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端午の節句に泳ぐ鯉幟はいろいろ
1.丹那盆地-11D 0905qtc
写真1

2.鯉幟-04D 0505q
写真2

3.鯉幟-02D 0505q
写真3

4.猪苗代-07P 99q
写真4

5月5日は端午の節句です。武者人形を飾り、鯉幟を立て、菖蒲湯につかり、柏餅を食べて、男の子の成長と健康を祈る祝いの日です。中でも庭に鯉の吹き流しが立つと、その家には元気な男の子が居る証で、近所中で祝福する華やぐ気分になります。

鯉幟を立てる風習が始まったのは江戸時代からです。鯉は滝をも登る元気な魚ですから男の子も鯉のように大空を駆け巡って欲しいとの親の願いの旗印でした。端午の節句に鯉幟を飾る風習は現代も続いていますが、その後は都会では大きな鯉幟を立てる場所は少なくなり、今では郊外か地方の農村でしか見ることができなくなりました。
(写真1)

嘗て各家庭の庭先で泳いでいた鯉幟の多くは、今では畳まれて押入に寝かされていましたが、それでは可哀想だと年に一度、端午の節句の季節に寝かされている鯉幟を大空に泳がせようと働きかける人が現れました。

時には川や谷に長いロープを渡して、そのロープで多数の鯉幟を吹き流している風景を見ます。五月晴れの青い空の下、新緑を敷き詰めた大地の上を泳ぐ多数の鯉のぼりは楽しそうです。これらの鯉幟は近隣の人々が寄贈したものだそうです。
(写真2、3)

桜前線の北上が遅い東北地方では五月の節句の頃に桜が咲きます。猪苗代湖の湖畔をドライブしていましたら、満開の桜の花の中を泳ぐ鯉幟に遭遇しました。桜の花の川に泳ぐ鯉の気分はどんなに良いものかと想像してみました。
(写真4)
(以上)
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【2021/05/06 17:47】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
コロナ禍で代々木公園はカラスの天国
1.代々木公園:人々-100D 2104q
写真1

2.代々木公園:コロナ使用禁止中-02D 2104q
写真2

3.代々木公園:動物-02D 2104q
写真3

4.代々木公園:動物-01D
写真4

新型コロナウイルスの感染拡大で
3回目の緊急事態宣言発令

5月の連休をもて余して代々木公園に行ってみたら
来園した人は三々五々噴水広場の片隅で憩う

オレンジ色のフェンスに囲われた道を進めば
無人の公園広場にカラスが集う

二羽のカラスは語り合う
コロナは悪い事ばかりでないと
(以上)
【2021/05/01 13:19】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
根津神社のツツジも満開前に店仕舞い
1.根津神社:楼門前広場-01D 2104qq
写真1 楼門前の広場からつつじヶ丘を見る

2.根津神社:神橋-03D 2104q
写真2 神橋越しにつつじヶ丘を見る

3.根津神社:つつじ-17D 2104q
写真3 つつじヶ丘の庭園内で

4.根津神社:乙女稲荷神社-27D 2104q
写真4 乙女稲荷神社の見晴台

5.根津神社:乙女稲荷神社-26D 2104qr
写真5 乙女稲荷神社の見晴台には外国人も見物に

都内でツツジの名所と言えば根津神社の境内です。
根津神社は古い神社ですから古いツツジの名所です。
神社建立前からツツジは咲いていましたから都内最古の名所です。
(写真1)

ツツジは境内西側の傾斜面に植えられています。
二千坪に三千株のツツジが咲き誇ります。
ツツジは晩春から初夏にかけて咲きます。
根津神社のツツジも5月のゴールデンウイークが最盛期です。

今年はコロナ禍で無観客のつつじヶ岡になる直前に駆け込みました。
満開ではありませんが半分程は咲いていていました。
(写真2、3)

つつじヶ丘のツツジと江戸時代の楼門を比べ眺め
ツツジに囲まれた乙女稲荷の朱塗りの見晴台の人々を眺めて
今年のツツジ花見は早々に引き上げました。
(写真4、5)
(以上)
【2021/04/25 16:54】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
障子戸とガラス戸
烏山寺町:妙寿寺-02D 0805q
世田谷の古風な木造家屋 二階の部屋にも障子戸がある。

烏山寺町:妙寿寺-06D 0805q
一階の部屋の障子戸はガラス窓付き


障子戸(しょうじど)は字義通り遮る戸のことです。従って、昔は襖戸(ふすまど)も障子戸と言いました。今の障子戸は平安時代に「明かり障子」として襖戸から分離誕生したもので、明かりを通す障子という意味でした。

