FC2ブログ
百合の樹が芽生える頃
1.内堀通り:半蔵門交差点-08D 1904q
写真1
2.迎賓館前ゆりの樹公園-08D 1904qt
写真2
3.迎賓館前ゆりの樹公園-24D 1904q
写真3
4.迎賓館前ゆりの樹公園-13D 1904q
写真4
5.迎賓館前ゆりの樹公園-19D 1904qt
写真5
6.迎賓館前ゆりの樹公園-18D 1904qt
写真6
木々が芽生える春先
百合の樹も一斉に芽吹く
大柄で樹形も整っている百合の樹の街路樹
百合の樹の並木道に緑の風が吹き抜ける
(写真1)

赤坂離宮の正門には百合の樹の公園がある
百合の樹が芽をふくと公園は明るくなる
百合の樹越しに見るビル街も爽やかだ
(写真2)

後光に映える百合の樹は堂々としている
身を反り返したり
両手を挙げたり
誇らしげだ
(写真3、4)

芽生えて嬉しくて踊り出す百合の樹たち
葉が大きくなる前の身軽なうちに
五月の青空の下で大いに踊れ
(写真5、6)
(以上)
スポンサーサイト
【2019/06/08 09:42】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
平成最後の櫻 千鳥ヶ淵
1.皇居の花見:千鳥ヶ淵-82D 1904q
写真1
2.皇居の花見:千鳥ヶ淵-121D 1904q
写真2
3.皇居の花見:千鳥ヶ淵の行列-03D 1904q
写真3
4.皇居の花見:千鳥ヶ淵-127D 1904q
写真4
5.皇居の花見:千鳥ヶ淵-95D 1904q
写真5
昭和のバブル崩壊の付けの後始末に加えて、大災害に見舞われた平成時代が終わり、年号は令和に代わりました。

しかし、櫻の花は改元と関係なく、例年のように見事に咲いていました。今年は花冷えが続いたので、平成との別れを惜しむかのように、櫻の花は例年より長く咲きました。特に、皇居千鳥ヶ淵の櫻は平成の見納めか、花見の人々は例年より多かったようです。
(以上)

【2019/06/02 18:43】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
森は神という文明は世界に通じる
1.鹿島神宮-11D 0805q

2.鹿島神宮-04D 0805q
3.鹿島神宮-06D 0805qr

古代文明は森林を破壊して滅びたと文明史家は言います。森林は築城や造船のため伐採されて消えていきました。森林の消滅は水資源の消滅であり、大地の砂漠化でした。森林は炭酸ガスを吸収し酸素を供給します。人類は酸素を消費し炭酸ガスを排出します。森林と人類は相互補完関係にある友人なのに、現代まで人類は一方的に森林を痛めつけてきました。

文明の始まりは森林の中でした。それは母の胎内で生命が育まれるのと同じです。動物は母なる海から母なる森へ移り住みました。人類もその動物の一分派なのです。

西洋の伝説には森に悪魔や妖怪が住むと云う話が沢山あります。西洋人にとって森林は未開の暗黒の世界でした。しかし日本では、樹木を恵みの源と見て巨木を神聖視する信仰があり、人間の寿命の10倍も20倍も生き続ける古木に畏敬の念を持ち、森は神の住む神聖なところ、更には森そのものが神であると信じて来ました。

日本に古くからある山岳信仰は、森林に覆われた山全体に神性を認めるところから始まったのです。古代の日本人は、山奥深くに仮小屋のような小さな社(やしろ)を建てて、そこで山の神の祭事を行いました。「やしろ」は今様の神の住む神社ではなく、屋代(仮の小屋)だったのです。神は山そのもの、山全体であり、屋代は山の神を祀る儀式を執り行う、祭場であったのです。

日本では地方に行くと山裾や村はずれに鎮守の森を見ます。年を経た大木の森に囲まれた神社です。神は山であり森ですが、その神が山から里まで下りてきて、そこで人々から豊作と安寧の祈願と感謝を受けるところが鎮守の森です。

西洋の文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏は、森林に対する日本人の意識が日本の国土に森林を広く自然のまま残してきたと、次のように指摘します。(田中英道著「本当にすごい!東京の歴史」より引用)

