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02/24のツイートまとめ
currentrip

在米看護師から聞いた新型ウイルスの特性。感染当初は鼻水の出ない乾いた咳の症状。耐熱性がなく26-27度の温度で死滅するので湯を飲むと良い。セルの直径は約400-500nmと大きいので一般マスクでも予防効果あり。金属面では12時間以上活性状態なので石鹸で手洗を。衣服で6-12時間活性状態で太陽に曝す
02-24 22:02

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【2020/02/25 04:05】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
老人の喜びは語り合い
1.六郷町の老婆-01P 97qt
写真1 秋田県にて
2.老人-04P 88q
写真2 香川県にて

何時の頃からか老人を高齢者と呼ぶようになりました。名前を変えても老人は老人であり、年老いた人々のことです。老人という言葉が嫌われたのは、老人ボケと言うようにボケと結びついているからでしょう。

西鶴は老いれば恥多しと言いましたが、荘子にも「寿(いのちながければ)辱め多し」と述べています。更に、徒然草で兼好法師は「四十路にならぬほどにて死ぬのが程よい」とまで言いました。古人は、それ程までにボケを嫌ったのです。ボケが何故嫌われるか言うと、他人に迷惑をかけながら迷惑をかけたことが分からなくなるからです。

その意味では、若年にも壮年にもボケた人は結構います。ボケは他人に迷惑を掛けるだけでなく、本人も不幸です。ボケた人には人生の喜びが分からないからです。ボケても自分は幸せだと思う人は単なる独りよがりで、本当の幸せな人ではありません。

幸せな生活とは、毎日喜びを感じられる生活です。仕事をしている人は仕事をする中で喜びを発見しますし、仕事から引退した人でも仕事以外の趣味や社会奉仕に喜びを発見します。

更には、仕事や趣味や社会奉仕を離れても、人々は友達や知合いと語り合い、自分の経験を分かち合い、互いに勇気づけ、慰め合うことで喜びを感じることができます。人生経験の豊かな高齢者は、互いに語り合うことによって、これまでの経験を分かち合えるのです。

元気で働いていたとき、一人で趣味に打ち込んでいたときも喜びはありましたが、年老いて親しい友や知人と語り合うことは、他人の体験や考えを共有できる良い機会であり、一人では到底達成できない、もう一つの人生を生きることになります。

二枚の写真は、第一は秋田県の農村で、第二は香川県の高松城で見かけた情景です。楽しい会話が聞こえてくるようです。
(以上)
【2020/02/24 10:41】 | 人生 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
富士の高嶺の雪
1.富士山-26P 93 tq
写真1
2.富士山-28P 93qt
写真2
3.富士山-34P 93 qt
写真3
4.富士山-13P 93qt
写真4
5.富士山-14P 93q
写真5

地球温暖化の影響なのでしょうか、この頃は富士山全体がが真っ白な雪に覆われた姿をみることは少なくなりました。
(写真1、2)

お座敷小唄では「富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も 雪に変わりはないじゃなし とけて流れりゃ皆同じ」と歌われますが、高嶺に降る雪と街に降る雪では、雪の利用価値に大きな差があります。

高嶺の雪は低温のため暫く雪の状態でいて、暖かくなると徐々に融けて水となります。高山の雪は水の貯蔵庫ですから、この貯蔵庫を失えば、それに頼って生きてきた動植物の生存が危ぶまれます。

地球温暖化は海面の上昇をもたらし、南太平洋の珊瑚礁の島、ツバルやキリバスは水没の危険があると騒がれていますが、被害は山岳地帯の高地にも襲いかかります。

世界の高山のアルプスやヒマラヤの雪が次第に消えつつあり、ヒマラやでは2000年に入って雪解け水で氷河湖が拡大しており、下流の山間にある200程の氷河湖の堤防が決壊しているとの報告があります。赤道直下のアフリカ大陸の山、キリマンジェロでも頂上の万年雪が今世紀前半には消えると外電は伝えていました。

日本列島の日本海側には雪積が多いことで有名な地域が沢山あります。雪深いことは、そこに住む人々にとっては不便なので嫌われますが、雪が水の貯蔵庫だとすると、実は恵みの雪でもあります。

その恵みの雪が日本列島に降るようになったのは、実は一万年以上前の縄文時代に遡るとのことです。この時代は氷河期が終わり地球は温暖な気候が続いていました。その結果、大海の海面が上昇して、日本列島に沿って太平洋側を北上していた黒潮の一部が枝分かれして、対馬海峡を通過して日本海に流入して日本海側にも流れ込みました。

冬期、日本海を渡って日本に吹きつけるシベリア寒風は、暖かくなった日本海の海面に触れて大量の水蒸気を発生させ、日本列島に吹き寄せました。水蒸気は日本列島を縦断する山脈に突き当たり上昇して雪となりました。

縄文時代以降、北海道を除く列島の大部分が落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになったのは、このシベリア寒風が造る雪のお陰なのです。今は東北の白神山地だけに存在するブナ林は、昔は日本本土全部を覆っていたと言います。ブナ林は雪解けの大量の水で成長し、それを樹中に保持し、徐々に放出しましたから、ブナ山林は豊饒の地となりました。