従って明かり障子には外気を遮断しながら明かりだけを部屋に取り込む働きがあります。ガラス戸が発明されてない時代に、障子は大変便利なものでした。ガラス戸が出現しても外部から覗かれることなく部屋を明るくするので障子は優れていました。

古くは部屋と部屋の間の仕切りや目隠しをする家具に御簾(みす)がありました。高貴な人を直接見ることは失礼になるということで、御簾越しに面談することは、天皇家や貴族の間では良く行われていたそうです。

外部から覗かれないという点で障子は御簾に似ていますが、障子は明かりを採り入れることが目的でしたから、部屋と部屋の間よりは部屋と外界との間に置かれました。

日本列島の大半は温暖湿潤な気候なので、冬に寒い欧米の家屋のように厚い壁で外気を遮断する必要はなく、部屋の開口部を広くして空気の流れがよい家屋が好まれます。その点でも障子戸は部屋と外界との仕切りとして好都合でした。

しかし障子戸は雨には弱い欠点がありましたので、ガラス板が安価に利用できるようになると、外気に接する障子戸はガラス戸に置き換えられていきましたが、障子戸を愛用した日本人は、その代わりに曇りガラスまで発明しました。

それでも、障子戸は曇りガラスより暖かみがありますので、一部の日本家屋では障子戸は使い続けられ、ガラス戸と障子戸を組合わせた巧みな使用方法も考案されました。写真はその一例です。
(以上)

【2021/04/22 14:24】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
托鉢僧の姿に仏教の伝来を思う
1.人-15P 96
写真1

2.大阪城城内-01D 07010q
写真2


今でも街中で僧侶が寄進を仰ぐ姿を見かけることがあります。直立不動の姿勢で立ち、時折、小鐘を鳴らして道行く人々に存在を知らしめるだけで、終始無言の行です。僧侶は寄進する人が現れると、合掌して頭を下げるだけです。これは托鉢というインドで生まれた仏教の修行の一つです。

古来、インド仏教では、宗教に身を投じる者は、財産を一切持たず、一切の経済行為を行わなわず、実生活で必要な最低限の食料、衣料などは信徒の寄付によってまかなうことを戒律としていました。そして托鉢は僧侶の修行であると同時に、寄進を通じて信者に功徳を積ませる布教活動でもありました。その意味で托鉢は仏教実践の原点なのでしょう。

インドで生まれた仏教は、スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジャへ普及した南伝仏教と、チベット、中国、日本、ベトナムへ普及した北伝仏教とがありますが、前者を上座部仏教(小乗仏教は蔑称)と言い、後者を大乗仏教と言います。

初期仏教は戒律の改廃を巡り諸派に分裂しますが、やがてスリランカの戒律維持派が上座部仏教の主流となって東南アジア諸国へ伝播します。これを論難したのが大乗仏教で、北インドから中央アジアを経て東アジアまで伝播しました。

上座部仏教の批判点は出家した者が修行により自己一人のみが救われると考えるのは「小乗」だとして自らを「大乗」と称し、出家した人だけでなく在家の人も仏陀を信じれば成仏できると説いたのです。

他方、7世紀から14世紀にかけてインド直伝の仏教を受け入れたのがチベット仏教であり、厳格な出家制度、仏教の基本、諸哲学、密教を広く包含する総合仏教と言われています。しかし、そのチベット仏教は、現在、無宗教國の中国により弾圧を受けて、観音菩薩の化身であるダライ・ラマはチベットを追われてインドにあるチベット亡命政府に滞在しています。

中国経由で普及した大乗仏教は、漢訳経典に依拠する東アジア仏教と言われますが、日本の仏教諸派はこの流れに属します。奈良、平安、鎌倉の夫々の時代に多くの宗派に分かれて広く普及しましたが、日本の仏教は神道と融合した独特の仏教に発展しました。更に鎌倉時代以降になると日本の仏教は、それまでの上流階級の仏教から一般民衆の仏教へと大衆化が進みました。そして大衆化した日本仏教は、祖先崇拝の古来の民俗信仰に支えられて、彼岸の墓参りなどの形で日常生活に生きています。

写真は皇居(写真1)と大阪城(写真2)での托鉢僧の姿です。
(以上)
【2021/04/16 21:01】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
筍が旬です
1.たけ-02D 1112q
写真1

2.たけのこ-04D 1404q
写真2

3.たけのこ-01D 1004qt
写真3

春は木々が芽吹く季節です。地上で木々の梢が薄緑に染まる頃、地下茎で繁茂する竹林には新しい竹が地下から顔を出します。花より団子という位ですから、春に芽吹く植物の中で一番人に喜ばれるのは筍(たけのこ)かも知れません。