「私が本で読んだところでは、日本の総面積の七五パーセントは開発されないままの状態にあるそうです。その面積については、人は何も言いませんが、この七五パーセントというのは、一体何でしょうか。……(中略)……この問題に、日本は西洋とは違った答えを出しているのではありませんか。西洋は、まだ手を施す余地のあるところでは自然の保護を試みています。しかし日本は別の解決、つまり必要なところでは過剰開発し、それがないところでは、自然を完全に尊重するという解決を見出しているのではないかと思うのです。」と。

自然を神聖視する日本古来の思想が、日本の森林を守っていると西洋人も理解しているのです。

写真は茨城県の鹿島神宮です。
(以上)
続きを読む
【2019/05/11 18:36】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
饗宴の終わり
1.皇居の花見:千鳥ヶ淵-20D 1204q
写真1
2.桜-03PY3(事項:花と樹 P)
写真2
3.桜-13P(事項:花と樹 P)(写真随想2)
写真3
4.桜-05P(事項:花と樹 P)
写真4
5.さくら花びら石畳-02D 1204q
写真5
6.さくら花びら-14D 1204q
写真6
櫻は咲き始めると一斉に満開となり、散り始めると忽ち紙吹雪のように散ります。櫻の花は、訪れるのも立ち去るのも、その足は俊足です。俊足と言えば、日本列島を南から北へ駆け上がる足も速いものです。

櫻の花の饗宴は終わりました。
櫻は咲いているときも美しいですが、散るときが最も美しいです。そして散った後も美しさの余韻を残します。

川に散って川面に浮かぶ花びらは、塊となり繋がりあって「花筏」になります。
(写真1)
池に散って岸に吹き寄せられて、花びらは池面を花模様の衣装で覆います。
(写真2)
道に散った花びらは、道の両端に溜まって「花道」を象ります。
(写真3)
庭に散った花びらは、「花毛氈」となって、思わず行く足を留めます。
(写真4)
散った花びらで縁取りされた道の石畳は、知らない造形美を表します。
(写真5)
櫻の根元に散った花びらは、力強い木の根の姿を浮き彫りにします。
(写真6)
(以上)
【2019/04/18 12:07】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本橋に櫻通りが二つある
1.中央通り:日本橋二丁目櫻通り-07D 1903qtc
写真1 
2.中央通り:日本橋二丁目櫻通り-01D 1903qt
写真2
3.日本橋:室町江戸さくら通り-12D 1903q
写真3
4.日本橋:室町江戸さくら通り-16D 1903q
写真4

八重洲北口から日本橋高島屋へ抜ける道路の街路樹は櫻です。
左右の桜木は道路を覆うように成育しています。
満開時には櫻のトンネルとなります。
(写真1、2)

三越前の室町江戸さくら通りの街路樹も櫻です。
植えられて未だ間もない桜木は若木です。
超高層ビルの谷間に楚々と咲いています。
(写真3、4)

上野の櫻は上野の山に行かねばなりません。
墨田の櫻は隅田川へ行かねばなりません。
でも、日本橋の櫻は仕事をしながら眺められます。
日本橋には素晴らしい櫻並木があります。
(以上)
【2019/04/05 22:03】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
小塚原回向院と日本近代化
小塚原回向院-02D 0702qr
写真1
小塚原回向院-08D 0702q
写真2

日本の近代医学は、幕末に杉田玄白たちがオランダ語の医学書を「解体新書」として翻訳したことに始まります。当時(1773~4年)、オランダ語の辞書はありませんし、西洋医学が対象とした人体の器官の名称も日本語にはありませんでした。ですからオランダ語の医学書を日本語に翻訳することは大変な難事業でした。(因みに神経、軟骨、動脈などの熟語はこの翻訳で作られたのです)

小塚原の処刑場で刑死者の腑分けに立ち会った杉田玄白たちは、原著「「ターヘル・アナトミア」の記述が詳細にして正確なことに感銘して、困難な翻訳に着手しました。「解体新書」は医学の専門書でしたが、その社会的影響は大きく、その影響で江戸末期には蘭学が盛んとなり、明治時代になって西洋の近代科学を日本が受け入れる素地を作ったとも言われています。

小塚原処刑場跡の近くにある回向院は、寛文7年(1667年)刑死者を弔うため両国回向院の別院として設立された寺です。幕末には幕府の鎖国政策に反対して命を落とした吉田松陰などの憂国の志士たちが多数ここに埋葬されました。日本の近代化を成功させた明治維新は、江戸末期に命を賭して戦った彼ら志士たちの存在なくして成就できなかったでしょう。(写真1)

