6)
(以上)
【2022/07/31 12:36】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸の蕎麦は今の東京では
1.麻布十番:十番通り-06D 1901qt
写真1 

2.須田町一丁目:やぶ蕎麦-04D 1412q
写真2

家康が拓いた江戸の町には全国から多くの武士や町民が集まってきて住みました。江戸は新興の町であり武士の町ですから、住んでいるのは独身者が多く、町では今で言う外食産業が盛んになります。そこで生まれた料理が江戸の四大料理と言われる蕎麦、天ぷら、握り鮨、鰻蒲焼きでした。

中でも廉価で手軽な蕎麦は人気がありました。
森銑三の「風俗往来」によりますと、更科蕎麦の誕生は次のような次第です。
「更科そばは今から二百年前、今の日本橋馬喰町三丁目横町にあつた甲州屋と呼ぶそばやが、特にそばの名所産地信州更科のそば粉を取寄せて売出したのが抑ものやうに伝へられて居るが、今の更科は麻布永坂のが本家とされ、五代前、これも二百年ばかり昔に、信州の人で布屋太兵衡といふ人が、同所に経営したやうにも伝へられてゐる。」

今では都内には更科蕎麦屋は数多くありますが、更科の本家と称するのは総本家永坂更科布屋太兵衛です。港区の麻布十番商店街にあり、5階建ての立派なビルの一階で営業しています。更科蕎麦の特徴は、ソバの実の中心部の粉、一番挽き粉を使った蕎麦で、白くてさっぱりしていて御膳蕎麦とも言われますが、蕎麦の風味に乏しいきらいがあります。
(写真1)

次に、藪蕎麦も更科と同じ頃、江戸に現れました。
同じく森銑三の「風俗往来」によりますと、藪蕎麦の誕生は次のようです。
「藪そばの起りは、伊賀上野の旧主藤堂家の大膳職を勤めてゐた三輪某、何の為にか御殿を辞して、これも更科と前後して、今の(千駄木)団子坂の路辺にあつた大きな藪原の傍らにそばやを営み、藪蕎麦と銘して売出したのが最初である。」

現在の東京で藪蕎麦の本家と称するのは神田連雀町にある藪蕎麦です。創業は明治十三年(1880)と称していますが、その頃、団子坂の蔦屋という藪蕎麦屋を譲り受けたとのことですから現在の本家と言えるのでしょう。

藪蕎麦の麺の色は緑色なのは蕎麦の若芽を練り込んだからで、見た目の清涼感を出すためだそうです。更科蕎麦のように白色にする必要が無いので一番挽き粉に拘る必要も無く、蕎麦の風味も残るでしょう。

ところで、連雀町の藪蕎麦は関東大震災で焼失して再建した数寄屋造りの木造2階建ての店舗でして、東京大空襲にも遭わずに風情のある蕎麦屋でしたが、平成25年(2013)の失火で消失しました。森銑三は「風俗往来」で次のように嘆いています。
「苦心を残されてゐた江戸そばの遺物は、一つ残らず焼け失せた。此程焼け跡に建てられたが、もう「神田のやぶ」の面影も薄い。テーブルに曲木椅子で、中腰になつてすするのでは、そばも根ッからうまくない。」
(写真2)
(以
上)
【2022/07/17 20:55】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ビル街の隙間で見つけた冗談
新宿西口:コクーンタワー-52N 2206q

街のビル建設にスカイラインを揃えたのは昔の話
今のビル建設では周辺との調和などお構いなし
高さを競い外観に奇を衒う
今や整然たる都市景観は望むべくもない
ふとビルの谷間から空を見上ると
巨大な郵便ポストが聳えていた
(以上)
【2022/07/05 20:10】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
歴史的建造物の保存への意識 日本と西洋との違い
1フィレンツェ:ドゥオモ-02D 0611q
写真1 イタリア フィレンツェのドォーモ