筍には色々種類がありますが、筍の王者は孟宗竹の筍です。日本に生育する竹の種類の中で高さ、太さが共に最も大きく、地下茎から発芽する筍の芽も一番大型です。ただし竹は温暖な地域を好むイネ科の植物ですから、孟宗竹の北限は岩手県辺りと言われています。
(写真1)

桜の開花は気温の変化に敏感に反応するように、筍も気温の変化に敏感で、桜に北上する開花前線のように、筍にも発芽前線という言葉まであるそうです。桜が咲くのが待ち遠しいように、筍も発芽も待たれています。ですから中国の親孝行話で寒中の筍堀りが美談になるのでしょう。

京都は野菜の美味しいところですが、筍も京都が一番おいしいそうです。京都の筍は肉厚で色白で柔らかく、しかもあくの苦さがなく甘みさえあると言います。京都の筍は何やら女体を思わせる筍です。

私は人が料理した筍を食べるだけなので、偶々卸売市場で見かけたこの筍が京都産であるかどうか見分けることは出来ませんが、さぞかし美味しい焼物、煮物、吸い物、揚げ物の筍料理がうまれるでしょう。
(写真2、3)
(以上)
【2021/04/09 11:18】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
新芽で静かに華やぐ農村
1.新緑-01P 94q
写真1

2.新緑-03P 89qt
写真2

3.新緑-05P 92qt
写真3

4.新緑-09P 89q
写真4

森の懐に抱かれて佇む
古風な屋根の農家が一軒

裏手には
常緑樹の黒い森が迫り
庭先には
新緑の灌木が芽吹く

新緑は
薄緑や黄緑や茶色と
色とりどり

晩春の農村が
静かに華やぐ季節
(以上)
【2021/04/03 17:58】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
桜の咲く校庭の思い出
小学校の桜

校庭に桜が咲く頃
クラスの組み替えで
親しい友達と別れて
新しい友達が増える頃を思い出す

卒業して
親しかった友達は去り
名残惜しい校庭も遠くなる頃
もう一度遊びたい
あの鉄棒の傍で
(以上)


【2021/03/28 17:27】 | 写真論 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
黙秘権と天野屋利兵衛の義
1.泉岳寺:山門-07D 2103qr
写真1 泉岳寺の山門

2.泉岳寺:赤穂義士墓所入り口門-01D 1210qr
写真2 赤穂義士墓所入り口

          3.泉岳寺:義商天野屋利兵衛浮図碑-02D 2103qc
          写真3 義商天野屋利兵衛浮図碑

赤穂浪士四十七人は藩主の仇を討った義士として泉岳寺に葬られています。義士とは主君への忠義を尽くした武士という意味です。
(写真1)

泉岳寺の赤穂義士墓所入り口門の手前右側に、武器調達で赤穂浪士の討入りを支援した大阪商人の天野屋利兵衛の石碑があります。討入り前に捕縛された天野屋利兵衛が、拷問に屈せず、討入り計画を黙秘したときの台詞は「天野屋利兵衛は男でござる」でした。
(写真2)

天野屋利兵衛は自己の利益のためでなく、忠義な浪士たちのために黙秘したのです。だから石碑では天野屋利兵衛を義商と呼んでいます。
(写真3)

現在の法律では、黙秘権、即ち自己に不利益な供述を強要されない権利が与えられています。汚職で逮捕された国会議員もこの黙秘権をよく使うそうです。

国会議員は国家のため、地域の人々のため働く人たちです。公的権力の行使の対価に賄賂を受け取る汚職は、公益に資する筈はありませんが、それでも調べられるとき黙秘権があるのです。彼ら国会議員たちは義のためでなく自己の利益のため嘘をつくのですから、天野屋利兵衛流に言えば「男ではござらぬ」人たちであります。

道徳では嘘をつくことを戒めていますが、法律では正直にしゃべらないことが権利となるご時世です。「男ではござらぬ」国会議員が増えることも、又やむを得ないと諦めるべきでしょうか?
(以上)

【2021/03/23 18:48】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本刀は美術品
1.刀剣博物館-07D 2103q
写真1

2.上山城-07D 0811qr
写真2

3.刀剣博物館-20D 2103q
写真3

日本刀は切れ味が良い刀ということで、西欧人の間で人気があるのだそうです。そのわけは蒙古が日本を襲ったとき、当時の鎌倉武士は勇敢にこれを迎え撃ち日本刀で蒙古兵を鎧兜ごと切り捨てたとの記述が西洋の戦記にあるからだそうです。