その志士達のお墓の入り口に「蘭学を生んだ解体の記念に」という一文を刻んだ石碑が建ててあります。その石碑には日本医師学会、日本医学会、日本医師会の連名で、「解体新書」は日本の近代文化が芽生えるきっかけとなったと記しています。回向院は日本の近代化と深い縁で結ばれている寺です。(写真2)

小塚原回向院は、荒川区の南千住駅近くにある小さな寺ですが、政治的にも、文化的にも、西欧の衝撃を受けた日本が鋭く反応したときの記憶を留める寺です。志士たちと医学者たちを結びつける不思議な縁(えにし)の寺です。私たちは彼らのお陰で今日を生きていることに思いを致すためにも、小塚原回向院に一度お参りしては如何ですか。
(以上)
【2019/03/21 11:29】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
なぜ日本人は行列好きなのか
1.中央通り:銀座:正月雑踏-02D 1901q
写真1 銀座中央通り
2.明治神宮:初詣-07D 0901qt
写真2 明治神宮初詣
3.千鳥が渕-06N 03(皇居・九段 NP)q
写真3 千鳥ヶ淵の花見
4.新宿南口:サザンテラス:クリスピー・クリーム・ドナツ-05D 0706q
写真4 新宿南口サザンテラスの跨線橋
5.銀座マロニエ通り-40D 1901q
写真5 銀座裏通り
6.明治通り:表参道交差点~千駄ヶ谷小学校-31D 1902qt
写真6 明治通りの神宮前交差点付近
7.年末ジャンボ宝くじ-01D 1112q
写真7 有楽町の年末ジャンボ宝くじ売り場

東京の街を歩いていると色々な行列に出会います。
新年の銀座で歩道いっぱいに秩序よく歩く人々がいる。(写真1)
明治神宮の初詣では寒くても夜中から人々は我慢強く長い列をつくる。(写真2)
千鳥ヶ淵の桜見物では人々は濠端の道を列を作って粛々と歩く。(写真3)
新宿南口のサザンテラスでは人気のドーナッツを買う人々が跨線橋まで長い列を作る。(写真4)
ブランドを求めて人々は銀座の有名ファッション店を取り巻いて長い列をつくる。(写真5)
新型スマホを求めて待つ若者達の列は長すぎて途中で仕切られる。(写真6)
年末の新橋ではジャンボ宝くじを買う人々が歩道まで延びる長い列をつくる。(写真7)


中国メディアのサーチナは、日本の「行列信仰」はすさまじい、列に並ぶ日本人の習慣はもはや「強迫性障害」に近いほどと批判的ですが、最後には「並ぶ」のは「平等」を直接表現する形で公平な社会秩序を体現しているので文明国の公衆道徳の見本だと好意的に評価しています。また香港の鳳凰網は行列を「秩序の美」であり、日本の行列文化は手本にすべきとまで褒めます。総じて中国系メディアは日本の「行列」を褒めますが、その狙いは中国社会への批判に力点があるのでしょう。

中国メディアの行列評価のなかで「行列は日本人にとって帰属感を与えてくれる」という指摘がありましたが、「行列の核心」を衝いていると思います。地縁・血縁による結びつきは利益・機能による結びつきより強固です。島国日本に住む日本人は、大陸国家の中国人より共同体意識が強いのです。

それでは同じ島国のイギリス人はどうでしょうか?
少し旧い記事ですがNews Week(2011,02,09)の「行列と秩序とイギリス人」(コリン・ジョイス)が面白いことを書いています。

イギリス人には、何事も先着順位を尊重し、割り込みには強く反対する習性があると言い、公衆電話が複数あっても一列の行列ができて、先頭者がいずれの電話機にも優先権があるという暗黙の了解があるのだそうです。

パブでイギリス人は飲み物を注文しにカウンターの前に立つとき、誰が自分より前にいたか、誰が自分より後に来たか、無意識のうちにチェックしていて、先着者が優先する暗黙の決まりがあり、列は作らなくても互いに順序を無意識のうち守るのだそうです。イギリス人の深層心理には平等や公平を重んじる意識があるのだろうと述べています。