2.東大寺-17D 1404qq
写真2 奈良の東大寺大仏殿

西洋では伝統的な建築物が破壊されたり壊れたりすると、その外観を元の状態に戻す努力を熱心に行います。第二次世界大戦で破壊されたヨーロパ都市の幾つかは、莫大な費用を掛けて元の姿に復元しています。それだけでなく、西欧の都市では古いビルをIT化するため改築する際に、ビルの外観を元の姿に戻す工事をすることもあります。都市の形態に歴史の記録を残そうとする意志が強いからです。

ヨーロパの都市の建造物の多くは自然石を積み上げて建てられており、ローマ時代の建造物が今も実用に供されている町もある位ですから、石の文明と云われるのに対して、日本は木造建築が大半でしたから木の文明と言えるでしょう。木造建築では耐用年数は長くて3~400年位です。そのことが都市の形態に歴史の記録を保存しよう意欲を弱めているのかも知れません。
(写真1)

更に残念な事には、3~400年位は長持ちする筈の日本の木造建築も、実際の寿命は実はずっと短いのです。建築史家の鈴木博之教授の説によりますと、日本の都市の建築の寿命は、平均すると鉄筋40年、木造20年だそうです。このように日本で建築の寿命が極端に短いのは、火災対策、地震対策、相続税などの制度上の制約があるためだと鈴木教授は言います。

しかしながら、神社仏閣については、西欧の石の文明にも負けない長寿の建造物があります(途中消失していますが)。奈良の法隆寺は西暦607年の創建といわれますし、同じく奈良の東大寺は西暦733年創建と言われます。伊勢神宮は20年ごとに建て替える独特の遷宮方式ではありますが、第一回遷宮は西暦690年ですから、神社仏閣の木造建築には1000年を優に越えるものもあるのです。(遷宮の考え方は、刷新による神聖の維持、建築技術の保存など別の理由によるもので、木造建築物の持続性とは関係ない事ですが)
(写真2)

ところで、同じく石の文明と言われる建造物でも、自然石の石積建築と近代のコンクリート建築では、根本的に異なるところがあります。自然石の石積建築はコンクリート建築より遙かに堅牢ですが、コンクリートでは鉄筋もセメント材も老化するから脆弱です。素材の寿命という点では、鉄筋コンクリートは木材より短いのです。

21世紀は、日本も欧米も人口は都市に集中し、都市に建つ建造物の殆どが鉄筋コンクリート造りとなります。建築技術の発達で、多種多様なビル建築が増えますが、同時に似たような都市景観も生まれてくるでしょう。その時には歴史的建造物の存在価値は更に高まるのです。
(以上)
【2022/06/24 20:53】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
銀座大通りは歩行者天国ではなくて自動車天国へ
1.中央通り:銀座:歩行者天国-64N 2206q
写真1

2.中央通り:銀座:歩行者天国-78N 2206q
写真2

3.中央通り:銀座:歩行者天国-81N 2206q
写真3

4.中央通り:銀座:歩行者天国-74N 2206q
写真4

5.中央通り:銀座:歩行者天国-91N 2206qt
写真5

梅雨入りしましたが好天の週末でした。
銀座大通りは、歩行者天国にも拘わらず広場となった車道を歩く人は少なく、車道を広場に代えるまでもない様子でした。
(写真1)

何時もは最も人通りの多い銀座四丁目交差点付近も、通行人の人影はまばらでした。
(写真2、3)

何時もは人だかりのある銀座松屋と銀座シックスの入り口付近も閑散としていました。
(写真4、5)

その代わりに銀座大通りを閉め出された多くの自動車は銀座裏通りで渋滞していました。

そこで、銀座に人を呼び戻すために、銀座大通りは歩行者天国ではなく、自動車天国にしたら良いでしょう。コロナ禍の心理的傷が癒えるまでは、銀座大通りにダブルパーキングを認めれば、町行く人々は増える筈です。
(以上)
【2022/06/13 11:57】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
観光名所の浅草寺 コロナ禍の傷は未だ癒えず
1.浅草仲見世通り-45N 2206qt
写真1 浅草寺仲見世通り