蒙古の騎馬軍団にさんざん脅かされた歴史をもつ西欧人にしてみれば、その蒙古軍を撃退した強力な武器であった日本刀に興味があるのは分かります。しかし日本刀は実戦に向いていない刀なのです。日本刀は、大勢の敵兵を続けざまに何人も斬り倒す程頑丈な刀ではないのです。

集団戦で大勢の敵を一時に斬り倒すには、中国の青竜刀(せいりゅうとう)やトルコやアラビアの彎月刀(わんげつとう)のように、刀の刃が湾曲している方が、刃が直線的な日本刀より効果的なのです。

日本刀は、一対一の戦い、一騎駆けの戦いに向いています。と言いますのは、そこでは敏捷な太刀さばきが求められますから、軽量で操作性に優れた刀が求められました。力で斬るのではなく、技で斬る刀が求められました。

そうして生まれたのが日本刀です。柔らかい鋼(心鉄)を刀身にして、刃など外側に堅い鋼(皮鉄)を組み合わせ、焼きを入れて一体化する製法で細身の刀を強靱に仕上げたのです。一見華奢に見える日本刀が、折れず、曲がらず、良く切れると言われる所以です。

日本刀を製造する刀工たちに流派があり、生産地により特徴があり、また時代により刀剣の長さも変わります。刀剣の優劣は当然切れ味で評価されましたが、その後はその姿形の美しさでも評価されました。焼き入れの時に焼刃に波形の形状がつきますが、これを刃文と言いまして、刀身の緩やかな反りの曲線に並ぶ刃文の美しさで刀剣の優劣を競うようにもなります。こうして日本刀は、今では美術品として評価されるようになりました。

最初は、武器としての興味で刀剣博物館を訪ねてきた外国人も、見ているうちに工芸品として観賞をして帰るのではないでしょうか。

写真1は墨田区の刀剣博物館に展示されていた刀剣、写真2は山形県上山城内に展示されていた刀剣です。

写真3は日本美術刀剣保存協会が運営している刀剣博物館の建物で、近年両国の旧安田庭園に隣接する現在地に新築移転したものです。
(以上)

【2021/03/16 20:09】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
春を告げる菜の花たち
1.菜の花-11P 92qt
写真1

2.菜の花-04Pq
写真2

3.菜の花-08P 89q
写真3

4.菜の花-10P 89qt
写真4

5.河津桜-03D 0702qt
写真5

6.河津桜-13D 0702qt
写真6

春風に優しく揺れる菜の花は
咲く場所を選ばない

ススキしか生えない川の土手にも
切り開かれた赤土の大地にも
菜の花は力強く繁茂する
(写真1、2)

村の小道を歩いていけば
菜の花は道を明るく縁取りして
鎮守の森へと誘う
(写真3、4)

水温む小川の瀬に陽の光が輝き
早咲きの彼岸桜が咲き始めると
菜の花は一斉に咲き誇り
春が来たと告げる
(写真5、6)
(以上)


【2021/03/10 20:19】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本人になったドナルド・キーン教授
1.無量寺-02D 2102qrc
写真1 無量寺の門

2.無量寺-13D 2102qc
写真2 無量寺の本堂

3.無量寺-11D 2102qc
写真3 無量寺のしだれ桜

間もなくの3月11日で東日本大震災(平成23年発生)から10年になります。今年の2月13日福島県沖で発生したマグニチュード7.3の地震はその余震だと言い、今後10年は余震が続くと言います。忘れるに忘れられない地震大災害の記憶を呼び覚ましました。

随発した東京電力福島第一原子力発電所の事故は、その地震大災害を更に倍加しました。これで日本も暫く復活できないとみられました。放射能の危険を感じた在日外国人は大挙して日本から逃げ出しました。

その時、日本文学の研究者として世界的に高名なドナルド・キーン教授は、日本に帰化したいと発言して、内外に驚きを以て迎えられました。そしてその年の9月に永住のため来日し「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい」と語ったと言います。

第一の驚きは、人生の最後を日本で過ごしたいので、以前から日本の国籍を取ろうと考えていたとテレビの会見で語ったことです。普通の人は、人生の最後は生まれた国、生まれ育った故郷で過ごすことを希望するのですから。

第二の驚きは、東日本大震災の後に日本国籍をとることを決心をしたことでした。福島原発の事故の後、放射能を恐れて多くの外国人は日本を去っていきましたが、その日本に来て住みたい、日本人と共に居たいというのですから。