行列作法一つとってみても中国、日本、イギリスの国民性の違いが見えて面白いものです。
(以上)
【2019/03/09 15:42】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
犬橇は乗って楽しい、見ていて尚楽しい
オーロラ見物-006D 0902(オーロラ見物:恵理より)q

雪は柔らかく、時には深く、その上を移動するのが難しく、
嘗ては犬橇(いぬぞり)は雪国では欠かせない交通機関で
した。

今は雪が降っても道路は除雪されて自動車は走りますし、
除雪できない雪深い所ではスノーモービルという雪上自
動車で走れます。

犬橇と言えば第一次南極観測隊で働いて置き去りにされ
た樺太犬タロとジロが、越冬して生きていた話が感動を
呼び、樺太犬はそれ程までに生命力と生活力のある優れ
た犬だと、人々の記憶に残っています。

今は実用としての犬橇は北方僻地の原住民が使うだけで
しょうが、観光用やスポーツ観戦用としては今でも犬橇
は活躍しています。

北極圏に近い北欧の国々では、犬橇は冬期観光の目玉だ
そうです。写真はオーロラ見物にノールウェーを訪れた
とき乗った観光用犬橇の犬たちです。
(以上)

【2019/02/27 13:24】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大正時代の文化人に愛された代々木
1.高野辰之住居跡-01D 1812qr
写真1 高野辰之住居跡
2.春の小川-09D 1007q
写真2 春の小川記念碑
3.絵画:切通しの写生(道路と土手と塀)
写真3 岸田劉生の「切通しの写生(道路と土手と塀)」
4.切通しの坂-01D 0703qtc
写真4 切り通しの坂の現状
5.菱田春草終焉の地:史跡標柱-01N 1901q
写真5 菱田春草終焉の地の史跡標柱
6.田山花袋終焉の地の史跡標柱-04N 1902q
写真6 田山花袋終焉の地の史跡標柱
7.代々木公園-31D 04q
写真7 緑の多い代々木公園

その歴史を辿ると、代々木には加藤清正や彦根藩井伊家の有力武士たちの屋敷があったところで、明治神宮境内に清正の井戸(湧水)があり、彦根藩の下屋敷には代々木と言われた大樅木があったように、地勢に優れたところでした。

大名屋敷の跡地は明治時代に桑畑や茶畑になりましたが、明治末期に都心のお茶の水から八王子への鐵道(今の中央線)が敷けると、大正時代には代々木駅周辺は便利な郊外となり、詩人や画家や小説家たちが移り住み、文化人ゆかりの土地になりました。

「春の小川」の作詞者で国文学者の高野辰之は代々木に居を構えましたが、その住居跡には今も「高野」という表札のある木造の家が残っています。場所はJR代々木駅から西に歩いて10分程のところです。
(写真1)

高野辰之の旧居跡の前の道を真っ直ぐ西に進むと小さな坂があり、その坂を下った先に「春の小川」の水源池(今はマンションの下に埋まる)があり、そこから河骨川が流れ出ていました。高野辰之はその畔を散歩しながら故郷の長野県野沢の風景を思い浮かべて作詞したのでしょう。

高野辰之が見た「春の小川」は河骨川と言い、渋谷で宇田川に合流し、その後渋谷川に流れ込みます。最近、渋谷駅の南側が大開発され、その一環で渋谷川の浄化が行われた時、「春の小川」が復活したとメディアが騒ぎましたが、実は春の小川は渋谷川の支流の、また支流なのです。
(写真2)

春の小川に行き着く前に通った下り坂は、岸田劉生が描いた絵画「切通しの写生(道路と土手と塀)」(重要文化財)の坂です。土手を切り開いて造られた赤土の道、垂直に切り立った片側の赤土の土手、反対側の真新しい石垣と石塀は、当時、代々木のこの辺りが住宅地開発中だったことを物語っています。岸田劉生は、その頃、代々木の山谷町に住んでいましたから、散歩の途中にこの光景に出会ったのです。
(写真3、4)

この絵は、よく見るとディテールまで現実を精細に描いているのに、道路の消失点は高く、両側の塀と崖の消失点は低く、一致していません。奥行きを表現する消失点を二つにして道路を立ち上がるように強調したデフォルメ画は、赤土の真新しい坂道への愛着と、当時流行りのポスト印象派への強烈な異議申し立てなのでしょう。

