たそがれ時に優しくなる銀座大通り
中央通り:銀座:薄暮光景-05D 1607qt

中央通り:銀座:薄暮光景-01D 1607qt

中央通り:銀座:薄暮光景-10D 1607qt

夕暮れが迫ると、銀座大通りは大変優しくなります。

それは、銀座大通りが、薄い靄(もや)がかかったような空気に包まれるからです。

太陽の光がビルで遮られても、なお上空の雲から余光が降りていました。

しかし、その余光も次第に失われると、辺りは薄暗くなります。

その直前の、たそがれの銀座大通りは優しい表情を見せます。

昼間の銀座通り、夜の銀座通りも良いですが、優しい銀座大通りも味わって下さい。

(以上)
スポンサーサイト
【2016/08/23 09:21】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
亜熱帯から熱帯の国に近づいた日本
1.シオサイト:シティセンター前景-02D 1607q
写真1 汐留シオサイトを新橋駅側から見る。

2.勝鬨:浜離宮を見る-02D 1003qt
写真2 汐留シオサイトを浜離宮側から見ると超高層ビルが屏風のように建ち並ぶ。

3.代々木4丁目-08D 1608qrc
写真3 新宿駅付近から見た積乱雲が頭をもたげる。

4.雲-61D 1309qt
写真4 積乱雲の一部が都心部に近づく。

6.雲-51D 1209q
写真5 新宿駅から遠方を見ると鼠色の雷雲が現れる。

5.雲-66D 1309qt
写真6 俄に雷雲は都心部に近づき辺りは暗くなる。 

今年の夏も暑い日が続いています。勢力の強い太平洋高気圧のため、その暑さは本州全体に及びました。最高気温が30度以上を真夏日と言い、35度以上を猛暑日と言いますが、今年の夏も全国的に猛暑日が続いています。

近年、日本近海では海水温度が上昇しており、南洋の海のように暖かくなっています。それは、地球温暖化で暖められた空気中の熱エネルギーの80%以上を海が吸収しているからです。海水温度は大気に比べて変化しにくいので、海水温度が一旦上がると、その状態は長く続きます。

東太平洋の赤道付近の海水温を上下させるエルニーニョ現象やラニーニャ現象が起きると、日本で猛暑になったり冷夏になったりしますが、トレンドとして気温を上昇させる原因ではありません。また、高温の原因は、偏西風が日本付近で北に大きく蛇行したため南からの暖気が入り易かったためとか、太平洋高気圧が偏西風に阻止されて長期間日本上空に居座ったためとか言われますが、これも2~3年ごとに変化する現象です。

20世紀には日本はむしろ冷夏が続きましたが、21世紀に入る少し前(1990)から真夏日や猛暑日が頻発するようになりました。そして2010年以降は毎年のように高温の夏になりました。その原因は、やはり日本周辺の海水の温度が、徐々ですが上昇しているからなのです。そうだとすると、この熱帯化現象は恒常的なものであり、日本は亜熱帯から熱帯の国になった考えざるをえません。

それにしても東京の夏は特に暑くなったように思いませんか?
都市化は地表をコンクリートで覆うことで、更には高層ビルが風を遮ることで、都市の熱帯化が増幅されます。それは都市部におけるヒートアイランド現象のことです。

最近、都市の中心部に沢山の超高層ビルが建設されています。そのビルの表面に太陽の熱が当たり輻射熱となり周囲の空気を暖めます。暖められた空気は高いビルに囲まれて都市内部に滞留します。都心部では日中暖められた熱気が対流して分散せず、都市圏だけが一段と温度の高い空気団に包まれるのです。このようにして都市部の熱帯化は増幅されるのです。

一例を挙げると、東京に汐留という場所があります。汐留とは、東京湾の海水がここで留められたと云う意味であり、ここへは海水と共に潮風も入ってきていました。しかし、平成7年(1995)、ここに汐留シオサイトと言う超高層ビル群が建設されると、東京湾からの潮風は封鎖されました。都心部の気温を冷やす海風は入らなくなると、汐留のの背後地に当たる虎ノ門付近では、夏の平均気温が約2度上昇したと言われます。
(写真1、2)

都内に居てもここ数年、真夏に山や海で見るような大きな入道雲が立ち昇るのを見ることがあります。また都心部で、急に鼠色の雷雲が発生して、局所的な豪雨に見舞われることもあります。これも、熱帯国となった東京のヒートアイランド現象の一つかも知れません。
(写真3、4、5、6)
(以上)
【2016/08/13 13:23】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本は谷に恵まれた国
1.山姿-05Pt

2.山姿-06P 84t

3.山村-01P 88t

4.山村-03P 89t

5.渓谷-01P 84t

6.渓谷-02P 83t

世界の四大文明は全て河川のほとりで発生しました。チグリス川とユーフラテス川の間に広がる沖積平野は、平野であって谷ではありません。メソポタミアとは複数の河川の間を意味するそうで、河川の下流に生成した肥沃な河川敷は農耕に適していて、そこに古代文明が育ちました。

日本では広大な平野は北海道を除けば関東平野くらいで、国土の大半は山と丘陵です。ですから、人々は山や丘陵の間の、僅かな平地に住処を見出し、山間の谷間(たにあい)で農業生産を行っていました。今で言う中山間地(ちゅうさんかんち)が格好の生活の場でした。

大平野には大規模な灌漑施設が必要です。しかし谷間は、急峻でなければ、農業用水の管理利用は大平野より容易でした。大規模の灌漑施設がなくても、段々畑に見るように水は流れて細長い谷間の畑を満遍なく潤します。それに山々は雲を呼び雨を降らせます。

このように日本では、谷は恵みの地でした。しかし、世界には逆に谷は忌避すべき劣悪な環境の場所であると言う国々もあります。

インドネシアのジャワ本島では低地は湿度が高く、マラリアなど病気に罹りやすいから、人々は好んで高地に住むと聞きました。赤道周辺の高温多湿の地帯では、概して谷より高地が住みやすく、文明発生の場所になりました。

その他の国でも、東アフリカのタンザニアやモザンビークでは、インド洋に面した低地は気温が高く、伝染病も発生し、住みにくいとのことです。逆に内陸にある丘陵地帯は、標高が高いので気候がよく、人々は内陸部の高地を好むと言います。

広大な大陸の中国では、寒冷で乾燥した北の黄土の大地では小麦が栽培され、湿潤で水利に恵まれた南の揚子江流域では稲作が盛んでした。水の流れるところは当然、谷があります。その南の稲作地帯では、人々は谷あいを好んだと言います。

山を越えたら小さな盆地が現れ、そこには桃の花が咲き、犬と鶏の鳴き声が聞こえ、のどかな山村があります。そこが中国人が言う理想郷の「桃源郷」でした。桃源郷のイメージは、谷間のイメージと重なります。

老子は「谷神は死せず」と言いましたが、谷を女性に喩えて、谷は命を産み出すところだから死はないという意味だそうです。山と丘陵に囲まれた農村は、生産的であり、永遠の命のある桃源郷なのです。

身近な東京都の奥座敷の多摩地方にも、谷神が住む渓谷があります。そこには谷住まいの村落があり、人々は谷川の水の恵みを受け、その水蒸気にまみれて暮らしています。この谷間に住むと母の胎内で暮らしている気持ちになるでしょう。