第三の驚きは、日本では米寿の祝いと言うのがあるが、自分は今年八十八歳になるので、日本で心機一転して新しい仕事に挑戦したい、日本文学上の人物の伝記に取り組みたいと言うのですから。

ドナルド・キーン教授は、源氏物語から現代作家に至る日本文学を世界に紹介したばかりでなく、膨大な日本文学通史を著わして、日本人に日本文学の価値を教えてくれました。それでも尚、最後の研究を日本に永住して続けようと言うのです。

三つの驚きと言ったのは適切な表現ではありませんでした。東日本大震災で苦しんでいた私たち日本人にとって、次の言葉ほど勇気づけられる言葉はありませんでした。

教授は、日本紙のインタビューに答えて「災難を前に、”日本国民と共に何かをしたい”と思った。自分が日本人と同じように感じていることを行動で示したかった」と。

キーン教授は平成31年(2019年)にお亡くなりになり、今は日本のお墓に眠られています。墓地は旧古河庭園の近くの無量寺にあり、人の話では墓石には「キーン家の墓」と刻んであると言いますが、日本人の養子を迎えて、キーン家として長く日本に住み続けたいとの思いを表しています。キーン教授は、最後まで日本人になりきった、アメリカ生まれの偉大な文学者でした。
無量寺に参拝したとき、境内にはしだれ桜が咲いていました。
(写真1、2、3)
(以上)
【2021/03/03 18:26】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
大切な浜の守り
1.久ノ浜-01P 01qr
写真1 福島県 塩屋岬付近

2.河津の海-03D 0702qr
写真2 伊豆半島 河津付近

四方海に囲まれた日本は長い海岸線を持っています。国土の面積は少ないのに海岸線の長さは世界でトップテンに入る國です。しかも四季の変化がある温暖な地域に位置して、暖流と寒流に洗われる海に囲まれていますから、海岸線は緑の景観にも恵まれています。

長い海岸線は沿岸漁業の基地となったり、沿海航行の道として臨海部の各地を相互につなぎ、更に世界との交流の接点を多数持つことができます。長くて屈折に富む海岸線は経済的に有益な資産なのです。

しかし、その貴重な海岸線は、戦後に過剰に開発されたり、或いは放置されたりして、保全管理が十分でないと言われています。だからと言って、波や海流からの侵食を防ぐため海岸線をコンクリート堤防で固めれば良いわけではないでしょう。東日本大震災の後、津波対策に長大な堤防を築こうとしたら地元の人々から我々を海岸線から隔てるからやめてくれと反対されたと言います。

そこでコンクリート堤防の代わりに打ち寄せる波の力を弱めるコンクリート製の消波ブロックろ置くことになります。その方がコンクリート堤防を構築するより建設費は安価であり、設置場所も自由に選べるので便利です。

しかし、それでもやはり、海岸線には堤防も消波ブロックもない自然のままの姿が望ましいというので海中にブロックを沈める工法が研究されているそうです。波も海流も海面の表層よりも海中の方が大きな移動エネルギーを蓄えていますから、消波ブロックを浜辺ではなく、海中に積み上げるが方が効果が大きいのだそうです。ただし、海底にブロックを固定するのが難しいとのことで実現できていません。

写真1は福島県の塩屋岬付近の浜辺に積まれた消波ブロックに波が打ち寄せている光景で、この辺りは沖合で親潮と黒潮が遭遇するところなので海流も早く波風も荒いところで、高波は消波ブロックを乗り越えています。写真2は伊豆半島の河津付近の海岸で、春の風が強い日でした。
(以上)
【2021/02/26 20:39】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
海と山のある温泉地 熱海の盛衰
1.熱海温泉街全景-01P 90qt
写真1

2.熱海市街全景-01D 1209qc
写真2

3.熱海市街全景-04D 1209q
写真3

4.熱海風景-04P 89qr
写真4

5.熱海の街-13D 1209q
写真5

6.熱海駅前:平和通り-05D 1611qt
写真6

7.熱海駅前-26D 1702qt
写真7

8.熱海駅前-28D 1702qr
写真8

熱海は海と山のある温泉地として全国に知られたところです。
山側は箱根山塊の麓の丘陵であり、その丘陵を上れば箱根へ行くとき越える十国峠があります。十国峠(日金山)は、鎌倉時代から東国武士達に崇敬された箱根神社と伊豆山神社を結ぶ古くからの山岳霊場でした。

海側は海岸沿いに温泉地が広がり、戦国時代には豊臣秀吉の弟、秀次が湯治に訪れたり、徳川時代には家康が湯治に訪れたり、また家光が熱海に御殿を造らせたり、更には家綱が湯を江戸城まで運ばせたりと、天下に知られた温泉地でした。