2.浅草仲見世通り-49N 2206qt
写真2 浅草寺仲見世通り

3.浅草寺山門-15N 2206qt
写真3 浅草寺山門前を行く半裸の外国人観光客

4.浅草寺本堂:裏から見た景色-01N 2206qt
写真4 浅草寺裏の駐車場に駐車中の観光バス

5.浅草六区通り-13N 2206q
写真5 浅草六区通り

6.ロックブロードウェイ-10N 2206q
写真6 ロックブロードウエェイ

7.浅草花屋敷通り-12N 2206q
写真7 浅草花屋敷通り ポツンと人力車一台

8.浅草花屋敷遊園地-06N 2206q
写真8 花屋敷遊園地前も少ない人影

コロナの流行も落ち着いて、日本各地の観光地にも人が出歩くようになったと聞いて、久方ぶりに浅草寺参拝に出かけました。コロナ流行が盛りの頃は、閑古鳥が啼いていた浅草寺の参道にも、6月に入ると少しずつ参拝者は増えているようで、仲見世通りには着飾った女性や学生達の歩く姿が見られるようになりました。外国からの観光客の入国規制は緩みだしたばかりですが、それでも少人数の外国人も見かけました。
(写真1、2、3)

浅草寺本堂の裏手の広い駐車場はガラガラでしたが、そこに大型観光バスが2台停車していましたので、団体観光も始まったのかと、少々安心しました。
(写真4)

しかし境内から一歩外に出てみますと、平日の午後ということでもありましたが、浅草六区通りやロックブロードウェイなどの周辺の主要な観光商店街は、殆どの店は営業していませんで、人通りはまばらでした。
(写真5、6)

花屋敷通りを道行く人は少なく、浅草花屋敷遊園地の入り口は閑散としていました。いち早くウイズコロナ・アフターコロナの時代を迎えて、元気に湧いている欧米でのニュースを聞くと、観光名所、浅草の沈滞ぶりに些か不安を感じる、久しぶりの浅草散策でした。
(写真7、8)
(以上)


【2022/06/04 10:39】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
盆栽の花 サツキ
1.上野公園さつきフェスティバル-07N 2205qt
写真1

2.上野公園さつきフェスティバル-05N 2205qt
写真2

3.上野公園さつきフェスティバル-06N 2205qt
写真3

4.上野公園さつきフェスティバル-02N 2205qt
写真4

雨量の多い日本の山野は酸性土壌が多い。
酸性土壌ではツツジがよく育つ。
だからツツジは庭木より野生に勢いがあるのだ。

同じツツジ科のサツキは小ぶりで優しく
ツツジに遠慮して遅れて咲くが
品種も多く花の命は長い。

小さな鉢に大きな花を色々に飾るサツキ
太い幹に真っ赤な傘を彩るサツキ
たおやかな姿態に淡い彩りのサツキ
盆栽のなかでは成長が早く仕立てやすいサツキは奥行きが深いのだという。
(写真1,2、3)

コロナ禍も峠を越えたのに上野公園のサツキ祭りは閑散としていた。
(写真4)
(以上)

【2022/05/29 11:36】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
熱海の姫の沢公園のツツジが燃えるとき
1.姫の沢つつじ-08P 90qt
写真1

2.姫の沢つつじ-10P 90qt
写真2

3.姫の沢つつじ-04P 92q
写真3

4.姫の沢つつじ-15P 91q
写真4

5.姫の沢つつじ-02P 91q
写真5

6.姫の沢つつじ-17P 90q
写真6

7.姫の沢遠望-01P 90q
写真7

麗しの五月の野山を最初に飾る花はツツジ
観る人が思わず足を止める程美しいツツジ
その意味を込めて漢字の名前は躑躅

ツツジの美しさには凄みがある
毒がある曼珠沙華の花は艶めかしいが
花蕊の蜜に毒があるツツジは燃えるが如く情熱的

熱海の姫の沢公園は丘陵の斜面にある
公園は低木のツツジ木で覆われている
色とりどりに咲くツツジの花で波打つように
赤い絨毯を敷き詰めたように
〔写真1、2)