山陵が重なる奥深い谷間には、ひっそりと山村があり、夕べには家々からたち上る登る煙が谷間にたなびき、朝早く谷川に出れば川靄が立ちこめる、奥多摩の風景を写真で眺めて下さい。
(以上)
【2016/08/04 13:11】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
相馬野馬追い祭り
1.相馬神社-01P 99r
写真1 相馬中村神社

2.相馬野馬追い-03P 99t
写真2 参上いた武士たち

3.相馬野馬追い-01P 99t
写真3 迎える武士たち

4.相馬野馬追い-16P 99t
写真4 指揮する武将

5.相馬野馬追い-10P 99t
写真5 広場で神旗争奪戦が始まる。

6.相馬野馬追い-17P 99t
写真6 神旗が打ち上げられた方向に突進する騎馬

7.相馬野馬追い-08P 99t
写真7 神旗を鞭で巻き取ろうと競り合う武士たち

相馬野馬追い祭りは、毎年7月の中旬から下旬にかけて、福島県の浜通りの街、相馬市を中心とした地域で開催されます。平将門が野馬を捕らえ馬を神前に奉納したことに由来する祭りで、千年という古い歴史があります。今では、相馬野馬追いは、国の重要無形民俗文化財に指定され、一地方の祭りが全国的に知られるようになりました。

平成23年(2011)3月の東日本大震災と、それに続く福島原発事故で、相馬市は甚大な被害を受けましたが、旧い神社の多くは標高の高いところにあり、津波の被害を免れたそうで、相馬野馬追い祭りの相馬中村神社も健在だと聞きます。
(写真1)

相馬野馬追いの、祭りとしての起源は、鎌倉時代以前に遡り、土地の豪族の相馬氏が、野生の馬を放して敵兵と見立てた軍事訓練をした事に始まると云われますが、その後は、神事という名目で継続され、現在の形で祭りが復活したのは、明治になってからだそうです。

それにしても、相馬野馬追い祭りでは、相馬中村神社の氏子たちは、現在の身分を離れて相馬時代の身分に戻り、先祖伝来の鎧甲を身にまとい、武士の作法に従い、その時代の身分に応じた役割を演じ、町を挙げて往時の武家社会に変身します。
(写真2、3、4)

例えば、現在は市役所の平(ひら)の職員でも、先祖が相馬藩の重臣であったらそのように、そして市役所の部長の先祖が足軽であったならそのように振る舞うのです。祭りでは現世の地位は逆転して部長は平の職員の指揮に従います。

殿様の使者が市役所を訪れたとき、市庁舎の二階から眺めていた職員は頭(ず)が高いと叱られました。殿様の使者を高いところから見下ろすことは大変失礼なことだからです。三日にわたる祭りの間は、町中では武者姿の武将達が、馬に乗って走ったり、家来を連れて歩いたり、交わす挨拶も、なにかユーモラスな光景があちこちで見られます。

行事のハイライトは二日目の神旗争奪戦だと云われます。多数の鎧甲の武者が広場に集まり、空中に打ち上げられた布の旗を馬上から鞭で巻き取る戦いで、騎馬戦のような激しさがあるからです。
(写真5、6、7)
(以上)
【2016/07/27 12:47】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
寅さん映画は日本民俗の表現
1.柴又駅前-02D 1507qr

2.柴又帝釈天参道-16D 1507qt

3.柴又帝釈天:帝釈堂-07D 1507qr

4.柴又帝釈天:二天門-03D 0701qr

寅さん映画「男はつらいよ」は、昭和44年(1969)の第一作から平成7年(1995)の最終作までの27年間に全48作品が製作されて、世界最長の映画シリーズでした。

どの作品も場面(シーン)は違いますが、ストーリーの構成は同じです。神社の縁日で露天商を営む的屋(てきや)を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が主役で、地方での営業の合間に生まれ故郷の東京葛飾柴又に戻ってきて、叔父の経営する団子屋で一息入れる時に、親戚の人や近所の人々と騒動を起こすという喜劇です。

的屋(てきや)の寅次郎は、寺社の祭日を求めて日本全国を股にかけて歩き回りますから、毎回舞台となる地方の街や農村は違いますし、そこで繰り広げられる話題も変わります。毎回違った日本の風景が紹介され、地方の人々と寅次郎との間で繰り広げられる人情話が、滑稽であると同時に、ほのぼのした暖かいものですから、似たようなストーリーの繰り返しにも拘わらず人気は衰えませんでした。

このように単純なストーリーの繰り返しなのに、何故映画「男はつらいよ」の人気が高く続いたのかと云うと、そこには戦前まであったが、今は失われつつある、日本人の人間性の生地(きじ)とでもいう気質が描かれているからだと思います。明治の近代化で次第に薄れていき、特に戦後の経済優先主義の風潮で急速に消えていった、日本人の良き気質を、観客は寅さんの中に見出して懐かしみ、取り戻したいと願ったのでしょう。

日本人の良き気質と言いましても、一言で説明するのは難しいですが、それは国民或いは民族が長年共同生活の中で培ってきた対人関係で示す人間感情の全てです。それは「社会」ではなく「世間」という世界で生まれた生活感情です。それは具体的な形として見えるものは、習俗、習慣、しきたりなどとして継承され、これらは総称して「民俗」と呼ばれます。

戦前は民族学と言い、戦後はアメリカ流に文化人類学とい云う学問がありますが、その学問では「民俗」を捉えることは出来ません。外観から民族を研究しても「民俗」という内容までは立ち入れないからです。ところが、寅さん映画は、その「民俗」をいとも簡単に、映像として取り出してみせています。

司馬遼太郎は、日本人に「公共性」はあるかと問うて、それは「実直さ」であると答えています。「実直さ」は日本人の文化的遺伝子であるとまで云っています。実直は正直(honesty)でもなく、誠実(sincerity)でもない、ですから「実直」は外国語に翻訳できない日本固有の価値観であるというのです。

日本人には「社会」の公共性が乏しいと批評されますが、「世間」の実直さがあります。そう言えば、映画の中で寅さんは屡々「地道(じみち)が大事だよ」と云っていました。

写真は柴又駅前の寅さんの銅像と、寅さんの実家の団子屋と、寅さんが産湯を浸かった帝釈天の本堂と境内です。
(以上)
【2016/07/17 11:55】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
雨傘は梅雨に咲く花である
1.明治神宮-05P 86Y10

2.明治神宮-04P 86t

3.傘-01D 1606q

4.雨降り-02P 96

日本では雨期は年に二度あります。6月の梅雨(つゆ)と10月の秋雨(あきさめ)です。

昔の梅雨は最初はしとしと降り、夏に入る直前に強く降りましたが、この頃は最初から特定の場所に集中して大雨を降らすようになりました。それでも、梅雨の季節が蒸し蒸しして薄暗く憂鬱です。

秋雨は、最初の頃はかなり強く降りますが、後半に入ると秋の長雨と言われるようにダラダラと降るので、なかなか終わらず寒々として憂鬱な日が続きます。

日本では春夏秋冬の四季の長さがほぼ等間隔にあるので、それぞれの季節に咲く花の種類が多いのですが、二回もある雨期には、それらの自然の花に加えて、人工の花も咲きます。それは雨傘の花です。

昔の雨傘は黒いものと決まっていましたが、最近では日傘のように色彩豊かで艶やかな絵柄の雨傘が多くなっています。そのお陰で街には明るい雨傘の花が咲いています。

梅雨どきは雨雲で街は薄暗いのですが、そして秋雨のしとしと降るとき寒々するのですが、雨傘の明るい花が街路に咲き乱れると、暗さや寒さを和らげます。

梅雨でも秋雨でも、家に引き籠もらず、明るく綺麗な雨傘をさして、街に出てみましょう。雨の街に咲く花々を愛でながら、自分も一輪の花を咲かせるのです。
(以上)
【2016/07/08 10:02】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
真昼に夜が来る シュルレアリスムの写真
1.仲通り高層ビル-12D 1512qr