地球温暖化すれば日本海側への黒潮の流入は増えるだけで、シベリア寒風が吹き続ける限り、日本海側の冬の気象構造は基本的に変化しないでしょうから、暖冬で一部のスキー場が閉鎖されても、日本列島への雪の恵みは今後も続くでしょう。

富士山は、一際高い独立峰ですから、冬になると黒々とした周囲の山々の中に真っ白にな姿ですっくと立っているのが見られます。富士山の白雪は、日本列島に冬の恵みが訪れていることを告げているのです。そう思うと白い富士山は益々神々しく見えてきます。
(写真3.4、5)
(以上)

【2020/02/08 16:19】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
畑の紋様はランド・アート
1.畑-24P 89 qr
写真1
2.畑-03P 95q
写真2
3.畑-16P 85qr
写真3
4.畑-04P 95q
写真4
5.畑-09P 90q
写真5
6.畑-20P 93q
写真6
7.畑-19P 92qt
写真7
8.畑-14P 90q
写真8
9.畑-22P 85qr
写真9

畑は畠とも書きますが、両方とも意味も読み方も同じで、水田以外の農地を意味します。しかし、元々は「畑」は焼き畑を意味し、「畠」は白田(はくでん)と書いて焼き畑以外の農地を指しました。

畑には畝(うね)があります。蒔いた種や、出た芽を風による被害から守るのが畝の役目です。同時に、畝は作物の種類を区分して、農作業をし易くする整理整頓箱のようなものです。
(写真1)

その整理整頓箱の姿は、作物の生長に応じて変化します。畝の線をなぞらえて、芽生えは真っ直ぐに延びたり、或いは微妙にうねりながら延びています。真っ直ぐな畝は機械耕作の畑であり、うねる畝は手作業の畑でしょう。
(写真2、3)

ビニールの衣装を纏って芽を出す畝もあります。
衣装には、白いものもあり、黒光するものもあります。
全身に衣装をすっぽり被る畝もあり、片肌脱いだ畝もあります。
縁取り縫いのステッチのある衣装を纏うお洒落な畝もあります。
決められた場所に二列に整列して芽を出した行儀の良い畝がありました。
(写真4、5、6、7)

広がる畑を見渡せば、畝は畑の絵柄となります。
或る畑の大地は、時にはきめ細かな小紋の着物を纏い、時には艶やかな絞り染めの着物を纏います。

ランド・アートはナスカの地上絵だけではありません。零細農業の日本の農地には、無数のランド・アートが、誰にも観賞されること無く、描かれては消えていきます。それを発見するのは農村散策の楽しみです。
(以上)
【2020/01/31 14:15】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夕暮れ時のシルエット演劇
1.喰違見附跡q

2.喰違見附跡(紀之国坂)-20N 1904q

冬の夕暮れは足早に来る
明るかった空が陰り出すと
木々の姿態がシルエットで浮かび上がる

葉が落ちた大木は
梢を軽やかに空に延ばして
小木は自慢げなポーズをとって
土手の斜面に一列に並ぶ

大木たちは梢で囁やきかける
小木は離れて傍耳を立てる
喰違見附跡の土手上の
だれも見ない一幕の芝居
(以上)
【2019/12/28 13:37】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夕陽に映える枯れすすき
1.すすき-04P 89t
写真1
2.すすき-05P 89t
写真2
3.すすき-20P 89t
写真3
4.すすき-19P 89t
写真4

戦後ヒットした演歌「昭和枯れすすき」は、映画の主題歌にもなり、多くの有名歌手に歌い継がれました。演歌の歌い出しは「貧しさに負けた」で始まり「花の咲かない二人は枯れすすき」で終わります。

ですから枯れすすきには寂しさのイメージが付きまといます。しかし、群生する枯れすすきの原野は、落ちぶれた寂寞とした景色ではなく、生命が最後に見せる深遠な自然の摂理を造形化したものに映ることがあります。

それを目にしたとき厳粛な気持ちになり、すすきの原野は美しくも神々しい光景に変じるのです。初冬の霞ヶ浦へドライブに出かけたとき、湖畔の水辺に群生する枯れすすき野に出会いました。

遠くの水中に佇むす枯れすすきは寒そうで寂しく感じましたが、手前の枯れすすきの溜まり場は、僅かに薄日を浴びて、穂がしらを揃えて幾重にも並び、大勢で楽しそうでした。
(写真1、2)

残照の一瞬の輝きに照らされて、すすき野は田園の夕べのハイライトになります。水溜まりの反射の光がアップライトになって、身を躍らせるすすきの穂は得意げに背伸びします。
(写真3)

ふと目を遠くに転ずると、夕空に光り輝く電線の束が波状に走り、その下を土手の団子状のすすきが珠々つなぎに延びています。薄暗い田園風景をバックにして夕日に映える電線とすすきだけが浮かび上がる光景に、一瞬息をのみました。
(写真4)