ツツジの花が波打つ中を伸びる遊歩道
登山電車のようにジグザクに登る
足下は赤いツツジに囲まれて明るく
歩むにつれて花の波は表情を変える
(写真3、4、5、6)

今しがた親しんだ姫の沢のツツジの苑は
遠くから俯瞰すると
森林の中で燃える炎のようだ
(写真7)
(以上)
【2022/05/17 15:03】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
熱海峠から観る伊豆大島は半島の続き
1.熱海邸より大島を望む-01P 95qt

2.熱海邸より大島を望む-02P 96qt

熱海から箱根の十国峠へ向かう途中で熱海峠から伊豆大島が見える。
東京から120キロも離れた南の洋上に浮かぶ大島だが熱海峠からは意外に近い。
そして標高758メートルの三原山は意外に高く見える。

大島桜の発祥地で知られる伊豆大島は昭和の初めに流行歌の波浮の港で知られた。
そして昭和の終わりに三原山が噴火して全島民が避難して再び注目された。

伊豆大島は箱根の山塊のが熱海の海に落ちる稜線の上に浮かぶように見える。
朝早くは輝く海の後ろにシルエットになって黒々と佇み、夕方には山塊の稜線の上にあるパゴタを浮かび上がらせて霞む。
熱海峠から観る伊豆大島は伊豆半島の一部のようだ。
(以上)
【2022/05/07 20:13】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
春の息吹が甦るとき
1.代々木公園:樹木-168D 2111q
写真1 冬の木立

2.代々木公園:樹木-09D 2004q
写真2 春の木立

桜が散り
暫くして木の芽が葺き
冬の木立に
春の息吹が
みなぎる季節だ

古木に花が咲くとき
ことのほか愛でるのに
春の林が芽吹くとき
立ち止まって見上げる人はいない
この甦る力はどこから来るのかと
(以上)
【2022/04/26 15:02】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
伊豆は歴史的な政治変革を産んだ不思議なところ
1.石廊崎の海-03D 05
写真1 石廊崎

2.奇岩-02D 05
写真2 伊豆西海岸

3.天城七滝-02D 0708q
写真3 天城七滝

4.西伊豆の椿-02D 05
写真4 伊豆東海岸

伊豆半島は日本列島から太平洋に向けて南東に突き出た半島で、昔は「伊豆の国」と称せられていた土地ですが、不思議な事にこの伊豆の國で日本の歴史を変える政治現象が二度も起きているのです。最初は鎌倉時代が誕生する事件が生じた場所であり、二度目は戦国時代の大名治世が始まる先例が誕生した場所でした。

最初のケースは、京都を追われた源頼朝が関東武士団を結集して鎌倉幕府を樹立するため挙兵したのが伊豆の國でした。武力による日本全国制覇を遂げたのは源頼朝が初めてでして、以後朝廷と並んだ武家政権による日本統治が始まったのです。

二度目のケースは、室町時代末期に北条早雲が京都から伊豆の國に入り、そこを拠点に小田原城主として関東八州を支配しますが、荘園制を改革して領国城主支配の統治形式を初めて実現して、北条早雲は戦国大名の走りとなりました。

伊豆の國は関東平野の西端に位置する高地帯ですが、伊豆半島の全体の姿は、山脈が中央を走っていて平地に乏しく、海岸線は厳しい断崖が多くて近寄りがたい地勢です。しかも特段の文化的蓄積があった土地ではありません。それにも拘わらず、過去の歴史を見ますと地政学的に日本東征の拠点になった不思議な政治パワーが潜む土地なのか知れません。そう言えば、山並みにも海岸線にもエネルギーが溢れているようです。
(写真1、2、3,、4)
(以上)
【2022/04/18 16:33】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
かつら 偽装から装飾へ
アートネイチャー本社-02D 1110q