3.仲通り高層ビル-10D 1512q

2.仲通り高層ビル-09D 1512qt

4.仲通り高層ビル-04D 1512q

写真は目に見える世界を撮るものですから、光のない暗闇では撮れません。
それでは、太陽の光が降り注ぐ快晴の日が撮影に最も良いかというと、そうとも限りません。
写真を撮る人は、太陽が最も明るく輝く、晴れた真夏の正午の時間帯を、ピーカンと言って嫌います。
と言うのは、太陽が頭の真上にあると、物の影が小さくなってしまうからです。
陰影があるから風景に立体感が現れるので、ピーカンでは平板な写真になってしまいます。

真昼に大手町の超高層ビル街を歩いていましたら、突然、ビル街の半分が夜の様に暗くなりました。
陽の当たる明るい道路やビルを見ていて、急に陽の当たらない反対側のビルに目を転ずると巨大な黒い塊に見えました。
しかし直ぐに、その黒い塊に窓があり、ビルであることが分かりました。

人間の目は瞳孔が明暗を調整する仕組みになっていますが、カメラの目は最初に機械的に露光を捉えたままです。
ですから写真の映像では、真昼なのに夜の暗闇が同時に存在するように見えます。
この写真を見た人は、都会のオフィス街に、昼と夜が同居していて、異変が起きたかと思います。

シュルレアリスム絵画の巨匠、ルネ・マグリットの繪に「光の帝国」があります。
繪の下半分が夜の路で、上半分が昼の青空という矛盾した構図の繪です。
ルネ・マグリットは、昼と夜を一枚の絵に同居させると、魅惑が産まれると言います。
自然に潜む神秘を考察して、その思想を目に見える形で表現すると魅惑が産まれると言うのです。

このような難しいシュルレアリスム理論を知らなくても、写真機は「光の帝国」を無意識のうちに簡単に描いてしまいました。
(以上)
【2016/06/24 21:49】 | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
苔は人知れず美を描く

 湯河原の万葉公園にて

1.湯河原:万葉公園:苔岩-03D 1605q
写真1
2.湯河原:万葉公園:苔岩-04D 1605qt
写真2
3.湯河原:万葉公園:苔岩-11D 1605qt
写真3
4.湯河原:万葉公園:苔岩-15D 1605qt
写真4
5.湯河原:万葉公園:苔岩-16D 1605qt
写真5

小さな苔たちは
光と地下水の恵みを求めて
小岩の位置に従い
小岩の形に合わせて
薄暗い谷間に
人知れず美を描く
【2016/06/15 18:18】 | デザインする | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
湯河原 新緑と緑陰と
1.湯河原:新緑-01D 0804qt
写真1
2.湯河原:新緑-05D 0804q
写真2
3.湯河原:千歳川-02D 0804qt
写真3
4.湯河原:旅館-03D 1605q
写真4
5.湯河原:万葉公園-02D 1605q
写真5
8.湯河原:万葉公園-04D 1605qt
写真6
9.湯河原:独歩の湯-06D 1605qr
写真7

湯河原は万葉集にも詠まれた秘湯の地であり、東京が首都となった明治時代以降は多くの文人や画家が創作や静養のため滞在しています。

今では湯河原は東京の奥座敷として、四季を通じて閑静な風情を愛する人々が大勢訪れるところとなっています。

特に奥湯河原は、秋の紅葉と共に、初夏の新緑が素晴らしいのです。
奥湯河原の丘陵に広がるすがすがしい新緑と、谷間に潜むみずみずしい緑陰を訪ねてみました。

湯河原駅から五所神社前を通って、湯河原温泉郷へ向かう途中で見る湯河原の丘陵は、新緑の木々で覆われています。薄緑から濃緑までの濃淡のある丘の斜面は、湯河原のすがすがしい初夏の景色です。
(写真1、2)

しばらくバス通りを行くと、左手に朱塗りの橋と古風な木造の旅館が見えてきます。その辺りで左に曲がり、橋を渡って千歳川沿いの緑の谷あいに向かいます。
(写真3、4)

すぐに鬱蒼と茂った谷あいの細い階段状の小道に達します。ここはもう、千歳川に沿うように細長く伸びる万葉公園の下端です。
(写真5)

千歳川の狭い谷の小道は薄暗く、しっとりとして冷ややかです。小さな岩を積み上げた小道の側壁に苔が生えています。谷あいの湿気が育てる苔たちです。小岩と苔のアンサンブルは見事です。

緑陰の谷間は初夏では寒くさえ感じますが、真夏なら程よい涼しだでしょう。谷に生える大木も苔むしています。
(写真6)

万葉公園の足湯施設「独歩の湯」まではあと少しです。
(写真7)
(以上)
【2016/06/15 18:13】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
銀座の並木が華やぐ頃
1.銀座桜通り-04D 1604qt
写真1 桜通の八重桜

2.銀座桜通り-01D 1603qt
写真2 桜通のソメイヨシノ

3.銀座柳通-05D 121q
写真3 柳通りの看板

4.銀座柳通-32D 1604qt
写真4 柳通り

5.マロニエ通り-03D 1604qt
写真5 マロニエ通り

6.マロニエ通り-02D 1604qt
写真6 マロニエ通り

7.銀座松屋通り-02D 1604qt
写真7 松屋通りのハナミズキ

8.銀座松屋通り-03D 1604qt
写真8 松屋通りのハナミズキ

9.みゆき通り花祭り-04D 0904qt
写真9 銀座みゆき通りの花祭り

10.みゆき通り花祭り-26D 0904qt
写真10 銀座みゆき通りの花祭り

銀座でいちばん豪華で人通りが多いのは幅広い中央通りですが、中央通りと交差する小道の中には、華やかさの中にも落ち着いた雰囲気の小道が何本もあります。それらの小道には街路樹が植えてあります。

4月から5月にかけて、これらの街路樹に、若葉が芽を出し、花が咲きます。コンクリートのビル壁に囲まれた銀座の街にも、季節の息吹を感じさせるひとときです。

京橋寄りの桜通りは、ソメイヨシノの桜も咲きますが、主体は八重桜の並木が続く通りです。ソメイヨシノのようにすぐには散らず、長い間、濃いピンク色の重厚な花房で、花のトンネルをつくり、道行く人々を楽しませてくれます。
(写真1、2)

桜通の隣には柳通があります。街路樹の柳は、歌に歌われたり、映画の題名にもなったりで、銀座とは縁の深い街路樹です。明治の初めは、銀座は日本橋の場末の埋立地でしたから、湿地に馴染む柳が植えられました。初代の柳は疾うに消え失せて、二代目も枯れて、現在の柳通りにある柳は三代目です。まだ若い樹なので若芽も楚々としています。
(写真3、4)

パリのシャンゼリーゼ通りのマロニエは、ビルの高さ程もあり、枝を広げた大木の並木ですが、銀座のマロニエは、背も低く、ほっそりとして、まばらに植えてあります。それでも、銀座の並木の中では、街路に緑陰をつくる程の、ふくよかな葉を広げます。
(写真5、6)