明治以降、鉄道が開通すると皇族、政治家の保養地となり、後に実業家、学者、文人など多様な客層が熱海に来遊するようになります。更に双柿舎(文学者の坪内逍遥が建設)、起雲閣(実業家の内田信也が建設)など豪華な別荘も建ちました。

そこには志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、太宰治などが滞在して、文人達の交流の場所にもなりました。そして尾崎紅葉の「金色夜叉」、芥川龍之介の「トロツコ」など文学作品の中で熱海が舞台となることもあり、熱海の知名度は全国的になりました。

こうして熱海は明治から昭和の時代を通じて多くの観光客を吸引する温泉街となっていましたので、山と海に挟まれた平地の少ない熱海の町には多くのホテル、温泉旅館、土産物商店街、行楽施設などが詰め込まれて、戦前までに極めて密度の高い街に成長していました。
(写真1、2、3)

この傾向は戦後も続き、新婚旅行、職場旅行などで熱海温泉街は大いに賑わいましたが、平成初期に不動産バブルの崩壊すると、一気に衰退が始まります。リゾート・マンションは増えましたが、大型旅館の閉鎖は続き、土産物商店街はさびれ、さりとて打開策の町並みの再開発もはかどらず、熱海の町は古びた昭和の温泉街から脱皮するのに苦戦しています。
(写真4、5)

しかし、平成時代の末期になると、大手リゾートホテルの進出もあって、熱海温泉街にも復活の兆しが現れるようになりました。また、コロナ禍の所為で新幹線通勤も容易になリ、リモート・オフィスの候補地として見直されているそうです。

新幹線が停車する駅として余りに粗末だった熱海駅ビルが「ラスカ熱海」として大変身(平成28年2016年)したこともあって、熱海への若者の訪問者も近年増えています。
(写真6)

なお、駅前広場に置かれたオモチャのようなSL機関車は、熱海・小田原間を関東大震災まで走っていた熱海軽便鉄道のものですが、モダンな駅ビルとの対比で熱海の発展の歴史を思い起こす洒落たオブジェです。
(写真7、8)
(以上)
【2021/02/20 12:45】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
箱根の山を下りて熱海の沖に初島を見る
1.熱海港と初島-02P 96qr

「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波の寄る見ゆ」と詠んだ源実朝にあやかって、徒歩で十国峠から熱海峠を経て熱海の町へ向かって下山したことがありました。すると姫の沢公園を過ぎた辺りで、相模灘に浮かぶ初島が大きく見えてきました。更に坂道を下りてくると熱海の町と初島が一望に収まる地点に立ちました。
(写真1)

箱根神社と伊豆山神社を参詣する二所詣は、源頼朝が始めたと言います。頼朝の次男、三代将軍実朝も二所詣で伊豆山神社へ参詣するため箱根山を下りてきて初島を見たのでしょう。

そこからは相模湾に浮かぶ小島に白波が打ち寄せる様が美しく見えたのです。しかし平成の世の熱海の沖の初島には、港があり大きな白いビルが横たわっていました。

江戸時代の半ばを過ぎて熱海が温泉場として知られるようになっても、初島は沖の小島として鎌倉時代のままの姿でしたが、大正時代に東海道本線が熱海まで開通し(1925)、さらに昭和時代に丹那トンネルが開通(1934)すると熱海は関東での大観光地となり、初島への遊覧船も通うようになりました。

更に、東海道新幹線の開通(昭和39年1964)とともに、初島の観光業が更に盛んとなり、リゾート地として開発が進み平成の世になると、写真に見る大きな白いビル「エクシブ初島クラブ」(2000)が建ったのです。

それにしても初島とは晴れがましくも目出度い名前です。一度は訪ねて見たくなります。
(以上)
【2021/02/13 13:13】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
東京でミルクホールが流行った頃を思い出した
1.多町2-15D 1006q

コーヒーは、17世紀にトルコからヨーロッパに伝わりました。中国茶がイギリスに渡り、18世紀に緑茶を発酵させた紅茶が生まれました。いずれも最初は上流社会の嗜好品として受け入れられ、水代わりに葡萄酒を飲むよりも、コーヒーや紅茶を飲む方が健康に良いとあって、やがて大衆にも普及していきます。

日本では大正時代に町にミルクホールが流行りますが、その原因は西洋人がコーヒー、紅茶を飲み始めた事情とは趣を異にします。西洋では日常飲まれていた牛乳は、明治の頃まで日本では余り飲まれていませんでした。ミルクホールの出現は、その日本人が牛乳を飲み始めた現象なのです。