茨城県の五浦で横山大観と共に画業に励んでいた菱田春草は、目を患って代々木に引越してきます。高野辰之の旧居跡の近くに代々木山谷小学校がありますが、その校庭の角に菱田春草終焉の地の史跡標柱が建っています。菱田春草の絵画「落葉」(重要文化財)は有名ですが、菱田春草は同じような雑木林の絵を何枚も描いていますから、当時の代々木は、まだ国木田独歩の言う武蔵野の一部だったのでしょう。
(写真5)

文化服装学院の裏通りの一隅に小説家、田山花袋終焉の地という史跡標柱が建っています。田山花袋は明治末期に代々木のこの地に居を構え、没するまで住んでいました。その場所は甲州街道に近く、高野辰之の旧居跡から遠くないところです。

田山花袋は「蒲団」「田舎教師」などの告白型小説で有名で、島崎藤村と共に自然主義文学の旗手として活躍しましたが、懺悔と小説(フィクション)との区別を知らない当時の文壇の人々から攻撃され、その後、白樺派の台頭と自然主義派の衰退で文壇の主流から離れ、晩年は静かな郊外の代々木で過ごしたと言います。

しかし、人生の真実を追究する文芸の立場からは、当時の日本の文壇では私小説の存在意義は大きく、キリスト教会的考え方に支配された西欧文学には生まれなかった独特のものでした。
(写真6)

第一次世界大戦で戦勝国となった大正時代の日本は、大正デモクラシーと言われる平和な時代を謳歌しました。そして代々木は、活躍する多くの文化人が好んで住んだ場所でした。現代の代々木も、明治神宮と代々木公園がある、都内では皇居に次いで緑の多いところです。
(写真7)
(以上)
【2019/02/20 18:57】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
樹木の美しいプロフィール
1.樹木-55D 1712q
写真1
2.樹木-71D 1712q
写真2
3.樹木-52D 1712qr
写真3
4.樹木-82D 1712q
写真4

紅葉した樹木は夕日に映えて鮮やかに
すっくと揃って立った清々しい姿(写真1)

シルエットは枝葉の模様を浮き彫りに
整列した荘厳な姿(写真2)

落葉の巨木は骨格を露わにして
鎮座する盤石な姿(写真3)

秋空の夕雲を背景に
髭もじゃの大木は仁王立ちする姿(写真4)

樹木のプロフィールは全て美しい

(以上)
【2019/02/07 12:11】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
超高層ビル群の前に松飾り
1.皇居前広場(皇居外苑)-59D 1712qt

2.皇居前広場(皇居外苑)-60D 1712qt

3.皇居前広場(皇居外苑)-61D 1712qt

正月には家の前に門松を立てます。
戸建ての家でも、マンションのビルでも門松を立てます。
新年に年神をお迎えするためです。

皇居の前に並ぶ超高層ビル群の前にも門松が立っています。
地植えの松ですから一年中立っています。

皇居前ですから
正月には地植えの松も居住まいを正していました。

(以上)


【2019/01/29 18:58】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
神道はユニヴァーサル
鹿島神宮-07D 0805qr

多くの日本人は、新年には初詣と称して神社にお参りします。そのとき普通の人は氏神(うじがみ)様にお参りします。誕生したときも七五三のお祝いのときも、氏神様に感謝を捧げました。新しい年の門出に際しても、昨年の加護に感謝し、今年の幸せを祈るためです。

日本の神社には二つのタイプがあります。一つは産土(うぶすな)型神社であり、もともとは祖先神を祀った神社でして、普通は氏神様と云われます。その後、氏神様は村ごとに祀られ、鎮守の杜に鎮座し、五穀豊穣などを祈る地域共同体の祭神となりました。

もう一つは、勧請(かんじよう)型神社であり、総本社から分霊して創設した神社です。家内安全とか無病息災などの個人的な祈願をする崇敬型の神社です。このタイプには、神道だけでなく、仏教、儒教、道教などの祭神も加わり、所謂「神仏習合」が行われているものが多くあります。

キリスト教やイスラム教の一神教の人々からみると、このような神道(しんとう)の習合という活動は、理解しにくいもののようです。しかし、明快な論理で神を説く一神教の世界で、布教を巡り屡々激しい闘争がくり返されている歴史を見ると、神道が持つ他宗教への包容力は不思議な魅力があり、それが何処から生まれてくるのか知りたくなります。