5月の花の季節になると、上品な花で銀座の小道を飾るのがハナミズキです。その小道は松屋通りと言いますが、紅白のハナミズキの花が、ビルの壁のシックな色とマッチして、銀座ならではの花の道になります。
(写真7、8)

忘れてはいけないのは、銀座みゆき通りの花祭りです。毎年昭和の日(4月29日)に路上に色々な種類の花弁を敷き詰めて行う賑やかな祭りです。街路の並木に咲く花ではないですが、花の銀座に相応しい行事です。
(写真9、10)
(以上)
【2016/05/26 16:51】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 二つの庭園の美
1.皇居東御苑:二の丸庭園-22D 1509qr
写真1
2.皇居東御苑:二の丸庭園-04D 1506qr
写真2
3.紅葉-01P 83t
写真3
4.樹木-09P 90t
写真4
5.さつき-04P 90t
写真5
6.さつき-07P 90t
写真6
7.さつき-11P 96t
写真7
8.樹木-16P 95t
写真8
9.つげ刈り込み-08P 92t
写真9
10.つげ刈り込み-03P 96t
写真10

現在、公開されている皇居東御苑は、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部からなる、広大な庭園です。そこには江戸城の城門、濠、石垣などの遺構も含まれていて、所謂「庭園」の域を超えています。

そこで皇居東御苑の中で庭園らしく纏められた場所を探すと、一つは江戸城の二の丸庭園の跡であり、もう一つは本丸跡を整備した広場です。

二の丸庭園は三代将軍家光が小堀遠州に造成させたと言われるものですが、その後は余り使われずに放置され、九代将軍家重の代に再現されたものと言われます。と言うことは、この庭園は安土桃山時代から江戸時代前期までの伝統的な池泉回遊式庭園の一つです。

池の中央に中島が設けられて、両端から土橋が架けられていて、池の北側に州浜があり、州浜には雪見灯篭が据えられ、州浜の対岸の奥には滝があります。
(写真1)

大名達が江戸の藩邸で作庭した日本庭園と比べると、二の丸庭園の造りはやや平板な感じを否めませんが、庭園の周囲に土地の余裕があり、そこには雑木、大木が茂り、野趣のある日本庭園になっています。池端にはモダンな菖蒲田を設けて、将軍の庭から庶民の憩いの庭に変身しています。
(写真2)

他方、本丸跡は、往時本丸の御殿屋敷が密集していた場所でしたが、幕末には御殿は西の丸に移転して、その跡地は今は芝生の広場になっています。広々とした芝生の緑は、春には周囲の桜の花を、秋には紅葉を引き立てます。
(写真3)

更に、芝生の周辺部には植栽が施されて、芝生庭園としてなっています。芝生庭園の南端は九本丸御殿の玄関口でして、今は背の高い欅(けやき)の木が聳えています。その足下には刈り込まれた皐(さつき)が這っています。皐の柔らかな曲線は、打ち寄せる波頭のようであり、この情景は江戸湾の浜辺に見立てることができます。更にその波頭は、四季により色を変えて見飽きることはありません。
(写真4、5、6、7)

芝生庭園の北端の周辺部には背の高いプラタナスの並木がありますが、その裾を隠すように柘植(つげ)が密生していて、その柘植は幾何学的に刈り込まれています。その角張った柘植の植栽は、嘗てこの地に立ち並んでいた数多の御殿の屋並みに見立てる事が出来ます。そして、それらは広い芝生園の縁を囲うように曲線で伸びて、城壁のような趣となっています。
(写真8、9、10)

二の丸庭園の跡と、本丸跡を整備した広場庭園とを比較してみると、前者が平凡なのに後者は斬新です。本丸跡の芝生庭園の作庭は、現代風の人工が施されたもので、江戸時代の美を直接引き継いだものではありませんが、見立てを通して、不思議と古い江戸城の美意識に通じるものがあります。
(以上)
【2016/05/02 12:29】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 石垣の細部に宿る美
1.石垣部分-07P 92t
写真1
2.石垣部分-09P 96t
写真2
3.皇居の石垣:部分(梅林櫓石垣)-03D 0901q
写真3
4.皇居の石垣:部分(梅林櫓石垣)-02D 0901q
写真4
5.石垣部分-17P 96t
写真5
6.石垣部分-10P 97t
写真6
7.石垣部分-12P 97t
写真7
8.石垣部分-01P 96t
写真8
9.モンタージュ:梅-02P 92t
写真9
10.雪:石垣-05P 96t
写真10

江戸城の遺構の殆どは石垣です。近づいて石垣の細部を観察すると、細部に宿る美を発見します。構築物を全体として剛健に見えた石垣が、つぶさに観察すると、ふくよかで優しく見えてきます。
(写真1、2)

そのふくよかな石垣の表面は、滑らかで肌理(きめ)細やかです。そのような石垣は何ヶ所もありますが、置かれた場所により色彩が変わり、その表情は豊かです。
(写真3、4)

表面が磨かれていない石垣もありますが、そのザラザラした手触り感のある石垣は、斜光線の具合で表面に、ほのかな深みが生まれて、独特の美しさが現れます。真四角な石が整然と積まれたものも、大小の色違いの石が不規則に積まれたものも、それぞれに風情があります。
(写真5、6、7)

石垣には人工的に完成された美もありますが、一度火災で焼けただれたけれども、時が経過して表面は紋様と化して、意外な美に転じたものもあります。それは明暦の大火で表面が破壊された天守台の石垣です。それらの一部は、恰も石垣に紋様を描いたかのよう残されました。
(写真8)

石垣に影を投影すると、一瞬、石垣の凹凸が逆になって見えることがあります。これは輪郭線を境として実物の境界線(実像)と空白部の境界線(虚像)が逆転して見える、目の錯覚現象ですが、ここに掲げた写真では実像と虚像が同一の場所で転換しました。その結果、それは裏側から石垣を透視したかのような、不思議な視覚を経験します。
(写真9)

雪景色の石垣には、雪の付着の具合で、思わぬモノトーンの造形を発見します。それは影絵を見るような、石垣の幻想的な姿です。
(差品10)

江戸城の石垣は、風景の中で構築物を全体として眺めても美しいですが、近づいて細かな造りや表情を眺めると、美は細部に宿るとは、このことかと納得するのです。
(以上)
【2016/04/19 16:39】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
城郭内の城門の美 大手三之門、中之門
1.旧同心番所-02D 1506qr
写真1 旧同心番所
2.大手三之門石垣-07D
写真2 大手三之門石垣 渡櫓門の石垣
3.大手三之門石垣-04D 1506qr
写真3 大手三之門石垣 出入り口の石積み面
4.中之門石垣-12D 1506qrc
写真4 中之門石垣 前面を囲う石垣
5.中之門石垣-01D 1506qc
写真5 中之門石垣の出入口
6.中之門石垣-05D 1506qt
写真6 中之門石垣 出入り口の石積み面

外濠、内濠の門をくぐって城郭内に入った後、本丸や二の丸に入るには更に城郭内にある門をくぐらねばなりません。本丸や二の丸は城郭内の門で厳重に守られていました。そして城郭内の門は、堅固さと同時に、美しさも演出しました。

城郭内の門について、ここでは大手三之門と中之門を取り上げます。

大手門をくぐり、左手の管理事務所で入門許可カードを受け取り進みますと、右手に尚蔵館、左手に済寧館があり、その間を進むと右手に同心番所跡がありますが、その手前にある石垣の門が大手三之門の入り口の遺構です。