手前を見ると、すすき野は足許まで続いていました。すべてのすすきの穂は、暖かいオレンジ色の光を確りと捉えて精一杯反射しています。足許から丘の彼方まですすき野の原野は、光の夕景を謳歌していました。
(以上)
【2019/12/17 14:46】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
築地塀は江戸の遺産
1.報土寺-04D 0805qr
写真1 本土寺の築地塀
2.報土寺:築地塀-06D 1909qt
写真2 三分坂から見た本土寺の築地塀
3.谷中寺町:観音寺:築地塀-07D 1909q
写真3 観音寺の長い築地塀
4.谷中寺町:観音寺:築地塀-14D 1909qt
写真4 築地塀にある観音寺の裏門
5.待乳山聖天-05D 0804qr
写真5 待乳山聖天の築地塀
6.待乳山聖天-06D 1102q
写真6 待乳山聖天の参道 築地塀は階段上の右手にある。

京都御所や西本願寺は長い土塀で囲われていますが、これらの土塀は築地塀(ついじべい)と呼ばれるもので、外敵の侵入を防ぐ堅牢な防護壁として築かれたものです。古都京都では、公家の屋敷や伝統のある寺院・神社が築地塀で囲われている例を良く見かけます。

嘗ての江戸でも武家屋敷や寺院には築地塀が数多くありましたが、明治以降、武家屋敷は壊され、残ったものも震災と戦災に遭って焼かれて、今の東京では築地塀を見る場所は滅多にありません。

しかし、現在の東京の町中で、築地塀が見られる場所が三ヶ所あります。それは港区赤坂にある報土寺と台東区谷中にある観音寺と浅草にある待乳山聖天です。

赤坂の報土寺の築地塀は、瓦と粘土を交互に積み重ねた形態ですが、瓦の層が幾層にも密に重なっているので、瓦と瓦を粘土で張り付けた様な仕上がりになっていて、重厚な築地塀です。しかも粘土の部分は白い漆喰で塗り固められているので、瓦屋根の黒色と漆喰の白色が縞模様になって美しい築地塀です。報土寺は三分坂という急坂の途中に建っているので、傾斜に沿って斜めに走る築地塀の縞模様の線はダイナミックであり、モダンに見えます。
(写真1、2)

谷中の観音寺の築地塀は、観音寺の南側を通る小道沿いに長く続いています。築地塀の途中に境内への出入口の扉があるので、それが長い築地塀の単調さに変化を与えるアセサリーになっています。観音寺の築地塀も、報土寺と同じく多層の瓦が積まれていますが、瓦の層には欠けた部分も目立ち、粘土の部分に彩色を施していないので、却って江戸時代からの築地塀の古さを感じさせます。小道を挟んで、観音寺の築地塀の対面には真新しいモダンなデザインの土塀が建っているので、この小道は新旧土塀のコントラストを演出した面白い光景です。
(写真3、4)

浅草の待乳山聖天の築地塀は、参道の階段を上った右側に一部残された短いものです。待乳山は堆積層の平地に独峯のように突き出た10メートる程の丘で、隅田川を眺める名所でしたから、歌川広重が描いた絵にもこの築地塀が描かれています。
(写真)5、6)

築地塀は、鉄砲の弾を通さないので、安土桃山時代以降は城郭の内部に多く使われました。そう言えば、戦国時代には寺は屡々臨時の軍事拠点として使われましたから、寺に築地塀が多いのはその所為かも知れません。築地塀が装飾的になったのは江戸時代以降だそうです。

現在の東京には、江戸時代を偲ばせる遺跡は江戸城跡の皇居の他には見附跡しか残っていませんが、築地塀は東京にある江戸時代の数少ない証拠品です。
(以上)
【2019/11/28 18:12】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
晩秋の農村を彩る美しい稲田
1.白馬~扇沢-13D 1410q
写真1
2.立山駅~富山市-08D 1410q
写真2
3.白馬~扇沢-08D 1410q
写真3
4.長野~上越-20D 1409q
写真4
5.長野~上越-22D 1409q
写真5
6.長野~上越-28D 1409q
写真6
7.長野~上越-41D 1409q
写真7

深緑というより濃紺に近い、くすんだ色の重厚な山塊に囲まれた農村が、旧盆過ぎた秋のひととき、明るい金色に輝きます。
それは稲田が色づく時です。
(写真1、2)

立秋を過ぎれば稲刈りが始まります。
刈取りが済んだ茶色の稲田と、未だ残っている金色の稲田と、その背後に黒々と控える山塊と、その山塊の裾野に並ぶ農家が夕陽に映える光景は、日本が誇る田舎の景色です。
(写真3)

近くに目を転ずると刈り終わった稲田には切り株が整然と並んでいます。
早くも春の作物が、これまた整然と出番を待っています。
その奥に建つ端正な立ち姿の農家にとっては、整然たる稲田は広い裏庭です。
(写真4、5)

しかし、中には稲刈り作業でかき乱された稲田もあります。
稲刈耕耘機の軌跡でしょうか。
畝(うね)の並びは不規則に断ち切られて、稲の刈取跡は斜めに切り結ばれています。
不協和音のように縦横のリズムは乱されています。
それが又、稲田が見せる新しい造形美です。
(写真6、7)
(以上)
【2019/10/13 17:45】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
代々木八幡宮の例大祭
1.代々木八幡:初詣-38D 1901qr
写真1 代々木八幡宮の森 元旦の初詣風景