神道の神社に参拝したとき本殿の内部に目をやると、そこには仏像やイエスの十字架のような具象物はありません。信仰の対象になる本尊を表現する具象物がないのです。神社にある具象物と言えば、三種の神器に相当する鏡であり、それらは信仰からみれば道具にすぎないもです。

言うなれば神社の中は空っぽなのです。神社が神社である所以は、そこに神道の神が降りてくると信じることだけなのです。古神道(こしんとう)では万物に神が宿るという八百万の神々を信じますが、それは既存宗教のいう人格神だけでなく、自然神をも含めたものです。

神道では神社を「やしろ(屋代)」と言います。「やしろ」とは仮小屋のことです。神が現れて神事を行う場所を指し示す仮小屋なのです。そのことを知るには数百年も前に建立した古い神社に参拝すると良く分かります。広大の境内の奥深くに飾り気のない質素な奥の宮がひっそりと建っています。
(写真は鹿島神宮の奥の宮)

哲学エッセイストの池田晶子氏は「人生は愉快だ」という著書の中で出雲大社へ参拝したときの感想を次のように述べています。

「神社という空間の清潔なこと、およそ人じみたところがなく、あるのはそれこそ「枠」だけ、つまり神々がそこにいるというそのことだけである。これに比べると、寺院、仏閣などが、いかに人の観念やら情念やら、教義やら権力やらによって構成されているものかということが、今さらながらよくわかる」と。

更に続けて云います、
「わが国の古神道が、きわめてユニバーサルであるということに私は気がついた。私はユニバーサルなものに、どうしても惹かれてしまうたちなので、日本の神道もローカルのひとつなのだろうくらいに思っていたのだけれど、違った。何もない空間を、あるいは己れの眼としての鏡の面を、なおよく見ようと眼を凝らせば、そこは万物照応するアニミズムの宇宙である。人じみた観念や教義は、何から何を救済するのか」と。

神道の空(くう)は、全てを呑み込む包摂力があるのです。
(以上)
【2019/01/22 21:15】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
隅田川沿いの高層ビル群の一日
1.聖路加国際病院より晴海トリトン方向を見る-11D
写真1

2.聖路加国際病院より晴海トリトン方向を見る-04D 1811qr
写真2

3.聖路加国際病院より晴海トリトン方向を見る-02D 1811q
写真3

4.聖路加国際病院より晴海トリトン方向を見る-08D 1811qt
写真4

冬の朝日が顔を出すと
ビルに反射した光で寝室の窓が輝く
目が覚める
(写真1)

午前の陽は柔らかく昇る
窓枠に仕切られたビル群は
近景から遠景まで造られたように並ぶ
隅田川には遊覧船が行く
(写真2)

夕闇が迫る
黄昏の空に銀色に映える超高層ビルたち
点灯した窓の光はビルたちの飾り
隅田川の水面にもかすかな輝き
(写真3)

空の帷(とばり)が降りて
残照の明るさが僅かに空に残る
その空に浮かぶような高層ビル群のシルエットは美しい
消えゆくものは一層美しい
(写真4)
(以上)
【2018/12/30 09:12】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
秋に山は燃える
河口湖畔もみじ回廊-01D 1711q

夏に木々はエネルギーを蓄える
秋には激しく燃え上がり燃え尽きる

赤い炎は山肌の青と混ざって黄色に変わる
黄色と赤色が混ざりオレンジ色に変わる

だが、自然は赤色と黄色と青色を決して混ぜはしない
三色が混合すると景色は一瞬にして真っ黒になるから
(以上)

【2018/12/17 20:15】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人間が神になる国 日本
1.東郷神社-04D 1811qr
写真1 東郷神社

2.乃木神社-02D 1811qc
写真2 乃木神社

キリスト教やイスラム教の一神教では、神は人間を支配し、人間は神の許しを求めるという関係が絶対的なものです。一神教の世界では、人間が神様になることなど、とんでもないことです。しかし、多神教の日本では、古来、人間は神様の仲間入りをしてきました。

日本の神話では、自然神(太陽)を人格神(天照大神)とし、天照大神は皇室の祖神(皇祖神)であるとしています。そして神話では神と天皇の境界線は曖昧になっています。人間が神になる素地は、この辺にあるのかも知れません。