大手三之門は、本丸と二の丸に入る前の、城郭内では最初の門です。内濠の大手門と桔梗門をくぐって登城する者は皆大手三之門を通ることになります。往時は大手三之門の前には濠があり、橋が架かっていました。すべての登城者は、この橋を渡る前に乗り物を降りたところなので下乗橋と言いました。

大手三之門は枡形構造となっています。濠の橋を渡ると枡形造りの石垣で囲まれた平場に入りますが、平場の右手に同心番所があり、そこで取り調べを受けてから左手の渡櫓門をくぐって百人番所のある広場に入ることになります。
(写真1)

現在、渡櫓はありませんが、櫓を支えた巨大な石積み門柱が左右に厳然と立っています。その石垣は、巨石を組み合わせて積み上げたもので、如何にも本丸への正門の風格があります。小田原の安山岩は灰色であり、瀬戸内海から運ばせた花崗岩は薄黄色ですが、これらを組み合わせて、多彩な石組みの渡櫓門です。大きさと共に美しさも演出した門です。
(写真2、3)

登城者は百人番所で取り調べを終えて、いよいよ本丸に入るのですが、その際、百人番所の向かい側にある中之門を通って行きます。中之門は、百人番所の広場に面した、高く長い石垣を、左右に分けて出入口とした門です。
(写真4、5)

本丸に入る通路に面した中之門の石積みで先ず気付くのは、先に見た大手三之門の稜線が直線的であるのに比べて、中之門の左右の稜線には僅かな撓(たお)りが入っていて、優雅さを演出していることです。更に、大きな長方形の石と小ぶりな四角な石を組み合わせて、隙間なく接ぎ合わせており、その色彩も大手三之門の渡櫓門より色数も多く、灰色、褐色、薄黄色、黒色と巧みに混ぜ合わせて、パッチワークのような紋様に仕上げています。
(写真6)

内濠の枡形門は、城郭を守る機能を重視して造られていますが、城郭内の大手三之門や中之門は、より一層、美観を高める工夫が凝らされています。権力には威厳が不可欠であり、威厳は大きさだけでなく美しさが求められたのです。
(以上)
【2016/04/07 15:45】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
内濠の城門の美 大手門、清水門、桜田門
1.大手門-03D 1211q
写真1 大手門 全景
2.大手門:髙麗門-04D 1506q
写真2 大手門の髙麗門を内側から見た光景
3.大手門:渡櫓門-01D 1211qr
写真3 大手門の渡櫓門
4.大手門渡櫓門の鯱-02D 1503q
写真4 大手門渡櫓門の鬼瓦の鯱
5.清水門-16D 1506q
写真5 清水門全景
6.清水門-10D 1506q
写真6 清水門の渡櫓門
7.清水門-11D 1506q
写真7 清水門の内側の階段道
8.桜田門-04D 1504q
写真8 桜田門とその背景の丸の内超高層ビル群
9.桜田門-27D 1506q
写真9 桜田門全景
10.桜田門-19D 1506qr
写真10 桜田門の渡櫓門を背後からみた風景

江戸城は外濠と内濠で二重に囲まれていて、城郭に出入りするには、これらの濠を橋で渡らねばなりませんが、それらの橋の袂(たもと)には見附と称する見張りの門がありました。見張りの門の多くは、枡形門(ますがたもん)という、外側と内側の二つの門を持った矩形の石垣で囲われた堅固な門でした。

城門の役割は、外敵の侵入を防ぐと同時に、城郭に出入りする外部の人達に権威を示すものでした。従って、多くの城門には防衛上の機能と共に、その容姿に威厳を備えていました。

枡形門は、濠を渡ったところに建造されていて、外側の髙麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん))で構成されていました。枡形門を入る人は、先ず髙麗門をくぐり、石垣で囲まれた枡形の平地に立ちます。城内に入る者は、ここで手続きを済ませて、次の渡櫓門をくぐって城郭内に入ります。外敵が侵入したときは枡形の平地内に閉じ込めて成敗します。

俗に江戸城36見附と言われるように、往時は多数の見附門がありましたが、明治維新後にその大半は破壊されてしまい、完全な形で残っている見附門は少しかありません。

ここでは往時の原型をとどめている主要な三つの内濠の門、大手門、清水門、桜田門を取り上げます。

先ず、江戸城の玄関口である大手門から眺めてみましょう。
大手町のパレスホテル側から桔梗濠越しに眺めると大手門の構造が良く分かります。大手門の入り口に髙麗門があり、その右手に渡櫓門があります。二つの門は枡形の平地を囲むように、並列ではなく直角に位置しています。それは枡形門が、外敵が侵入したとき直進する力を削ぐ機能を重視しているからです。
(写真1)

秀吉が遠征軍を朝鮮に派遣した文禄・慶長の役の頃から髙麗門の名前が現れますから、朝鮮(髙麗)様式という程の意味でしょう。屋根は小さくて装飾も少なく、城内と城外とを仕切る機能に徹しています。現在は、大手門の髙麗門を内側から眺めますと、大手門に覆い被さるように丸の内の超高層ビル群が聳え立っています。江戸の遺跡と平成の東京のコントラストを見せつける光景です。
(写真2)

渡櫓門は二つの石垣の間を渡すように築かれるので渡櫓門と言いますが、進入路の上に被さるように建っている渡櫓門には、枡形平地に向いて縦桟の窓があります。この窓は、入場者を監視し、侵入者を攻撃する窓です。
(写真3)

大手門は江戸城の表玄関ですが、その他の内濠の枡形門と比べて特に壮大な造りということではなく、先に取り上げた「櫓の美」で見たような装飾もありません。強いて言えば、渡櫓門の屋根に飾られていた大きな鯱(明暦の大火の後に鋳造されたもので、改修工事のため枡形内に置かれている。)ぐらいです。
(写真4)

次に、江戸城の北東に位置する清水門は、清水濠と牛ヶ淵の間の土橋を渡ったところに建っていて、清水濠越しに清水門を眺めると、典型的な枡形の清水門の構造が良くわかります。こじんまりした清水門は周囲の風景に溶け込んで江戸時代の雰囲気を維持している城門です。
(写真5)

清水門は北の丸へ入る門ですが、高台にある北の丸へ行くには清水門の渡櫓門を抜けると左折して何段もの石段を上がることになります。清水門から北の丸に至るこの場所は、江戸時代の遺構を最も良く残していると言われています。
(写真6、7)

最後の桜田門は江戸城の南西に位置し、桜田濠と凱旋濠(がいせんぼり)の間の土橋を渡ったところに建っている、城郭の南口を扼(やく)する重要な門でした。桜田濠が終わる辺りから眺めますと、桜田門の髙麗門が両袖の長く白い塀を伸ばして建っており、その後ろに渡櫓門も同時に見えるので、桜田門の全貌が一目で見ることができます。更に、ここからの眺めは、桜田門の背後に屏風のように聳え立つ丸の内の超高層ビル群と、江戸時代の城門が対比して見える、貴重な場所です。
(写真8)