映画「王様と私」で王様役を演じた俳優ユル・ブリンナーは禿頭で有名になりましたから、西欧では男性の禿頭は少しもマイナスのイメージではないようです。しかし日本では禿を恥ずかしがる傾向が強いようです。男性が禿を嫌う大きな理由の一つは、女性が禿の男性を好かないからでしょう。その所為か、日本では先ず擬装用としての男性用かつらの市場が大きくなったと言います。

しかし、かつらは歴史的には、能楽、歌舞伎などで頭飾具として使用され、演劇用に発達したものです。ですから、かつらは、演技者の個性を表現するものであり美容とは関係ないものでした。他方、西洋では早くから男性用かつらが使用されていました。バッハの肖像画を見ますと立派なかつらを被っていますが、これは禿を隠すためではなく権威を示すためでしたから、これも美容とは関係ないものでした。

現代市販されているかつらの大半は美容のためであり、男性は禿頭を隠すため、女性は美形を保つためです。かつらを被ると男女ともに若々しくなり美しくなるので、かつらを被った彼や彼女に会う人の心も幸せにします。高価な洋服を着たり豪華な装身具を身につけるよりも、人物本体を良く見せるかつらを用いる効用は大きいです。

使用する効用が大きければ、その値段も高くなります。かつらには全頭かつらと部分かつらがあります。全頭かつらですと、大手メーカーの価格は1個で30万円~70万もします。カツラは高級時計や宝石に次いで高価な装飾品なのです。

更に、宝石には耐用年数はありませんが、かつらには寿命があります。修理する必要も生じます。また1個買えばそれでお終いではないので、頭髪の状況変化で男性でも複数買うことになりますし、装身具として使う女性の場合は、衣裳に合わせて何種類ものかつらを用意することになります。

日本のかつら産業は1960年代後半に誕生しますが、皆が高価なかつらを買い求めるようになるのは、高度成長も終わる1970年代後半からです。豊になって身の回りにお金を掛けるゆとりが出来てからです。最初は男性用かつらでしたが、その後は女性用かつらが伸びています。

日本の二大カツラメーカーにはアートネイチャーとアデランスがありますが、かつらの製造には精妙な技術が必要です。それは日本人が得意とする技術であり、日本のかつらメーカーは世界の先端を行きます。男性用に始まって女性用に進化したカツラ産業は、偽装から装飾へと技術進歩を遂げて、規模は小さくても高収益の魅力的な産業になりました。
写真は東京代々木にあるアートネイチャーの本社ビルです。
(以上) 
【2022/04/08 18:36】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
季節の逆戻りでシュールな写真が撮れた
1.雪:菜の花-01PA(皇居 2(84~96)Pq

2.雪:菜の花-05P 96(皇居 2(84~96)Pqt

四季は春、夏、秋、冬の順序で訪れますが、自然は気まぐれで偶にその順序が逆戻りすることがありす。桜が咲く頃、関東地方では時に寒気団に襲われることがあり、寒さで震えながら花見をすることになります。

ある年のこと桜も散って春も終わる頃と思っていましたら、時ならぬ寒気団の襲来で東京に一晩で結構な雪が降り積もりました。皇居のお濠端はすでに菜の花が満開でしたから、真っ白に積もったお濠の雪景色の中に黄色い菜の花が咲いている不思議な光景が撮れました。

ルネ・マグリットの絵「光の帝国」は下半分では夜を、上半分では昼を描いた絵でして、夜と昼を共存させたシュルレアリスム絵画の代表作と言われていますが、これらの写真は、冬と春を一枚の写真に写し込んだシュールな作品と言えるでしょうか。
(以上)

【2022/03/31 18:29】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
都心にもある渓谷 お茶の水渓谷
1.お茶の水橋より-01D 06
写真1