アジアでも近隣の中国、朝鮮でも肉食は普通でしたが、四海海で海の幸の豊富な日本では、魚肉は食べましたが、何故か獣肉は嫌われていました。四つ足の動物は食べない習慣の日本人は、動物の乳も飲みませんでした。

日本の近代化を進めた明治天皇は、西洋人と比べて日本人の体格が劣っているのを心配して、日本人にも肉食を奨めた話は有名です。その明治天皇は、国民にも奨める意味で自ら一日に二度牛乳を飲んでいたそうです。それがニュースになると、日本人は牛乳を飲み始めたと言います。

大正時代のミルクホールの出現は、日本人が進んで牛乳を飲むようになった時代の話です。喫茶店のようなミルクホールで、コーヒーや紅茶ではなくて専らミルクを飲む流行があったと言う話は、どこかほんわかした気分になる話です。

町を歩いていましたら「ミルクホール」の暖簾を下げて営業している店を見つけました。平成の時代にも大正時代の流行の印が残っていたので、ほんわかした気分になりました。
(以上)

注 写真の店は神田多町2丁目にあります。
【2021/02/06 10:29】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
実朝暗殺の現場を見ていた銀杏の木
1.鶴岡八幡宮-14D 0812q
写真1

2.鶴岡八幡宮-03D 04
写真2

3.熱海:初島-01D 1112qrcc
写真3

頼朝が関東で再興した源氏の政権は三代将軍実朝の暗殺で終わりを告げ、以後鎌倉幕府は北条家による執権政治にうつります。朝廷に取り入って栄華を極めた平氏は壇ノ浦の海戦で滅亡しますが、朝廷と距離を置いて鎌倉に幕府を開いた源氏は、親族同士の暗殺をくり返して、第三代将軍実朝の死で僅か30年弱で滅びました。

実朝の暗殺の舞台となったのは、鎌倉の鶴岡八幡宮の境内でした。右大臣昇進の拝賀の儀式のため鶴岡八幡宮に参上した実朝が、儀式を終えて退席し参道の石段を降り下りたとき、階段下にあった銀杏の大木に潜んでいた甥の公暁に殺害されました。公暁は二代将軍頼家の次男で、叔父の三代将軍実朝を親の仇と信じて凶行に及んだのです。

公暁が潜んでいたと言われる銀杏の大木は、平成22年(2010年)3月に突然倒壊して今は存在しませんが、倒壊する2年前(2008年)に偶々撮影した写真がありましたので掲げます。
(写真1、2)

暗殺事件が起きたのは建保7年(1219年)のことですから、写真の銀杏の樹は、それから800年余りの年月が経た、樹齢1千年の老大木でした。中世の政変の現場を見ていた銀杏の老大木の倒れた跡には根株だけが残り、今はその根株から新しい芽「ひこばえ」生えています。

実朝は若くして武士として初めて右大臣に任ぜられましたが、実権は母の北条政子、叔父の北条義時に握られており、武家の棟梁としてよりも和歌の道に励んだと言われます。実朝の金槐和歌集にある

 箱根路を 我が越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ

という和歌は万葉調のスケールの大きい歌と評されて有名です。
箱根の十国峠から熱海に下りてくる途中で見える初島を詠んだのでしょう。
(写真3)
(以上)
【2021/01/30 13:00】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
頼朝と政子の恋の舞台だった伊豆山神社
1.伊豆山神社-14D 0905qc
写真1
2.伊豆山神社-10D 0901qtc
写真2

小田原から熱海に行く熱海ビーチラインの途中に横穴式源泉で有名な走湯温泉がありますが、その右手の丘の上に伊豆山神社があります。伊豆山神社の境内には、源頼朝と北条政子が並んで座って恋を語り合ったと言う腰掛石があります。
(写真1、2)


伊豆に流された源氏の嫡子源頼朝は、伊豆の豪族の北条時政の長女、政子を後妻に迎え、関東の武士団を集めて平氏を討ち、全国を平定して鎌倉幕府を樹立しました。政子は北条氏一族のために源氏という名代が欲しかったでしょうし、流刑の身の頼朝には北条氏が持つ軍事力が欲しかったでしょう。伊豆山神社の腰掛石に座った二人の恋人は、政治的リアリストでしたからロマンチックな話ばかりでなく、鎌倉幕府の夢も語り合ったことでしょう。