髙麗門と渡櫓門で構成された桜田門は、西方にある外濠の虎ノ門につながり、小田原口とも呼ばれた城門であり、大手門に次ぐ大きさと、大手門をしのぐ美しさを持っています。その上、三方を濠に囲まれている珍しい城門でして、正面の風景と共に、渡櫓門の裏側から見た風景も優れています。
(写真9、10)
(以上)
【2016/03/27 13:55】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 濠の美 千鳥ヶ淵と牛ヶ淵
1.皇居の濠端:牛ヶ淵-09D 1506q
写真1 牛ヶ淵
2.皇居の花見:千鳥ヶ淵-11D 1104q
写真2 千鳥ヶ淵
4.皇居の花見:牛ヶ淵-12D 1204q
写真3 牛ヶ淵の桜の枝
3.皇居の花見:千鳥ヶ淵-07D 1104q
写真4 千鳥ヶ淵の桜の枝
5.皇居の花見:千鳥ヶ淵-13D 1104q
写真5 千鳥ヶ淵 田安門近くの桜
6.千鳥ヶ淵緑道-02D 1506q
写真6 千鳥ヶ淵緑道
7.皇居の花見:千鳥ヶ淵-59D 1503q
写真7 北の丸公園から見た千鳥ヶ淵
8.桜-22P 96t
写真8 北の丸公園の土塁に咲く牛ヶ淵の桜
9.ボートと桜-13P 86t
写真9 夕日に映える千鳥ヶ淵の桜
10.桜-02P 86t
写真10 夕日に映える千鳥ヶ淵の桜

構築物としての濠の美しさよりも、景観としての濠の美しさに焦点を当てれば、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵を筆頭に挙げることができます。この二つの淵(ふち)は、当初は江戸城の周りを流れていた谷川を堰き止めて、飲料水用に造成したダムでしたが、後に城防護の濠に転用したものです。

二つの淵は北の丸公園を囲うような位置にあります。北の丸の台地は、江戸城の中でも海抜の最も高い所でしたから、淵の上から低い水面をのぞき込む光景は、江戸城の中でも最も立体的に見えるダイナミックな光景となります。(写真1、2)

二つの淵が最も華やかに輝くのは、桜の花が咲く季節です。
二つの淵に咲く桜を観賞する際には、淵の縁(へり)の土手に立って、染井吉野桜が深い淵の水面に向けて太く長く黒い幹を下げて伸ばす桜花を眺めるのが最高です。このように樹の内側から桜を眺める視角は、千鳥ヶ淵と牛ヶ淵でしか得られません。染井吉野桜の黒い幹の古木が、桜の美を力強く表現する場所は、この場所しかありません。
(写真3、4)

二つの淵では、淵の縁にある手前の桜を内側から眺めることができるだけでなく、淵の向こう側の桜も同時に眺めることができます。淵を挟んで桜の内側と外側を同時に観賞出来るというのも二つの淵の花見の醍醐味です。千鳥ヶ淵越しに田安門が見える辺りの桜の風景は見応えがあります。
(写真5)

桜の季節には二つの淵には大勢の花見客が殺到します。特に常に混雑する千鳥ヶ淵には、淵の外側を巡る花見のための千鳥ヶ淵緑道が整備されていいます。それでも押しかける大勢の花見客を捌ききれずに、混雑を緩和するため花見の季節は緑道は一方通行となります。
(写真6)

落差の大きい二つの淵の桜の花を観賞する時には、桜の木を正面から見るのではなく、桜の木の裏側から見たり、或いは横から眺めたりすると、他の桜名所では見られない構図の桜を眺めることができます。北の丸公園側から千鳥ヶ淵の桜を眺めると、千鳥ヶ淵緑道から見るのとは違って、満開の桜の枝が淵の水面を覗き見するように垂れ下がって伸びている様がよく見えます。
(写真7)

二つの淵に面する北の丸城郭の擁壁は、石積みの部分は上部と下部だけで、真ん中は土塁のままです。上部を「鉢巻石垣」と言い、下部を「腰巻石垣」と言います。江戸城は、長大な濠を築くのに石材が不足しましたので、防備の必要性が低いところは、このように土塁のままにしました。桜田濠の擁壁も大部分は土塁のままでしたが、この二つの淵も土塁の擁壁の部分が多く、その土塁の部分に桜の木を植えたので桜の名所になったのです。
(写真8)

本居宣長は朝日に匂う山桜を愛(め)でましたが、染井吉桜は夕日に映えるのが最も美しいです。白っぽい染井吉桜の花弁は、夕日を浴びてピンク色に染まります。千鳥ヶ淵の桜は夕方に本当に美しくなります。
(写真9、10)
(以上)
【2016/03/18 13:59】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 濠の美 平川濠と乾濠
1.皇居の濠端:平川濠-01D 06
写真1 平川濠の擁壁 右上の北桔橋門が見える。
2.濠の石垣-39P 96t
写真2 平川濠の擁壁の拡大
3.濠の石垣-21P 96t
写真3 平川濠の擁壁に並ぶ襞
4.濠の石垣-30P 96t
写真4 平川濠の擁壁の襞の稜線
5.皇居の濠端:平川濠(平川門内より)-03D 1510qtc
写真5 平川濠の擁壁の襞の部分
6.皇居の濠端:平川濠-05D 1212qt
写真6 正面から見た平川濠の擁壁
7.皇居の濠端:乾濠-01D 1212q
写真7 代官町通りから見た乾濠 
8.皇居の濠端:乾濠-04D 1506q
写真8 北桔橋の上から見た乾濠
9.壕と桜-01P 84t
写真9 乾堀の春の桜並木
10.紅葉-15P 96t
写真10 乾堀の秋の桜紅葉  

江戸城は城の象徴である天守閣を早い時期に失ってしまい、城郭内の建造物としては櫻田巽櫓、富士見櫓、伏見櫓の三つの櫓の他には見るべきものはありませんでした。城跡を示す建造物としては城門(御門)と濠の擁壁だけです。その濠の擁壁の中では、石垣作りで最も立派なものは平川濠と乾濠の二つの濠の擁壁です。

この二つの濠は天守台の北側の守りを固めるために造られたもので、平川濠と乾濠の、石垣積みの高い擁壁は、江戸城に残された石垣の中でも最も雄大で豪快なものです。天守台を後にして北桔橋を渡るときに、この二つの濠は同時に見えます。右側に平川濠、左側に乾濠です。

先ず平川濠を取り上げます。
一橋方面から竹橋を渡って代官町通りの坂を上っていくと、左手に幅広い平川濠が見えてきます。平川濠は深い谷川を濠に仕立てたものですから、濠の水面と天守台のある台地との間には大きな落差があります。

その落差をすべて石垣で築いたのですから平川濠の擁壁は雄大です。土塁を主体にした桜田濠が柔らな斜面でしたから女性的であるのに対して、平川濠は高く切り立った広大な壁面をすべて石垣で固めていますから男性的で豪快です。
(写真1、2:右上に小さく見えるのは北桔橋の城門)

しかも、その擁壁はのっぺりした平面ではなく、所々に縦に襞(ひだ)が付けてあります。これは高く広い擁壁の面にかかる土圧に対して擁壁を支えるための仕掛けであると同時に、擁壁をよじのぼる敵兵を攻撃する装置でもあります。

長い擁壁にはその襞が複数造られていて、斜め横から眺めると間隔を置いて襞と襞が並んでいて、平川濠の擁壁を力強く見せると共に、美しいリズムを与えています。
(写真3)

その襞の稜線の部分は白い石材で算木積みで強固にしています。算木積みとは、長い石材を交互に組み合わせて横揺れで崩れない石積みの仕方です。算木積みの石材に白い石を用いたことで、暗い擁壁に明るい模様を描きました。一方、石垣の擁壁のてっぺんには細長い白壁が横に伸びています。この横の白い直線と、縦の白い湾曲した襞の稜線とが組み合わされた平川濠の縁取りは、殆どアートと言える美しい模様となっています。
(写真4、5、6)