2.代々木八幡古代住居跡-03D 1701q
写真2 代々木八幡古代住居跡

3.代々木八幡神社:例大祭-05N 1909q
写真3 代々木八幡宮例大祭 参道口

4.代々木八幡神社:例大祭-08N 1909q
写真4 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

5.代々木八幡神社:例大祭-10N 1909q
写真5 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

6.代々木八幡神社:例大祭-14N 1909qt
写真6 代々木八幡宮例大祭 参道の賑わい

7.代々木八幡神社:例大祭-25N 1909qr
写真7 代々木八幡宮例大祭 境内は参拝者で埋まる。

8.代々木八幡神社:例大祭-20N 1909q
写真8 代々木八幡宮例大祭 宮入りした神輿

9.代々木八幡神社:例大祭-31N 1909q
写真9 代々木八幡宮例大祭 本殿前の参拝風景

私の鎮守様は代々木八幡宮です。
代々木八幡宮は、その創建が鎌倉時代に遡る古い由緒ある神社です。
頼朝の長男、頼家が修善寺で暗殺された(1204年)後、武蔵野国の代々木の野に隠遁していた頼家の家来の荒井外記智明は、鶴岡八幡宮の託宣を受ける夢を見て、建暦2年(1212年)9月23日、この地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けて代々木八幡宮としたのです。

鶴岡八幡宮は鎌倉八幡宮とも呼ばれ、鎌倉武士の守護神であり、鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として関東方面では知名度が高かった神社でした。代々木八幡宮は創設の経緯からみて、その鎌倉八幡宮の直系の神社のひとつです。

代々木八幡宮の境内は、小高い丘の上にあり、鬱蒼とした木々に囲まれていて、都市化が進む都内では珍しく神社らしい雰囲気に満ちた神社です。正面の鳥居がある山手通り側から見ると、小山の上にある境内はこんもりした森に包まれていることが分かります。
(写真)1)

時代を遡りますと、縄文時代にはこの高台に縄文人が定住していました。戦後に発掘調査が行われて、縄文時代の竪穴式住居跡が発見され、「代々木八幡遺跡」として境内に保存されています。
(写真2)

代々木八幡宮の例大祭は、現在でも創建日と同じ9月23日に毎年盛大に執り行われます。新年の初詣の三元日は、長い参道にも拘わらず、参拝者の列が境内の外にまで延びて、神社の前の山手通りにまで行列ができますが、、例大祭の日は境内の中に人が溢れて、身動きが出来ない程になります。長い参道の両側には参拝者相手の屋台が隙間なく店を張ります。参拝者は大人も子供も屋台での買い物を楽しんでいます。
(写真3、4、5、6、7)

参拝するため本殿に近づいたとき、丁度、町内の神輿が一つ宮入したときに遭遇しました。神社本殿の前は神輿を担ぐ人とそれを見る人が集まっていて動きがとれない程でした。一般の参拝者は、神輿が神主からお祓いを受けて本殿前を立ち去るまで、立ち往生でした。お祭りの日の神社の境内は、また特別の熱気に溢れる場所になります。
(写真8、9)

最後に、直木賞作家の平岩弓枝氏は代々木八幡宮の一人娘であることは文学好きの人の間では知られていますが、平岩弓枝氏のお嬢様が代々木八幡宮で神職に従いておられることは、知る人は少ないでしょう。氏子の私は、神主のお嬢様に新年のお祓いをして頂いた事があります。
(以上)
続きを読む
【2019/10/02 10:55】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
晩夏の上高地散策
1.上高地:梓川-24D 1410qr
写真1 梓川
2.上高地:梓川-12D 1410q
写真2 梓川
3.上高地:河童橋-02D 1410q
写真3 河童橋
4.上高地:河童橋-03D 1410q
写真4 河童橋
5.上高地:大正池-02D 1410qr
写真5 大正池
6.上高地:涸沢カール-03D 1410q
写真6 涸沢カール
7.上高地:前穂高-01D 1410qr
写真7 前穂高
8.上高地:東側山岳-04D 1410q
写真8 上高地の東側山脈
9.上高地:猿-01D 1410q
写真9 森の小径を歩く野生の猿
10.上高地:猿-03D 1410q
写真10 木に登り餌を求める野生の猿 
 
晩夏の上高地は登山者と避暑の人々で賑わいます。
梓川の清流は透き通って冷たく流れています。
川辺に立つ枯れ木に冷水の冷気を感じます。
(写真1、2)

上高地の賑わうところは河童橋です。
山を登る人と下りてきた人は橋で出会います。
避暑に訪れた人は橋に集います。
(写真3、4)

河童橋から梓川の下流に大正池が見えます。
焼岳の噴火で梓川が堰き止められて誕生した池です。
池に浸かった多くの立木は枯木となって上高地のオブジェになりました。
しかし、そのオブジェも今は倒れて数少なくなりました。
(写真5)