源氏も平氏も先祖は天皇家につながります。彼らの先祖は天皇の皇子たちで、臣籍に下って天皇家から「源」「平」という苗字を与えられた人達です。平氏は娘たちを天皇家に嫁がせて朝廷に深く食込み、京都で権力を恣にしました。しかし頼朝は天下を取っても天皇の権威から距離を置いて、京都から遠い関東の鎌倉で陣幕を張り政務を執り、実質的に荘園を支配する権力を得ました。

「さむらい」とは公家に従うという意味の「さぶろう」の名詞です。頼朝は「さぶらう」ことを止めた初めての「さむらい」でした。この時から天皇の権威と武士の権力とが分離したのです。その意味するところは、土地と農民を天皇及び公家の所有とする公地公民国家(律令制)から、武士階級が所有し安堵する封建国家に変わったということです。

北条氏の軍事力をバックに樹立した頼朝の鎌倉幕府は、源実朝の暗殺で源氏の支配は三代で終わり、北条氏の執権政治にとって代わられます。北条氏の血筋の者を重用し、源氏の血筋の者を消していったプロセスで政子の果たした役割は大きかったと云われます。

二人が座ったという伊豆山神社の腰掛石の説明版には、恋物語だけでその後の政変物語までは書いてありませんが、たまたま参拝に来た若い二人連れは、この腰掛石は恋愛成就のパワースポットだと言いながら座っていました。
(以上)
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【2021/01/23 21:02】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
つららは雪国の軒下の宝石
氷柱-01P 01q

早春の頃、雪国を訪れたとき、家の軒下に朝日に輝く”つらら”を見たことがあります。木々は葉を落とし、田畑は雪に覆われて、周囲の山々は沈黙している中で、槍先のように尖った長い氷柱が十数本、キラキラと軒下に吊り下がって輝いていたのが印象深く覚えています。

つららは、雪の降らない極寒の地では見ることはありませんが、二、三日毎に気温の寒暖が入れ替わる、いわゆる三寒四温の地では多く見られます。と言いますのは、昼の暖かい時に屋根の雪が溶けて水となって滴り落ち、夜に気温が下がって凍りつくことを繰り返して、”つらら”は生まれ成長するからです。

滝が氷結したものを氷柱と言いますが、滝の氷結も”つらら”と同じ原理で成長します。昼に川水が滝となって流れ落ちて、夜に気温が下がると凍る過程をくり返して成長します。北海道の層雲峡や日光の滝が凍った氷柱の姿は豪快です。

つららも漢字では氷柱と書きますが、”つらら”の繊細な姿や透明感を伝えるには、外来語の漢語は使わずに、大和言葉の”つらら”が相応しいです。大和言葉には、日本人が長い間使い込んできた情感が込められているので、見た時の実感が伝わるのです。軒下に吊り下げられた宝石のような”つらら”の記憶が蘇るのです。
(以上)
【2021/01/15 12:04】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
七草粥の由来
春の七草-01D 0701

昔から1月7日に七草粥(ななくさがゆ)を食べる風習がありました。七草粥に使う春の七草とは、「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」の七種類の野草です。春の七草を包丁で刻み、粥に炊き込み、7日の朝、歳神に供えてから家族で食べて万病を免れるとされる風習です。(すずなは蕪、すずしろは大根です)

平安時代に食べたと言われる七種粥は7種類の穀類(米、粟、黍、稗、胡麻、小豆などの七種の穀物)の粥であり、今日の七草粥とは違います。

今日のように春の七草を入れたお粥を食べる風習は鎌倉時代に始まったと言われます。江戸時代には七草粥を作るとき「なな草なずな、唐土(とんど)の鳥が来ぬ前に」と歌いながら七草を刻んだと言います。渡部昇一氏によれば「唐土の鳥」とは中国大陸から冬の偏西風に乗って日本に飛んでくる悪い病気のことを指したとの事です。蒙古の襲来に怯えた鎌倉時代の人々の気持ちを考えると、七草粥の起源が鎌倉時代だったというのは頷けます。

現在は七草粥の風習は廃れましたが、私の子供の頃(戦前の昭和時代)には正月7日の七草粥は健在であり、子供達の楽しみでした。と言いますのは、野草のお粥を嫌う子供たちに母親が白砂糖を掛けてくれたからです。

冬の寒い季節に芽吹く野草の生命力を体内に取り入れることは、難しい栄養学の説明を聞くまでもなく、間違いなく健康に良いことです。ですから七草粥を家庭版薬膳料理と言う人もいます。七草粥は今後も残しておきたい風習です。

写真は横浜の三渓園で見かけたミニチュア七草園です。
(以上)
【2021/01/10 19:52】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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