次に乾濠を見ましょう。乾堀は、一般の人が入れない皇居の敷地内にありますが、二ヶ所から覗き見することができます。

一ヶ所は代官町通りを上って北桔橋前を通り過ぎたところで、左手の樹木の隙間から乾堀の一部が見えます。そこは乾堀の内側の擁壁が直角に突き出て曲がているところです。擁壁ではありますが城郭の一部のような力強い石垣の構築物となっています。
(写真7:左端に見えるのは北桔橋門です。)

乾堀を垣間見るもう一ヶ所は北桔橋の上からです。北桔橋の上から乾堀を見ますと、皇居の奥へ湾曲して伸びる乾濠の外側の擁壁を見ることができます。丸みを帯びた擁壁は余り高さはなく、その擁壁に沿って桜の木が植えてあります。北桔橋の上から遠望する乾濠沿いの桜並木は、花の咲く春の季節も、葉が紅葉する秋の季節も、隠れた絶景です。
(写真8、9、10)
(以上)
【2016/03/07 13:19】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 濠の美 桜田濠
1.皇居の濠端:桜田濠-08D 1212q
写真1
2.皇居の濠端:桜田濠-27D 1504q
写真2
3.皇居の濠端:桜田濠-47D 1506q
写真3
4.菜の花-05P 96t
写真4
5.菜の花-01P 96t
写真5
6.彼岸花-14P 96tc
写真6
7.彼岸花-01P 96t
写真7
8.雪:菜の花-02P 96t
写真8
9.雪:濠-05P 96t
写真9
10.雪:菜の花-01PAt
写真10

江戸城は、家康、秀忠、家光と三代に亘り築城が続けられた城でして、日本一の規模を誇ります。江戸城には日本三大名城と言われる、豊臣の大阪城、徳川の名古屋城、加藤の熊本城のような強固な石垣で築かれた城郭もなく、また姫路城のような美しい城郭もありません。

しかし、江戸城は武蔵野段丘が江戸湾に至る比較的平坦な地形の上に築かれた平城でしたから、その平城を防護するために長い濠が二重になって城郭を囲んでいます。そのため、江戸城には日本三大名城とは比較にならないほど多くの濠の遺跡が残されました。また、濠の数が多いだけでなく、地形の変化に富んでいるため、濠の建造方式も場所によって異なっており、一つとして同じ形態の濠はなく、個性的な濠が幾つもあります。

先ず最初に、江戸城で最も美しいと言われる桜田濠を取り上げます。
桜田濠は幅が広くて長い濠であり、それが湾曲して伸びているので一ヶ所から全貌を視界に収めることはできません。その代わり半蔵門から外桜田門の方向へ歩きながら桜田濠を見下ろすと、回転画を見るような雄大なパノラマ風景が展開します。内堀通りは桜田濠を左に巻き込むように下りますから、桜田濠の両岸のうねる曲線が、屈曲しながら近づいたり離れたりして、波打つように見えます。
(写真1、2)

江戸城の近くには石材の産地が少なかったので骨材の調達が難しく、少ない石垣を使って長大な濠を築くために、地形によって濠の擁壁の一部を土塁のままにせざるを得ませんでした。そのため桜田濠は擁壁の上部に低い石垣があるだけで、下部はなだらかな土塁のままです。そのことが桜田濠に穏やかで柔らかな美しさを与えています。
(写真3)

桜田濠の両側はなだらかな土塁の坂ですから、そこには樹木や草花が生えて、季節に応じて濠の景色に彩りを与えます。半蔵門から三宅坂の下までを歩くと、桜田濠の両岸の大きな緑の斜面が広がったり縮んだりして、季節の草花が咲いている風景が続きます。江戸時代もさることながら、現代の首都でも、このような景観を持つ都市は世界にありません。
(写真4、5、6、7)

戦前と戦後の日本に住んだ、フランスの詩人で画家のノエル・ヌエットは、その著書「東京のシルエット」で、半蔵門から桜田門にかけての一帯こそは、皇居のまわりで最も美しい風景が展開している場所である」と書いています。

しかも、桜田濠の冬景色は、その両岸の美しい曲線を截然と描き出します。偶々遅い春の雪に見舞われた桜田濠の菜の花はけなげにも雪の中で咲いていました。
(写真8、9、10)
(以上)
【2016/02/23 21:03】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 天守台の美 その三
1.石垣-22P 96
写真1
2.石垣-23P 96
写真2
3.石垣-12P 96
写真3
4.石垣-13P 96
写真4
5.石垣-33P 96
写真5
6.石垣-19P 90r
写真6
7.石垣-35P 96
写真7

現在の天守台には、最上段の隅に松の木が一本植えられており、天守台正面の中段の左側に桜の木が一本植えられております。戦後のある時期まで中段の右側にも木が一本植えてありました。

江戸時代に中段の左右に何の木が植えられていたか分かりませんが、現在のように天守閣のない石塁だけの天守台にとっては、中段の桜の木の存在は、天守台の堅さを和らげて、季節感を与える貴重な存在です。

最上段の松の木は常緑樹ですから季節による変化はありませんが、中段の一本の桜の木は、季節の変化に応じて天守台という舞台を演出してくれます。無言の石塁が一本の桜の木でお化粧直しをする様子を眺めて下さい。

桜のつぼみの膨らむ早春の頃、、石垣はやや霞む空気に包まれて、柔らかに見えます。(写真1)

満開の桜の花が満開になると、桜の花の白さで中段の暗い石積みは天守台の光景を引き締めます。(写真2)

桜の花が終わり桜の木に薄緑の葉が芽生えます。その薄緑色は石塁の堅さを和らげます。(写真3)

夏になると桜の葉は薄緑から濃緑に変わり上段の白い石垣を隠します。中段の暗い石積みは上段の濃い緑の塊と一体となって、天守台に重厚さ与えます。(写真4)

秋が来て桜の葉は桜紅葉に変わります。中段は派手やかさを取り戻して、石塁の白と黒に明るい調和を与えます。(写真5)

桜紅葉がすべて落ちて秋が深まると空気が白くなります。空気が白くなれば下段の白い石垣も上段の白い石垣も冴えてきます。(写真6)

冬に雪が降ると、下段と中段の上に積もった雪面は三層の石垣を截然と仕切って見せます。桜の幹に積もった雪も桜を浮かび上がらせます。雪の日は天守台が立体的に見える日です。(写真7)
(以上)
【2016/02/16 14:31】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 天守台の美 その二
01.桔梗門(内桜田門)-12D 1507qc
写真1 桔梗門(内桜田門)を入ったところにある打込接の石垣
02.桔梗門(内桜田門)-13D 1507qc
写真2 上記の打込接石垣を拡大したもの
03.天守台-08D 1508q
写真3 北側(裏側)から(北桔橋から)見た天守台の石積みの姿。横目地が 一直線となるよう整然と摘まれている。二人の人物と比べた天守台の高さが分かる。
04.天守台:前面下段-18D 1510q
写真4 天守台前面の下段の石積み
05.天守台:前面中段-02D 1510qc
写真5 天守台前面の中段の石積み
06.天守台:前面下段-21D 1510qc
写真6 天守台前面の下段と中段の石積みの比較
07.天守台:前面下段-26D 1510q
写真7 天守台前面の下段と中段の石積みの比較
08.天守台:前面上段-02D 1510q
写真8 天守台前面の上段の石積み
09.天守台:前面上段-07D 1510q
写真9 天守台頂上への入り口通路を劃する上段の石積み 右側
10.天守台:前面上段-10D 1510qc
写真10 天守台頂上への入り口通路を劃する上段の石積み 左側 