2.お茶の水橋より-03D 06
写真2

3.聖橋上から-01D 05
写真3

4.昌平橋から:神田川の舟-04D 05q
写真4

東京に渓谷があるのを知っているかと問うと、大抵の人は奥多摩の渓谷かと答えますが、違うと言うと都内に住んだことのある人なら世田谷の等々力渓谷だろうと答えます。違う、都心にある渓谷のことだというと怪訝そうに何処かと問います。

それはお茶の水渓谷だというと、なーんだ、あれは人工の堀割で、渓谷とは言わないと返事が返ってきます。確かにお茶の水渓谷は、徳川幕府が江戸城防衛のため外堀を築いたとき駿河台台地を開削した人工水路ですから自然の渓谷とは言えないでしょう。

しかし、中央線に乗ってお茶の水駅に入るとき見える車窓を流れる景色は紛う事なき渓谷です。緑に溢れる断崖の下に深く流れる水路は、真夏の暑い日中などには涼しささえ感じる渓谷です。この渓谷は神田川と言い、南こうせつが「赤い手拭い マフラーにして二人で行った 横丁の風呂屋」と歌ったあの「神田川」の下流なのです。

徳川幕府は、江戸城防備のため隅田川の内側に、もう一つ水路を設けましたが、その掘割が神田川なのです。お茶の水付近は小高い台地であったので、掘割の両岸は高く聳えて、都心には珍しい渓谷が出現したのです。今では、断崖となった斜面には多くの樹木が茂り、季節の花々が咲き、趣のある風景を楽しめます。
(写真1、2)

江戸時代、お茶の水の地域は「山手」の端に当たりました。そこから先は急に低くなって神田の下町となります。そのため、ここの地形には大きな段差があるので、この地域を走る中央線、総武線、地下鉄丸ノ内線は、鉄橋とトンネルで上下に重なって走っています。
(写真3)

このお茶の水渓谷の末端では、上空には複数の鉄橋が立体交差して架かっており、水路を覗き込むと水上では荷物を運ぶ作業船が時には行き来しているのを見る、都心では珍しい渓谷なのです。
(写真4)
(以上)
【2022/03/23 13:56】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
野良猫の路上での睨み合い
1.根津:猫-02D 1110qt
写真1

2.根津:猫-03D 1110qt
写真2

3.根津:猫-04D 1110qt
写真3

4.根津:猫-05D 1110qt
写真4

5.根津:猫-07D 1110q
写真5

猫には生活圏があり縄張りがあるそうです。メスの生活圏は食料資源で決まり、オスの生活圏はメスの密度で決まるそうです。

今、路上で睨み合う野良猫は食糧資源で争う睨み合いでなく、メスの奪い合いで威嚇し合っているようです。
(写真1)

睨み合いの最中、黒い猫は白い猫の前を威嚇しながら通り過ぎますが、白い猫は一歩も退かずに、互いに尻尾を挙げて踏ん張ります。
(写真2)

威嚇合戦で黒い猫が目を逸らし、白い猫を下から見上げるようなポーズをとったので勝負がついたようです。
(写真3、4)

負けた黒い猫は去って行き、勝った白い猫は逃げ去る黒い猫を「どうだ」とばかりに見やっています。
(写真5)

カメラを構えて噛み合いう場面を期待していましたが、噛み合う活劇は起きずに、睨み合う心理戦を観察する事になりました。
(以上)

【2022/03/14 18:33】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
神田須田町にある戦前の情緒漂う木造の料亭建築街
1.旧万世橋駅マーチエキュート-07D 1412q
写真1 万世橋駅として建設されたもの 現在はマーチエキュート万世橋商店街

2.須田町の夜景:いせ源-03D 06
写真2 あんこう鍋屋

3.須田町1-06D
写真3 鳥すき屋

4.須田町裏通り-16D 1110
写真4 甘味処

5.須田町裏通り-18D 1110qr
写真5 老舗のそば屋(火事で焼失して今は建て替えられました) 