河童橋から梓川の上流を見ますと涸沢カールが見えます。
氷河が削った幅広い北アルプスの渓谷です。
スポットライトを浴びた涸れ沢カールは壁画のようです。
(写真6)

正面の前穂高は高い屏風のように立ちはだかり
横に連なる山脈は囲い塀のように聳え立ち
河童橋と梓川は巨大な箱庭の一景となります。
(写真7、8)

上高地の森の小径に入ると野生の猿に出会いました。
小径を堂々と歩き、木に登り餌を探します。
彼等は人を恐れず、人に馴染まず、自然のままでした。
(写真9、10)
(以上)


参考:大正池
大正池は大正4年(1915)年の焼岳の大噴火で生じた火山泥土流が梓川が堰き止められて出来た池です。池に林立する枯れ木は上高地の特色ある景観でしたが、時の経過と共に枯れ木も倒れて残り少なくなりました。

参考: 涸沢カール
涸沢カールは穂高連峰の東側に氷河によって削り取られた深い谷です。涸沢の雪解け水は、涸沢出合で横尾本谷と合流し、屏風岩の北側を横尾谷となって流れ、横尾で槍沢の水と合して梓川となります。

【2019/09/16 15:57】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
夏に小笠原諸島を訪ねて
1.三日月山中腹より:二見港-01D 1409q
写真1  父島の二見港

2.おがさわら丸-01D 1409q
写真2 父島の二見港に停泊する連絡船おがさわら丸

3.三日月山展望台-04D 1409q
写真3 父島の三日月山展望台

4.三日月山展望台より-02D 1409q
写真4 父島の三日月山展望台から見た島々

5.小港海岸-14D 1409qr
写真5 父島の小港海岸

6.父島大通り-05D 1409qr
写真6 父島の大通り

7.父島裏通り-09D 1409q
写真7 裏通りのみやげもの屋に掲げられた日章旗と旭日旗

8.父島:花-04D 1409q
写真8 ブーゲンビリアは南国の花

9.花飾り-01D 1409q
写真9 芝生にも花のアート

10.父島二見港:漁船-03D 1409q
写真10 父島を背景に出帆を待つ漁船たち

11.扇浦海岸:飛鳥Ⅱ-01D 1409qr
写真11 豪華客船 飛鳥

12.青灯台岸壁-14D 1409qt
写真12 民族衣装で観光客歓迎のダンス

13.父島二見港出航-02D 1409q
写真13 離島する飛鳥に漁船は送別のパレード

14.父島二見港出航-25D 1409q
写真14 船で追走しながら送別の挨拶を送る島民達

15.父島二見港:沿岸風景-10D 1409q
写真15 夕焼け空に父島の島影が浮かぶ。

16.小笠原父島:落日-10D 1409q
写真16 雲の隙間から輝きを放つ落日

小笠原諸島は東京都の島です。
1000キロメートル離れた南太平洋に浮かぶ30余りの島です。

人が住んでいるのは父島と母島の2島だけです。
飛行場が無いので島の玄関は父島の二見港です。
東京港から連絡船で一昼夜の航海になります。
(写真1、2)

父島の高台から見る近くの島影は父島の自画像でしょう。
海面からそそり立つ緑濃い島々です。
広大な太平洋の水色の背景に、くっきりと浮かび上がります。
(写真3、4)

小笠原の自然は独自の生態系なので、植物、昆虫など珍しい発見があります。
世界遺産に登録(2011年)されてから訪問者は増えています。
(写真5)

父島の大通りは整然とした街並みで、バスも走ります。
みやげもの屋に日章旗と旭日旗がはためいていました。
小笠原諸島は最南端の日本の領土です。
(写真6、7)

小笠原の家並みには南国の花、ブーゲンビリアが似合います。
足許の芝生にも可愛い花飾りがありました。
(写真8、9)

小笠原諸島は観光が主要産業ですが、漁業も盛んです。
小型の漁船で南太平洋の彼方にまで出かけます。
(写真10)

偶々、豪華客船の飛鳥が小笠原島に寄港していました。
島民は民族衣装で大歓迎です。
(写真11、12)

去りゆく豪華客船に漁船は全力疾走のパレードで見送ります。
島民達は海上まで出かけて見送りの挨拶を送ります。
飛鳥の船縁からも有り難うと挨拶を交わします。
(写真13、14)

やがて、水平線に沈む太陽は小笠原の空を橙色に染め上げます。
父島の島影を浮かび上がらせて、落日と雲のドラマは尚続いていました。
(写真15、16)
(以上)
【2019/08/31 16:01】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
菊の紋章
                  1.三笠公園-16D 1303qt
                  写真1
                     2.靖国神社-02D 0705q
                     写真2
外国旅行をする日本人は平成30年(2018年)千九百万人に増えましたが、彼らが所持するパスポートの表紙には菊の紋章が付いています。

パスポートは日本人であることを証明するものですから、菊は日本国の国花だと思いましたら、菊か櫻かは公式には決めていないのです。菊の紋章は皇室の紋章ですが、天皇陛下は日本国民の象徴ですから、菊が日本国を表す紋章になったのです。