天守台の美を語るとき、その全体の容姿が端正であり、重厚であると言うだけでなく、天守台の細部に宿る美についても、また季節で変わる美についても、注目したいものです。

先ず細部については、基本的な石垣の積み方なのですが、自然石をそのまま積む「野づら積み」と、自然石の大体の形を揃えて積み込む「打込接(うちこみはぎ)」と、更に石の側面を鑿(のみ)で平らに削り合わせて石を密着させる「切込接(きりこみはぎ)」という三通りの方法があります。

野づら積みは、自然石をそのまま積み、隙間に小石を詰めた石垣です。この石垣は、手足を掛ける隙間があって敵に登られ易い欠点がありますが、水捌けがよいので崩れにくく、築造にも手間が掛からないので、古い時代には小規模の築城で多く用いられました。

しかし戦国時代になってからは野ずら積みは余り用いられなくなり、防御に強い隙間のない石垣作りが主流となりました。そして堅固な防御が必要な天守台や櫓や濠の石垣には、切込接の石積みが採用され、それ以外の場所には打込接の石垣が用いらています。
(写真1)

前回の写真で見たように、天守台の石積みは全て切込接の石垣ですが、詳しくは切石整層積みと言い、個々の石の高さを水平に揃えて積み、横目地が 一直線になる積み方となっています。見た目には美しいですが、構造的には横揺れに弱いので、これは実用よりは美観を重視した石積みです。
(写真2)

江戸城の天守台の切込接の石垣は、下段には大きめの石を積み、中段には中ぐらいの石を積んでいます。下段には鼠色、薄黄色、白色の石を組み合わせ、中段は暗い色の石を多くして、所々に白い石を混ぜています。
(写真3、4)

下段の石組みと中段の石組みの組み合わせにも変化を持たせています。下段は色彩豊かな大柄の石積みに対して中段は落ち着いた中ぐらいの石積みで、安定感を感じさせます。全体として上品で洒落れたデザインです。
(写真5、6)

天守閣へ上がるには正面の石垣を見ながら上ることになりますので、正面にこのような装飾的な工夫を凝らしたのです。上段の石積みは、下段および中段よりかなり高さがあり、明るい白色で統一しています。正方形の石を横目地を合わせて整然と積み上げているのも、やはり美観を重視してるのです。
(写真7)

天守台頂上への入り口通路を劃する上段の石積みには大きな石を積み上げています。その大きな石は、右手には明るい色の石、左手には暗い色の石を使っています。下段の石積みと中段の石積みの色彩のリズムの変化を、左右の門構えの石積みに繰り返しています。
(写真8、9)

関東の武蔵野台地には産出する巨石は少なく、もしあったとしても陸路運ぶのは困難でしたから、大半は伊豆、箱根辺りから切り出して、小田原から海路、船で運ばせたと言います。箱根や伊豆の石は鼠色でしたから、色彩に変化を持たせるため、薄黄色の石は、瀬戸内海の小島で採掘した石をはるばる運んできたものと言われます。

後ほど紹介する夫々の御門の渡櫓門の門柱でも、色彩の違う石を混ぜて積んでいるものが幾つもありますので、頑丈一点張りの無骨な西欧や中国の城壁に比べて、江戸城の石垣は繊細な装飾性に富んでいることに驚かされます。
(以上)
【2016/02/07 20:48】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
江戸城 天守台の美 その一
1.大阪城本丸-02D 07010qr
写真1 大坂城
2.名古屋城-06D 1404q
写真2 名古屋城
3.石垣-39P 96t
写真3 江戸城天守台 現在は正面中段右の木はありません。
4.石垣-40P 96t
写真4 江戸城天守台の左半分
5.天守台頂上-01D 1510qt
写真5 天守台頂上
6.天守台-09D 1508qc
写真6 北東側から見た江戸城天守台
7.天守台:部分-21D 1510qc
写真7 江戸城天守台の部分
8.天守台-10D 1508qc
写真8 江戸城天守台の東側
9.天守台:部分-12D 1510qc
写真9 江戸城天守台の東側の石垣が焼け爛れた部分

天守台は天守閣を載せる石塁のことです。江戸城の天守閣は、本丸内に三度築かれましたが、三度目に築かれた天守閣(1638年)は明暦の大火(1657年)で消失し、僅か20年弱の寿命でした。

天守閣焼失後、幕府は再建を企てて天守台の石塁まで築造しましたが、天守閣の建造はしませんでした。その理由には、江戸市街の復興を天守閣再建より優先したとか、戦国の世の象徴である天守閣は必要なくなったとか、更には幕府財政が逼迫していたとか言われていますが、その決断は、時の大老、保科正之の判断でなされたと言われます。

明暦の大火の後、江戸市街は火災に備えた大規模な都市計画で見事な復興を遂げましたし、戦国時代が終わって徳川300年の平和な時代が続いたこと等を思うと、再建しなかったことは適切な判断でした。

平成の時代になって江戸400年祭に合わせて江戸城の天守閣を再建する話が出ましたが、沙汰止みになりました。もし平成の天守閣の再建が実現したら、保科正之に笑われたでしょう。時代を経た今となっては、江戸城の遺産は天守台であって天守閣ではないのですから。

大坂城や名古屋城の天守閣は再建されて、熊本城と共に、日本の三大名城と言われています。見事な威容を誇っていますが、それを見て、東京の江戸城に天守閣がないのは寂しいと言う気持ちは分かります。でも、喩え再建されても、江戸時代の人々にも、東京の人々にも記憶されない歴史遺産を再建しても、それは遺跡ではなく模造品に過ぎません。
(写真1、2)

江戸城の遺跡として残された天守台は、こじんまりとして端正な造りながら重厚です。天守台は南側から見ると三層から成る雛壇状の石塁です。この南側の小天守台は幕末に改造されたものです。

下段は低く、中段、上段へと次第に段差が高くなっていますが、上に行くほど段差を大きくしたのは、天守閣への攻め手に圧迫感を与える構造にしたのです。

本丸御殿から天守台に上る坂道は天守台の正面中央にありますが、途中で屈曲して護りを固めています。天守台の上段に上りますと、上段の石垣の裏側は窪地となっていて、天守閣のあった地盤と隔てています。いずれも天守閣の護りを固める工夫ですが、これらの構造上の工夫が、外見上、天守台の重厚さを増しています。
(写真3、4、5)

天守台の石塁には大坂城のような巨石は組み込まれていませんが、花崗岩切石を隙間なく積み上げており、積み石の表面は綺麗に磨かれています。この石塁は明暦の大火の翌年に前田綱紀に築き直させたと言われます。簡素ですが全体として美しく見えます。(写真6、7)

ところが、天守台の東側の石積みの一部は、表面にひび割れが生じていて、美感を損ねています。このひび割れは、明暦の大火の際に炎に焼かれた跡と言われます。石垣の強度に関係ないこととして、石塁再構築の際には、従来の石材をそのまま使用したのです。
(写真8)

敢えて美観にこだわらず、火災の跡を天守台の石積みに残したことは、逆に歴史的遺産としての天守台の価値を高めています。過去の記憶を形に残すことが遺跡の価値ですから。
(写真9)
(以上)
【2016/01/29 13:46】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
| ホーム | 次ページ