東京大空襲で焼け野原となった東京の下町にも被害を免れた地域が所々に残っていますが、万世橋の袂に戦前の町並みを残した一街区があります。その街区は四方を川と幅広い道路に囲まれていたので戦火の延焼を免れたのです。

この街区の北端を流れる神田川に沿って、万世橋から昌平橋に延びる煉瓦造りの長大な構築物がありますが、これは甲武鉄道のターミナル駅、即ち万世橋駅として建設されたもので、将来は現在の中央線と総武線を繋ぐ交通の要所となる筈でした。従って、その辺りはターミナル駅前の一等地になる筈でしたから、戦前も早い時期から高級料理屋や飲食店などが建ち並びました。
(写真1)

しかしその後、中央線は東京駅が始発駅となり、総武線は秋葉原経由となって万世橋駅は不要となり、駅周辺は発展から取り残されることになりました。発展に取り残されたお陰で今の東京では珍しい純日本風の木造建屋が数軒建ち並ぶ街区が出来たのです。日本料理のあんこう鍋屋や鳥すき焼き屋、日本風の甘味処、蕎麦屋などが狭い地域に纏まって建っています。

この近くには若者で賑わう秋葉原電気街やサラリーマンで混み合う神田駅周辺の飲み屋街がありますが、この須田町の一郭は、それらとは対称的な静かな街区で、戦災前の東京の古い町並みの情緒を残すところとして人々を惹きつけています。
(写真2、3、4、5)
(以上)

【2022/03/08 14:54】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
浮世絵の色彩表現は鈴木春信が創案した
1.谷中寺町:大圓寺-05D 2110q

鈴木春信の墓がある谷中の大円寺

浮世絵が西洋の美術界に衝撃を与えたのは、異国趣味という題材ではなく、絵が線で構成されており、遠近法によらないので立体感はほとんど無く、極端にデフォルメされた構図で意外性があったからと言われています。

その代表的な絵師として、葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、東洲斎写楽の4人が挙げられていますが、実は西洋美術界が一番衝撃を受けたのは油絵では表現できない浮世絵の精妙な色彩表現にあったと言います。

美術史家田中英道氏は「本当にすごい!東京の歴史」という著書で次のように述べています。
「それまで単色か、せいぜい二、三色であったのを、彫師や摺師と協力して十数色もの多色摺の技法を完成させ・・・微妙な中間色で表現される繊細で叙情的な・・・作品に仕立て上げたのは春信でした。」

春信とは時代的に上記の4人の絵師の先輩に当たる鈴木春信です。鈴木春信は原画を木版に彫る人、木版を使って色刷りする人との共同作業で浮世絵の色彩表現を一新させたのです。浮世絵の魅力の源はその精妙にして魅惑的な色彩にあったのです。

一説によりますと、印象派を代表するクロード・モネは、総菜屋の買い物で包装紙の浮世絵を見てその色彩表現に驚嘆し、その直後に有名は「ラ・ジャポネーズ」という絵を描きました。赤い着物を着た金髪女性が扇子を手にして振り返る姿の絵です。

日本の着物に錦織と言われる絵柄がありますが、これは秋になると日本の自然の野山が変容する姿を写し取ったものです。春信の版画も「吾妻錦絵」として売り出され、江戸町人から大変歓迎されたそうです。

さきに江戸の浮世絵師たちの墓は忘れ去られていると申しましたが、鈴木春信の墓は、谷中の大円寺にありました。
(以上)
【2022/03/01 18:33】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
葦の髄から天井を覗く
1.新宿西口超高層ビル群:新宿西口より-01N 1610qt
写真1