菊は唐の時代に薬草として日本に持込まれたので、菊の花は梅や桜のように古くは注目されませんでした。鎌倉時代になって、当時の天皇が菊の花を深く愛したことにより、菊が天皇家の紋章に取り上げられたと言われます。

水戸黄門のドラマで格さんが悪人どもに「この紋所が目に入らぬか!」と掲げる印籠には葵(あおい)の紋が付いています。葵は徳川家の紋章ですから、幕府は自由に使うことを禁じました。その代わり、菊の紋章は天皇家のものでしたから、徳川時代その使用は自由でした。

そのため、江戸時代には和菓子や仏具にも菊花紋が使われたそうです。しかし、明治維新で徳川幕府が崩壊し、天皇が政治の実権を握ると、菊は国家の威信を示すシンボルとして復活します。

そして明治時代に入ると、皇族以外の者が菊花紋を勝手に使うことは禁止されました。そして菊の紋章は国家権力に関係する書類、器物、施設などに表示されることになりました。

その代表的な例が軍艦の船首に取り付けられた菊の紋章です。横須賀港に係留されている日露戦争時の旗艦三笠の船首にも、第二次世界大戦の戦艦大和にも菊の紋章が付けられました。また、外国にある日本大使館の玄関にも菊の紋章が付いています。
(写真1)

しかし、戦後は菊の紋章の使用制限はなくなりましたので、国務を預かる国会議員も菊のバッジを付けています。国家のシンボルとして重みがある菊の紋章に魅力を感じるからでしょう。

国家・国民を守るために命を落とした兵士達を祀る靖国神社の扉にも大きな菊の紋章が付いています。一際大きく、鮮やかな金色の菊の紋章でした。
(写真2)
(以上)
【2019/08/14 16:42】 | 文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
日本一小さな漁港の今は
1.鰹水揚げ-03P 99
写真1 朝靄に包まれる漁船

2.鰹水揚げ-04P 99qt
写真2 ベルトコンベアーでカツオが荷揚げgされる。

3.塩屋灯台-03P 99q
写真3 塩屋埼灯台

4.久ノ浜-01P 01t
写真4 荒れる浜辺

 5.小良ヶ浜-01P 98
写真5 小良ヶ浜漁港

6.小良ヶ浜-02P 98q
写真6 小良ヶ浜漁港

福島県のいわき市の沿岸は、北から南下する親潮と、南から北上する黒潮がぶつかり合うところですから、魚種も豊富で漁獲量も多く、昔から漁業が盛んなところです。いわき市の小名浜漁港は、漁場に近く、初カツオや秋サンマの水揚げで全国的に有名です。
(写真1、2)


いわき市の平薄磯の岬には、美空ひばりの演歌で有名になった塩屋埼の灯台があります。荒々しい太平洋に突き出た塩屋埼には、「髪の乱れに手をやれば 赤い蹴出しが風に舞う・・」という演歌の文句のように、冬は絶えず強い海風が吹きつけます。航海の難所でもありますから、常に海と風は荒々しいのです。
(写真3、4)

塩屋崎から程近いところに、滅多に人も訪れない小良ヶ浜漁港があります。小さな釣り舟が二三艘で港が一杯になる「日本一小さな漁港」です。切り立った断崖に囲まれて、その奥に隠れるように、ひっそりとしています。訪れたときには、辺りに人影はなく、一艘の漁舟が砂浜に引き上げられていました。
(写真5、6)

平成5年に開港したとのことですが、平成23年(2011)3月の東日本大震災の大津波に襲われたと聞きます。震災後に撮られた写真で見ると、湾口にあった柱状の小島は尖塔のように細く削られて、岸辺の岩盤は割れ、太い流木が二本横たわっていたのが印象的でした。
(以上)
【2019/08/01 17:20】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
高層ビル群を繋ぐ巨大な跨線橋は歩く広場に
1.新宿南口:高島屋への跨線橋-10D 161qrc

2.新宿南口:高島屋への跨線橋-03D 0701q

3.新宿南口:高島屋への跨線橋-06D 1611q

激動の昭和時代に続く平成の時代も終わった
去りゆく平成を顧みて人は停滞の20年と言う

しかし
昭和時代には超高層ビル群は新宿西口だけだった
今や都心部のどの核都市にも超高層ビル群が聳えている
都内の街に超高層ビル群が建ち並んだのは平成の時代だったのだ

新宿南口では
道路の跨線橋は拡幅された
歩道の跨線橋も新設された
鉄路で二つに分断されていた高層ビル群の街は跨線橋で繋がった

跨線橋の両側の超高層ビル群は急接近する
超高層ビル群の端と端が繋がれば端は中央になる
そして、巨大な跨線橋は歩く広場になった
(以上)
【2019/07/18 18:52】 | 発見する | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
今は昔、瑞穂の国の物語
1.伊豆天城-03Dqt

3.田-06P 92qt

瑞穂(みずほ)の国とは日本国のことです。瑞穂の国とは日本の国の成り立ちを意味する言葉です。瑞穂とは、国民を養うお米の生産だけを意味する言葉ではありませんし、国土を表すだけの言葉でもありません。