菅原道真は死後、天神様になりました。讒訴で左遷された道真が死後に祟りをもたらすと恐れた政敵達は、道真の怨念を鎮めるために京都に天神社を設けて道真を祭りました。菅原道真は政敵によって死後、神様にされたのです。

しかし、生前から自らを神にしようとする者も現れます。豊臣秀吉は死後、豊国大明神となり、京都に豊国神社を建てました。徳川家康も東照大権現となり、日光に東照宮を建てました。彼らは生前から死んだら神になることを求めていました。その外にも日本の歴史上、人が死後に神になった例は幾つもあります。

日本人だけでなく外国人も日本では神様になれます。江戸時代に盛んになった七福神巡りの神様の一柱、布袋様(ほていさま)は唐の時代の中国の僧侶で、後に仙人になった人です。

戦前の一時期、軍国主義者は天皇陛下を現人神(あらひとがみ)と云って神様にしましたが、戦後は人間宣言で天皇は人間に戻り、日本民族を象徴することなりました。歴史を振り返ってみても、天皇陛下が自ら神と名乗った天皇は有史以来ひとかたも居られませんで、有史以来、天皇は人間天皇であったのです。

貴族政治の時代、天皇は貴族の権力闘争に巻き込まれたことはありますが、闘争の当事者になったことは希でした。源平以来の武家政治の時代になって、政治的実権を武士階級が握るようになってからは、天皇が行う政治行為は、征夷大将軍のような官職を与えるだけで、政治的権力闘争から超越していました。

西洋でも、日本と同じように皇室と同じ王室は存続しますし、君臨すれども統治しない君主がいる国はあります。しかし西欧の君主は国を超えて屡々入れ替わりましたから、その国の民族の長(おさ)というわけではありません。しかし、日本では創国以来万世一系の君主は日本民族の長(おさ)なのです。天皇は神様ではありませんが、日本民族にとって神様以上の存在なのです。

仏教国日本では人は死ねば皆仏(ほとけ)になります。中には神様になって神社に祀られる人もいます。戦国時代には天下と統一した武将達は豊国神社(豊臣秀吉)や日光東照宮(徳川家康)に祀られました。明治時代には日露戦争でロシアの支配から日本を護った軍人達は東郷神社(東郷平八郎)、乃木神社(乃木希典)に祀られました。もし太平洋戦争に勝利してアメリカの支配から日本を護っていれば、山本神社(山五十六)や東条神社(東条英機)が建立されたかも知れません。

八百万の神々が全土で平和共存している日本では、人が死んで神になっても不思議ではないのです。

写真1は東郷神社、写真2は乃木神社です。
(以上)
【2018/11/21 12:56】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
暗い谷間でもみじは輝く
1.芝公園:もみじ谷-07D 1612q

2.芝公園:もみじ谷-17D 1612q

2.芝公園:もみじ谷-17D 1612q

4.芝公園:もみじ谷-11D 1612q

5.芝公園:もみじ谷-26D 1612q

鬱蒼と茂る芝公園のもみじ谷
太陽の光は谷間の奥まで届かない

しかし、小さな谷の流れはキラキラと光り
谷間の紅葉は僅かな木漏れ日に映えて
うす暗い林の中で明るく輝く

秋のもみじは静かに輝く

(以上)
【2018/11/11 20:25】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
ギンナン拾いの季節
1.ぎんなん-04D
写真1 路上に落ちて散乱したギンナンの実

2.銀杏:人物-14D 05
写真2 黄落しきりの銀杏の木の下でギンナンを拾う人

ギンナン拾いの季節は10月から11月です。この頃になりますとイチョウの木の下でギンナン拾いをする人々をよく見かけます。

ギンナンの果実は、木から落ちるときには既にかなり熟していています。橙色の腐れかかった果実は独特の異臭を発します。その果実の上にイチョウの葉が落ちてギンナンを覆います。
(写真1)

イチョウの枯れ落葉の下に隠れた果実は、果肉を脱いで堅い殻の実になります。ギンナンを探すには、その臭いが手がかりになります。臭いのある付近のイチョウの落ち葉を踏みしめながら、足でその所在を確認します。

ギンナンは果肉を食べるのではなく、果肉に覆われた堅い殻の中にある実を食べるのですが、果肉を取り除く時かぶれるので注意をしなければなりません。それに、固い殻を割って中の実を取り出すのも結構手間がかかります。