2.新宿西口:地下ロータリー-21D 2110q
写真2

3.新宿西口:地下ロータリー-23D 2111qtc
写真3

江戸いろは歌留多に「葦の髄から天井を覗く」と言う読み札がありますが、これは道教の祖、荘子の言葉を援用したものと言われ、その意味は、細い葦の茎の管を通して天井を見て天井の全体を見たと思い込むことです。井の中の蛙大海を知らずと同じで悪い意味です。

しかし写真撮影では、画面の上下左右に陰影を置いて主題となる対象物に視線を集中させる手法を屡々用いますが、その極端な例が鍵穴から覗く景色で、人々の注意を一点に集中させる効果は抜群です。写真撮影では「葦の髄から天井を覗く」手法は有効なこともあります。

JR新宿駅の西口を出たところに地階ロータリーがあり、その天井は大きく円形で抜けています。地階の天井に大きく開いた穴の口径は巨大で、とても葦の茎とは言えませんが、それでも原理的には「葦の髄から天井を覗く」のと同じ効果はあります。

新宿駅西口の広場前に聳える超高層ビル群を地上で眺めた(写真1)後に、地下に下りて地階ロータリーの穴から同じ超高層ビル群を覗いて見ると(写真2)、景色は大分違ったものに見えます。更に穴から覗く角度を変えて穴の上下を縮めて見ると(写真3)見える景色は又違って見えます。

この景色の違いは、超高層ビル群の全体を見るか部分を見るかの違いだけではなく、被写体の形態が変わったように見えるのです。画面中央の超高層ビルはコクーンタワ-と言う繭(まゆ)をイメージした個性的なビルですが、ここに掲げた三枚の写真を比べて見ると、全体写真ではスマートだったビルは視界を狭めると次第に太って見えてきます。視界量が変わると景色も変わるのは、天橋立の股覗き効果と同じ現象です。葦の髄から天井を覗く撮影手法も時には試してみると面白いものです。
(以上)
【2022/02/22 12:23】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
今も戦前の下町風情が残る根津の町
1.根津二丁目:はん亭-05D 1906qtc
写真1 串揚げ屋のはん亭本店

2.根津神社参道街路-03D 1906qt
写真2

3.根津:谷田川跡道路:古い木造家-04D 1111qr
写真3

4.根津二丁目:路地-24D 1906q
写真4

谷中、根津、千駄木は、山の手の下町として纏めて千駄木と呼ばれますが、中でも根津は根津神社の門前町として発展した歴史がありますので、往時には料理屋や飲食店が並ぶ賑わいがあったそうです。

そして根津の町は戦災に遭わなかったこともあって、大正から昭和初期に建てられた建物が所々に今でも残っています。その一つが不忍通り沿いにある串揚げ屋のはん亭本店で、今では珍しい木造三階建ての建物で、国の登録有形文化財になっています。
(写真1)

一方、根津は職人の町でもありましたので、今では都内では見られない珍しい職人の店を散見します。根津神社参道を進むと、店頭に屏風、表具、襖額と看板を掲げ古風な木造商店が残っています。また藍染川を埋め立てた道路に面しては藍染業の店が今も営業しており、染物、洗張という看板を掲げておりました。(最近、古い建物が建て替えられてモダンになりましたが、写真は改装前の古風な店舗です)
(写真2、3)

更に、根津の町並みの裏通りには格子状に縦横に小道が続き、戦前からの木造家屋が軒を連ねて並んでいます。家の前に鉢植えが並び、公道が住民の中庭のようにつながっています。このような風景は本所、深川の下町にも見られる風景です。その小道を時々何が珍しいのか外国人観光客が散策していました。
(写真4)

西洋の整然とした町並みと違う、どこか雑然とした日本の町並みを東洋的猥雑さと批判していた嘗ての西洋の都市評論家の中には、今では住宅街の公道が住民の中庭のように草木で飾られている東京の下町を見て、言葉の使い方は違いますが Urban Village(町の中の村)と呼んで再評価しています。根津の裏通りを散策する外国観光客は、そういう人たちなのでしょう。
(以上)

【2022/02/15 13:40】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム | 次ページ