戦前は日本国とはどんな国か、と問われると瑞穂の国と答えましたが、戦後も暫く経つと瑞穂の国という言葉は余り聞かれなくなりました。僅かに大銀行の名前に、その名を留めているだけです。

水を引いた田で乙女らが一列に並んで稲の苗を植えている風景は、昔の農村の典型的な田植え風景でした。今は、高齢の農夫が一人、耕耘機を運転して田植えをしています。

しかし、満面に水を引いた田んぼに早苗が一斉に元気よく背伸びしている田園風景は、すがすがしいものです。日本の神話で語られる豊葦原の瑞穂の国と言うのは、日本の各地では、このような田園風景があったのでしょう。
(写真)

日本古来の宗教、古神道では罪の観念を「天つ罪」と「国つ罪」の二つに分けて説いています。「国つ罪」というのは、地上で国法を犯した罪ですが、「天つ罪」のうちの最初の三つは、「田の畔を壊すこと」「田に水を引くために設けた溝を埋めること」「 田に水を引くために設けた樋を壊すこと」を挙げています。

古代から、お米の生産は社会の基礎を支えるものであり、その秩序を乱す者には天罰を加えるという思想があったのです。

江戸時代には、米は現金と同じであり、幕府や大名の財政を支えるお金でした。米が不足することはお金が不足すること同じでしたから、その管理や取立ては厳重でした。その意味では、江戸時代、お米は瑞穂の国の伝統から、やや外れた時代だったかも知れません。

江戸時代に何度か日本全国を襲った飢饉の原因は米の不作でしたが、飢饉を更に悲惨にした原因は、現金として幕府や大名に引き渡された残りの米が大きく不足したからでした。米以外に現金として支払われる物資があれば、食料としての米の流通は実需に合わせて、もう少し弾力的に全国に配分されていたでしょう。

減反政策で休耕田があちこちに見られる今、「今年は日照りが続いたお陰で米は豊作だ」と言って喜んだ時代を思い出す人は希になりました。戦後のある時期まで、「日照りに不作無し」という諺が、実感を以て生きていたのです。

ところが、今はお米の増産が好ましくない時代になりました。先祖代々耕してきた田んぼを放棄させる減反政策が行われています。その根拠は、米作農民の所得を維持するために米価を維持し、米価を維持するために米の生産を削減すると言うものです。

田んぼは米の生産のために耕されますが、それ以外にも大きな働きをしています。田んぼには土壌や水質や気温や湿度と言った環境を柔和にする働きがあります。また、地下水の水位を保ち、表土の流出を防止します。昆虫や魚に棲息の場を与えます。これらの働きは畑では不可能です。田んぼの働きだけが、これらを実現しています。

お米は生命の源であり、一粒のお米も粗末にするなと教えられた時代は遠くなりました。田んぼは、多くの人手を掛けて長年にわたり造成されてきた貴重な資産ですが、農民の所得を維持するため採られた減反政策によって、人々はお米を軽んじるようになり、農民は田んぼを潰して平気になり、瑞穂の国は消えようとしています。

瑞穂の国のお米を早く本来の地位に戻して、日本人の基礎食料として生産し、穏やかで美しい国土を回復するよう、本来の農業政策に戻る日はいつ来るのでしょうか。さもなくば、やがて「天つ罪」の天罰が日本国民に下ることになるでしょう。
(以上)
【2019/07/04 21:44】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
見る位置で変わる灯台
1.大黒海釣り公園-01D 1904q
写真1
2.大黒海釣り公園-04D 1904q
写真2
3.大黒海釣り公園-17D 1904q
写真3
狭い隙間から見ると
灯台は実際より高く見える
(写真1)

丘の上に聳える灯台は
ひときわ高く見える
(写真2)

丘一面が花で覆われると
灯台は優しく見える
(写真3)
【2019/06/25 16:48】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
百合の樹が芽生える頃
1.内堀通り:半蔵門交差点-08D 1904q
写真1
2.迎賓館前ゆりの樹公園-08D 1904qt
写真2
3.迎賓館前ゆりの樹公園-24D 1904q
写真3
4.迎賓館前ゆりの樹公園-13D 1904q
写真4
5.迎賓館前ゆりの樹公園-19D 1904qt
写真5
6.迎賓館前ゆりの樹公園-18D 1904qt
写真6
木々が芽生える春先
百合の樹も一斉に芽吹く
大柄で樹形も整っている百合の樹の街路樹
百合の樹の並木道に緑の風が吹き抜ける
(写真1)

赤坂離宮の正門には百合の樹の公園がある
百合の樹が芽をふくと公園は明るくなる
百合の樹越しに見るビル街も爽やかだ
(写真2)

後光に映える百合の樹は堂々としている
身を反り返したり
両手を挙げたり
誇らしげだ
(写真3、4)