それまでしてギンナンを食べようと、ギンナン拾いをする人が絶えないのは、ギンナンの実は、やや渋みのある独特の美味だからです。それに高血圧と動脈硬化の予防に良いそうです。

地上のものを拾って食べるという行為は、汚さや貧しさをイメージするので、見苦しい行為に見られる筈ですか、何故かギンナン拾いに関しては、秋の風景として抵抗感はありません。
(写真2)

これからの季節、寺や神社の境内のイチョウの木の下に来たら、足でギンナンを探ってみてはいかがですか?
(以上)
【2018/10/31 16:56】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
秋の浜辺の朝と夕
写真1
1.由比ヶ浜-11D 04
写真2
2.由比ヶ浜-07D 04
写真3
3.由比ヶ浜-09D 04
写真4
4.由比ヶ浜-15D 04
写真5
5.由比ヶ浜-16D 04

暑かった夏が過ぎて、静かになった秋の夕方、浜辺を散歩する。

夕凪の浜辺は、夏の喧噪が嘘のように静かだ。

秋の空は高いと言うが、海の空はひときわ高い。(写真1)

気が付くと、二人の人影が浜辺に現れて、波際に佇む。(写真2)

やがて上空の薄雲は、沈む太陽の最後の光を受けて明るく映える。

明るくなった海面を見ると、沖には未だ一層のボートが浮かんでいる。(写真3)

浜辺に打ち寄せるさざ波のように、静かな秋の海にも静かな動きがある。


翌日、朝早く起きて浜辺に出てみると、湾内は僅かに朝靄に霞んでいる。

既に数人の人影を見る。

犬と散歩する人、昨夜浜辺に届けられたお宝を探す人(写真4、5)

秋の海は朝早くから静かに動き出していた。
(以上)
【2018/10/24 16:21】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
初秋の空に雲の妖怪現る
1.雲-14D 0910qt

2.雲-12D 0910qt

猛暑、酷暑と言われた夏も過ぎ、朝夕は秋の風が吹き始めました。
初秋の夕方、空を見上げると、住宅地の真上に雲の妖怪が現れました。
ねぐらに帰るカラスは怯えて飛び去ります。

雲は造形の魔術師です。
秋空に色々の雲が現れます。
いわし雲、ひつじ雲、わた雲
真夏の入道雲に比べると、秋の雲はみんな優しい雲たちです。

でも、目、鼻、口がある妖怪雲は不気味です。
カラスでなくても逃げ出します。
秋風が急に冷たく感じました。
(以上)
【2018/10/09 21:24】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸と東京の貯木場(木場)の変遷
1.猿江恩賜公園-08D 1202q
写真1
2.木場親水公園-11D 0908q
写真2
3.貯木場-04P 83q
写真3
4.新木場貯木場-07D 1501q
写真4

昔から日本では建設資材と言えば材木でした。材木しかなかったと言えます。

江戸は屡々大火に見舞われました。その都度、大量の木材を必要としましたので木材の貯蔵所、即ち貯木場が造られました。

江戸川区の猿江恩賜公園は徳川幕府の貯木場があったところです。
明治になって、そこは政府御用達の貯木場になりました。
戦後に、貯木場は廃止になって猿江恩賜公園になったのです。
写真の池は、木材を貯蔵したところで、保存のため木材は石材で沈下させていたそうです。
(写真1)

猿江恩賜公園から少し南に下ったところに木場公園があります。
ここも貯木場のあったところです。ここは建設当時は隅田川の河口でした。
紀伊国や木曽から伐り出された木材は海路運ばれて、ここに貯木されました。
写真は、貯水池内で木材を移動させる作業の「角乗」の実演を見せるために、貯木場跡地の一部水面を残してある場所です。
(写真2)

木場の地先が埋め立てられて手狭になったので、戦後、荒川の河口に移転して新木場となりました。
新木場には遠く南洋から外国産木材も運び込まれて、貯木場は南洋材の丸太でいっぱいになりました。
(写真3)

しかし、間もなく原木の輸出国は原木の丸太を自国で加工して製材品として輸出することになります。
そして新木場の貯木池は急速に空っぽになりました。
(写真4)

その結果、当初の新木場は丸太を製材加工する工場団地として活況を呈していましたが、今は静かな木材流通市場になりました。
(以上)
【2018/09/22 18:49】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム | 次ページ