芽生えて嬉しくて踊り出す百合の樹たち
葉が大きくなる前の身軽なうちに
五月の青空の下で大いに踊れ
(写真5、6)
(以上)
【2019/06/08 09:42】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
平成最後の櫻 千鳥ヶ淵
1.皇居の花見:千鳥ヶ淵-82D 1904q
写真1
2.皇居の花見:千鳥ヶ淵-121D 1904q
写真2
3.皇居の花見:千鳥ヶ淵の行列-03D 1904q
写真3
4.皇居の花見:千鳥ヶ淵-127D 1904q
写真4
5.皇居の花見:千鳥ヶ淵-95D 1904q
写真5
昭和のバブル崩壊の付けの後始末に加えて、大災害に見舞われた平成時代が終わり、年号は令和に代わりました。

しかし、櫻の花は改元と関係なく、例年のように見事に咲いていました。今年は花冷えが続いたので、平成との別れを惜しむかのように、櫻の花は例年より長く咲きました。特に、皇居千鳥ヶ淵の櫻は平成の見納めか、花見の人々は例年より多かったようです。
(以上)

【2019/06/02 18:43】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
森は神という文明は世界に通じる
1.鹿島神宮-11D 0805q

2.鹿島神宮-04D 0805q
3.鹿島神宮-06D 0805qr

古代文明は森林を破壊して滅びたと文明史家は言います。森林は築城や造船のため伐採されて消えていきました。森林の消滅は水資源の消滅であり、大地の砂漠化でした。森林は炭酸ガスを吸収し酸素を供給します。人類は酸素を消費し炭酸ガスを排出します。森林と人類は相互補完関係にある友人なのに、現代まで人類は一方的に森林を痛めつけてきました。

文明の始まりは森林の中でした。それは母の胎内で生命が育まれるのと同じです。動物は母なる海から母なる森へ移り住みました。人類もその動物の一分派なのです。

西洋の伝説には森に悪魔や妖怪が住むと云う話が沢山あります。西洋人にとって森林は未開の暗黒の世界でした。しかし日本では、樹木を恵みの源と見て巨木を神聖視する信仰があり、人間の寿命の10倍も20倍も生き続ける古木に畏敬の念を持ち、森は神の住む神聖なところ、更には森そのものが神であると信じて来ました。

日本に古くからある山岳信仰は、森林に覆われた山全体に神性を認めるところから始まったのです。古代の日本人は、山奥深くに仮小屋のような小さな社(やしろ)を建てて、そこで山の神の祭事を行いました。「やしろ」は今様の神の住む神社ではなく、屋代(仮の小屋)だったのです。神は山そのもの、山全体であり、屋代は山の神を祀る儀式を執り行う、祭場であったのです。

日本では地方に行くと山裾や村はずれに鎮守の森を見ます。年を経た大木の森に囲まれた神社です。神は山であり森ですが、その神が山から里まで下りてきて、そこで人々から豊作と安寧の祈願と感謝を受けるところが鎮守の森です。

西洋の文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏は、森林に対する日本人の意識が日本の国土に森林を広く自然のまま残してきたと、次のように指摘します。(田中英道著「本当にすごい!東京の歴史」より引用)

「私が本で読んだところでは、日本の総面積の七五パーセントは開発されないままの状態にあるそうです。その面積については、人は何も言いませんが、この七五パーセントというのは、一体何でしょうか。……(中略)……この問題に、日本は西洋とは違った答えを出しているのではありませんか。西洋は、まだ手を施す余地のあるところでは自然の保護を試みています。しかし日本は別の解決、つまり必要なところでは過剰開発し、それがないところでは、自然を完全に尊重するという解決を見出しているのではないかと思うのです。」と。

自然を神聖視する日本古来の思想が、日本の森林を守っていると西洋人も理解しているのです。

写真は茨城県の鹿島神宮です。
(以上)
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【2019/05/11 18:36】 | 文明 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
饗宴の終わり
1.皇居の花見:千鳥ヶ淵-20D 1204q
写真1
2.桜-03PY3(事項:花と樹 P)
写真2
3.桜-13P(事項:花と樹 P)(写真随想2)
写真3
4.桜-05P(事項:花と樹 P)
写真4
5.さくら花びら石畳-02D 1204q
写真5
6.さくら花びら-14D 1204q
写真6
櫻は咲き始めると一斉に満開となり、散り始めると忽ち紙吹雪のように散ります。櫻の花は、訪れるのも立ち去るのも、その足は俊足です。俊足と言えば、日本列島を南から北へ駆け上がる足も速いものです。

櫻の花の饗宴は終わりました。
櫻は咲いているときも美しいですが、散るときが最も美しいです。そして散った後も美しさの余韻を残します。

川に散って川面に浮かぶ花びらは、塊となり繋がりあって「花筏」になります。
(写真1)
池に散って岸に吹き寄せられて、花びらは池面を花模様の衣装で覆います。
(写真2)
道に散った花びらは、道の両端に溜まって「花道」を象ります。
(写真3)
庭に散った花びらは、「花毛氈」となって、思わず行く足を留めます。
(写真4)
散った花びらで縁取りされた道の石畳は、知らない造形美を表します。
(写真5)
櫻の根元に散った花びらは、力強い木の根の姿を浮き彫りにします。
(写真6)
(以上)
【2019/04/18 12:07】 | 風景 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
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